どうやら聴覚が戻ってきているらしい。さきほどからかつかつと、足音が聞こえていたのだ。

 氷上シュンは苦笑いを浮かべる。感覚が戻ってきているのだとしたら、そのうち視覚や、果ては触覚、痛覚まで復帰するのかもしれない。はっきり言ってそれは勘弁して欲しい。ぼろぼろの自分の身体に対しそんな分析をしていると、足音はもうほんのすぐそこまで近づいているのに気づいた。

 シュンは動かなかった。されるがままというやつだ。相手がいったい誰なのか、確認したくても視界はまだ赤と黒で埋め尽くされたままだった。まさに今の自分は、赤子の首をひねるよりも簡単に死ねるだろう。

 足音が、正面でとまっていた。

「あ……」

 声、だろうか。判断できないほど小さな音だったが、次に聞こえた音でシュンはやはり声だったのだと確信した。

「司? 司でしょう……?」

 懐かしい声だと感じた。それから、おや、と思って、ああそうかキミかと理解した。佐祐理からゲーム参加者の名簿を見せてもらったとき、自分は柄にもなく心臓が飛び出るほど驚いたものだった。

 まさか、僕の知人がこのゲームに参加していたとはね。

「司……ケガ、してるんですか? だいじょうぶ、ですか?」

 見ればわかるだろう、大丈夫なわけあるか。しかしシュンは特に苛立ちはしなかった。この目の前の彼女――里村茜の声は動揺と混乱でいっぱいになっていて、正常な判断ができないふうに聞こえたから。

 だから僕は、こう答える。

「司って、誰のことだい」

 自分の口がまだ言葉を綴れたことにいくぶん驚き、まあ喋れるのなら越したことはないかと満足した。相手がさらに動揺したのが雰囲気で察せられる。

 さあ、はやくどこかへ行ってくれ。こんな無様な姿を他人に見せるなど、僕はとてもじゃないが耐えられそうにない。

「え、うそ……司、でしょう?」

「違うと言っている」

「で、でも……」

「うるさい。傷に響く。はやく去れ」

 ゴミでも投げ捨てるように言った。彼女は戸惑ったように、

「……司、変わりましたね」

 知ったふうな口をきいてくる。そんな彼女の態度に、いいかげんうんざりしてきた。

「僕は司じゃない。そう言ったろう。キミは日本語が理解できないわけじゃないだろう。いくら国語の点数があきれるほど悪い――」

 シュンは口を閉ざした。僕はなにを言おうとしているのか。まったく、こんな自分にもうんざりしてきた。

「……わかりました」

 茜がうなずいたのがわかった。やっと静かになる。これで安心して休める。僕にはたくさんの休養が必要なのだ――たとえ、あとわずかしか生きられないのだとしても。

 茜が、うなずきながら自分の隣に腰を落としたのが知れた。

「……おい」

 立ち去るんじゃなかったのか。

「司、じゃなくても構いません。すこしお話していいですか?」

「よくない」

「女の子が、いたんです。昔々のお話です」

 聞けよ、人の話を。シュンは渋面を作って、一方的に話そうとする茜の横顔を見てやろうとして、やっぱり視界は開けず、断念した。

 シュンは吐息をついた。里村茜……か。もう長い間会っていなかった。もう二度と会うことはないだろうと思っていた。

 茜の話は続いている。

「その女の子は、あんまり頭はよくなくて、国語以外のほかの教科も全部苦手で、運動も苦手で、世間のこともまだよくわかっていない、考えがとても幼い女の子だったんです」

 シュンはしっかりと覚えていた。里村茜というひとりの女の子を。そのことは、実は、シュンにとっては驚きだった。僕は彼女の居る現実の世界など捨てたはずだったのに。

「その子には、大好きな男の子がいたんです。いつも一緒に学校行って、いつも一緒に遊んで、お誕生パーティなんかも一緒にやって……その男の子は、女の子の幼なじみだったんです。それで、幼い頃からずっと一緒にいるうちに、いつの間にかその子は、男の子に恋してたんです」

 これも覚えていた。茜は、僕のことが好き。覚えていた。だが、覚えているというだけで、それ以上の感傷はなにも湧かなかった。

「でも……ある日突然、男の子は女の子の前から姿を消しました。ほんとうに、突然でした。お別れの挨拶もなしで、誰にも気づかれることなく、その男の子はいなくなったんです」

「……ひどい男だな」

 シュンが初めて相づちを打つと、茜の話が中断した。それから、静かな時間が流れすぎた。茜は口を開こうとしない。

「どうした。続きは?」

「あ……はい」茜はコホンと咳をして「男の子がいなくなってしまって、女の子は悲しみました。悲しんで悲しんで、そして、納得いかなかったんです……男の子のほうも、女の子のことが好きだと、その女の子は思っていたから……」

