ある祈祷…後日判明した事実
 通りで、何ともいえない様な重みのある祈祷でした。

 今までに無い重厚な祈祷でした。

 終わった後、地神様が疲れ切った表情でいたのが理解出来ました。

 地名などを詳細に書く事は控えますが、この地域の、ある隠された歴史が、それこそこの家の土地にあって、今さらながら其処に住む者に影響を与えていたという事実が、私達にあの様な重苦しいものとして体に入って来ていたのが理解出来ます。

 この祈祷が終わってしばらくして、他所に嫁いでおられるこの家の娘さんから連絡が有りました。

 「高橋様の書かれていた、実家の下に眠っておられた沢山の黒い人は、もしかして隠れキリシタンの方ではないかと思うのですが・・・・・。どなたかが書かれた「○○(地名)隠れキリシタンについて」というブログに、山口県○○(地名)には教会があり、その教会に敷地の一部に隠れキリシタンの墓がある。関ヶ原役(1600年)後、毛利氏のキリシタン迫害は厳しくなり(1604年頃)、山口の信者約2000人が萩市紫福へと逃れた。しかし一部は峠を越え、母(この方の)の実家の地区にも入り潜伏した」。







 (隠れキリシタンの墓)(この方のお母さんに写真を撮ってもらい、送って頂きました)

 そして、「ある祈祷」の冒頭の絵のお社が、隠れキリシタンの墓(切支丹墓)に似ており、この町内にも数十基散在している。そして何年か前、その内の三基が教会の敷地に移転された。その三基のキリシタン墓というのがこの方のお母さんの実家の裏庭に在ったものです。この地域では「山伏のお墓で、触ると祟りがある」、と言われていたそうです。又この地域のキリシタン墓の石材は、全て紫福から産出された粗面安山岩で作られ、紫福に多数残されているキリシタン墓と形式も全く同じで、潜伏後も連絡、交流が有った事を裏付ける。



 私達が祈祷に行かせて頂いた所は、この隠れキリシタンが眠っていたその場所だった訳です。

 勿論、この地域には隠れキリシタンの信仰自体は伝わっていないので、江戸時代の何処かの時期に、仏教に淘汰されと思われます。

 私、「地神さん、山口県の○○家での祈祷で、川の両側に立っていた沢山の人は、あれは隠れキリシタンの人やったんか?」、と聞いてみました。

 妻、「うなずいてあったわ」。

 私、「良い事をさせてもらったんやな」。

 妻、「頭を下に向けてあったわ」。

 そして、「白蛇さんこと現巳神様は、そこに祀られたキリシタンの方の純粋な信仰心を受け取り、黒い虫の方は、同じ方々の苦悩や報われない思いなどの影の部分を受け取り・・・。同じ人々の心の光と影が別々の形で顕れることもあるのか・・・。その光と闇を別つため、よく切れる刀が必要だったのか・・・。もしかして、その刀を持っている人の出現を、巳神様は400年超も待っていたのかも・・・」。

 そして、「母なる」聖マリアは常に信者の傍に居られると聞きます。だとすると彷徨えるキリシタンの方々を救う時も・・・・・。高橋様が聞いた祈祷前夜の警告の声、もしかして・・・」、とも言われます。

 私、「地神さん、祈祷の前の夜中、俺の名前を呼んだのはマリア様か?」。

 妻、「「違う」、と頭を振ったわ」。

 私、「そうやろな・・・・」。

 この祈祷に関しては、まだ解らない部分もある事は確かです。

 どんな祈祷でも、100%、解明するのは不可能だと思います。

 「祓った」、とか、「消した」、とか、そんな単純なものではない事だけは確かです。

 良い縁をもらいました。
















 
鳴釜神事の実際と考察