写真:寺崎英成の銅像:マリコ寺崎所蔵
娘マリコ寺崎が所蔵す父・寺崎英成の胸像

歴史のスポットを歩く

日米大戦の裏表と寺崎英成大森久光 

ハワイの隔週誌『ライトハウス』が終戦記日の特集記事として、2014年の8月16日号に「日系人の戦争の歴史」を掲載した。元ハワイ大学総長だった松田富士夫氏は、いろいろな戦争体験を語る中で、1941年12月7日の真珠湾攻撃の日の朝のことも話しておられる。

「私は17歳で高校に通っていましたが、日曜日だったので、カカアコの自宅近くのマザー・ウォルドロン公園で友人とバスケットボールをして遊んでいました」。上空を飛ぶ飛行機に気づき、日曜日に米軍が民家の上で訓練するのはいかがなものか、まだ寝ている人もいるだろうに…と思っていました。そのうち機体からポンポンとはじくような音が聞こえ、しばらくすると、遠くの方で黒い噴煙が上がり始めたのです。それでも真珠湾が攻撃されたとは夢にも思わず、バスケットボールを続けていました。当時ハワイの新聞社に働いていた姉が、血相を変えて迎えに来たのに、「まさか!日本との戦争などありえない!」と口答えし、口論になりそうな気配でした。

1941年12月7日のハワイの朝は、晴天ではなかったが、日曜日のこととて人々はゆっくり朝寝坊を楽しもうとしていたはずであった。こんな穏やかな日の早朝に、日本の第一次戦闘部隊が零戦を先頭に戦闘機183機を空母より飛ばし、第二次攻撃として続けざまに167機もの戦闘機を投入、真珠湾のアメリカ太平洋艦隊基地に奇襲攻撃を仕掛けたのである。戦死者2345人、大型戦艦など6艘が沈没、戦闘機類188機が破壊され、その他多大な損害を与えた。言わば日本の騙し撃ちに、この時ほどアメリカ人が怒ったことはない。この日よりアメリカ全土の人々がリベンジの炎を燃やし、日本との戦闘を交える気持が昂ぶったのは当然のなりゆきであった。

よく知られた話としては、開戦前から命がけで日米戦争を阻止し、両国の平和の架け橋にならんとした外交官がいた。その名は寺崎英成、アメリカ人女性グエン・ハロルドと結婚していた。彼はワシントン支局勤務の若き親米派外交官だった。日本のために仕事をしてはいたが、国際事情に精通した人間として日米戦争だけは避けたいと強く願っていた。二人の間には、すでにマリコという可愛い少女も生まれていた。しかし二国間の緊張は深まるばかり。

写真:マリコの母グエン寺崎と幼少時のマリコ
母・グエン寺崎と幼少時の娘マリコ寺崎

そして戦火がいよいよ押し迫ったある日英成は日本全権大使・来栖三郎に直訴し、アメリカ大統領F・ルーズベルトに頼んで昭和天皇宛に直接親書を送ってもらうという大胆な策略に出た。天皇陛下が戦争の回避を唱えれば、何人といえども表だって反対は出来ない。日本人の国民性を熟知しての巧妙な策であった。大統領もその提案に賛同し、実際にその親書は打電されたようだが、しかし軍部の妨害で翻訳親書が天皇のもとに届いたのは、真珠湾攻撃の30分前だったという。残念ながら遅すぎたのである。

戦争を避けようとした人々がいた反面、真珠湾攻撃の下見としてアメリカ軍飛行場や真珠湾周辺をくまなく調べ、真剣なスパイ活動をしていた吉川猛夫という日本軍人も知られている。先日、『ヒストリア』というNHK番組の放送があり、吉川は身元を隠して現地のタクシー運転手や春潮楼(現在の夏の家レストラン)の女将などと馴染みになり、運転士には基地周辺を運転させ、夏の家からは望遠鏡を使ってヒッカム空軍基地や真珠湾を偵察して、毎日、日本へ報告していたのだ。この資料のお陰で真珠湾攻撃時の爆弾命中率は予想を遥かに越え、奇襲攻撃の成果は多大なものになったといわれる。

このスパイ活動は、不思議なことにアメリカ側に見つからずに続いていた。先のアメリカ人女性と結婚していた外交官・寺崎英成のケースとは正反対だった。英成は機密文書や情報収集を扱う高級外交官だったから、尾行、盗聴、手紙の開封など徹底的なマークの下で彼は暮らしていた。英成の兄太郎は日本外務省でアメリカ局長という重職にあった。兄とアメリカの政治状況を語り合う時でさえ、暗号を使う必要があり、兄の発案で英成の愛娘・マリコの健康状態を語り合う風を装って情報を交換しあう慎重さだった。たとえば、「マリコの病状が進行している」と言えば、「アメリカの日本に対する態度が強固になっている」という意味になる。こうした努力にもかかわらず、1941年12月7日、日本は真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊の重要な基地に奇襲攻撃をかけ、戦争をはじめてしまったのだった。

ドラマ『マッサン』の妻のような方々

こうなると何ごとも急速に動き始める。次の年の6月、アメリカ国内に住む日本人と日本国内に住むアメリカ人を交換する抑留者交換船で家族はアメリカから強制送還させられることになった。英成はグエンとマリコを連れ帰っても二人は肩身の狭い思いをするだけだと分かり切っていた。そこで二人をアメリカに残そうとした。しかし、「国がどうなろうと家族はいつも一緒に暮らすべき」というグエンの固い決意に圧され、やむなく連れ帰った。

