弟子について
先ず私には、弟子という存在は居りません。
確かに、事情により、鳴釜の技術的な部分を教えた方は数名居ります。
つい最近も、一人の女性に鳴釜の技術的な部分を教えたところです。
この女性は、大変な事情を抱えており、部外者がなまじっかな評価で判断しそれを批判するものなら、私の持っている低い部分で批判する者に裁断を下す事も辞さない思いで鳴釜の技術的な部分を教えました。
かと言って、この方が私の弟子かと問われると、とんでもない間違いです。
そしてこの方がこの先、この領域のお役を真っ当出来るのかと問われると、それはこの方のこの先の、使い古された言葉ですが、努力にかかっています。
心無い存在(人間)や、理不尽な神霊のお試しに耐えられるのかは、その方本人の考えや人間性にかかってきます。
大概の方は、途中で見事に逃げ出してしまいます。
この方も多分逃げ出すでしょう。
その方が良いのです。
これでもか、これでもかと、やればやる程、神霊のお試しは厳しくなって行きますので。
これは辛い。
私の本業に関しても、今まで何十人という方を雇って来ましたが、本当の弟子という存在は居りません。
技術的な部分だけの伝授をもって「弟子」と取られるのも、私の主義ではありません。
この部分に関しては、分からない方が大多数ではないかと思います。
この領域に入られる方は、一般の方が其処等で仕入れた知識では判断出来ない程の事情を抱えた方も多く居られる事を知って頂きたいのと、その様な方のお役の為に、私が鳴釜の神事を教えるという行為が、即「弟子」という形で捉えられるのは大変な間違いです。
私には弟子は居りません。