闇に沈んでいた意識が浮かび上がってくる。氷上シュンの瞼がうっすらと開かれた。
一切の痛覚も感覚すらもなくなった身体を見、今の自分は出来の悪い人形のようだとシュンは思う。空調の音も空気の揺らぎもほとんど感じ取れない。なんにもない空間にひとりぽつんと取り残された感じ。
おびただしい出血のためだろう、視界が半分閉ざされている。それでも自分が首を垂らして壁にもたれかかり、血溜まりの中で座ったような格好を取っていることだけは知れた。
まったく、こんなことになるなんて。計算外もいいところだ。まさか祐一という男が自分に攻撃を仕掛けてくるとは思っていなかったのだ。やつは甘い男だと佐祐理から教えてもらっていたのだが……どうやら連れの女を殺したのがまずかったらしい。
と、そのとき、このなんにもない空間で、わずかだが何かを感じ取れた。
地震のようだった。いや、どちらかと言えばこの地下室自体の震えのようだった。床から、そして壁からその震えはやって来る。
鋼鉄製で強固なはずのこの部屋が崩れようとしているらしい。
とすれば、きっとそれは何度となく起こった地震と、天沢郁未が部屋じゅうを荒らしたこと、そして一番の要因は長森瑞佳のせいだろう。やつが暴れたためだ、くく、おかしな話だ、世界を作った創造主が世界の一部分であるこの場所を破壊するなどと。
まあ、あのときの彼女はそれを望んでいたようだったけど。
こんな調子でシュンは、ぬるま湯につかったようなどろどろの頭の中で、今の自分が唯一可能な行為――思考だけを続ける。
しかし、なんで今さらこの部屋が崩れようとしているのか。これまでは平気だったのに。ひょっとしたら上で誰か暴れているのかもしれない。
なんにしても、はやくこの場を離れなければ――そう考え、身体が動かないことを思い出す。これは由々しき事態だ。
とはいえ、この永遠の世界自体は幸い無事のようだった。月宮あゆは世界維持の役割を全うしてくれたのだ。シュンは月宮あゆの姿を探そうと思って、身体が動かないことをふたたび思い出す。まったく、由々しき問題だ。
まあ、月宮あゆには感謝しよう。世界を助けてくれてありがとう。でもどうせならこの僕も助けてくれ。
シュンは思考を続けるだけ続けて、けっきょく、辿りついた答えはひとつだった。
死にたくない。
その一言に尽きた。死にたくなんかない。だって僕はまだ、自分の目的を果たしていない。これを果たすまでは死ねない。
いや――シュンは首を横に振ろうとして、まったくと言っていいほど首は動かなかったが――とにかく、シュンは否定した。正確には、これは死ではないのだ。この世界に死という概念は存在しない。僕は、消えるだけなのだ。この世界から消える。たぶん、もうちょっとで、消えてしまう。
恐ろしい。それは死よりも恐ろしいことだった。消えた僕の身体、意識、僕という人間を構成するすべてはいったいどこへ行ってしまうのか。
予想はついていた。だからこそ、恐怖する。おそらく僕が向かうだろうその場所は、僕を死よりも辛い目に遭わせるのだ。だから行きたくない。僕は、僕の目的を果たすまで、まだその場所へは向かえない。
だから僕は、まだ、この世界から消えるわけにはいかない。
死にたくない。
嫌だ。
ぜったい嫌だ。
助けて。
誰か、僕を助けて――
そしてシュンの思考はふたたび闇に沈んでいく。
地下室の数十メートル上の地上では、さっきまでとんでもない地鳴りを伴う戦いが行われていたのだが、今は至って静かだった。
鹿沼葉子は全身を包み込む睡魔を打ち消そうと、激しくかぶりを振った。どうも不可視の力を使いすぎたらしい。
葉子の視線の先にはウサギのぬいぐるみ(ラビット鈴木という名前らしいですけど。ふざけた名前です。いったい誰がつけたんでしょう)がその巨体をまっさらな雪原に横たえていた。全身穴だらけで、中身の白い綿がそこかしこから覗けられ、眼の代わりになっている顔の赤いボタンはびよんと飛び出ていて、その痛々しい姿は夢にでも出てきそうなほどで、頼みますから化けて出ないでくださいねと葉子は神様にでも祈りたい気分になる。
その傍らで、茜が傘を差したままぼんやりとウサギのぬいぐるみを見下ろしていた。
「茜さん。もう終わりですか」
せいいっぱいの虚勢で声をかけた。とたんに頭がくらっときた。自分もいっぱいいっぱいなのだ。ただ、周囲ではまだどす黒い霧が漂っていて、あのぬいぐるみにはまだ戦意があるのだろうと葉子は考えていた。内心、かんべんしてくださいと思っているのだが。
