終幕
長い長い夢を見ていた気がする。
そうやって、いつ来るとも知れない人をずっと待って、ボクは夢の中にいた。ボクは待っていたいからここでずっと待っていた。いろんな思いを巡らせながら、ボクは夢から離れられなかった。
そしてそれは……もう終わりを迎える頃だった。
気づけば、ボクは神社に立っていた。
正面にはこぢんまりした社が建っている。その手前にはこれまたこぢんまりした賽銭箱が据え置かれていた。社の天井から赤と白で括られた縄が降りていて、その先につながっているのは、ボクの持っているこの小さな鈴をたくさん重ね合わせても足りないくらいのとても大きな鈴だった。
これ……神社でお参りするときにからんからんって鳴らすやつだよね。名前、なんていうんだろう。わかんないや。
社の前面に設えられた、古ぼけた両開きの扉は、今は開かれていて、奥まったところに神棚がうすぼんやりと見えた。それら全部が霜でも降りているみたいに白っぽくて、そんな幽霊でも出そうな雰囲気がボクには苦手で、だから隣の祐一君を上目遣いで見つめた。
祐一君はボクのほうを見ていなかった。ボクの傍らで、なにも話そうとはせず棒立ちしている。その顔はなんだかとても辛そうで、今にも泣き出しそうな感じで、見ている自分まで悲しくなってしまう、そんな微笑を貼りつけていた。
祐一君の視線は、ずっと正面を向いていた。でも、祐一君がなにを見ているのか、その先になにを見据えているのか、ボクには見当がつかなかった。
ボクは目線を落とした。そして気づいた、ボクの手の中にあるものが光っていた。駄菓子屋さんにでも置いてありそうなその小さな鈴が、どくんどくんと脈打っていた。祐一君の手の中にある鈴からも、同じようにどくんどくんと鼓動が聞こえていた。
「……帰ろう、あゆ」
祐一君はそう言って、手にある鈴を眼前の賽銭箱に投げ入れようとする。
ボクは当たり前のようにうなずこうとして――だけど、うなずくことができなかった。
「……ごめんね、祐一君」
祐一君が、それでやっとボクのほうを見た。
「ボク、祐一君と一緒には行けない」
祐一君はしばらくなにも応えずボクのほうを見続けて「……なんで」と、かなりの重労働だったみたいにやっと唇を動かした。
ボクの姿を捉える祐一君の瞳がそのとき、見開かれた。
「だってボクのほんとの身体は、ここにはないから……」
ボクの姿は霞んでいた。文字通り、霞んで見えていた。
知っていたことだった。ボクの身体のことは、ずっと前から知っていたことだったんだ。ただボクはすこしでも長く祐一君の側にいたかったから、このことを言えずにいた。
でも、もう、そろそろ限界みたいだった。
「だから、これ、ボクにはいらない」
鈴をちりんと鳴らしてそう告げて、ボクは社の階段を一歩一歩静かに登って、奥の神棚に自分の鈴をそっと納めた。
「ね、祐一君」
祐一君のほうに振り返る。階段を登っているぶん、ボクの背が高くなって、ちょうど祐一君と視線の高さが同じになっていた。
手をほんのすこし前に出せば触れられる距離に、祐一君はいる。
「これから先、この世界を訪れた人に――ううん、この世界には、まだ、誰か生きてるかもしれないから……。だからこれは、その人のぶんだよ」
祐一君はボクを見つめたままなにか言葉を探す素振りをしていて、ふいにズボンの後ろポケットに手を突っ込んだ。そこからなにか――見覚えのあるなにかを、ボクに差し出した。
「……これ、覚えてるか?」
天使の形をした人形だった。たしかに見覚えのあるものだった。遠い遠い昔の思い出の中で、ボクはその人形を見知っていた。
「ほら」
祐一君の声でボクはその人形を見て、また祐一君を見上げて、ためらいがちに人形を受け取った。
祐一君の表情は、やっぱり悲しそうで、辛そうで……。
