袖振り合うも・・・(Ⅳ)

大森久光

ゴルフの小林浩美さんに会う

写真:小林浩美さん
小林浩美さん

1999年の夏だったろうか、ゴルフの小林浩美さんに会う機会に恵まれた。ニューヨークからリタイア先のハワイに引っ越す寸前で、事務所に最後の整理のためにTシャツ姿で日曜出勤していたら、行きつけのサクラ・レストランの台湾ママが、「小林選手がきている」とわざわざ知らせに駆けつけてきた。ビッグ・アップル・ツアーに参加中のこと、マンハッタンにいると熱心な追っかけに追い回されるので、父君の小林勝さんやコーチと共にお忍びで郊外に食事に来たらしい。
  今や有名人になった小林浩美選手に郊外のこんな所で会えるとは思ってもいなかったが、もっと驚いたのはお父さんの勝さんの方で、こんな所にいわきの人間が住んでいたなんて相当にびっくりしていたようだった。一緒に写った写真が今見当たらず、ここに掲載できないのは残念である。
  先日、人気者・宮里藍の早い現役引退会見の後にコメントを求められている小林浩美選手を久し振りにテレビで拝見した。1989年ごろ、日本女子ゴルフで初優勝を含む年間6勝を挙げ、一気に人気者になったようだ。その後の1993年にはJALビッグ・アップル・ツアー・クラッシックにも優勝し、樋口久子、岡本綾子に次ぐ日本人三人目の全米女子ツアー優勝を果たしている。

気が付くとお会いしたあの時から、はや18年の歳月が過ぎている。彼女は今や、日本女子ゴルフ協会々長を長く務めている。自分が退いた後はその役職を宮里藍に継がせようと思い描いていただけに、宮里の思いがけない早期引退はかなりのショックだったようである。

写真:ピーターさん
ピーターさん

タレント・ピーターとの出会い

この前、一階下の住人の依頼で、ビルのハンデーマンが突然わがコンドのドア・ベルを押して訪ねて来た。理由を聞くと、階下のバスルームに水漏れがある。お宅のバスルームを点検させて欲しいとのことだ。アパート式の住宅にはよくある話なので、快く見てもらった。

ハンデーマンに下の方とは何方かと聞くと、「日本人だ」との答え。どんな状態なのか様子が知りたいのですぐに訪ねてみた。すると見慣れた顔の青年が対応に現れた。「貴方はピーター?」と私はストレート訊ねてしまった。相手は「はいそうです」と、にこやかに応じた。本名は池端慎之介だが、さすが芸能人ピーターは慣れたものでそつがない。よもやま話になって、このビルには笑福亭鶴瓶さんの住いもあるよと話すと、じつは自分も、鶴瓶さんの紹介でこのコンドミニアムを入手したということだった。

ピーターを知ったのはタレントの飯島愛がまだ元気だったころ、『家くる!?』とかいうTV番組で熱海の別荘を案内していた時だった。もう十年以上も前の話で、うっかり前に青年と書いてしまったが、今のピーターは六十五歳も過ぎた立派な芸能人男性のはずである。

そもそも若作りなのは、それなりの因縁があったようだ。上方の女舞家元で人間国宝の吉村雄秀の長男だった。三歳で初舞台を踏み、その頃からおしろいを塗ったり女役を演じたりしていた。つまりおしゃれや振る舞いの基本を幼少時か心得ていた。最近、舞台で越路吹雪役を好演した話題も耳にしたが、女装などはおてのもので、普段から女性に近い服装をしていることでもよく知られている。コンドミニアムのロビーで最近、おしゃれをして外出するピーターと家内がバッタリ鉢合わとなり「まあ今日も素敵な着こなし、きれいですこと!」と女性に使う言葉をとっさに口走ってしまったと話していた。でも相手もさるもの、ただにっこり微笑んで「有難う」といったそうである。

時々郵送されてくるこのビルの不動産取引レコードを見ると、その後ピータのユニットは売りに出され、いい値段で取引されていたことが分かった。彼はなかなかのビジネス・マンで、この分野でも確実に成果を上げているようであった。

写真:小澤征爾さん
小澤征爾さん

アラモアナで小沢征爾さんに出会う

アラモアナのホノルル・コーヒー店で小沢征爾さんとお会いし、しばし雑談を楽しんだ。前の週にも同じ場所で奥さんの入江美樹さん、娘さんや孫さんと思しき一行が来ていたのを見ていたが、その時は声を掛けなかった。この度は家族が連れ立って近くへショッピングに出掛け、小沢さん一人が荷物番としてとり残され手持ち無沙汰の様子だった。

