外から見詰める日本-46年の海外経験を踏まえて-

外から見詰める日本大森 久光

-46年の海外経験を踏まえて-

風土と文明の原風景 世界の四大文明発祥地のうち三ヶ所がユーラシア大陸にあり、もう一つは、スエズ運河をへだて、アフロ・ユーラシアと呼ばれる北アフリカのエジプトにある。いずれも大河に近く、生活用水が得やすい、農耕に適した土地である。とりもなおさず農業は文明の原点であった。 さて、人類がこのユーラシア大陸に住み始めたころ、大陸内の雨量の多少によって農業が二分化し、三つの異なった文明を生んだと考えられている。

その説を唱えたのは、日本の代表的な哲学者・和辻哲郎であった。彼は、日本及び中国などを含むユーラシア大陸東側の文明を「モンスーン型文明」、モンゴルを含む大陸中央部から西アジアを「砂漠型文明」と呼び、ヨーロッパを含む大陸北西部を「牧場型文明」として区分している。現在、砂漠文明と牧場文明の線引きにいくらか変更はあるが、基本的に変わらない。雨の少ないヨーロッパ諸国や西アジアには主に麦の耕作が興り、夏に雨の多い東アジアのモンスーン地帯には稲作が発達した。つまり、風土の違いが文明の違いとなり、宗教を異にすることになった。(講演では、地図上にその分布状況を示し、説明した)

環境が生んだ民族像

ヨーロッパでは坪当たりの麦の収穫量が極端に少なかった。雨が少ないため土地に力がなく、連作がきかない。そこで、所有地を拡大し、休耕地に牛、羊、山羊を放牧することで土地を肥し、増収を図るようになった。家畜は耕運作業の道具であると共に、自分たちの主食であり、余剰の肉や乳製品は市場に出し収入とした。その結果、狩猟民族の定住化が進み、酪農の原型が生まれた。 二十世紀に入ると、科学技術文明の時代になり、機械化と化学肥料の発明で収穫量は何倍にもなり、科学万能の時代が人類の生活を豊かにした。が、近代以降の話にはここで深入りしない。 一方、西アジアと呼ばれる現在の中近東一帯を住みかとした民族は、羊、山羊、駱駝などを飼い、短期間のテント住まいを繰り返し、草の多いオアシスを求めて砂漠の中を放浪し続けるしかなかった。具体的にいえば、ユダヤ系、アラブ系、ベドウィン族などの砂漠民族は、生まれながらにして、より過酷な自然環境と向き合う運命におかれていた。ユダヤ教のヤハウェもイスラム教のアラーも、強い砂漠の神を自称している。不毛の環境を生き抜き、部族内の結束を固めるには、唯一絶対の烈しい神である必要があった。後々、ヨーロッパ中心に伝わったキリスト教にしても、もともとはユダヤ教の流れをくむ教えで、聖書の内容も旧約聖書の改定版である。一神教が混住する世界では、いつ衝突が起こるかわからず、心の安穏は許されない。他部族間との宗教的な争い、食糧をめぐっての諍い、殺し合いは恒常的に起こった。たとえ後々、定着して酪農に転向したとしても、遊牧を起源に持つ一民族に変わりはない。欧米人や砂漠の民が強靭でたくましいしいのは、こうした環境に生活していたからだし、古代からの歴史と民族の血が体に流れているからである。これはいわば、古代から引き継がれてきた人々の生活術だった。後に触れるモンスーン型の民族に較べ、この地で暮らすことは、極めて闘争的かつ弱肉強食的な、死にものぐるいの生き方だった。