だからボクは、せいいっぱいの笑みを浮かべて、それからゆっくりとこの人形を抱きしめて、社のほうに身体を戻した。からんからんと紐から伸びる鈴を鳴らした。
瞳を閉じて、お祈りする。
もう一度、祐一君の笑顔が見たいって、これ以上ないくらいのとびきりの笑顔が見たいって、たくさんたくさんお祈りする。
祐一君がボクの隣に立ったのがわかった。
音というものがこの世から消え去ってしまったような、そんな感覚の中で、ボクがさっき鳴らした大きな鈴のような、でもちょっと違う、からんからんという音だけが正面から聞こえていた。転がるような音だった。それから、ちりんと小さく鈴の音が響いた。
祐一君が賽銭箱に鈴を投げ入れたんだと知った。
ボクは一心にお祈りする。
思考が徐々に白に埋め尽くされていく中で、お祈りを続ける。
祐一君のために、ほかの誰かのために、ボクはこれくらいのことしかできないかもしれないけど、でも、どんな些細なことでも、ボクはやりたかった。
そう、ボクはまだ夢の中にいたから。
だからボクは、そろそろ歩き出さなきゃならなかった。
歩き出さなきゃ――ううん、ボクは、歩き出したかった。
みんなと一緒に前に進みたかった。
さまざまな想いを抱えて、さまざまな場所へと行き交う人々を遠くから見ているだけなのは、なんだか不安で、いてもたってもいられなくて、身体の奥が熱くて熱くて、苦しくて、涙が出ちゃいそうで……。
だから、もう、待っているのは、おしまい。
ボクは閉じていた瞼を開けた。
そして……視界いっぱいに広がった世界、そこは。
さっきまで自分が居たような真っ白な世界――そんなふうに見える、真っ白な天井だった。
相沢祐一は瞼を開けた。
もやもやする視界の中にまず飛び込んできたものは、慣れ親しんだ色の天井だった。祐一は上体を起こし、いくらか頭を左右に振って、あたりに充満する全身を刺すような冷気にぶるっと震え、もぞもぞと毛布の中に舞い戻った。
ふあぁ。おやすみ……。
全身を突き刺す冷気はしかし、すでに眠気を見事なまでに拭い去ってくれていた。さすがは極寒の地、きっと外では今日も雪が降り積もっていることだろう。
こんな冷凍庫みたいな部屋にいつまでもいられなかった。祐一はあくびをかみ殺してから、寒さを吹き飛ばす勢いでベッドからフローリングの床に降りて、窓にかかったカーテンを開け放った。
気持ちいいくらいの晴天が祐一を出迎えた。そこかしこに積もった銀色の雪、ななめに差し込む朝陽が、冷え切っていた身体をいくぶん和らげてくれる。
そうだ、はやく学校行く準備しないと。祐一は寝ぼけ眼で窓から身を離し、そして部屋を出ようとドアノブに手を伸ばしたところで。
「……は?」
ようやく今のこの状況に疑問を抱いた。
祐一はすぐさまあたりを見回した。検分するように、じっくりと。目についたのは、すっきり整頓された勉強机、がらんがらんに空きまくった本棚、部屋の隅に折り重なる段ボール箱。一瞬、この内装になにか違和感のようなものを感じたが、それよりも問題は別のところにあった。
ここは、どこをどう解釈しても自分の部屋だった。
大問題だった。
俺は――そうだ、俺は孤島にいたはずなのだ。永遠の世界なんていう冗談みたいなところに強制連行されて、殺しあいなんていうバカげたゲームに強制参加させられたのだ。
なのに、俺は、なんでここに戻ってきてるんだ?
そう思うと同時に祐一は部屋から飛び出していた。慣れ親しんだ板張りの廊下をがむしゃらに駆けて、そのとき前を通りかかった部屋のドアが開け放たれた。
「……うにゅ」
水瀬名雪が、いつものパジャマ姿で廊下に出てくるところだった。
「おはよ〜ございます〜」
寝ぼけているのか、糸目になって酔っぱらいみたく千鳥足でふらふらと廊下をさまよう名雪を前にしたとき、祐一の頭の中は弾けたように真っ白になった。
俺は……幻覚でも見ているのか?
