薄闇が靄のように覆い被さる廊下を里村茜は無言で延々と歩き進み、すると行き止まりに着いた。瓦礫やら何やらが積み重なっていて、ここは実はエレベーターがあった場所なのだが、そんなことを知る由もない茜は来た道を戻ろうと身を返した。
そういえばさっき、廊下の壁に扉を見かけていた。そこに寄ってみよう。茜は歩き始める。この廊下が何のために設けられたものなのか思い巡らせることもなく(プレハブ小屋が建っていた場所の地下、というのだけはさすがにわかりますが)、茜はただ唯一の目的に向かって足を前に突き動かす。
この地下のどこかに司がいるかもしれない。いや、必ずいるはずだ。島全土で探し回っても司は見つけられなかった。でも、ここはまだ探していない。きっと自分が探していない場所といったら、もうここくらいしかないだろう。
そう思って茜は胸に期待を抱き、だけど、それは以前に比べていやに小さい期待のような感じがした。あまり、嬉しさとか心躍るとか、そういった感情が湧いてこない。
いつからこうなっちゃったんだろう? なんでだろうどうしてだろうと自分に問いかけてみても、理由は見つからない。
私、司にあんなに会いたがっていたはずなのに……。
茜はだから、考えるのをやめた。そしてこのとき、なぜだか浩平の顔が頭に浮かんでいたのだが、その理由も、茜は考え悩もうとして途中でやめた。
茜は吹っ切るように歩調を早くし、地震のために(地震? それとも地下が崩れようとしている? だとしたらたぶん、ラビット鈴木が暴れたせいでしょうか)足を取られて転びそうになったが、壁に手をついて難を逃れた。胸に手を当てて安堵したそのとき、行く手に人影が見えた。
人影は、壁に設置された扉から出てきたようだった。茜がこれから寄ろうと考えていた部屋の扉からだ。
瞳を凝らすと、男と女の二人組みだとわかった。女の子のほうは羽のついたリュックを背負っていた。男のほうは制服姿の中肉中背で、私服を着ている女の子の背が格段に低いため、並んで立っていると兄妹のように見える。
男のほうの視線がこちらに向き、それで茜はこの島で何度か出会ったことのある生徒なのだと知った。
「……おまえ」
男のほうが口を開いた。いきなりおまえ呼ばわりするその不躾でつっけんどんな口調が、ちょっとだけ浩平と重なった。
「葉子さんはどうした?」
強い語調で尋ねてきた。言葉の内容は簡潔で、しかもその名前に茜は聞き覚えがなかったのだが、さっきまで自分と戦っていたあの超能力を使う女の人だろうと簡単に予測はついた。
茜は立ち止まったまま答えようかどうしようかと逡巡して、
「……上にいます」
とだけ答えた。彼はその答えに満足しなかったのか、いぶかしげな顔をして睨んできたが、それだけだった。羽リュックの女の子を連れて自分とは反対方向へと歩き始める。地上に出るのだろう。だが、上の出口まではかなりの高さがあるから難しいだろう。私も降りるのに苦労しましたし。
羽リュックの女の子のほうはといえば、茜と男のほうを交互にうかがってから、けっきょく口をつぐんだまま目線を男の背中に戻した。
茜もまた歩を進めた。扉の前に立ち、中に入ろうとしたところで、
「ちょっといいか」
また呼び止められた。男が、立ち止まってこちらを見つめていた。
「あんたは、なんで人を殺すんだ?」
前触れもなく訊いてきた。
……ほんとうに、不躾な人ですね。
茜は無視して先を急ごうとしたが、ふと思い直して、頭の中で答えを探って、けっこうな時間を費やしたが「自分のためです」とはっきり答えた。
「……自分のためって、なんだよ」
そう言う彼の表情は苦々しく、理解不能といった様子だった。
だから茜はまた、吟味するように考えて、
「願いを叶えるためです」
と、言い直した。
彼が表情を強張らせた。疲れたふうに肩をいくぶん落とし、長い息を吐き出していた。
「それって、そんなに大切なことなのか? 人を犠牲にしてまで望まなきゃならないもんなのか?」
「…………」
茜は、すぐには答えられなかった。そんな簡単に答えられるはずがない。自分は、まさにそのことで悩んできたのだから。この島に来てからずっと、重石のように茜の肩にのしかかっていたものが、まさにそれなのだ。
だから次のその言葉を口から出すのには、かなりの勇気が必要だった。
「あなたは、なにかを本当に望んだことがないから、そんなことが言えるんです」
茜はもう男のほうを見なかった。扉を押し開けようとして、開かなかったので次に引いてみた。難なく開いた。
部屋と廊下との境目を足の裏で踏んだとき、男は無言で女の子と一緒に立ち去った。
反論もなにもなかったことに茜はホッとため息をついた。それから、自嘲した。