その日小沢氏と会話のきっかけになったのは、昔マウイ島に住んでいたとき、坊ちゃん学校で有名な成城学園中学時代の同級生だった山岸秀行さん夫妻と親しくしており、小澤征爾の話をよく聞かされていた。ご主人は数年前亡くなったが、輸入車のヤナセ勤務で自動車ジャーナリスト。彼は成江淳のペン・ネームで、『メルセデス・ベンツ』の著書を持っていた。趣味でウェスタンのおやじバンドを主催していたぐらいだから、幼少時から小沢氏とは通じるところがあったのであろう。その話をすると、小沢さんは、「ああ、彼のことならよく知ってます」と、即座に反応した。それにわれわれはハワイに住みついて以来、第二の故郷であるアメリカ東部つまりボストンやニューヨークにいた人に出会うと無性に親しみを感じてしまう。小沢さんもボストンやニューヨークいた方なので同じ思いがあるだろう。そんなこんなで、その時気安く小沢さんとの会話に入れたのだった。

特に訊ねたわけではなかったが、昔ファッション・モデルでデザイナーの入江美樹と結婚し、二人の子供にも恵まれた。ニューヨークや東京では忙しくて、彼らに何もしてあげられないが、ハワイに来ると久し振りに家族が一つになれ、それが一番うれしい。それに毎朝テニスができる。自分は毎朝テニスを楽しんでいる等々を情感溢れる話しぶりで語ってくれた。

小澤征爾さんといえば、若くしてブザンソン国際指揮者コンクールで第一位になり、続いてカラヤン国際指揮者コンクールでも第一位になって一挙に有名人になった。その後はNHK交響楽団と「客員指揮者」の契約まで結んでしまった。しかし27歳の彼はまだまだ未熟なところがあった。この世界に深入りするや、「生意気だ」、「態度が悪い」、「敬語を知らなすぎる」などとN響の楽団員から苦情が噴出し、悪評に変わっていった。やがて楽団員のメンバーで構成されるN響の演奏委員が、「今後は小沢の指揮する演奏には協力しない」とNHKに申し入れが出された。そしてついに、1962年12月のNHK交響楽団による第四百三十五回目の伝統ある定期公演は、団員による指揮者ボイコットによって中止となってしまった。これが誰でも知っている小沢征爾ボイコット事件である。

しかし持つべきは良き友人である。翌年早々、友人の演劇人・浅利慶太が奔走し「小沢征爾の音楽を聴く会」なる後援会が立ちあがった。発起人には浅利を筆頭に、石原慎太郎、一柳慧、井上靖、大江健三郎、武満徹、団伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、三島由紀夫など錚々たるメンバーが並んだ。1963年1月15日、日比谷公会堂で小沢征爾が指揮したこの日本フィルハーモニーの演奏は、超満員の観衆から喝采を浴び、大成功に終わった。当時、三島由紀夫が当夜の演奏会の感想と、外国で成功した同胞を歓迎しない日本人の度量の狭さとか日本の風土などを綴った新聞記事を、そのころ筆者も確かに読んだ記憶がある。1995年の1月、小沢は気持ちを整理して再びNHK交響楽団と共演するため、32年もの長い歳月が必要だったのである。以前の団員がいなくなるのを彼はじっと待っていたのだ、と友人の浅利慶太氏は回顧録に書き残している。

別れるとき、私は「お会い出来て光栄でした」と自分の名刺を差し出した。小沢氏は「自分は名刺がないので」と、テーブルの上にあったナフキンに名前と成城の住所を手書きして渡しくれた。

去る3月8日、ぼんやり日本語のテレビを見ていたら、写真が出て指揮者の小沢征爾さん(82)が大動脈弁狭窄症の検査と治療のため、約一か月都内病院に入院との放送が流れた。えっーとびっくりしたが、今ごろ退院してお元気になられただろうか。大変心配している。

5月末には先に挙げた山岸夫人のご厚意で、私どもは成城の山岸邸に二、三日お世話になる事になっている。ひょんなことから小沢征爾さんと再会のチャンスになるかも知れないとちょっとばかり期待している。

 

(今回の写真はすべてWEBSITEから借用したものです)
HISAMITSU OMORI (URL: http://WWW7b.biglobe.ne.jp/~newhome/hawaii/hp/)

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