祐一は、心臓がばくばく鳴るのを感じて、呼吸するのも忘れて、信じられない気持ちでふらふらと名雪の側に近寄って――
「……名雪」
掻き抱くように名雪の背中へ腕を回し、自分の胸に引き寄せた。そこから伝わってくる体温には、幻覚なんかじゃない、たしかな温かみがあった。
「おまえ、どうして……」
そこから先は言葉にならなかった。あの薄暗い地下室で倒れ、動かなくなって消えていく名雪と、そして今の、しっかりとした息遣いが聞こえてくるこの名雪の姿がダブって見え、祐一の腕に込められる力がぐっと強くなった。
すると、名雪の糸目がようやくぱちっと開き「え……あれ?」それからきょろきょろ首を回してそのうちに視線が上を向き「ゆ、祐一?」今のこの現状を認識した矢先にぼんっと顔を赤くして「なななななんで……」瞳をくるくる回して祐一の腕の中であたふたと挙動不審に陥っていたのだが、祐一はそんなこと気づきもしなかった。
ただひとつ、名雪の身体から感じられるぬくもりだけが、祐一のすべてになった。
「……で、だ。名雪」
「うん……」
「いろいろ尋ねたいことがあるんだけど」
「うん……」
「名雪、俺の話聞いてるか?」
「うん……」
だめだ。俺の声は名雪の耳にまったく届いていない。
名雪はかわいそうなくらい頬を真っ赤に染めてうつむいていた。祐一はオッホンとこれ見よがしに咳をして、それでも名雪は顔をあげようとはせず、さてこれからどうしたものかと祐一はダイニングに視線をさまよわせる。
あれから、ついには涙目になってしくしく泣き出した名雪をどうにかなだめて、祐一は階段を降りて一階のダイニングに入った。今はテーブルの席についている。
正面で同じく席に座った名雪が、ちらちらとこちらを上目遣いで窺っていたのに気づいた。が、視線が合うとさっと逃げるように顔を背けた。
……頼むから、そんな態度取らないでくれ。こっちまで照れる。
だが、名雪はさっきまでの挙動不審からようやく話を聞けるまでに回復したようだったので、祐一は思いきって尋ねてみた。
「名雪。おまえ、なんでここにいるんだ?」
「どういう意味だよ……」
とたんに名雪が情けない顔をした。
「わたし、ここにいちゃいけないんだ……」
今度は悲しそうな顔になった。
「い、いや、そうじゃなくてだな。おまえ、あの島でさ、銃に撃たれて……」
この先を説明するのは辛かった。今もなお鮮明に残っているのだ、あのときの、唐突に聞こえたぱんと乾いた音と、そして、ゆっくりと傾いだ名雪の身体と――
「島ってなに?」
名雪が首をかしげながら言ったその言葉で、祐一の意識が現実にひっぱられた。
祐一は自分の説明がいけなかったのかと思い直し、
「……いや、あれだよ、俺たちがむりやりやらされたゲームで、さ」
「? ゲームって?」
名雪がますますうろんげな表情を作った。祐一もまた眉間にしわを寄せた。
どうしたんだろう、名雪はとぼけているんだろうか。それとも思い出したくない? 答え辛いのだろうか。いや、それとも、銃で撃たれたショックで思い出せないとか……
と、ここまで考えて、祐一は自分の間抜けかげんに呆れを通り越して泣きたくなった。そうだ、名雪は銃で撃たれたのだ。なのになんで俺の目の前にいる名雪はこんなにぴんぴんしているんだ?