 シュンは黙って、徐々に熱っぽく震えてくる茜の声を聞いていた。

「でも女の子は、彼がいなくなってしまっても、やっぱり彼のことが好きだった。彼だって、自分のことが好きだと信じて疑わなかった。なのに……なんででしょうね」

 茜はいったん口を閉ざし、シュンのほうには視線はやらず、迷ったふうにまた続けた。

「なんで、彼は女の子を置いていなくなってしまったんでしょうね……」

「簡単だ」シュンは迷いもせず答える。「その男は、女の子のことが好きじゃなかったからさ」

 沈黙が落ちた。今回はとても長い沈黙だった。お互いになにも言葉を発さず、静かに空気が動いていて、その空間の中でシュンはふと気づいた。部屋全体が、がくがくと揺れていた。シュンの背中で、鋼鉄製の壁に亀裂が走った(僕の触覚が戻ってきたらしい)のが伝わってくる。

「……そうですね」

 依然大きな揺れが続行する最中、茜がゆっくりと立ち上がったのが見えた(ついに僕の視界までが元通りになった)。

 茜の顔は自分と別れた頃の面影を残していたが、髪形が違っていたためか別人にも見えた。いや、もしかしたら、そういうふうに見えたのは茜が変わったせいではなく、自分が変わってしまったせいなのかもしれない。

 茜がふいに手に持っていたピンク色の傘を天に向けて差した。ぱらぱらと、天井から落ちてきていた屑や埃が傘に当たり、横にこぼれ落ちた。

 茜が言った。

「あなたの瞳、私に似ています。人恋しくて、なのに自分から遠ざかって……」

 茜は傘を差したままシュンの隣にまたちょこんと腰を落とした。シュンはされるがまま、呆然とした頭を下に垂らすだけだった。

 僕が、人恋しいだって?

 ふざけるなと言い返したかった。この永遠の世界に長い間たったひとりで居座っていたこの僕が、人恋しい?

 シュンは高笑いをあげたくなった。僕がなぜこの世界にやって来たのか――それが自分の意志だったのか、無理やりだったのか、そうせざるを得ない理由が何かあったのか、僕はすでに覚えていない。

 忘れてしまうほど、たしかに僕はこの世界に長居しすぎた。時間間隔の欠如したこの場所で、僕は一瞬とも永遠ともつかない時を過ごしてきたのだ。

 だから、自分のうちから生まれる感情――好きとか嫌いとか、孤独とか、そんなものはもう僕の中ではあやふやで、キミの言う人恋しいという気持ちが僕にはすでに理解しがたいものになってしまった。

 たしかにそれは、事実だ。

 シュンは軽く苦笑する。でも僕は、キミには悪いけど、人恋しいということだけは絶対にないんだよ。僕は、僕以外の人間と極力接したくはないのだ。僕の心に唯一の残った感情――そう。現実の世界に帰りたくない、という気持ち。この気持ちがあるからこそ、僕は孤独であり続けた。

 僕は現実の世界が怖かった。

 だって、僕はもうどのくらいの時間をここで過ごしたのか、まったくわからないのだ。もし自分のいた世界に帰ったとして、僕のことを覚えている人が誰もいなかったら、僕が知っている人がみんな、僕という人間を忘れてしまっていたらと思うと、ゾッとする。

 それは孤独とは違う。あまりにも耐えがたい拒絶なのだ。

 僕は他人から自分というものを否定されるのだ。僕にとってそれは、死よりも辛い現実だ。

 たとえば、そう、人は死んでしまっても、その死んだ人は親しかった人の思い出に存在できるだろう? 愛する人の心に自分の居場所は、あるだろう? でも、生きていても、誰の心にも自分の居場所がなければ、それは生きていると言えるのか?

 言えやしない。それは死よりもひどい。僕は生きていながら死ぬことになるのだから。

 それはきっと、とても痛くて、辛い。

 自分の身体が潰れてしまうほど、悲しい。

 だから僕は確かめたかった。人の心というものを確かめたかった。人と、そして自分との絆の強さを確かめたかった。この永遠の世界で、キミたちの絆の強さを確かめてみたかった。

 なによりも、その確認を僕は欲していた。

 そして僕は証明して欲しかった。この世界にむりやり連れてこられたキミたちが、それでもちゃんと自分らの居場所に帰っていけるということを知りたかった。そして、誰かに言って欲しかった。僕にもちゃんと自分の居場所があるのだと。