モンスーン気候と日本人

これに対して、夏に雨の多い東アジアのモンスーン地帯には古来より稲作が発達した。とりわけ日本には美しい四季があり、古事記によれば、「豊葦原の瑞穂の国」とされ、「広い葦原にみずみずしい稲田が広がる豊かな国」といわれていた。五、六月の万緑の日本を思えば想像がつく。 稲作農業の収穫量は水頼みであり、ほどほどの雨が感謝される。その雨水を蓄えてくれるのは山であり、深い森である。人々は雨や森をつかさどる自然に人間の能力を超えた畏敬を感じ、まわりに棲む動植物にも親しみを抱くようになる。森羅万象に畏怖や感謝の念を抱く人類には多神教が興りやすく、日本には八百万の神々を祀るお宮がどこへ行ってもある。日本の神々は砂漠型や牧場型社会の神のように厳しい神ではなく、慈悲深い神々である。例えば、西行法師が伊勢神宮にひざまずき、お祈りしたときに詠んだとされる、「何事のおはしますかはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる」という歌。歌意は、「どんな神様がいらっしゃるのやら知らないけれど、ひざまずいてお祈りして居ると、有難さが身にしみて涙が流れてくるのです」、という意味だ。欧米の神が、信ずる神だとすれば、日本の神はその気配を肌身に感じる神なのである。われわれ日本人には神様までが優しく、自然と共にあるように感じられる。日本人が、やさしくないはずがない。 だからといって、日本に住んでいることが、すべて良いことばかりとは限らない。モンスーン独特の梅雨の時期には、豪雨による洪水、土砂崩れなどの自然災害が毎年必ず起こり、どこかで多くの人々が被害にあう。日本の降雨量は世界でも上位にランクされる。秋の厄日とされる二百十日とか二百二十日前後の台風シーズンには、いつも台風の脅威にさらされ、十回のうち二、三回は必ず日本の何処かに上陸して被害をもたらす。冬の季節風による日本海側の、豪雪にも油断ならない。温暖化の現象で、こうした災難がもっと増えると予想する専門家も多い。加えて、日本は名だたる地震多発国である。大震災の度ごとに「天災だから」という受身の諦め声や映像を、われわれは外国で何度見聞きしたことか。半ば定期的な天災による忍従と諦めの繰り返しに、日本人は受身の姿勢と内向の性格が身についてしまっている。だから日本人は、何事においても受身にまわり損をしている。モンスーン気候がもたらす、日本人の宿命なのかも知れない。

文化が育んだ日本人像

もともと農耕民族であった古代日本人が、好戦的な民族だったとはとても思えない。ただし、飛鳥時代に、聖徳太子が十七条憲法を作ったころは、物部氏や蘇我氏のような豪族間の騒動や権力闘争が頻発していたようだ。しかし一般庶民は、神代の昔から村長を立てて共同作業社会をつくり、祭りを中心に協力し合って平和に暮らしてきた。さきの憲法にも、その第一条に、「和をもって尊しとなす」と記され、和合の精神こそが日本人の基本的な理念だと謳われている。お上指導による「右へならえ」の国民性は、このあたりに遡って探ることが出来るかも知れない。 民族性を考えるとき、もう一つ、文化の面から考察する必要がある。まずは代表的な平安時代の「もののあわれ」を考えてみよう。例えば日本人は季節の推移にもののあわれを感じ、移ろいゆくものにこの世のはかなさを感じる。この繊細さは、日本固有の情操である。特に古典文学の影響が色濃く、平家物語の冒頭、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」や、鴨長明の「行く川の流れは絶えずして、云々」などの無常観はその最たるものであろう。もののあわれの情趣は、「万物流転」、「生者必滅」などの仏教思想を伴って後世に読み継がれ、語り継がれてきたし、これからも引き継がれてゆく。その他にも、四季折々の季語を採り入れて作る俳句、叙情性豊かな詩歌集や伝統芸能、演歌にいたるまで日本人の生活に深くかかわっている。世に言うやさしさとかおだやかさとかいう所作は、日本人の立居振舞いからにじみ出てくる心の彩りではないのか。 1467年の応仁の乱に始まる戦国の時代にあってさえ、大名たちは競って伝統的な武芸に励み、茶道、能楽、生け花を愛でた。死に臨むにあたっては、辞世の句を詠む作法まで守られている。後年、武士の心得帳とされた『葉隠』と言う本には、「武士道とは、死ぬことと見つけたり」とあり、「死の美学」を賛美する風潮さえあった。昭和に入って、三島由紀夫は『葉隠』の入門書を書き、三年後に自ら命を絶ってしまっている。以上のような美観や徳目は、残念ながら、民主主義というヨコの社会基盤で、自由競争と格差社会を押し通す欧米人にはおよそ縁遠い考え方と言わねばならない。

