月宮あゆは手袋つきの右手で祐一の手にそっと触れた。祐一の手は手袋越しからもわかるくらいひんやりしていて、ちょっと震えているように感じた。

「……あゆの手、震えてるぞ」

 祐一がしょうがないなといった感じで口にしたその言葉で、そっかボクも震えてるんだと悟った。どうして自分も震えているのか、納得はできた。だけどそれは、怖い、とか、不安、とかいう理由じゃないように感じた。

 祐一の横顔を見上げた。すこし青ざめている。そして祐一の視線はもうこちらには向いていなくて、ただ正面を見据えていた。

「祐一君……」

 呼んでも、祐一は答えなかった。祐一の手はやっぱりひんやりしていて、横顔はなんだか感情が欠如しているようで――それが、ひどく心配だった。

 ボクが震えてるのは、たぶんそのせい。あゆは祐一から視線を逸らした。これ以上、こんな祐一君を見ていられなかった。

 エレベーターは止まっていた。もうすぐ扉が開く、そう思った途端に開いた。あゆの視界に薄暗い、無機的な部屋の内装が入り込んできた。冷たい、無感情な光景。

 今の祐一の表情に似ていた。

 あゆが立ちすくんでいると、祐一が外に足を出して、すぐにあゆも続いた。

 そして、声が聞こえたのもすぐだった。

「ご苦労様でした、祐一さん」

 天使のようなほほえみを湛えた女の子が、そこに立っていた。








 相沢祐一は声の聞こえたほうに振り向いた。自分のすぐかたわら、もうずいぶんと会っていないような懐かしい顔がそこにある。

 薄ぼんやりした闇の中、静かに立ったその物腰は上品で、にっこり笑って胸の前で手を合わせる仕草も普段どおりで、だから驚くよりも先に、落ち着いた声が口から漏れた。

「……佐祐理さんか。奇遇だな」

 光がほとんど通らないため、佐祐理の姿はそんなにはっきりとは確認できない。だが、肩をケガしているのか、そのあたりにリボンを巻いているのは知れた。

 祐一はとっさにあゆを背に隠した。べつに意図してやったわけではない。ただ、俺は、敏感になっていた。人が傷つくことや、人の死そのものに対して、過敏に反応するようになっていたのだと思う。だからあゆを背中に隠した。

「はい。とっても奇遇ですね」

 言って佐祐理は、いつでもそうであったように、優しいほほえみを投げかけてくる。

 ふと、祐一は、部屋が揺れているような錯覚を覚えた。軽く周囲を見回し、実際に揺れているのだと知った。天井の蛍光灯、椅子や長机、その上のコンピュータ、足裏から感じる床、部屋のあらゆるものが小刻みに振動していた。地震だろうか。

「で、どうしたんだ? こんなところで」

 祐一は泣きたくなった。違うだろう、そうじゃないだろう。世間話じゃないんだぞ。それよりも聞くべきことがたくさんあるだろう。だが今の祐一の頭にはなにも思い浮かばなかった。ゲームのこと、島での出来事、死んでいったみんな――そういったものが、佐祐理を目の前にした今、頭の中で渦巻いて、ぐちゃぐちゃになって、言葉として形作れない。