日本での生活は想像以上に厳しいこととなった。目黒にあった兄太郎の家の仮住まいを皮切りに、四ツ谷、小田原、真鶴、それから蓼科に引っ越し、何処へ移ってもグエンとマリコは敵国人としてひどい仕打ちと蔑めを受けねばならなかった。グエンはスパイとみなされ特攻警察に付け回された。マリコはマリコで登下校の途上石を投げられ、棒で叩かれることもあった。食べ物が徐々に逼迫し、英成はついに脳溢血で倒れる。マリコは日に日に明るさを失ってゆく。あらぬことかグエンも栄養失調で爪から血が出る症状を見せ始めた。

戦時中に外国人で日本人と結婚していたがゆえに日本に留まらざるを得なかった欧米人の妻たちは結構居たようである。例えば若いとき野口英世とニューヨークで同居し、帰国後歯科技工士の先駆者となった荒木紀男氏の奥さんキャサリン・ジャンセンはアメリカ人だった。現在、カネオヘに住む徳永宏子さんはお二人の娘さんである。NHKの大河ドラマ『マッサン』のモデルといわれる竹鶴政孝の妻ジェシー・ロバータ(ドラマではエリー)はスコットランド人で、先の寺崎マリコさんや徳永宏子さんたちと同じ境遇で日本に住んでいたのである。彼女たちはこの時代、日本人の冷ややかな眼と嫌がらせを全身で受け止め、実際に石を投げられたようだ。ジェシーはその頃、「この高い鼻を削りたい。この目の色も髪の色も日本人と同じように黒くしたい」と、嘆いていたそうである。先日電話で宏子さんと話したとき、「髪の色が違うだけでいじめを受けました」と彼女も話していた。

写真:昭和天皇独白録と英成の日記類
グエン病床中に、孫コールと共に発見した
「昭和天皇独白録」の原本

1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送をもって太平洋戦争は終わった。戦時中、FBIが寺崎英成を徹底的にマークしていたことでアメリカは「寺崎ノート」なる経歴書を調べ上げ、日本政府とGHQの連絡官に最適な寺崎英成を選び、白羽の矢を立てた。復職後は、天皇とマッカーサーの通訳担当官も兼任するようになったそうだが、長年のストレス、過労、それに栄養失調の後遺症などが重なり、再び脳溢血で倒れる。そのため外務省の仕事から、みすみす身を引くしかなかった。

その後のグエンとマリコ

一方でマリコは成長し、日本と米国のどちらで教育を受けさせるべきか迷う。が、戦後で不安定な日本やアジアの政情を考えると、グエンとマリコはアメリカへ帰るのが一番よいという結論に達する。そしてアメリカへ戻って一年、グエンのもとに一通の電報が届く。英成の突然の死亡通知だった。悲しいかな、その時の親子には日本へ飛ぶだけの財力さえもなかった。

時が流れ夫との死別から立ち直って、グエンはかねて夫・英成の願いでもあった『太陽にかける橋』という一冊の自叙伝を出版した。この本には、「平和のためにはいつも橋を強固にする努力を惜しまないようにしなければなりません。私たちは日本とアメリカの間に橋を架ける努力をしてまいりましたが、それは不完全なものになってしまい、日米の戦争と言う誰も望まない方に突入してしまいました。これからは日米により強固な橋を架け二度とこのような不幸なことが起こらないよう努力してまいります。」と書かれており、このグエンの信念は日米の読者に強い感動を呼び起こした。

写真:マリコ寺崎:自宅近くのレストランで
自宅のあるワイオミング州キャスパのレストランで、
当時の思い出を語るグエン寺崎

マリコはといえば、アメリカで大学を卒業し、弁護士のメイン・ミラーと結婚、民主党員として夫を支えワイオミング州で選挙活動などの政治活動に奔走、その傍らで日本国名誉領事も勤めて日米の架橋としても活躍します。マリコは父・英成の死後40年経って、遺品の中から『昭和天皇独白録』を発見し出版しました。この本では日米戦争当時の昭和天皇の思い出が独白というかたちで語られ、当時の天皇の心情がよく現れていて、大変貴重な一冊であった。

『太陽にかける橋』にしろマリコ・テラサキ・ミラーが書いた記事にしろ、日本人を気遣ってか日本での辛かったことはあまり触れておらず、よい面を拾い上げて書いたフシがある。昭和天皇・皇后が後年グエンを宮中に招き、戦時中に「辛い思いをされたようだが」とねぎらったときも、グエンは「有難うございます、陛下。でも日本の人々はアメリカ人の私を戦時中ずっと大切にしてくださいました」と答えている。どこまでお人好しで日本ひいきなのかと、呆れるほどである。

寺崎家族が戦時中しばらく住んでいた神奈川県の真鶴には今親しくしている山田進氏が住んでいる。一昨年の9月に、この地を訪ねたことでこの稿を書く気になった。同じ年の12月、ニューヨーク時代に娘さんが働いていたTVアサヒからマリコ寺崎の取材依頼があり、マリコさんの住むワイオミング州へ娘さんと同行した。そしてその年内に関係資料や訪ねた折の貴重な写真などを送って下さった。山田さんにはこの場をお借りして深く感謝の気持ちをお伝いしたい。

写真:前方の街影は湯河原。右端で真鶴と接し、この高台辺りから相模湾の遥か向こうの祖国アメリカを、グエンとマリコは眺めていたという
紹介者・山田進氏のベランダから、相模湾と湯河原が望める。
湯河原の手前真鶴側に在った疎開先の寺崎一家は、
この海の遥か彼方のアメリカの故郷を、
毎日眺めて暮らしたという。

 

表紙に戻る