一瞬、祐一の頭に、ひょっとして自分のほうが勘違いしているんじゃないかと懸念がよぎった。たとえば今まで起きてきた出来事は実はすべて夢で、島に連行されたのもゲームを強要されたのも、ぜんぶ自分が寝ている夜の間に夢の中で行われた架空の出来事だったのではないかと。
……そうだったら、どんなにいいだろう。
祐一には、これまでの出来事が現実ではなかったなどと、そんなふうにはとてもじゃないが割り切れなかった。夢だったならどんなに良いだろう、しかし自分にはこれまでの出来事が夢だと思い込めるほど記憶が曖昧、というわけでもなかった。
あの島でのゲームは、夢の一言で片付けるにはあまりにも重すぎた。島で出会ったさまざまな人の死が、今でも祐一の心の奥底に根付いていた。
「あら、二人とも早いのね」
ふいに声が割って入った。水瀬秋子がほおに手を当てていつもの微笑を浮かべ、ダイニングに入ってきたところだった。
祐一は秋子のそのほほえみ顔を茫然と見つめた。秋子さんも、名雪と同じ、無事だったんだ……。
「すぐに朝ごはん作るわね」
そう告げてキッチンのほうに足を運ぶ秋子に、
「わたし、手伝うよ」
名雪が続いて席から立とうとし、そのとき顔をしかめてテーブルに手をついた。
「あれ、わたし……なんでケガなんかしてるんだろ」
名雪は自分の右足をさすり、うーんと何度も唸っていた。祐一はがたんと椅子を蹴り上げる勢いで立ち上がり、テーブル越しに名雪の足のふくらはぎを見た――うっすらと線の跡が残る、もう治りかけのその傷は、紛れもなくあの島で負った傷だった。
「ゆ、祐一……そんなに見ないでよ」
名雪は照れたようにサッと足を引いて、そのままキッチンへ向かおうとした。祐一はぐっと喉に力を入れて、
「な、なあ、名雪。おまえ、覚えてないのか?」
祐一がどうにか発した言葉に、やっぱり名雪は首をかしげていた。そのうちにゆっくりとこちらに寄り添ってきた。
「祐一、どうしたの? なんか辛そうだけど……」
すぐに名雪から顔を背けた。……俺はどんな顔をしていたんだ、まったく。祐一の胸中に後悔が湧いた。名雪が無事だったのなら、それでいいじゃないか。あんなこと、わざわざ覚えていなくたっていい。
こちらを心配げに覗き込んでくる名雪から身を離し、祐一は照れ隠しに言う。
「そ、そうだ。そろそろ学校行く時間じゃないか?」
名雪が、ぽかんとした顔で答える。
「まだ学校、始まってないよ」
「……そっか。今日は時間、余裕あるのか」祐一は壁の時計を探しながら「でも朝ゆっくりしてから登校できるなんて、初めてじゃないか?」
意地悪っぽく言うと、名雪はますます怪訝な顔をした。
「……祐一、寝ぼけてるの?」
「そりゃおまえのほうだろ。年中寝ぼけてるし」
「ひどいよ……」
名雪は口をとがらせて「でも、寝ぼけてるのは祐一のほうだよ」と非難がましく言ってから、壁にかかっていたカレンダーを指で示した。
「だってまだ冬休みだもん」
祐一は家中を駆けずり回った。名雪の言うとおり、たしかにリビングに置いてある新聞、テレビ、日付時計のどれを見ても、今日という日は冬休みだった。
そんなバカな。祐一は焦りに任せて髪をかきむしった。
自分の記憶ではすでに二月を過ぎて、転入した学校にもだいぶ慣れていたはずなのに。だというのに、今日の日付はまだ一月、それも、この街を訪れてまだ一度しか日が経っていない、引っ越し当日の翌日だった。
祐一は二階に位置する自室に入っていった。そして愕然とした。今になって、朝起きたときの違和感の正体がようやく判明した。
この部屋には、生活臭が皆無だった。勉強机はきれいさっぱり、本棚はがらがら、部屋の隅にはこれでもかと言うくらい乱雑に積み重なった段ボール箱。
それら全て、自分がこの家に居候を始めて間もなかったことを証明していた。
いったいなにがどうなっているんだ。俺はたしかにこの家で、一ヶ月以上を過ごしてきたはずなのに。その一ヶ月には、日記のネタに困らないくらいの、たくさんの出来事があったはずなのに。