「あ、あの……祐一君の友達?」

 背中からあゆが聞いてきた。まだ繋がっていた手からは、震えが激しくなって伝ってきた。ちらっと後ろを見ると、「うぐぅ……」と言いそうな表情でこちらを見上げていた。

「まあ、そんなもんだ。昼には一緒に弁当を食べる仲だ」

 答えると、あゆが実際にうぐぅとつぶやいた。

「そうですね。じゃあ今度お昼を一緒するときは、二人きりですね」

 佐祐理がころころと笑い、楽しそうに乗ってくる。

「舞は仲間はずれか。佐祐理さんもけっこう友達甲斐がないな」

「しょうがないですよ。だって舞、もういないんですから」

「…………」

 なんだって? と祐一が聞き返すよりも先に、佐祐理が言った。

「だって舞、もう死んじゃいましたから」

 祐一が生唾を呑みこみ、その佐祐理の言葉を頭の中で反芻し――ぎり、と手に力が入った。祐一に手を強く握られたあゆがびっくりして顔をしかめたが、祐一は気づかない。

「祐一さんは、知ってますか?」

 そんな祐一に頓着した様子もなく、佐祐理は言葉を続けた。

「奇跡というのは、起きるものじゃないんです。起こすものなんです。願いというのは叶うものじゃないんです。叶えるものなんです。希望を抱きながらどんなに辛抱強く我慢しても、夢を見ながらどんなに長い間待っていても、それだけじゃ現実はなにも変わらないんですよ」

 佐祐理の口調は穏やかで、まるで幼子にでも教え諭すようだった。

「奇跡が起こるのを待つ――それってなにもしないのと同じだと思いませんか? だから佐祐理は行動しようと思ったんです。奇跡を起こすため……願いをかなえるために、実際に行動を起こしたんです」

「願いを……かなえる?」

「はい」

「どんな?」

「祐一さんには関係ありません」

 あまりにあっさりした返答に祐一はぽかんとして、だんだんと胸の奥にはどろどろしたものが溜まり、爆発しそうになる寸前でどうにか押し留めた。

「……なあ。前に言ってた佐祐理さんの計画って、それか? 自分の願いをかなえるって」

「はい」

 どんな願いなんだ、と問う代わりに、祐一は違う言葉を吐いた。

「それで、友達が死んでもいいのか? 舞が死んでもいいのか?」

 佐祐理が、しばらく祐一の瞳を覗きこむように見上げて、そしてうなずいた。祐一の全身からは嫌な汗が浮き出ていた。気色悪い。気分が悪い。隣であゆが、口を開けたり閉じたりしながら、辛いものでも見ている視線をよこしてくる。

 祐一は、言葉を選ぶようにして続ける。

「佐祐理さん、あんたさ。自分以外の誰かが死んでも、それでも自分の願いを叶えたいって思うのか?」

「はい」

「栞が死んでも、真琴や香里、天野……。ほかにもたくさんの人が死んでいっても、それでいいって言うのか?」

「はい」

「名雪が死んでも……全部!」

「はい」

「それでいいって言うのかよ!」

「はい」

 祐一は力なく頭を左右に振った。

「なあ……違うんだろ? ほんとは、そうじゃないんだろ?」

 祐一は懇願でもする気持ちで佐祐理に語りかける。

「なにか理由があったんだろ? なにか、どうしようもない理由がさ。誰か悪いやつに脅されてたとかさ……」

「…………」

「なあ。こんな殺しあいなんてふざけたゲーム、佐祐理さんが仕組んだことじゃないんだろ? ほんとはさ、佐祐理さんのせいじゃないんだろ?」

「…………」

「なあ! 違うんだろ! 佐祐理さんが悪いんじゃないんだろっ!」

「…………」

 佐祐理は微笑を浮かべた顔で祐一を見つめたまま、じっと口を閉じていた。

「なんでだよ……。なんで何も言わないんだよ……」

「だって」

 ようやく佐祐理が、ぽつりと言った。

「だって、全部佐祐理が望んでやったことですから。祐一さん、間違ってます。不正解です。誰かに言われたとか、自分のせいじゃないとか、そんなわけないでしょう。これは佐祐理の意志なんです。紛れもない佐祐理の願いなんです。だから、この世界で今まで起きていたこと、それら全部、佐祐理のせいなんですよ」

