鳴釜神事の実際と考察  5

鳴釜神事の実際と考察
   今回は神仏の祀り方が間違っていた為に、精神病になっていた人の例です。

 これは私がまだこの領域の仕事を、嫌々ながら行っていた頃の事です。当然今よりは霊的に未熟です。私の中に入っている神様も、私を試している段階の頃です。


 この家は、26歳の娘さんが、精神的に不安定になり、仕事は続かないし、過食症気味でお酒は飲むし、部屋の掃除はしないし、自殺思考が強く、家族全員地獄にいるようだと、困りきって電話をして来ました。この家では、誰も居ないはずの二階で、人の歩く音がしたり、誰も居ないのに、人が階段を上り下りする音がしたり、閉まっているドアが独りでに開いたりします。ラップ音は頻繁に聞こえ、テレビや電球は、ついたり消えたりするのは日常的なので、慣れっこになってしまっています。


 此方から観ると、余りにも雑多なものが多すぎて、その当時の私には分かりません。

 祈祷の依頼が来ましたが、直前になって断って来ました。私は、これは私でないとだめだな、私が行かないと良い方向に行かないな、と思いました。しかし直ぐ後に、又再度依頼の電話が来るのが分かります。やはり直ぐに電話がかかって来ました。娘さんが直前になって、絶対に嫌だと言ったそうです。これは、娘さんに影響を与えているものが、私に来られては困るからです。よく有る事です。直ぐに祈祷の日にちを決めました。


 車で3時間以上かけ家につきましたが、私の前に娘さんは出て来ません。家中の柱には、上から下まで、近所の寺で貰ったという厄除けのお札が貼ってあります。異様な感じです。仏壇の前に行きましたが、何宗の仏壇なのか判断がつきません。曹洞宗と聞いていましたが、真ん中に弘法大師の掛軸が掛かり、左後ろに不動明王、右後ろに黄檗宗の掛軸、下の段の右前には、厨子に入った、弥勒菩薩、他に人形らしきものが二体有ります。後ろの部屋には○光教の御社も有ります。娘さんの部屋には地元のお稲荷様と○上稲荷様が有り、柱には上から下まで厄除けのお札が貼ってあります。奇怪な感じです。どうもない人でも変になります。


 先ず、私はこの家の人に、曹洞宗の基本的な祀り方を説明しました。一般的には真ん中に御釈迦さんの坐像、向かって右には道元、左には瑩山をお祀りする旨を告げました。そうするとこの家の人は、ここのお寺さんの住職は、曹洞宗の中でも高い位の方で、今までその事については何も言われた事が無い、と言います。私は今からお寺さんに電話をして聞いて見るように言いました。家の人は直ぐ電話をしましたが、やはり間違っているとの事でした。お寺さんにしては、間違っていても、余り細かい事を言っていたら嫌われると思い、今まで言わなかったのでしょう。

 私はこの家の人に、私に任せてもらえますか、と念を押しました。曹洞宗の正式な祀り方は後日、ここのお寺さんに任せて、今日は弘法大師様、不動明王様、黄檗宗の掛軸、弥勒菩薩様、二体の像、二体のお稲荷様、○光教を、鳴釜の神事を持って、大元の処に御帰りしていただきます旨を伝えました。


 先ずこの家の御先祖様に、今までの間違った仏壇の祀り方を詫び、今日は出来ないが、直ぐ後で正式な祀り方をする旨を伝え、許しを請いました。弘法大師様、不動明王様、黄檗宗の掛軸、弥勒菩薩様、二体の像、場所を変えて、二体の稲荷様、○光教に対しても、詫びと今までの感謝の言葉を告げ、今日以降、どうしても祀りきれないので、御帰り願いたい旨を告げました。鳴釜の神事をもって、御送りさせていただく旨を伝えました。


 線香の護摩をもって、此方の誠意を示し、侘びを入れ、許しを請いました。今から考えると、よくこんな大それた事をしたものです。此方も必死だったのです。

 私はまだこの頃は、祈祷は私自身が行っているもの、私自身の実力で行っているもの、と思っていました。事実、今まで行った祈祷の結果は、殆んど全てと言って良いほど、良い結果が出ていました。今思えば、恥ずかしい限りです。


 この家の御先祖様に一生懸命に詫びを入れますが、何も私の中に入って来ません。その当時の私はまだこの段階だったのです。私としては一生懸命にお経を上げ、御先祖様に許しを請いますが、何も感じるものが有りません。この段階で、祈祷を始めてから3時間は費やしています。焦りは感じましたが、何故御先祖様が出てこないのかは、まだ分かりませんでした。一応上記した事を、上辺の形だけ、こなしました。


 次に鳴釜の神事に入ります。上記した弘法大師様、不動明王様、黄檗宗の掛軸、弥勒菩薩様、二体の像、二体の稲荷様、○光教の御札を並べ、撥遣(はっけん)の理由を述べます。釜に火を入れます。途端に私の腕に痛みが出て来ます。これは狐ですが、神様の狐では有りません。人間で言えば、やからです。野狐です。形は狐として出ますが、元はいろいろです。やがて釜が沸騰して来ると、この様なやからは直ぐに消えて無くなります。洗い米を入れます。しかし釜は鳴りません。全く鳴りません。何故なら鳴らないのか、分かりません。お手上げです。その当時の私としては、もう何が何だか分かりません。


 時間にして、ほんの十数秒だと思いますが焦ります。その時突然ですが、まだ他に、この宗旨以外の信仰の対象が、仏壇の引き出しの中に有る事が浮かんで来ました。それも祓え、という事です。やはり有りました。小さな阿弥陀様です。途端に釜が鳴り出しました。音は小さいです。各々の掛軸、御札を鳴っている釜の上に持って行き、今までの御加護に対し感謝の言葉を言い、大元の処に御帰り願いたい旨を告げます。


 この娘さんは途中から私の右斜め後ろに座りましたが、最初は頭を垂れ、手足もだらりと垂れたままでしたが、釜が鳴りだすと体に力が戻った様で、しっかりと座り、頭も上げています。私はその時初めて娘さんの顔を見ました。私はこれで、この娘さんは戻ったな、と確信しました。


 祈祷を始めて終わるまで、時間にして約5時間程費やしていました。

  
 祈祷は私自身が行うのではなく、私の中に入っている神様が行うものです。私は私自身の体をその場所に持って行くだけです。そして、神様が言う様に言葉を発し、体を動かしているだけです。私自身は何も出来ません。

 祈祷の中で、この家の御先祖様をいくら呼んでも出て来なかったのは、長年に渡り、間違った仏壇祀りをしていたために、この家に寄り付かなく(寄り付きにくく)なっていたのでしょう。今となり、少しばかりの経験を積むと、同じ様なケースはよく有ります。なかなか御先祖様が出て来ないか、反対に一時に念が固まって、噴出して来るケースも多々有ります。


 三週間程後に、この娘さんは友達と二人で、車を走らせて報告に来ました。すっかり良くなっています。そして今はお母さんになっています。