祐一は悪夢の中をさまよっている心地で一階に降りた。ダイニングに戻って、テーブルについて朝食を取っている名雪と秋子の二人に息せき切って詰め寄った。これまで一緒に過ごしてきた一ヶ月のことを事細かに、唾を吐く勢いで立て続けに説明した。
けれど、ふたりは、首を横に振るだけで、なにも覚えがないことを示した。名雪と秋子さんと俺と三人で築いた想い出は、どうやら、すべてなかったことになっているようだった。
祐一はもう言葉も出なかった。なんなんだ、これは。まるで自分の記憶だけが未来に置き去りにされている気分だ。
祐一はダイニングから出た。ふらふらと頼りない足取りで玄関の前を通りかかったところで、このまま外に出ようと考えた。
外靴を履いていると、朝食を食べ終えたのか、後ろから秋子が寄ってきた。
「祐一さん、出かけるのならついでに買い物を頼んでいいかしら」
「……あ、はい。構いませんけど」
「ありがとうございます。お米を二袋お願いしますね」
秋子は言って、財布を手渡してきた。拒む理由もなく(米袋二つはかなりキツイが)受け取ると、財布についていた小さな鈴が揺れて綺麗な音色を響かせた。
これは、真琴が好きだった鈴だ。でも、この家に、真琴の姿は見つからなかった。以前まで家族のように過ごしてきた、騒がしく悪戯好きの女の子は、ここにはいなかった。
「そういえば祐一さん」
秋子が思いついたように言った。
「ずいぶん前だったと思うんですけど……。私、祐一さんからたとえ死んでも三分くらいで生き返るカップラーメンみたいなキャラだって言われたような気がするんですよ」
言葉とは裏腹の秋子の普段通りの優しげな微笑を見上げ、祐一は絶句していた。言われてみると、そんなようなことを話した覚えがあった(秋子さんの言葉にはかなり脚色が入っている気もするが)。
「よく覚えていないんですけど。祐一さん、覚えてます?」
祐一はもちろんです! と答えようとして、だがこのとき秋子の顔は笑っていたが目が笑っていなかったので、
「……まったく記憶にございません」
そう答えた。
「でも祐一さん、言いましたよね?」
「いえそれは秋子さんの単なる勘違いに他ならないと存じ上げる所存にございますです」
「祐一さん、ジャム食べます?」
かんべんしてください。
祐一は逃げるように家を飛び出し、けれどその顔には決意めいた光が帯びていた。
あの島――永遠の世界での出来事は、やはり、夢などでは決してなく、現実にあった出来事だったのだ。
空には澄みきった水色が広がっている。朝起きたときに部屋の窓から認めた通り、今日の天気は快晴、そして道路や住宅の屋根には陽光を乱反射する雪が絨毯のように敷き詰められている。寒さは尋常ではない。
祐一は雪道に足跡を残しながら、学校へとひた走っていた。名雪と一緒に何度も通った、自分の転入先だった学校だ。
そこに向かう理由はひとつ、倉田佐祐理を探すためだった。佐祐理さんが無事にまだ生きているのかとか、会えたとして名雪と秋子さんのように何も覚えていないんじゃないかとか、そういうことは考えないようにしていた。
とにかく、彼女には出会わなければならなかった。出会って、問いたださなければならない。いま自分の身に起きているすべての事柄を。彼女は、自分らが放り込まれたゲームの主催者なのだから。
通学路を進んでいると、見知った女の子が向こう側から歩いてくるのが視界の隅に入った。
あれは……。
祐一は立ち止まった。心臓が高鳴っていた。期待を溢れさせて正面を凝視した。
女の子はもうほんのすぐそこまで歩いてきていた。二人の間にゆるやかな寒風が吹き過ぎ、女の子の肩にかかっていたチェック柄のストールが、ふわりと雲のように流れた。
美坂栞は伏せていた顔を心持ち上向け、動けずにいる祐一の顔をちらと見て――それで、目と目があった。祐一は口を開きかけた。涙が出そうになった。おまえ、生きてたのか。よかった。ほんとに、よかった。