 ほんのすこし間を置いて、佐祐理は言葉を継ぐ。

「栞さんも名雪さんも、ほかの皆さんも、舞だって、全部、佐祐理が殺したんですよ」

 限界だった。もうこれ以上は耐えられなかった。祐一は佐祐理に一歩、近づいた。

 そのときちりんと、祐一の動きに合わせてズボンのポケットから音がした。澄んだ鈴の音色だった。

 佐祐理が、感心したようにゆっくりとうなずいた。

「祐一さん、鈴を持ってらっしゃるんですね」

 佐祐理が制服の内側から、祐一が持っていたものとうりふたつの鈴を取り出し、手の平の上に乗せた。

「これは、鍵なんです。キュレイシンドロームを解放するための鍵、そしてもうひとつ、自分の居場所に帰るための道――それを開くための鍵でもあります」

 スッと佐祐理が鈴をしまう。

「この島には神社があります。そこの賽銭箱にこの鈴を投げ入れてお参りすると、参拝者は神隠しに遭います。たどり着く先は自分のお家です。と、これが、ゲームの勝利者に贈るプレゼントだったんです。この永遠の世界に連れてこられた皆さんは、そうやって元の世界に帰れたというわけです。あははーっ、あきれるほど簡単でしょう?」

 佐祐理のそんな楽しげな声はすぐにぴたりとやみ、顔から笑みが立ち消えた。祐一の背中で、あゆがこちらにしがみついたのがわかる。

「でも、まだ、ゲームは終了していない。まだゲームは続行中です」

 佐祐理は制服の内側から、今度は鈴ではなく違うもの――拳銃を取り出した。

「ですから祐一さん、あゆさんを返してもらいますよ」

 祐一が足を前に出し、口を開きかけ、なにか言葉を出そうとするよりも先、佐祐理が静かに腕をあげて銃口を向けてきた。

「キュレイシンドロームによって佐祐理の願いはひとつ叶いました。ですのでもうひとつ、これが最後の願いです。あとは佐祐理が一番に望んでいるその願いを叶えるだけです」

 佐祐理の視線は祐一の後ろ、あゆのほうに注がれていた。祐一はかばうようにあゆの小さな姿を自分の身体で隠そうとする。

 佐祐理が続けた。

「さあ祐一さん、あゆさんを返してください。そしてあゆさん、願ってください。心を込めて、強く想ってください。はやく佐祐理の望みを叶えてください」

 祐一は腰に下げてある剣の柄に手をかけた。あゆを後ろに隠しながらまた一歩、佐祐理に近づいた。

「こちらに来てください、あゆさん。お願いします。じゃないと……」

 佐祐理がゆっくりと銃の引き金に指をかけた。

「佐祐理は、祐一さんを殺しますよ」

 銃口が祐一の顔を捕らえ、あゆがひっと喉を鳴らしたのが知れた。

 祐一は剣を腰から引き抜いた。あたりに漂う小さな光を鈍く反射する剣先で、佐祐理の華奢な姿をしっかりと捉えながら、祐一は思った。

 なあ、佐祐理さん。俺はあんたを許せない。あんたが今までやってきた行為、それを簡単に許せるほど俺は人間ができちゃいない。

 お互いが対峙する一瞬のうちに、さらに思った。佐祐理さん、俺はあんたを殺す。あんたの願いがなんなのか、そんなものはもうどうだっていい。あんたがいったいなにを考えていたのか、なにを思い悩んでいたのか、そんなことも、もう、どうだっていい。

 祐一はまた一歩、強く足を踏み込んだ。なあ、佐祐理さん。こんなにも簡単に友達がいなくなってしまって、みんな死んでいって、もうこの島にはほとんど人は残っていない。

 だからさ、佐祐理さん。こんなくだらないゲーム、もう終わりにしたいからさ。もういいかげん、終わらせなきゃいけないからさ。あと一歩踏み込んで腕を伸ばせば、剣先が、佐祐理の胸を貫く。佐祐理の、引き金にかけられた指に力が込められた。

 だからさ、佐祐理さん。俺は、あんたを、殺すよ――

 佐祐理の構えた銃から弾丸が飛び出そうとしたところで、音が聞こえた。それで、祐一の足も止まった。

 ぱん、と乾いた音が、長い尾を引いてあたりに響き渡っていた。

 それは佐祐理が立っているほうからではなく、すぐ真後ろから聞こえていた。

 佐祐理の身体がぐらりと傾いた。佐祐理の手にあった銃から、反動で引き金が引かれたのか、そのときなにかが発射された。発射されたものは床に小さな染みを作っただけで、それとほとんど同時に、佐祐理の身体も前かがみに倒れていく。