 誰でもいい、その一言だけを、僕は聞きたかった。

 しっかりとこの耳で、ちゃんとした言葉で、待っているだけじゃなくて、はっきりとした態度で、行動で、僕の瞳に映るくらい、不安を打ち消すくらい、そんなふうに確かめられる絆を、僕は――

 シュンはため息をついた。ぱらぱらと、傘の音がシュンの耳を打っていた。

 そうか。どうして自分が今になって視覚や聴覚を取り戻し、こんなふうに彼女と話せたのか、やっとわかった。これは、あれだ。消える寸前の最後のロウソクの火ってやつだ。

 まあ、最後の最後が幼なじみとの会話っていうのは、意外と悪くなかったかもね――

「……キミにひとつ忠告だ。はやくここを出たほうがいい」

 今まで口をつぐんでいたシュンに、茜がよくわからないといった感じで見つめてくる。

「これ以上揺れがひどくなるとエレベーターが稼動しない恐れがある。だから今のうちにエレベーターに乗って、地上に出たほうがいい」

「……あなたは?」

「あいにく、僕は動けなくてね。もう喋るのも辛いんだ」

 シュンは緩慢に瞳を閉じた。再度、全身の感覚が遮断されていくようだった。

「だから、ちょっと、休ませてもらうよ」

 茜が何か言ったようだったが、もうすでに耳は働かなくなっていた。シュンもまた何か話そうとして、やっぱり無理だと悟って、しょうがないので思うだけにした。

 キミが僕のことを好きだと言った、その気持ち、僕も思い出してみたかったな。

 思考すら薄らいでいく中、最後に、幼なじみのよしみというやつで、茜が無事に自分の居場所に帰れるよう、願ってやった。








 彼はもう目を開けなかった。里村茜は、幼なじみだった城島司が以前に自分にしたように、目の前で忽然と消えていくのを、傘を差したまま見守っていた。

 私……フラれたんですよね。そう認識すると、なんとも言い表せない喪失感が押し寄せてきて、同時に肩にのしかかっていた重石がフッと消失したような気がした。

 長かったなあ。私の初恋は、ほんとうに長かった。

 ざーざーと、耳の奥で鳴っていた雨音が消えていた。長い長い私の初恋は、今、ようやく終わったのかもしれなかった。

 傘はもう要らないみたい。茜は手からふわりと傘を飛ばした。ゆらゆらと風に乗るように浮かんで、途中、かつんと壁にぶつかって横になった。

 茜はさっきまで司が座り込んでいた場所をしばらく眺めていたけれど、ふと正面に顔を戻した。その奥にはエレベーターの分厚い扉が鎮座している。

 茜はそこに向かおうとはせず、ふたたび司が居たはずのところに目を戻した。

 エレベーターの電光板は明滅していなかった。電気は通っていない。司がここから出ろと言ったときには、すでにエレベーターは稼動を止めていたのだ。

 私は、いつもそう。浩平には神社に向かえと言われて、司には地上に出ろと言われて、けっきょくどちらとも果たせなかった。私はこんなふうに、いつもいつも不器用だった。

 私……このまま死んじゃうのかな。顎を上向ける。揺れは治まらない。天井は今にも落ちてきそう。瓦礫でぺしゃんこになんかなったら、とっても痛いんだろうな……。

 膝が震えてくる。怖い。身を切り裂くくらいの恐怖が押し寄せてきた。だけど、自分だって、人にこんな思いをさせてきたのだ。たくさんの人の想いを踏みにじってきた自分には、お似合いの最後かもしれなかった。

 茜はなにもかもを放棄してごろんと寝転がろうとして、その前にちらと思い出した。私の武器に胸を撃ちぬかれた、あの金色の髪をした人。あの人は、死の恐怖なんてどこかに追いやったみたいに、最後まで笑っていたのだ。

 茜は片手で握っていた鈴に、きゅっと力を込めた。その上からもうひとつの手を重ね、暴れ回る恐怖を鎮めるように、自分が好きだった男の子のことを一心に考えた。

 目を瞑ると、瞼の裏に長い長い道が見えた気がした。その道のずっと向こう、おぼろな人影が、茜のほうを見て自分を待っているようだった。

 その人影が誰なのか、茜にはまだ、よくわからなかったけれど――

 天井が崩れ始めていた。茜は手の中にある絆をいつまでも感じていたくて、静かにしっかりと鈴をつかんで、最後まで離さなかった。








 相沢祐一はあゆの手を引いて全速力で駆けていた。

 天井から鉄の破片が後から後から降り注ぎ、それを吸い込まないよう口を手で押さえながら、二人は埃の中をひた走る。廊下は微震が続いていて、あゆが足を取られて幾度も転びそうになったが、そのたびに抱え上げるように腕をひっぱって立たせた。

