自分の中で「これは普通だ」と思っていたことが他人に否定されるいうのは、ひどく納得できず、そして傷つくものだ。他人との単なる価値観の違いで片付けられるものでもなく、自分の存在自体さえも否定されたような、そんな鈍い痛みがじくじくと伴う感じ。
なんだか居心地が悪くなり、だから私はこの街を出ることにした。こんなゴミゴミした都会ではなく、もっと田舎のほうに向かおうと思い立ったのだ。
これは、まあ、旅に出るということと同じだった。傷心の旅とも言えるかもしれない。
抵抗はなかった。私は自分の帰るべき家を持っていないし、それに、今の私にはちょうど旅に出なくてはならない目的もあった。都合がよかったというわけである。
思い立ったが吉、そんなわけで、旅に出ると決めてからの私の行動は早かった。
もともと身軽だった私だ、必要最低限の日用品だけをバッグに詰め込み、適当なバス停で適当なバスに乗った。
――――私はふと横を見た。
四角に切り取られた色とりどりの風景が、びゅんびゅんと後ろに流れている。この山道にほかの車は通っていないので、運転手はけっこうなスピードを出しているようだ。
いいかげん風が強いので窓を閉め、今度はついと視線を下に降ろした。
そうすると、私が「これは普通だ」と思っている服装――要するに、自分がいま着用している純白の制服が目に入った。
ネックのところに銀の十字架、これは私が以前まで所属していた宗教団体『FARGO』の正装だ。
……街中にこの服装は変でしょうか、やっぱり。
まあ、人の少ない田舎町なら自分の姿を人前にさらすこともないし、誰かに出会ったら出会ったで、緑に囲まれた人情溢れる住人がきっと暖かく迎えてくれるとは思うんですけど。
と、そこまで考えて、そういえば都会を出てから自分はずっとバスに乗りっぱなしだったことに気づいた。正確に言うと何回かはバスを降りたのだけれど、それは乗り継ぎのためであり、気づけばもう丸一日が経過していた。
……すこし小腹が空きましたね。
なにも食べていないのだから当然だ。睡眠だけは十二分に確保できていたが、それだけでは人間生きていけない。
たとえこの私――鹿沼葉子は普通の人間とちょっと違うのだとしても。
私はバスを降りて売店でも探そうと、窓の向こうに広がる山の風景と、その手前、こぢんまりした街並みを眺めた。
太陽が中天にかかっている。あまり強いとはいえない陽光の下、寒々した海が見えた。そして、その真ん前にはだだっ広い砂浜。
季節は冬、だから海水浴の客で賑わっているでもなく、そこはただ寂寥感だけを醸す場所と化していた。
雪は見られなかった。南のほうに向かっていたので、ここは雪下ろしなど経験したことのない人々が生活を営んでいるのだろう。
その住人の数も、外の寂しい風景、どこかのどかな感じもする住宅街が示すとおり、限りなく少ないに違いない。
まさしく、普通でない服装をした私が降り立つには、打ってつけの街だった。
バスが止まった。すると運転席の隣の扉が開かれた。
そうして私は、バスのステップから見知らぬ地へと足を踏み出す。
「おうおう、ねえちゃん。ちゃんと金払ってくれないと降りれないよ」
「……今払いましたけど」
「あと100円足りないんだがね」
「……え」
1幕 鹿沼葉子の受難
第1話
排気ガスを盛大にまき散らしながらバスが走り去った後も、鹿沼葉子はバス停を離れることができなかった。
あの100円が、最後のお金でしたのに……。旅に出て一日、葉子はあっさりと文無しになっていた。
うーん、私としたことが、うっかりでした。まさか財布を落としていたなんて。そう考えて葉子は、はたと気づいた。
そういえば、担いでいたはずのバッグの姿すら見えないような。
……なんで?
思い出そうとしてみたが、ひったくりに遭ったやら置き引きを食らったやら、そういった心当たりはなかった。
というよりも、そもそも自分がバッグを持ってバスを降りたという記憶すらなかった。
「…………」
ひょっとして、さっきのバスに忘れてきた? 冷静に考えてみると、それしか理由が思い当たらなかった。
「……失敗、失敗」
乾いた笑い声をあげてみるが、空しさが倍増しただけだった。
こんなこと、たとえば祐一さんあたりに知られたらどれほど笑いものにされることか……。
吹き荒ぶ寒風が葉子の金色の長髪を横にはためかせる。なんて冷たい風なんだろう、世知辛い世の中を見事に現している。
……100円くらい、見逃してくれたっていいですのに。
とにもかくにも、葉子は文無しで見知らぬ地に放り出されてしまったわけだった。
まあ、いいです。どうせ目的地も決まっていない私の旅だ、この街にすこしくらい留まったとして、いったい何の問題があるというのでしょうか(ちょっと負け惜しみ)。
いや、むしろこれを機会に自分の目的――探し人を見つけ出すという手もありますね。それどころか、もしかしたら自分がこの街に留まらざるを得なくなったのは、実は必然であり、この場所で自分の目的が果たせるというありがたい神の思し召しなのかもしれません(かなり負け惜しみ)。
と、そのときお腹の虫が鳴った。
葉子は売店でも探そうと思い立ち、すぐに文無しだったことを思い出した。
これでは食べ物どころか、泊まる所すら確保できそうにない。ひょっとして、これも神の思し召し?
……いいです、もう。私、神様なんて信じてませんし。
どうしたものかと、葉子は首をきょろきょろ巡らせた。
なにもなかった。人も家も、このあたりには見当たらない。横に広がる海だけが、その存在を誇示していた。
「…………」
おや。あれは……
と、無人だと思っていたこの場所に、ちょうどよく向こうから歩いてくる男女二人組みを発見した。背格好から見て、どちらも小学生くらい。
その幼い姉弟らしき二人は、何事か談笑しながら葉子の目の前を通り過ぎていく。
こ、こうなったら、背に腹はかえられません……。葉子は一大決心し、姉弟に近づいた。
「あの、そこのお嬢さんとお坊ちゃん」
呼びかけると、姉弟の顔が同時にこちらに向いた。
「今からお姉さんが、芸を見せてあげますね」
葉子はすうっと息を吸って腕を水平に伸ばし、手の平をバス停の看板に向けた。
「さあ、楽しい劇の始まりです」
どごんどごんどごん!! とバス亭の看板がべこべこにへこみながらひとりでに歩き出し、ぎゅるるるるるるるるる!! とダンスでも踊るようにその場でドリル回転した。
「どうです、すごいでしょう。楽しいでしょう」
二人は顔を真っ青にしたまま硬直していた。
「ね、お嬢さんにお坊ちゃん。お姉さんの芸を見たんですから、払うものがありますよね?」
「うわーん!! この人こわいよーっ!!」
「たかし、無視しないとダメっ!!」
二人は泣きべそをかきながら遠くに駆けていった。
ひょおおおおおぉぉぉぉ……
後には、荒涼とした風が吹くばかりだった。
ほんとう、世知辛い世の中になったものですねえ……。その呟きも風がどこかへ運び去り、首の十字架がちゃりんと物悲しい音を奏でた。
葉子はため息ひとつ、顔を上げた。
その先には閉ざすものなく、水色の空が広がっていた。
冬だというのに、雲のひとつも見当たらない。遮蔽物はなにもない。空と海が、目の高さでふたつに割れている。
……とてつもなく田舎ですね。
陽光が揺らぎ、一羽の鳥がひるがえった。
この田舎町が、私の出発地。
人探しの旅の始まり――――
葉子は歩き出した。