栞は立ち止まって、けれど、すぐに視線を前に戻し、祐一の横を通り過ぎていった。栞がこちらを見たときの瞳は、他人を見るときの感情のこもっていないそれだった。
祐一は栞のほうに振り返り、すぐに追いすがろうとして――けっきょく、できなかった。顔を正面に戻した。いやに重く感じる両足を、どうにか前へと突き動かした。
追いかけていって声をかけたい衝動を必死に堪え、祐一は行く先を目指した。
学校に到着した。
ここは静かだった。校門のあたりも向こうに覗ける雪の積もった中庭も、人っ子ひとり見当たらない。教室にも電気はついていないようだった。授業はどこもやっていないのだろう、冬休み中というのは間違いないらしい。
祐一は思案した。俺は佐祐理さんの住所も電話番号も知らない。だから居場所を知れる唯一の手がかりは、この学校しかないのだ。しかし、誰かに佐祐理さんのことを尋ねたくても、ここには生徒も先生の姿もない。閉ざされていた校門をよじ登って校舎のほうに寄ってみたが、昇降口には鍵がかかっていた。
こんなふうに祐一が学校の周辺をうろうろしていると、横手に続く道路の先にとんでもないものを発見した。
な、なんだあれは……。
遠目からでも見分けられる巨大な物体がそこにいた。茶色の毛並みがふかふかしていて、細長い顔の先からひょろ長い舌がぶらんと垂れている。ぬいぐるみらしかった。たぶん動物のぬいぐるみなのだろうが……アリクイ、か? 疑問系になるほど悪趣味なぬいぐるみだ。
どうやらそのアリクイのぬいぐるみは商店街のほうへ向かっているようだった。祐一は追いかけることにした。どうにも気になってしょうがなかった(当たり前だ、ぬいぐるみが歩いているんだから)。それに、秋子さんに買い物を頼まれていたのだ。
相手の歩調は遅い。だから簡単に追いつけた。相手との距離が近くなって、祐一はようやく実はぬいぐるみが勝手に動き出していたのではなく、誰かが背負って歩いていたのだと知った。
ぬいぐるみの行く手をぐるっと先回りしたとき、祐一は思わず息を詰まらせた。
「……?」
行く先を遮るようにして立つ祐一を無愛想な顔で見つめる女の子――川澄舞だった。
「……なに?」
舞が、いつもの調子で短く訊いてきた。途端に祐一の頭にさまざまな想いが渦巻いた。ああ、そうだよな。佐祐理さんは舞が死んだとか言ってたけど、そんなわけないよな。佐祐理さんのたちの悪い冗談だったんだよな。夜の学校で、あんなに強かったおまえが、簡単にやられるわけないもんな。
舞がこちらに向ける視線は、さっき出会った栞と同じ性質のものだったが、祐一はそんなこともお構いなしに思考をぐるぐる回していた。
それから祐一は、長い時間をかけて気持ちを落ち着かせ、「……佐祐理さんは?」と小さく尋ねた。
舞の仏頂面は変わらなかった。祐一は一呼吸おいて、続けた。
「なあ、舞。佐祐理さんがどこにいるか知らないか?」
今度ははっきりと口にした。すると舞はやっぱり表情をこれっぽっちも変えないで、
「さゆりって、誰?」
と、言った。
「……おいおい」
舞も冗談がうまくなったなあ。やっぱり佐祐理さんの影響か? 祐一は苦笑して、
「いや、俺さ、急いでるんだ。佐祐理さんに用があるんだよ」
「そんな人知らない」
舞の語気が強くなった。視線が鋭くなり、祐一の顔をしばらく睨みあげてから、相手にしてられないとばかり脇を通り抜けようとする。
「……舞!」
祐一は叫んだ。心の奥底から突きあがってくる不安を消し潰しながら、祐一はもう一度声を強くして言った。
「ほら、佐祐理さんだよ! おまえの親友のっ!」
「知らない。そんな名前の子、聞いたことない」
舞はさっさと先に行こうとする。祐一は脱力しそうになって、あわてて舞の前に回りこんだ。懇願するように言う。
「い、いや。待ってくれよ」
「待たない。用事があるから」
舞が背中で担いでいるぬいぐるみを横目で見る。
「これ、返してこないと」
また舞が祐一の横を抜けようとしたので、祐一はどうにか引きとめようとして、
