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米村みゆき氏「高畑勲作品を成立させる基盤――文学研究者による書物という銘打つ限り、その専門性が高畑映画の考察にどのような豊かな実りをもたらすのか」(『図書新聞』3465号掲載書評)に対する見解(中丸禎子:『高畑勲をよむ』編著者)

 『高畑勲をよむ 文学とアニメーションの過去・現在・未来』の書評が『図書新聞』3465号(2020年9月26日号、6ページ)に掲載されました。評者は日本近現代文学・アニメーション文化論を専門とする米村みゆき氏です。まずは、書評執筆の労をとってくださった米村氏と、本書を取り上げてくださった図書新聞にお礼申し上げます。 一方、本書評には不正確な記述や問題点が含まれています。編者、すなわち各論考の最初の読者として、また、書籍の構成責任者として、以下の通り指摘いたします。
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鈴木彰「『平家物語』読者としての高畑勲」の紹介
 米村氏は、鈴木彰の「『平家物語』読者としての高畑勲」を、「平家物語を専門領域とする研究者がそのスキル、、、を発揮したものとして着目されるだろう」と評価し、鈴木論考の紹介を「鈴木は、高畑が『ぽんぽこ』において引用した『平家物語』の「運命劇」として読解、すなわち「創られた」国民的叙事詩としての系列に属する読みに問いを投じている」(3段目)と書き始める。鈴木論考は、井上論考の紹介文の末尾で、井上の指摘について「『ぽんぽこ』において国民的叙事詩としての『平家物語』の読解を提出した事実と関連させることができるだろう」(5段目)という形で再び言及されている。
 しかし、鈴木論考には、『ぽんぽこ』が『平家物語』を引用した、あるいは、同作が『平家物語』の読解を提示した、という記述はない。『ぽんぽこ』を「狸たちの『平家物語』」と解釈し、同作において狸が那須与一を演じる場面を、『平家物語』の引用(論考中では「再現」)として論じているのは、加藤敦子「物語・風流・浄瑠璃 芸能から読む『平成狸合戦ぽんぽこ』」である。鈴木論考内でもたしかに、『平家物語』のアニメ制作を断念した高畑が、『ぽんぽこ』制作に当たって、「狸たちが主人公の『平家物語』」を提案した、というエピソードは紹介されている。しかし鈴木は、高畑の『平家物語』解釈を直接的に示す発言に限って『ぽんぽこ』に言及しており、『ぽんぽこ』の表現と高畑の『平家物語』解釈の具体的な関係は述べていない。また、鈴木が「国民的叙事詩」という言葉を用いるのは、以下の1回のみである。

「運」「運命」に関する物語解釈にも注意したい。『平家物語』を運命劇とみる読みは、今日でも続いている。ただし、現在では、そうした読みかたに内在された歴史性への検証も進んでいる。明治期以来の日本の近代化の過程でそうした解釈がどのように形づくられ、戦時下に続く体制や思想状況といかに関わり(「国民的叙事詩」「日本精神」「武士道精神」「英雄」といった概念と交わる)、戦後にも形を変えて生き残っているか、という問題も見定められている。とりわけ、戦後、石母田正が提起した運命劇としての読みは、じつは明治期に行われていた解釈の反復にすぎず、かつ「運」の語義解釈を踏まえて、『平家物語』を「西欧的な運命論・宿命論で理解しようとすることは相当に慎重であるべきだ」とする理解が提示されてもいる。(211頁)

 このように、「国民的叙事詩」という言葉は、「日本精神」ほかの概念と並べられ、( )に入れて提示されている。つまり、一時期の『平家物語』受容と交わる概念の一つとして挙げられているにすぎない。たしかに、反戦や護憲を強く訴えてきた高畑が、「国民的叙事詩」と交わる『平家物語』解釈を内在していた、という指摘は、今後の高畑研究で発展的に検証される可能性を有している。論考末尾の「読書案内」で大津雄一『『平家物語』の再誕 創られた国民叙事詩』(NHK出版、2013)を挙げていることから、鈴木自身もこの問題を今後につながる問題として意識的に取り上げたと推察できる。しかし、鈴木は、本論考において『平家物語』を「創られた」「国民的叙事詩」として論じているわけではなく、従って、高畑が「『ぽんぽこ』において国民的叙事詩としての『平家物語』の読解を提出した事実」を指摘してもいない。米村氏が、加藤・鈴木の両論考からこの解釈を導き出したのであれば、この部分が、鈴木の議論の要約ではなく、自身の解釈であることを明言する必要がある。
 米村氏は、「「創られた」国民的叙事詩としての系列に属する読みに問いを投じている」という導入に続き、鈴木論考を以下のように紹介する。