……なにを安心してるんだろ、私。
ざーざーと、耳の奥で鳴るどしゃ降りの雨音がひどくなった。
茜は前に向かっていた身体を後ろに戻し、振り向いた。廊下の奥に目をやるが、すでにふたりの姿は薄闇に隠れて見えなくなっていた。
またため息をついて、茜は今度こそ身体を室内に入り込ませた。
中は廊下よりも暗くて、よく見通せなかった。茜は適当に足を出す。とたん、固いものにぶつかり、手をついた。椅子らしき物体だった。
闇に目が慣れてきた。すると、手をついていた椅子の背もたれに血が転々と付着していて、思わず目を床のほうに背けると、そこにもたくさんの血が落ちていた。
それが人だと気づくのに数秒かかった。誰かが血溜まりに倒れていた。
女の人のようだった。うつ伏せに倒れていたので顔は見えないが、長い髪が床にまばらに垂れている。
……死んでるのかな。
茜は素通りしようとして、正面に電光板が光っているのに気づいた。地下一階のところのマークに明かりがついている。エレベーターらしかった。
茜は倒れた女の子などもはや見向きもせず、エレベーターの扉の前まで直進し、指でボタンを叩いた。扉が開かれ、すぐに中に乗った。
どうやら地下二階には降りられないようなので、茜は地下三階を目指すことにした。
扉が閉まった瞬間、茜の視界の中で、血だまりの上に被さる彼女がぴくりとかすかに動いたような気がしたが、エレベーターは下降しだし、もう確かめる術はなかった。
倉田佐祐理は傷口から流れる大量の失血の中で、半ばまどろみ、夢を見ていた。
天井、壁、ほかそこらじゅうが真っ白な部屋の中央、そこにベッドがぽつんと置かれてある。それで、ああここは病室なんだな、とわかった。何度も嗅いだ薬品の匂い、風に棚引く清潔そうなカーテン、すべてが慣れ親しんだものだった。
ベッドの上では男の子が上体だけ起こして、顔をうつむかせていた。ぶすっとしている横顔、肌は色白で、やせっぽちで、あまり元気というものが感じられない。その隣では、丸椅子に座ったもうひとりの子――ピンクのワンピースを着ていて、髪を後ろで結わった大きなリボンもおそろいのピンク色で、快活そうな感じのする女の子が、しきりに男の子に話しかけていた。
ねえ一弥、お姉ちゃんの言うことちゃんと聞いてる? もっとご飯食べなきゃだめだよ、元気にならなきゃだめだよ、遊んでばかりいないで、勉強もしっかりやって、お父様みたいに立派な大人になるんだよ――
男の子の表情はやっぱりぶすっとしていて、だけど女の子は、そのことに気づいていても、くどくどとお小言みたいな言葉を繰り返して――そんな光景を、自分はどこからか遠くのほうで眺めていた。
バカな女の子。これから近いうちに、あなたはその男の子と別れなきゃならなくなるのに。そしてあなたはそんな自分を悔やんで、なんであのとき優しい言葉をかけなかったんだろう、なんで一緒に遊んであげなかったんだろうと、悔やんで悔やんで、そんなことしても男の子が戻ってくるわけでもないのに、それでも悔やんで、自殺まで計って、そして今の私――佐祐理にみたいになっちゃうのに。
女の子のお小言は続いていた。そのうちに女の子は椅子から立って、バイバイ、とか、じゃあまたね、とか、そんな挨拶もなしにさっさと病室を出ていった。ひとりぽつんと残された男の子は、もういなくなった女の子の背中を追いかけるようにしばらく出入り口の扉を見つめていたけれど、ふと視線がついと横に向けられ、それで佐祐理――夢の中の自分と目があった。
「お姉ちゃん、誰?」
佐祐理は驚いた。それから自分が、今はベッドの側に立っていて、じっと男の子の顔を見つめていたことに気づいた。
「え、えっと、佐祐理はべつに怪しいものじゃ――」
「お姉ちゃん、さゆりって言うんだ」男の子は目と口を丸くして「僕のお姉ちゃんとおんなじ名前だね」
しまった。自分のことを名前で呼ぶ癖がこんなときにも出るなんて。佐祐理はとりあえずあははーっといつもの笑い声を発しながら、
「キミ、お姉ちゃんいるんだ」
「うん」
「お姉ちゃんのこと、好き?」
突然なんてことを聞くんだろう、自分は。けれど後悔先に立たず、男の子はたちまちこちらから視線を逸らし、むっつりした表情を作ってしまった。
「ご、ごめんね。お姉ちゃんなんか好きなわけないよね……」
あせあせと取り繕うように言った。すると男の子はびっくりした顔でこちらを見上げて、
「なんで?」
と、訊いてきた。
「僕、お姉ちゃんのこと好きだよ」
きっぱりとそう言った。
佐祐理はきょとんとして、なにがなんだかわからなくなった。この男の子――一弥が、自分のことを好きなわけなんかないのに。だってお姉ちゃんは、一弥のぶすっとした顔は知っているけど、楽しそうに笑った顔なんて記憶にないんだから。
