生霊、怨念、邪念のとる形
 念というものは、矢の如く真っ直ぐに突き進みます。生霊や怨念の様な怨霊、人間の放つ邪念、余談ですが、亡くなった人が子孫に放つ要求の念(肉親の場合は、相当の年月を費やして、要求の念を送ってきますが、子孫がその事に気がつかなかった場合、少し生活を不安定にさせたりして、知らせを送って来ます。それでもまだは気がつかなかったりした時は、病気にさせたり、最悪の場合、葬式を出させて、何故なのか、何故この様になるのか、と気づかす様にします。御先祖様の場合は、何も悪意が有っての事ではなく、自分達の要求に気づいて欲しいが為に、その様な事をします)も、時期を逃すと、ピストルの弾の如く、真っ直ぐに突き刺さります。


 生霊、怨念、邪念は、人にも、物にも、その場所にも憑いて残ります。

 念を放つ人間(生きている人間だけではありません)の方も、意識的、無意識的に念を放ちます。

 念を放たれた方も、そのものの持っている勢い、力の加減で、もろに受ける場合も有るが、無意識に念を飛ばした方に跳ね返してしまう場合も有ります。ある人に対し、悪意を持って念を送ると、直ぐに此方の調子が狂ってしまう場合が有ります。これは意味の有る事ですが、大変長くなりますので、省きます。


 念を受ける方も、強いものばかりでは有りません。ある一家の、ある人に念が放たれた場合、たとえその人が、跳ね返すだけの力が有る方でも、又それが、年月をかけ、大勢のものから放たれた場合、当然放たれた念の何分の一かは、その家族、家、土地に残ります。

 そして、残された念は、その家の弱い部分に影響を与えます。大概は性格の良い、優しい人に悪影響を与えます。不条理な事です。

 念をもろに受けた方は、事故、病気等、千差万別です。


 生霊、怨念は、私の体のある部分に入って来ますが、これを書くと、自己判断で誤解される方が有ると思いますので、書きません。


 生霊、怨念、邪念のとる形(見える形)としては、最終的には、野狐の形を取る事が多いです。

 又、このものは、姿を変えますので(それこそ、いろんな物に化けます)、人によっては異論が有ると思いますが、最終的には、野狐になります。


 ●これは、ある寺の事ですが、余りにも、多くの因縁の様なものが有りますので、詳細は省きます。


 私:「この〜寺の障りを見せてください」

 妻:「何百匹か分からない位の狐が出て来たよ」、「柄が悪そうやわ」、「小さいのも、沢山居てるよ」

 私:「この中の、主な稲荷さん、出てきてみ」

 妻:「茶色い、柄の悪そうなのが、出て来たよ」

 私:「〜寺には、昔から居るのか」

 妻:「知らん顔してる」

 
 
 この狐は、最初の内は、私達に敵対心を持ち、何を聞いても無視を貫いていましたが、何日も時間をかけて、持ち上げたり、なだめたり、又脅かしたりしながら、此方のペースに持ち込みました。

 今ではもう、私達が呼ぶと(巳神を通して)、直ぐに姿を見せ、此方の言う事を聞いてくれます。

 
●久しぶりに、〜寺の稲荷さんを呼んで、聞いてみました。

 私:「〜寺の稲荷さん、あんたらは、今の姿は狐の形を取ってるが、元は何だったのか、教えてくれるか」

 


 妻:「狐さんが消えてしまったよ」、「一つだけ、大きな矢の様のものが出て来て、他は小さな矢の様なものが沢山、右から左に飛んでるよ」

 私:「稲荷さん、その矢の様なものは、人の念と取るが、私が言った事が合っているなら、姿を見せてみ」

 妻:「大きな稲荷さんだけが、出て来たわ」

 私:「稲荷さん、それは、人の念というのは分かったが、何に対して放たれたものか、教えてくれ」、「〜寺の人に対してのものか」

 妻:「土地に対して、放たれたものの様に思うよ」

 霊視している途中で、本職が急に入ってしまい、ここで止める事にしました。

 私:「稲荷さん、御免な、もう帰りよ」

 妻:「人の手が出て来て、黒っぽい物を持ち上げたら、その中に入ってしまったよ」
 

 ・・・・・・・・・・・・?

 ● 翌日に、もう一度稲荷さんに来てもらい、再度聞いてみました。

 私:「昨日は御免な、以前、あんたらとは大事な約束をしているが、〜寺の方から、その話が断ち切れになってしまって、私達が押しかけて行くわけにもいかないし、困っているんや、約束は果たすから、待っていてくれな」、「稲荷さん、昨日と同じ事を聞くが、あんたらの元は、〜寺の土地に放たれたものは分かったが、誰が放った念か、教えてくれ」



 妻:「昨日と同じものが出て来たけど、今日は狐さんが皆居るよ」、「それと、硬そうな、石より硬そうな玉が、矢の様なものと一緒に、右から左に飛んでるよ」、「光ってないわ」、「稲荷さんにも当たっているよ」、「何か、分からないものが出て来て、その中へ偶に玉が入って、下に落ちていくけど、その下はどうなってるのかは、分からない」、「カラ〜ンと、乾いた音がしてるよ」

 玉自体と、玉が当たって、入っていく物が、何かは分かりません。

 この狐の形をとる数百の念を、一方的に祓う事には限界が有りますし、一つ間違えば(これは私達の責任です)、念を飛ばした相手方に跳ね返って(逃げて帰る事も含む)行く事も考えられます。


 念は送り返してはいけません。呪詛返しの様になった場合、年月が経った、時間が経過した念が、何も知らない今の代の所に、跳ね返っ行く事も考えられます。

 念を送り返された方は、体調面、生活面に、どこか違和感を覚えます。

 人によっては、意識的、無意識的に、その送り返された念を、再び送り返します。又この領域の人に頼み、呪詛返しをするかも知れません。

 この繰り返しは、絶対してはならない事です。


 上記した様に、殆んどの念は、形をとります。このものを出して、説得し、納得させれば良いわけです。

 何も恐れる事は有りません。

 時間をかけて、双方が納得出来る様に持って行けば良いわけです。

 それでも駄目な時は、消せば良いわけです。

 決して返すものではありません。


 右下の絵は、この寺の、根本的な因縁です。この御社の扉は、何故か開かない様にしてあります。、この寺の住職が、何時かは開けないといけないものですが、何時霊視をしても、開けようとしているが開けられない、お坊さんの姿が出てきます。

 
稲荷さんにも、この御社の中身を聞きましたが、知らない、と言います。


 この寺には、時代は分かりませんが、この土地に向けて放たれた、多くの人々怨霊が有ります。その怨霊の塊が、狐の形を取り、今に至っています。しかし狐の表情や態度が、最初に比べて、穏やかになっていますので、そんなにきつい症状を起こすものではありません。

 
 只、私が心配するのは、当の本人、この寺の住人が、私達がパーマ屋さんという事で、私達の言う事を、余り信用していない、という事です。

 念を放つ方も、受ける方も、いろんな事情や理由が有って、その様になっているのですから、観る方もいろんなものが見えてくるのは、当然の事です。

鳴釜神事の実際と考察