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109.入替戦が終わって

勝った喜びよりも残留の安堵感

9回裏、ワンナウト。
続くバッターをセカンドゴロに抑え、遂にあとひとり。僕は大きく息を吸い込んだ。
「思い返せば色んなことがあったな……」
   
「1部」という言葉のもとに過ごしてきた4年間。悲願は追いかけるものから守るべきものへと姿を変えた。
甲子園経験者を11人も揃えた黄金世代にしては、物足りない大学野球だったかもしれない。
だが僕はそれ以上のものを得た。
素晴らしい仲間との出逢いで、言葉では言い尽くせないくらいの経験ができた。
   
――カーン。
   
白球が高々と打ち上がった。
花田が人差し指で上を指す。
「オーライ!」
ひとりの男が両手を広げた。神宮球場全体が固唾をのんで見守る。
そして様々な想いをのせた白球が、キャプテン・渡邊のグラブにおさまった。
   
――ワァ〜!
   
沸き上がる歓声。マウンドに駆け寄る中央ナイン。
割れんばかりの拍手に包まれ、遂に1部残留を果たした瞬間だった。
この感触を得るために、一体いくつもの試練を乗り越えてきただろう。
本音を言えばプレッシャーとは無縁の世界で一度は戦ってみたかった。本当に苦しい道のりだった。
優等生とは程遠い1年生だった時代から、気がつけば自覚を持つことができていた僕ら。
嬉しい感情よりも、安心感の方が遥かに勝っているのが正直なところだ。
整列が終わり、立正の選手たちと健闘をたたえ合った。
かつての戦友・早川嘉戸と軽く言葉を交わした光景が、鮮明に僕の頭の中に残っている。

心に染みたスタンドの応援

スタンドに目をやると、総立ちの観衆が出迎えてくれた。
「いいぞ、中央!」
「よくやった!」
「4年生ご苦労さん!」
いつも聞き慣れているはずのファンの声援が、この日ばかりは身に染みる。
大役を果たした学ランをまとった応援団も、一層熱い声援を僕らに送ってくれた。
そして熱戦の舞台を担った神宮球場
ここでプレーするまでに数々のドラマがあった。2部時代を長く過ごしてきた僕らにとって、常に近くて遠い存在だった。

頭が下がる監督の熱意

試合後のミーティングルームは、張り詰めていたものが一気に解放された気分だった。
1部復帰1部残留の両方を経験。激動の1年を戦い抜いたチームメイトと熱く抱擁を交わす。
清水監督も安堵の表情を浮かべ、そして笑った。
監督には本当に感謝している。
落ちこぼれ集団を戦う集団に変えたのは、もはや「手腕」などではない。「熱意」だ。
どんなときでも選手のことを想ってくれる心と、危険を省みないその姿で常に僕らの味方になってくれた。
春の入替戦で監督を胴上げできたことは一生の思い出だ。

神宮球場の車窓から

正面ゲートから出てくる僕らを、大勢のファンが出迎えてくれる。
盛り上がり方に関しては、中央大学の面々にとってはお手のものだ。
大きな声を上げる親父もいれば、涙を流すOBもいる。
好き勝手に感情を出していくそんな校風が僕はとても好きだ。
中央の名よ、光あれ
伝統を受け継いできた偉大な先輩たちに少しは近づけただろうか。
   
バスに乗り込むと、隣に座る男が握手を求めてきた。慎之助だ。
「稲荷さん、お疲れさん」
僕は固く手を握った。
バスがゆっくりと動き始める。
窓から見える神宮球場に目をやった。案の定、涙腺がゆるむ
横に座るのは、特別な愛情を注いできた後輩……。
感涙してしまいそうで、目を合わせることができなかった。
その姿にきっと彼も気づいていただろう。
「ありがとう……」
移りゆく外苑の街並みを見つめながら、消え入るような声で、そう独りごちた。

110章につづく

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