「……ウソ言っちゃだめだよ」
その佐祐理の言葉に、男の子は怒ったように「ウソじゃないよ」と言って、またさっきと同じ言葉を繰り返す。
「僕、お姉ちゃんのこと好きだよ」
それで、佐祐理の心に黒い影が差し込んだ。
「じゃあ、なんで!」
気づいたら佐祐理は肩をいからせ、声を荒げていた。
「なんで笑ってくれないの! お姉ちゃんと一緒にいるとき、いっつもぶすっとして、つまらなそうな顔して、ぜんぜん楽しくなさそうで……」
言葉尻が弱くなっていた。ああ、なにやってるんだか。本当に自分はバカだ。全部、お姉ちゃんのせいなのに。全部、お姉ちゃんが悪かったのに。一弥はこれっぽっちも悪くないのに。
男の子は、そんな佐祐理にちょっと驚いたように両目を真ん丸くして、すこし経ってから、悲しんだようにうつむいた。
「だって、お姉ちゃんが、笑ってくれないから」
ぽつりと、小さくそう呟いた。
「僕が病気のせいで、お姉ちゃん、笑ってくれなくなっちゃって。それで……」
その続きは口の中でもごもごとかき消されたけれど、それでも佐祐理はひとつ思い当たったことがあった。ああ、そうか。自分が一弥の笑顔を覚えてないのとおんなじで、一弥にもお姉ちゃんが笑ったときの記憶がないんだ。考えてみれば当然のことだった。自分たちは、そういう姉弟だったのだから。
男の子が、ひとり得心いっていた佐祐理を、寂しそうな瞳で見つめていた。
「今のお姉ちゃんとおんなじだね」
――――え?
はっきりと、佐祐理の瞳を見据えて、男の子は口にした。
得心いっていたはずが、その物言いでたちまち佐祐理は混乱の渦に飲み込まれた。なに言ってるの、一弥? お姉ちゃん、こんなに笑ってるじゃない。ほら、よく見てよ、お姉ちゃんはこんなにたくさん笑って、一弥のために、今度こそ一弥の笑顔を見るために、一弥を喜ばそうと、笑顔で迎え入れるために、お姉ちゃんは、たくさんたくさん笑って――
「お姉ちゃん、すっごく辛そうだから。だからね、僕、元気になったらお姉ちゃんのこと守ってあげるんだ」
佐祐理は、頭の中が空っぽになった。
そして――急速に、目の前の光景が遠ざかっていった。米粒のように小さくなっていく夢の中の一弥が、佐祐理の前から消えてしまう瞬間、かすかに、自分に向かってほほえんでくれた気がした。
次に迎えた感覚は、全身を襲う鋭い痛みと、むせ返るような血の匂いだった。自分の意識が管制室の中に帰ってきたのだと知った。
佐祐理は上体を起こそうとして、なかなかうまくいかなかったが、どうにか成功した。それから腕を前に伸ばした。すぐそこに、一弥の水鉄砲があった。指先で探り当て、引き寄せて、軽く握ってみた。
佐祐理は、ふいに制服のポケットから鈴をひっぱり出し、これも軽く握って、そのとき一弥がまた目の前に現れたような気がして――鈴の効果だろうか――そして、一弥に向かって水鉄砲と鈴を一緒に放り渡した。
これ、お姉ちゃんが一弥に持ってきたんだよ。駄菓子屋さんで買ったおもちゃなんだけど。ほら、これで一緒に遊ぼ。
一弥が笑っているのを期待したけれど、その顔は霞んでいて、はっきりと見分ける前にふたたび消えてしまった。
水鉄砲と鈴は、遠くのほうでころんと音を立てて転がった。
佐祐理はふうと息をついて、瞳を伏せて傷ついた自分の姿を見、考えた。
なんで、佐祐理は、最後の最後で迷っちゃったんだろう。お姉ちゃんは、一弥の笑顔が欲しかったはずなのに――と、このとき、佐祐理の頭にぽっと灯火が灯ったかのように、一弥の言葉が思い出された。
『だって、お姉ちゃんが、笑ってくれないから』
「あ……」
佐祐理は、思わず腰を浮かしかけて、足に力が入らなくて、ぺたんと尻餅をついた。
「一弥……」
佐祐理は一弥のために笑おうとして、あははーっと言いそうになって、あれ、なんだか違うなあ……と迷って、そしたら途端にやり方が思い出せなくなって、うまく笑えなくなった。
そうして、ゆっくりと佐祐理はまた身体を横たえた。
ほんと、お姉ちゃんは、だめなお姉ちゃんだったなあ。弟に心配ばかりかけちゃって、ほんと、だめなお姉ちゃんだったなあ……
佐祐理の視界に一弥の姿がまたほのかに映し出されていた。今度は表情がしっかりと描かれていた。こちらを見て笑っていて、ああそうだ、これが一弥の笑顔だったんだと思った。
だけどその隣に自分の笑顔がなかったことに佐祐理は気づいて、そうしたら涙がこぼれてきて、一弥の笑顔は見えなくなった。
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