外圧に弱腰な日本

島国であった日本は、長崎に出島が出来たころ、限られた人だけが異人さんに会うことはあったが、殆どはその機会がなかった。幕末の頃、イギリス、フランス、ロシア、アメリカなどの船舶が突然近海に出没し出すと、長州藩や土佐藩は勤皇攘夷を主張し、朝廷や幕臣たちの心は大いに揺れた。アメリカのペリー提督が黒舟四艘を引きつれ浦賀に現れ、幕府に開港を迫ったとき、時の役人たちは度肝をぬかれ、うろたえるばかりだった。その結果、翌年再び現れたペリーに対し、十四代将軍・徳川家茂は米国の思惑通り、日米和親条約にそそくさと署名してしまったといわれる。最近では、尖閣諸島沖の中国漁船による海上保安庁の監視船衝突事故で、日本は又しても現代版弱腰外交を演じてしまった。中国の脅しに早々と犯人を解放、事故の有力証拠であるテープ公開まで控えて、相手の面目を優先した。で、国益は護れたというが、何と屈辱的な対応であったことか。 その昔、硬派な人物と目されていた今は亡き元ソニー会長・森田昭夫と現東京都知事・石原慎太郎が、1989年に座談集『NOと言える日本』を発表したことがあった。その中で石原氏は、「日本は世界から尊重されてよい国であり、アメリカと取引する際に、自分自身の権利や意見をもっと主張すべきだ」と発言し、盛田氏も、日本は国際的にもっと存在感を示す必要があると主張した。もちろん日本の民意は盛り上がったが、しかし政府関係者の反応は冷ややかなものだった。 あれから15年。2004年、今度は新進気鋭のノンフィクション作家・関岡英之氏が、アメリカに対して日本政府が何故及び腰なのか、何故彼らの要望を拒絶出来ないか、その本当のワケを詳細かつ具体的に分析し、『拒否できない日本』(文春新書)という本を突然出版した。国会議員や役人によって握りつぶされ、つんぼ桟敷に置かれていた多くの国民にとって、この本はかなりショッキングだったに違いないが、関岡氏はこの後も同じテーマを追求し続けている。 私は昨年になってこの本を読んだのだが、表紙には副題が付いており、「アメリカの日本改造が進んでいる」とある。アメリカ政府が日本の政府に対して毎年発行する「年次改革要望書」なるものを取り上げ、著者は、アメリカによる日本の内政干渉の実態を大胆に検証し、解説している。要望書とは、日本政府と米国政府が両国の経済発展のために改善が必要と考える諸問題について書かれた文書だそうだが、1994年にすでに締結されていた。要望書は明らかに日本側の不利な片務契約であった。16年前に成立していたというのに、関岡氏が本を出版するまで多くの国民は何も知らされず、ほんの一部の外務省役人と国会議員以外は、この押し付け協定を知らないでいた。長い間、この一件を追求しなかった国会議員たちは、あまりにも怠慢ではないか。小泉純一郎、竹中平蔵両氏が主導したかの「構造改革」、郵政民営化法の骨子は、良くも悪くも年次改革要望書に基づいた法案であったといわれている。このことに気づいた数人の国会議員が、二人に反論を唱え始めたのは小泉総理が任期満了を迎えて辞職する一年前ぐらいであった。

終わりに

最後にもう一つを挙げると、年功序列の慣習がある。このごろは大分減ったというが、この慣習は根深く、長い間日本の伝統であった。どんなに実力主義や成果主義を唱えても、すぐに年功序列の慣習を崩すことは出来ない。現在その恩恵に浸かり、終身雇用を目指す人間は当然無難な道を選ぶ。たとえ刺激のないぬるま湯の中でも、よほどの失敗でもせぬ限り順番によい地位や待遇はめぐって来るからだ。ここでは、競争意識は働かないし、他人を蹴落として出世するさもしさもない。「和をもって尊しとなす」ということで、平等な生活作りに大いに貢献してきたというのだが、、、、。


以上、日本人が世界を舞台に活躍するときに、ブレーキとなる不利な思想や深層心理などを、歴史と伝統を踏まえて書きつづってきた。でも、日本の技術革新のすばらしさや伝統文化に対し、世界の評価は高い。将来を考えれば、テレビなどで見る小学生たちの、外国に物怖じせぬ態度などは大いに期待持てそうに思う。悪評かまびすしい今時の若者論はこの際さて置いて、近ごろ、野球選手たちが世界選手権で優勝したり、若い日本人ゴルファーがアメリカのトーナメントで優勝したりの活躍振り。国際化社会の中では、われわれ世代が頑固に信じてきた価値観や民族感情も、そろそろグローバル・スタンダードに調整する必要があるのかも、と心が揺れる。確かに団塊世代の子供たちは欧米人並みに肉食を好み、体格も良くなって、スポーツ界ではすでに世界を相手に戦える選手たちが続出してきた。敗戦後六十五年、ここへ来て外交関係者の弱腰だけはもう許せない。日本の看板を背負い、外交面で世界相手に堂々と渡り合える強い国際派政治家の出現を、今後、われわれは切に望みたいものだ。(二千十年十月二十一日、木曜午餐会でのスピーチ要旨)

 

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