『平家物語』はこれまでさまざまな読まれ方をされ、人々の生き方や価値観に影響を与えてきた。その読みの歴史には、その社会に求められる人間の育成への利用、いわば死を厭わぬ勇ましさや覚悟、死ぬことの美しさやそれを甘受する心の清さを強調された武士像やその精神性があった。それが、教育、芸術や文芸・文化などの領域を介して社会に広められた歴史があり、高畑の引用は近代以降に創り出されたこの読みの系譜に属するという。(3段目)

この紹介は、鈴木論考の以下の文章を、ほぼそのまま書き写したものである。

『平家物語』はこれまでさまざまな読みかたをされ、その社会に求められる人間の育成に利用されてきた。そうした歴史の一環に、死を厭わぬ勇ましさや覚悟、死ぬことの美しさやそれを甘受する心の潔さといった要素を強調する偏った解釈によって創り出された武士像やその精神性が、教育や芸術や文芸・文化といった領域を介して社会に広められたという過去がある。ここで高畑の読みをあえて問い直しているのは、そうしたかつての文脈で行われていたものに近い読みを、おそらく図らずも内在してしまっているからである。(213頁)

 鈴木はこの文章を含む「高畑の『平家物語』理解と向き合うために」という項目において、この一段落に書かれていない多くのトピックを提示している。また、本項目以外にも、「人物エピソード集としての『平家物語』」、「「天真爛漫の本然」をめぐって」、「残酷さと偶然性」といった項目を立て、「『平家物語』読者としての高畑勲」を多様な視点から論じている。しかし、本書評では、鈴木論考のこの部分だけを紹介し、その理由も述べていない。
 もちろん、書評の限られた紙幅で論考全体を万遍なく紹介することは不可能であり、その必要もない。しかし、だからと言って、14ページにわたる論考から一段落を抜き出して論考全体の紹介に替えることはできない。この部分が特に示唆的であるなら、要点を短くまとめたうえで、この部分がなぜ、どのように示唆的であるのか、短くとも評者の言葉で論評することが求められる。あるいは、この分量を使い、執筆者が用いた文章を大部分で援用するのであれば、むしろ、「評者が特に感銘を受けた個所」として直接引用することが望ましい。なお、この箇所で鈴木が「引用」ではなく「内在」という言葉を使っていることも、指摘しておきたい。

井上征剛「放送劇音楽としての『母をたずねて三千里』付随音楽について」の紹介
 本書評のうち、評者が最も多くの紙幅を使って評しているのが井上論考である。この中にある「高畑作品を成立させる基盤」という文言は、本書評のタイトルとしても使用されている。分量の点からも、タイトルに使われている点からも、「秀逸な視点」「非常に興味深い指摘」「興味深いだろう」という評価からも、米村氏は井上論考を本書の白眉と位置付けていると推察される。井上はたしかに、文学と音楽双方の専門知識を備えた稀有な執筆者である。井上に論考を依頼した編者として、「児童文学と音楽の専門性を持つ研究者による論考で秀逸な視点を提出している」という米村氏の紹介に感謝したい。
 井上論考の特徴は、『母をたずねて三千里』の音楽の使われ方に関する音楽研究者としての議論を、文学研究者としてのストーリー分析で補強する点にある。同作の楽譜は市販されていないため、本書掲載の楽譜は井上が聞き取って書き起こしたものである。しかし、米村氏の評からは、井上が音楽の専門家としてどのような分析手法をとっているのか、それが児童文学研究者としての専門性とどう関わっているのかについての言及がない。たとえば米村氏は、「『三千里』の主人公マルコや複数の登場人物の物語と音楽の両面の枠組みからは、「母親との別れと再会」という表向きの筋にとどまらず、「人生には後悔という重荷を抱えて生き続ける面がある」といった派生的な物語を読み取っている」と評価する。この「表向きの筋」と「派生」を導き出すにあたって、井上は、母親との別れのシーン(第1話)で流れる煽情的な音楽が途中で途切れていること、その後その音楽はほとんど使用されず、再会シーン(第51話)で突如続きが流れることを指摘している。井上によれば、『三千里』は、第1話でマルコが抱いた後悔の念(母親を快く送り出せなかったことと、そのことを謝罪できなかったこと)が、約1年の放送期間中膨らみ続け、最後に決着するという「物語の枠組み」を持っている。別れのシーンの音楽の続きが再会シーンで流れることにより、『三千里』は、この枠組みを「物語と音楽の両面によって」視聴者に感覚的に伝えることに成功している。加えて、「作品の受け取り方が、母親との別れと再会という物語の表向きの筋にとどまらず、人生には後悔という重荷を抱えて生き続ける面がある、といったふうにふくらみ派生していく可能性も示されている」(265頁)。すなわち井上は、「派生的な物語を読み取っている」のではなく、派生的な受け取り方の可能性を示唆している。米村氏の紹介では、井上の論点が正しく伝わらないばかりか、音楽分析に関する具体的な説明がないために、井上論考のストーリー分析という側面しか提示されない。この紹介からは、井上の「音楽の専門性を持つ研究者」としての「秀逸な視点」への評価は導き出せない。 さらに、書評タイトルの由来となった米村氏の文章「井上は、高畑作品を成立させる基盤――大衆として位置づけられる人々の営み――が同作では示され、なかでも、マルコとバイアブランカまでの道のりを同道する人形芝居の旅芸人ペッピーノが、「高尚なる芸術」と「大衆文化」の間で右往左往し、最終的に大衆文化の担い手として生きることを選択しているという」(4~5段目)にも留保をつけておきたい。この文章に対応する井上の文章は、以下の通りである。