 休んでいる暇はなかった。近いうち、この地下が壊れてしまうのは明白だった。

「ゆ、祐一君、ボクもうだめ……」

「なに言ってんだっ! 食い逃げで鍛えたおまえの足はこんなもんじゃないだろ!」

「食い逃げじゃないもん! ちゃんとあとでお金払ったもんっ!」

 話していると口の中がじゃりじゃりしてくる。視界もかなり悪い、これじゃあ出口がどこにあるか見つけるのは困難かもしれない。

 それでもこのとき、祐一の両目にしっかりと地上への出口が映ったのは、ほんのすこしだけ運がよかったのと、

「……葉子さん?」

 葉子が、金色の長髪を窮屈そうに、天井の小さな亀裂から首をひょいと下に降ろしたおかげだった。二人のすぐ行く手に、たしかに葉子の顔が見えた。葉子の視線が祐一の視線とぶつかった。

 祐一は、葉子が見下ろしてくるところの真下で立ち止まった。あゆが祐一の背中に「むぎゅ」とぶつかる。葉子がすぐさま目線で合図を送り、亀裂に身体を乗り入れてこちらに腕を伸ばしてきた。

天井まではけっこうな高さがあった。祐一はあゆの足元ですばやくしゃがみこみ、

「わ、わわわ……っ!」

 あゆを肩車した。とたん、廊下の揺れにバランスを崩しそうになったが、すこしよろめいただけで済んだ。あゆの体重は驚くほど軽い。

「先にあゆを頼む!」

 葉子の視線が祐一の肩から下に足を垂らして座るあゆの顔に移り、そうすると葉子の目つきがじと目に変わった。どうせまたお人好しとか八方美人とか考えているんだろう。まったくもって大きなお世話だ。

 祐一は肩車したあゆを、葉子のほうへと高く上げた。

「うぐぅ……祐一君のエッチ」

 祐一がつま先立ちでさらにあゆを上に押しやると、葉子がしっかり受け止めてくれたらしく、祐一の両肩が軽くなった。

 葉子が今度は無言で祐一のほうへと手を伸ばした。ここからジャンプすればどうにか届く距離だ。祐一は差し出された手をつかもうとして、すこしためらった。

「ごめん葉子さん。俺、名雪のこと……」

 葉子は祐一の隣に名雪がいないことに気づいたのだろう、悲しそうな顔をして、でも次には瞳を細めて優しい微笑を浮かべていた。それから何か喋ったような気がしたが、その声はか細く、小さくてよく聞き取れなかった。

 葉子のわずかに開いた唇から、苦しげな呼吸が耳に触れた。

 祐一は下へと伸ばす葉子の腕を今度こそつかもうとして――ようやく、気づいた。天井の壁に開いたところどころの隙間からかすかに覗ける葉子の真っ白だった服装が、今はほとんど赤で染まっていたことを。そして、葉子の指先が、まるで水中に浸しているかのように、空気に溶け込んでいることを。

「は……やく、ゆういち、さん……」

 葉子の呼びかけは以前の流ちょうな口調とはほど遠く、たどたどしかった。祐一は、信じられない気持ちで、だけど吹っ切るように高く飛んで葉子の右手に触れ、握り締めた。震えていた。自分の手と葉子の手、どちらともが。

 身体が勢いよく上に引っ張りあげられる。葉子がもう消えかけているなんてきっと見間違いだったんだと思えるくらい、そこには力がこもっていた。

 地上に出たとたん、頭がくらくらした。そこらじゅうに広がる白が祐一の瞳にまぶしかった。

 雪の覆われた地面の上ではあゆが目に涙を溜めて待っていた。葉子のほうに視線を送っていた。すぐに祐一もそちらを見、「葉子さ――」と声をかけようとして、そのとき葉子はすうっと息を吸って、手の平をこちらに突き出した。

 どんどん、と葉子が不可視の力を二発放った。ものすごい衝撃が身体の前面を襲い、その一瞬後、祐一とあゆは後方に飛ばされていた。そして、なにがなんだかわからないまま飛ばされながら、祐一は見た――葉子が横目でこちらに視線をやっていて、ちょっぴりほほえんで、倒れながら消えたのを。

 二人は雪原をごろごろ転がった。森のほうまで進んで大木にぶつかってやっと止まった。そのとき、ずずず、と雪原全体が沈んだのがわかった。大きな地鳴りとともに粉雪をあたりいっぱいに舞わせながら雪原は地下へと砕け落ち、祐一たちの目の前からなくなっていた。

 そんな光景を認めて、祐一はこのときようやく初めて――顔をくしゃくしゃにして、泣き出した。




                          【残り1人】




  ゲーム終了/勝者及び帰還権利取得者  相沢祐一




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