 なにが起こったのか、状況が把握できなかった。そうするうちに佐祐理の身体が今、うつ伏せになって倒れこんだ。

 祐一の足元には、佐祐理が握っていた拳銃が転がってきていた。現実味の帯びないぼんやりした頭でその銃を見た、そこには、マジックで書いた下手くそな文字で、名前がつけられていた。

『倉田一弥』

 これは誰の名前だろう。聞いたことがあるような気がする。たしか以前、いつだったかの朝、登校途中に佐祐理さんの口から……

「…………」

 そこまでだった。思い出せそうで、思い出せなかった。頭の片隅がじくじく痛む。胸になにかつっかえているような感じ。

 祐一はのろのろと手を下に伸ばした。銃を拾ってみた。やけに軽かった。いや、本物の銃がどれほどの重さなのかはさっぱりなのだが、これはあまりにも軽すぎるんじゃないだろうか。ぼんやりした頭でそんな思考をしていると、ふいに指先に冷たい感触が走った。

 銃口から水がしたたり落ちていた。床にはさっき発射されたものだろう、小さな水たまりができていた。そう認識した瞬間、祐一は笑い出しそうになった――なんだよこれ、水鉄砲じゃないかよ。

 本物だと思っていた拳銃は、どうやら、ただのおもちゃらしかった。

 それから、今になってようやく祐一の思考が正常に稼動し、状況を把握しようと努め出し、祐一は持っていた銃から目をあげ、倒れる佐祐理を見た。

 佐祐理の長髪が床に扇のように垂れていて、両腕両足は無造作に投げ出されている。そのまま一向に動かない。死んだ、のか? また、手元に視線が落ちた。水鉄砲がそこにある。また、佐祐理のほうを向く。

 祐一は何度か交互に見比べて、それから長い時間が経ったあと、

 背後に振り返った。

 そして見た――あゆが、大きな両の瞳をめいっぱい広げて、がちがちと震えた両手で拳銃を握り締めていて、その銃口がしっかりと正面に向けられていたのを。

「ゆ、祐一君……」

 あゆの声はまるで嗚咽のようで、顔色も唇もすっかり青ざめていた。祐一はあゆに寄り添った。かたかたと揺れる銃身を握ると、あゆはやっと解放されたように銃を握りしめていた手を緩ませた。そのまま銃が床にからんと落ちた。

 あゆの視線の先が、どこか宙をさまよっているように見えた。

「ボ、ボクが、やらなきゃって……。ゆ、祐一君はだめだから、祐一君にやって欲しくないから……で、でも祐一君がやられそうだから、そんなのもっとやだから、だから……ボクが、ボクがやらなきゃって……っ」

「……あゆ」

 祐一はあゆに腕を伸ばし、がくがくと震える肩に手を置いた。

「ボクがやらなきゃ、祐一君が、やっちゃうから……やだから! そんなの絶対いやだからっ!」

「あゆ!」祐一はあゆの背中に腕を回し、力いっぱい抱きしめた。「もう、いいから。もう……」

「う……うわあああああああああああんっ!」

 せきを切ったようにあゆが泣き出し、祐一はそんな涙声をふさぐようにあゆの顔を自分のほうに押し当てた。

「祐一君、祐一君……っ!」

 しゃっくりをあげて泣き続けるあゆを胸にしまい込みながら、祐一は静かに吐息をついた。とたんに、理由はよくわからないけれど、自分の目からも涙がこぼれそうになって、顔を歪ませて必死にこらえた。

 ふたたび佐祐理のほうに首を回した。

 なあ、佐祐理さん。あんた、なんで……。

 地震は依然として続いている。部屋全体が小刻みにブレて見えるようだった。その部屋の中でも天井は一段とぐらぐらしていて、今まさに崩れるんじゃないかと危惧しそうなほどだった。しかし、祐一は、あゆの体温を感じながらこの場をしばらく動かなかった。




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