「そ、そのぬいぐるみ、なんなんだ?」
そんなことを聞いた。
「知らない。今日の朝、私の家に届いた」
舞はどうでもいいことのように続けて、
「誕生日プレゼントらしいけど。でも、私の誕生日はずっと先。たぶん間違って配達されたんだと思う」
だからこれ、運送屋さんに返してくる。そう付け足して、舞は今度こそ商店街のほうへ足を進めた。祐一は追えなかった。ある考えが、祐一の動きを止めていた。
もしかして、そのぬいぐるみって……。
記憶の端にひっかかる、佐祐理さんのあの言葉。いつだったかの放課後、見るからにあやしげな店に入って、舞の誕生日プレゼントはこれに決まりですーと、優しい瞳でアリクイのぬいぐるみを眺めながら、佐祐理さんは満面に笑顔をたたえていた。
ああ、そうか。そういうことなのか。遠ざかる舞の背中をぼんやり眺めて、祐一はこのとき、本当の意味で今のこの現実を理解した。
時間が逆行でもしたように今日という日が冬休みになっていること。真琴が家にいないこと。名雪や栞、舞が、これまで一緒に過ごしてきた日々を覚えていないこと。
そして、佐祐理さんの存在が、みんなの記憶から消えてしまったこと――
祐一は商店街をぶらついていた。活気溢れる、とは言い難いまばらな人通りの中を当てもなくさまよって、どのくらいの時間こうしていただろうか。
頭上を見あげると嫌味なくらいの晴天は相変わらずで、太陽の高さからたぶん昼近くだというのがわかる。
祐一はポケットに手を突っ込んで身震いした。風は強くはないが、痛みを伴う冷たさは健在だ。けれども、いいかげん家に戻ろう、とは思わなかった。このわけのわからない現状が、祐一の足を引き返そうとさせない。
……こんなとき、葉子さんがいてくれたらな。
葉子だったら、いつものあの偉そうな口調と態度で、こんな理解不能な状況すら打破してくれる気がしていた。会いたい。すぐにでも葉子さんに会いたい、葉子さんは今どこにいるんだろう。死んでないよな? そんなわけないよな?
祐一はやみくもに商店街を走り出した。鹿沼葉子という存在が、初めて出会ってからわずか数日しか経っていないにもかかわらず、自分の中でとても大きな位置を占めていたのだと驚きながら。
ぜったいに――そう、ぜったいに生きているはずなんだ。名雪たちがそうであったように、あの島で出会ったみんな、俺の目の前で消えてしまった観鈴や目つきの悪い男、三つ編みの女の子だって、きっとどこかにいるはずなんだ。
みんながちゃんと生きている――そう思うだけでも、祐一の心は躍った。これ以上、なにも望むことなんてないと考えた。けれど、それと同時に、なにかしこりのように心の奥底に澱む暗い感情も、たしかに祐一の中にあった。
みんながどこかで生きているとして、俺は、またみんなに出会えるのだろうか。みんなは、これまでのことを忘れてやしないだろうか。みんな――葉子さんは、俺のことをちゃんと覚えていてくれるのだろうか。
もしも、俺たちがもう他人同士になってしまったのだとしたら、たとえみんながこの現実のどこかで生きているのだとしても、それは、あまりにも……。
祐一は駆けていた足を止め、顔を振り仰ぎ、真っ白な息を大きく空に向かって吐き出した。
俺は、高望みしているのか? 家に帰れば名雪も秋子さんもちゃんと側にいて、学校に行けば香里をはじめクラスメイトとまたバカやって遊んだりできる。きっと、以前からそうであったように、ふたたび俺の日常は平穏に過ぎていくのだ。
なのに、俺は今、自分という存在が、この現実という名の世界から取り残されたような感覚に陥っていた。
祐一は膝に手をついて首を垂らし、しばらくそうやっていた。歩道脇に張り巡らされたショーウィンドーに目をやるわけでもなく、ただじっとしているだけの祐一を、怪訝な顔をして通行人が通り過ぎていく。
祐一は思いを巡らせていた。
なあ、これが、佐祐理さんの望んでいたことなのか? 佐祐理さんの言っていた望みって、これなのか?