 ここで音楽に求められているのは、舞台がアルゼンチンであること、もしくはイタリアであることを強調することではなくて、画面の中で描かれている、大衆として位置づけられる人々の営みを伝えることなのだ。カルロスのギターを聴くのも、パブロのケーナと歌に触れるのも、マルコがアルゼンチンの土着の人々の生活に触れるエピソードの中のできごとであり、その結果音楽は、「(土着的)五音音階」に基づく、ゆったりした音楽によって、マルコがカルロスやパブロなどとの関係を通じて感じ取る、「土着の存在の力強さ」というようなものを提示している。舞台となっている土地とその土地で生を営む民族、とくに大衆の力の結びつきを音楽を通して示す発想は、『太陽の王子 ホルスの大冒険』以来、高畑作品を成り立たせている基盤のひとつである。
 マルコとバイアブランカまでの道のりを同道するペッピーノが、カルロスのギターに感銘を受けたことも、興味深い。彼は大道芸の人形芝居を生業としていながら、「芸術家」としての成功を夢見ており、しばしば「芸術」から縁遠い大衆を見下す態度を取ったり、身分ある者に取り入って「芸術家」として認められようとしたりする。このような、「高尚なる芸術」と「大衆文化」の間で右往左往する傾向がある彼の、芸術家としてのあり方に、「土着の人」であるカルロスのギターは、少なからぬ影響を与えたと考えられる(その後もペッピーノは大地主や政治家に取り入ろうとするが、最終回の様子を見る限りでは、とりあえず「アルゼンチン大衆文化の担い手」として生きることを選択したようだ)。このように、『母をたずねて三千里』での音楽の扱いは、「芸術と大衆」という、この作品が提示する副次的なテーマとも密接につながっている。(258-259頁)

 井上が「高畑作品を成立させる基盤」として挙げているのは、「大衆として位置づけられる人々の営み」それ自体ではなく、ある土地における大衆の営みを音楽を通じて示す「発想」である。また、そこでの「大衆」の代表格は、旅芸人のペッピーノではなく、アルゼンチンで暮らすガウチョのカルロスとインディオのパブロである。さらに井上は、ペッピーノが大衆文化の担い手として生きる選択を、「とりあえず」「選択したようだ」という留保付きの推定とともに( )内で示している。「芸術と大衆」が「副次的」なテーマである、すなわち、主要テーマではない、という見解も示している。高畑が映画制作にあたり、大衆性・土着性に強くこだわってきたことに、わたしは一視聴者として賛同するし、井上が付随音楽に関する議論を通じてそのこだわり方を具体的に示したことに、一読者として舌を巻いている。しかし、上記の文章を受けて、井上が大衆性を高畑作品成立の基盤と断じているとは言えず、その代表格にペッピーノを挙げているとも言えない。
 もちろん、論考をどのように読むかは、読者・評者の自由である。論者・編者の思惑通りの読み方を評者が提示する必要はないし、論者が些末視した事象を評者が掬い上げ、そこから研究が発展するのは、むしろ望ましいことである。しかし、書評の機能の一つが内容紹介であることを考えれば、評者は、論者の趣旨と、自身が興味深く感じた個所を、明確に切り分けて提示する必要がある。
 このことと関連して、「高畑勲作品を成立させる基盤」という書評タイトルについても見解を述べておきたい。「高畑作品を成り立たせている基盤のひとつ」に関する井上の指摘は、たしかに、『三千里』にとどまらず、高畑作品全体を理解するための有効な指摘であり、この指摘に至る斬新な視点と緻密な議論は、本書の中でも目を引く箇所の一つである。しかし、上述の通り、この指摘は井上が論考内でなした多くの指摘の一つであり、『三千里』論の骨子ではない。井上自身も「基盤のひとつ」という言い方をしているが、本書の様々な論考内で指摘される「高畑作品を成立させる基盤」は、大衆性に関連することだけではない。そして何より、高畑作品を論じていない論考も含まれる本書が、全体として「高畑勲作品を成立させる基盤」を論じた書籍であるとは言えない。「高畑作品を成り立たせている基盤」という井上論考内の文言は、優れた指摘ではあるものの、本書を代表する文言でも、本書の特徴を端的に表す文言でもなく、書評全体のタイトルに使用するには疑問が残る。

