写真:品川の京浜急行立会川近くに建つ龍馬像
品川の京浜急行立会川近くに建つ龍馬像

維新の立役者銅像

(ハワイの街角銅像・日本編)大森久光 

坂本竜馬

坂本龍馬は今なお多くの人々に愛される幕末の風雲児。その銅像は、高知、長崎、京都などにたくさんあり、参観者が絶えることはない。昨年、東京は京浜急行立会川駅近くに住む姪のコンドミニアムを訪ね、そのすぐ前の通りで、若い頃の坂本龍馬像を発見してびっくりした。東京にも龍馬ゆかりの地はあって、彼の像が建っていたのである。

アメリカ提督ペリーが初めて来航した嘉永6年(1853年)、十九歳の坂本龍馬は土佐藩からの許可を得て江戸で剣術修業をしていた。たまたま街に出て長州藩の桂小五郎と出会い、羽田海岸で二人は巨大な黒船が東京湾を航行するのを見て、度胆を抜かれたのだった。土佐藩の下屋敷が当時今の品川区立会川駅近辺にあった。「戦の可能性」を考え、幕府は諸藩に黒船の警護に充たらせていたのだが、龍馬も警固班の一人に充てられていたのである。

坂本龍馬は、土佐藩高知城下の郷士・坂本家の次男として生まれる。坂本家は商家だったので、龍馬は自由で合理的な町人気質に育ったという。江戸の千葉道場で剣術を学んでいたころペリー艦隊の来航時期と重なり、黒い巨大な船が煙りを吐きながら東京湾に入って来るのを目の当たりにし、この衝撃が海外に眼を向けるきっかけとなった。その後も引き続き時代の趨勢を知ることになり、土佐に帰ると土佐勤皇党に参加するが、間もなく限界を感じ脱藩。このあたりから忙しい龍馬の生涯が始まる。江戸で幕臣・勝海舟の開明的思想に共感し、勝のもとで航海術を習得し、幕府の神戸海軍操練所の建設に奔走した。その後、海運貿易を行う海援隊を経営するかたわら反幕派として活躍。そして互いに反目しあっていた薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允を引き合わせ、龍馬が仲介して「薩長同盟」を成立させたのだった。しかし、新政府の構想を画策中に幕吏に襲われて激動の生涯を終えている。

最近、お笑いコンビがテレビ番組のロケ中に、坂本龍馬が土佐藩の重臣・後藤象二郎に宛てた手紙の草稿が見つかり大騒ぎとなった。内容は龍馬が大政奉還後の新政府の財政担当者として推挙した福井藩士に会ったことを報告している。この「龍馬の最後の手紙」は1500万円はくだらないそうで、手紙の草稿は高知県の坂本龍馬記念館に寄託され、今一般公開されているようだ。

木戸孝允

この銅像は、京都御池大橋のホテルオークラ・ビルの西側面に建っている。河原町通を挟んで向かい側に京都市役所がある。昔、ホテルオークラの敷地内に長州藩の屋敷があったことで、ホテルの一部として何時も丁寧に管理されているようだ。

写真:桂小五郎像
桂小五郎像

維新の三傑の一人・木戸孝允(桂小五郎)は幕末の長州藩士、吉田松陰の松下村塾で学び、剣術修業のため江戸に出て、やがて練兵館道場の塾頭となる。後に尊王討幕思想に目覚め、高杉晋作、久坂玄瑞らと長州攘夷派のリーダー格として活動。一方では勝海舟の開明的な外交に興味を持ち始める。やがて「禁門の変」で長州藩が敗退、しばらく潜伏するが、同志の勧めで藩政の中枢に復活。羽田海岸で若いころ黒船を一緒に眺めた坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介により長く敵対関係にあった薩摩藩と連携を考えるようになり、小松帯刀、西郷隆盛などと「薩長同盟」を結び、反幕体制を固める。明治政府の重責を担い五箇条のご誓文を起草、版籍奉還を推進していたことでも知られている。後に岩倉遣外使節団の副使節となって欧米の視察も経験している。

新撰組に狙われたりしても決して戦わなかったことから「逃げの桂小五郎」とか、「人を斬らなかった男」とか、どちらかと言えば木戸孝允は臆病者風のイメージが強かった。でも、勝海舟と親交を持ち、他藩の志士たちとも積極的に接触したし、龍馬との交友は人の知るところである。京都における活発な活動や征韓論に堂々と反対するなど、したたかな策略と志を持った男と見るむきある。

西南戦争の半ば、出張中の京都で病気になり、夢うつつの中で西郷隆盛の政治姿勢と新政府の行く末を案じながら息を引き取ったという。

西郷隆盛

薩摩の要職にあった西郷隆盛は藩士・島津斉彬の命で一橋慶喜を次期将軍に推奨すべく当時奔走していた。大老・井伊直弼の登場で一橋派が敗北したため流罪となるが、薩摩藩家老・小松帯刀や盟友・大久保利通の尽力で許される。以後、藩の指導者として活躍。「禁門の変」で長州軍を撃退して名をあげる。龍馬が神戸海軍操練所の閉鎖で行き場を失うと庇護にまわり、龍馬の仲立ちで敵対していた長州藩、木戸孝允と組んで「薩長同盟」を結ぶ。龍馬死後は武力による討幕に驀進。王政復古のクデターで、鳥羽・伏見の戦いで撃退。勝海舟との会談で江戸城の無血開城を成功させた。維新後は幕政改革に着手。新政府の参議としてさらに廃藩置県、身分制度の廃止、徴兵制度、宮中、学校、警察、銀行などの改革を着手し、太陽暦の採用に尽力ししている。晩年、征韓論を唱えて盟友・大久保利通と対立したため帰郷、西南戦争を指揮して敗れ、自刃した。

写真:上野公園の西郷隆盛像
上野公園の西郷隆盛像

特筆すべきは、先にも触れたように明治維新において官軍の参謀だった隆盛と軍艦奉行役だった勝海舟が会談し、江戸城の「無血開城」をもたらした。その結果江戸は戦火をまぬがれ百万人とも百五十万人ともともいわれた人々の財産、人命が救われたのである。この事実は後世に語り継がれる偉大な功労となった。

上野は彰義隊と新政府軍の戦跡。当時上野は恩賜公園と呼ばれ皇室の御用地だった。西郷隆盛は上野戦争で朝廷側の指揮官だったので、その功績を称える意味で恩賜公園が銅像用地に選ばれたようだ。一方では、西南戦争を引き起こしたかどで政府は西郷を逆賊と責めたて、自刃に追い込んだ。そのことで政府高官の良心的呵責をつぐなうために、維新最大の立役者・西郷隆盛の銅像を上野の恩賜公園に建てて弔う必要があったようだ。

像の造形は高村光太郎の父で、高名な彫刻家・高村光雲の作。除幕式には当時の総理大臣・山形有朋、侯爵の大山巌、かつての盟友・勝海舟伯爵など親交があった友人名士が約八百人が参加して盛大に執り行われたという。明治31年12月18日のことであった。

 

 

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