あのとき佐祐理さんが口にした、願いをかなえる、という言葉。
これが、佐祐理さんの願いだったのか?
俺たちの出会いも、一緒に過ごして来た日々も。
朝、名雪を起こすのに苦労して。
昼休み、栞と中庭でバニラアイス食って。
放課後、真琴にマンガ買ってきてやって。
夜、舞と一緒に学校で魔物と戦って。
なあ、佐祐理さん。それら全部なかったことにして、みんなの想い出も、佐祐理さんの想い出も、もう、どこにもなくなってしまって……。
これが、佐祐理さんが望んでいたことなのか?
祐一はたまらなくなった。全身の力がこそげ落ちていくようだった。
なあ、佐祐理さん。これじゃあ、あまりにも、寂しすぎるじゃないか……。
祐一は顔をあげた。……いいかげん、帰ろうか。いつまでもこうしていたって、しょうがない。ひとりきりでこんなところにいたって、もう、どうにもならない。
祐一は来た道を引き返そうと身をひるがえし、すると、ちょうどよく自分の視界に入ったものに驚いて、雪で滑って転びそうになった。
真っ白な雪の敷かれた歩道の先に、とんでもないものを発見した。
祐一の視線の先で、学校前で見た、あの巨大なアリクイのぬいぐるみが歩いていた。
祐一はあっけに取られた。ややあって、ぬいぐるみがこちらからすこしずつ遠ざかっていくのに気づくや否や、全速力で追いかけた。この方角は学校のほうだ。どうやら相手は自分と同じ、来た道を引き返そうとしているようだった。
祐一は荒く息をつきながらぬいぐるみの前に回り込んだ。どこをどう見ても悪趣味だろうそのぬいぐるみを担いでいた女の子――舞が、さきほど出会ったときと同様な仏頂面で、祐一の顔に視線を投げつけた。
「あ、あのさ」
ぜえぜえと荒かった呼吸をどうにか整え、祐一は搾り出すようにして言った。
「それ、返したんじゃなかったのか?」
舞はしばらく立ち止まったまま、いくぶん迷う素振りを見せて、
「……やめた」
そう、口にした。
「これ、あったかいから。だから、大事にする」
そのとき舞が、ほんのかすかだったけれど頬をほころばせたような気がして、祐一はなにも考えられなくなった。
舞がゆっくりと祐一の横を通ろうとする。祐一は待てよ、とも、またな、とも告げることはできなかった。できなかったけれど、祐一の心にはこのとき、たしかに、小さな明かりが灯っていた。
頭の中にずっとわだかまっていた暗い気持ちが、光に照らされた闇のようにすうっと引いていった。
それで、歩道脇のショーウィンドーに並ぶテレビから、祐一の耳に、その言葉はすんなりと陽光のように差し込んできた。
――それは、なにかの予感だったのかもしれない。
「今朝方、七年前から昏睡状態だった月宮あゆさんが目を覚ましたと報道がありました。これについて病院関係者は――」
<完>