校正の不備
 本書評には、書評副題をはじめ、校正が不充分な日本語が散見される。以下に校正すべき個所の例を挙げる。
  • 文学研究者による書物という銘打つ限り⇒文学研究者による書物と銘打つ限り/文学研究者による書物という銘を打つ限り
  • どのような豊かな実りをもたらすのか、読者は同書に期待する⇒どのような実りをもたらすのか、読者は同書に期待する/豊かな実りをもたらすことを読者は同書に期待する
  • 『平家物語』の「運命劇」として読解(4段目)⇒『平家物語』の「運命劇」としての読解
  • 高畑が作品の内容や制作意図に沿った付随音楽を求め、それに応えたのが坂田晃一の音楽であり、『三千里』の主人公マルコや複数の登場人物の物語と音楽の両面の枠組みからは、「母親との別れと再会」という表向きの筋にとどまらず、「人生には後悔という重荷を抱えて生き続ける面がある」といった派生的な物語を読み取っている(4段目)⇒この文章は、途中で主語が変わっている。すなわち、書き出しの主語は「高畑」であるが、「読み取っている」という結びの述語に対応する主語は、文中に書かれていない「井上」である。二文前の主語である「井上」をこの文の共通の主語として用いるなら、「さらに、高畑が…求めたこと、それに応えたのが坂田晃一であることを指摘し」と、「井上」という主語に対応する述語を補う必要がある。
  • それに応えたのが坂田晃一の音楽である⇒それに応えたのが坂田晃一である
  • 物語と音楽の両面の枠組みからは⇒物語と音楽の両面の枠組みから/物語と音楽の両面から
  • 秀逸な視点を提出(4段目)、『平家物語』の読解を提出(5段目)⇒「提出」を「提示」に変更
  • 『おもいでぽろぽろ』(5段目)⇒『おもひでぽろぽろ』
 校正不充分な文章、とりわけ高畑作品のタイトルの誤記は、本書評の信頼性のみならず、高畑についての著作を有するアニメーション文化論研究者としての米村氏の信頼性をも損なうものである。

書評としての問題点
 本書評の書き出しで、米村氏は1段半に渡り、『平成狸合戦ぽんぽこ』における高畑勲の表現方法について述べている。この記述は、『高畑勲をよむ』に関連したものではなく、米村氏自身の高畑論である。たしかに、書評するにあたって、評者は、対象書籍が論じる対象についての知識と知見を求められる。評者の立場を明確にすることは必要であり、そのために対象自体についての見解を述べることも不要ではない。しかし、書評は、対象書籍が論じる対象についての評者自身の考えを表明する場ではなく、対象書籍を評価する場である。紙幅が限られる中で評者自身の対象に対する見解を書く際には、対象書籍との関連付けが不可欠である。しかしながら、本書評には、『高畑勲をよむ』が提示した高畑像が、米村氏の高畑理解に合致するものだったのか、別の視点を示すものだったのか、合致しないがゆえに批判の対象であるのか、いずれに関する言及もない。『ぽんぽこ』を扱う加藤論考を取り上げていないこともあり、冒頭で同作に触れた意図は明らかではない。
 続いて米村氏は、『高畑勲をよむ』成立の契機や構成を紹介し、「高畑勲に直接に関係しない論考も含まれる」ことを指摘したうえで、「文学研究者による書物という銘打つ限り、その専門性が高畑映画の考察にどのような豊かな実りをもたらすのか、読者は同書に期待すると思われる」(3段目)と問題を提起する。その後、鈴木、井上の論考を長く紹介し、中野貴文、田中琢三の論考に簡潔に触れ、細馬宏通、西岡亜紀、兼岡理恵、ちばかおりの論考を、ほぼ副題を挙げる形で紹介して書評を締めくくっている(ただし、細馬の副題には「原作の」アニメーション化という言葉はなく、兼岡は「脚色」という言葉を副題でも本文でも用いていない)。すなわち本書評には、「文学研究者による書物という銘打つ限り、その専門性が高畑映画の考察にどのような豊かな実りをもたらすのか」という評者自身による問題提起に対する結論は書かれていない。わずかにその片鱗が見られるのは、ペッピーノが大衆文化を選択したとする井上の指摘を、「高畑の映画制作における問題として捉えると興味深いだろう」と評した箇所と、このことを「『ぽんぽこ』において国民的叙事詩としての『平家物語』の読解を提出した事実と関連させることができるだろう」と評した箇所である。これらの記述が必ずしも井上・鈴木の論考に基づかないことは先に指摘した通りだが、それを別としても、ここには、文学研究という専門性が「どのような」実りをもたらしたかについての結論はない。大衆文化に関する指摘がなぜ興味深いのか、その指摘を「高畑の映画制作における問題として捉える」とは具体的にどうすることなのか、「国民的叙事詩」と関連させることで何が得られると期待されるのか、複数のコンテンツから鈴木と井上の論考を選んで評したのはなぜなのか、明確ではない。
 米村氏は、期待を抱いて本書を読んだものの、本書はその期待に沿わなかったのかもしれない。というのは、「銘打つ限り」「読者は同書に期待すると思われる」という表現は、中立的ではなく、「銘打ったが見かけ倒しだった」「読者の期待に充分に応えなかった」というニュアンスを含むからである(中立的な問題提起であれば、「文学研究者によるアプローチは、高畑映画の考察にどのような観点をもたらすのだろうか」等の書き方になる)。鈴木、井上、中野、田中など一部の論考が評価に値するのであれば、米村氏は、それらが「興味深い」「有効」という評価だけでなく、なぜ興味深いか、どのように有効なのか、文学研究という専門性がアニメーション研究と違うどのような成果をあげたのかを具体的に指摘するべきである。また、個々の論考の成果にもかかわらず、本書が全体としては期待に沿わなかったのであれば、問題提起に対する結論として、どのような点が期待外れであったのか、それはなぜなのかを提示すべきである。本書評で触れられていない高畑インタビューや、小田部羊一・中島順三座談会、「高畑勲に直接に関連しない論考」は、高畑映画研究史にどう位置付けられるのか、あるいはそれらは不要なのか。紙幅の制限からすべての論考に言及できないのは当然だが、インタビューや座談会、「高畑勲に直接に関連しない論考」を含む構成を本書の特徴として指摘した以上、その特徴に対する評価は不可欠である。あるいは、本書が試みた文学研究からのアプローチは、どのような「実り」をもたらしたのか。もたらさなかったとすれば、それはなぜなのか、どうすれば「豊かな実り」をもたらせたのか。それとも、文学研究者が高畑勲研究において成果を出すことはそもそも不可能なのか。

 『高畑勲をよむ』は、実験的なアプローチゆえに、不備や限界、そして失敗の可能性を多く有している。編著者として望むことは、それらについて批判されないことや、不正確な理解に基づいて称賛されることではなく、正確な理解と適切な批判を通じて、高畑研究、文学研究、アニメーション研究の発展に寄与することである。研究の歴史は無数の失敗と無駄な営為の上に成り立っている。文学研究者が高畑勲を論じる本書のアプローチは失敗した、この方法では成果は出せない、と判明したとすれば、それもまた、本書刊行の意義である。書評の役割は、書籍の一部を恣意的に選択して紹介することや、評価できない部分に触れないことで批判を避けることではなく、対象書籍を研究史に位置づけたうえで、不備や限界、失敗を指摘して次なる研究の契機をつくることにあるはずだ。
 『高畑勲をよむ 文学とアニメーションの過去・現在・未来』が、今後、多くの読者・評者による適切な批判を受け、文学とアニメーションの過去と現在を正しく認識し、未来の礎を築くことを願っている。