茜は傘をゆらりと上げ、スッと降ろした。おそらくウサギのぬいぐるみに対する命令だろうが、当のぬいぐるみはウンともスンとも言わず、ボタンの眼から恨めしげな視線がどことも知れないところに伸びているだけだった。
満身創痍はあちらも同じですね。
けっこうな距離を置いて、葉子は手の平の照準を茜の横顔へと合わせた。今、彼女の持つ傘は開いていない。彼女の体は傘に隠れていない。不可視の力を防ぐことはできない。
葉子は慎重に、正確に目標を捕らえる。彼女は、ここで確実に仕留める。ためらいなどない。彼女はたくさんの生徒を襲い、殺してきた。ためらう理由などどこにもない。
茜の顔が、ゆったりとこちらを向いた。
「私の負けみたいです」
感情のこもっていない声で、また言った。
「ですので、はやく私を殺してください」
葉子は苦々しく顔をしかめた。こちらを見つめる茜の両の瞳はどんな光も宿しておらず、自分らを囲む霧と同じふうに濁っていた。
「……それがあなたの決断だったのですか?」
「はやく殺してください」
葉子は疲れた息を吐き出して、答えた。
「殺す価値もありませんね」
「…………」
茜の表情は動かない。葉子は脱力した。上げていた右腕を降ろしながら、もうそろそろ祐一たちのことを考え始めていた。
拍子抜けです、無駄な時間を食ってしまいました、まったく、こんなことなら最初から祐一さんたちと一緒に佐祐理のところに向かうべきでしたね。
腹立たしい。同時にやるせなくなる。期待を裏切られたような、そんな感じ。
葉子がきびすを返そうとしたところで、茜がまた傘を天にかかげた。すると今度はウサギのぬいぐるみが、鈍い動作ではあるが立ち上がる素振りを見せた。
葉子の目が点になって、次に疑問が頭の中を駆け回る。
倒れていたのは演技だったのだろうか。そう考え、葉子の脳裏にある懸念がよぎった。まさか、あの子……。
葉子は、茜とウサギのぬいぐるみ両方の動きを不安に駆られながら見守った。茜の表情は、さっきからずっと同じ、無感情のまま。
茜の送る視線はどこか遠くに向けられているように感じた。ここではない、遥か遠い場所に。
ウサギのぬいぐるみが完全に立ち上がって、ちぎれかけた前足を茜の頭上に構えたところで、葉子は本当に神に祈りたい気分になった。
このバカ。
小さく毒づき、葉子は茜に向かって駆けた。茜が傘を振り下ろす。ぬいぐるみの前足がまさに茜の無防備な頭頂を目がけて、うなりを上げて振り下ろされた。
葉子は横から茜の身体をかっさらい、そのときには二人の全身はぬいぐるみの前足から伸びる長く太い影によって隠されていた。葉子はそのまま滑りこむように低く飛んだ。かわしきれない。背中にとんでもない衝撃が加わり、茜を抱えたまま葉子は雪煙を上げてごろごろ転がった。
「……くっ」
咄嗟に立ち上がろうとしながら、すぐに周囲を確認した。側で倒れたままの茜の表情はやっぱり変わらないで、いい根性してますねと文句をつけたくなったが、その前に睡魔とあいまって葉子は地に膝をついた。
その瞬間にまた横合いからウサギの前足が叩き込まれた。これはヤバイ、と感じた。今回は完全に不意をつかれたため、受身も取れず葉子は猛烈な勢いで雪原をすべり進んだ。
意識がかき消されそうになる。
「く……はっ」
葉子はうつ伏せに倒れたまま、腕を前に押し出した。向こうでは、ウサギのぬいぐるみが性懲りもなく茜の小さな身体を踏み潰そうとしているところだった。
なんなんですか、この茶番劇は……。
葉子は不可視の力を放った。ぬいぐるみの右足が破裂したように吹き飛んだ。ぬいぐるみがバランスを崩す。今度は左足を目標に空気の弾丸を連続して飛ばし、これもまた破裂させた。
急速に意識が遠くなる。不可視の力はそろそろ打ち止めらしかった。
地響きを立ててウサギのぬいぐるみは背中から倒れ、沈黙した。葉子はふらふらと立ち上がって茜のほうに近寄った。
茜は仰向けで、視線を空にやったまま動かない。葉子は茜の側まで到着した。
「見損ないましたよ……」
腹立たしい。森の中で無気力にうな垂れていたかと思ったら、今度は言うに事欠いて自殺ですか。甘えるのもたいがいにしてくださいよ。
膝を折って茜の顔を見下ろし、そんな文句をぶつけてやろうと思ったとき。
傘を持った茜の手がくいっと持ち上がり、その傘の先っぽを葉子の胸に押し当てた。
「……お人よし」
どん、と傘の先からソイルという名の弾丸が放たれた。葉子の身体が一瞬浮き上がり、背が仰け反り、すぐに降下する。
胸には小さく風穴が開いていた。
葉子の両目がめいっぱいに開かれ、どさりと地に横たわった。茜はむくっと上体を起こし、気だるそうに立ち上がる。遠くのほうで召還獣が出現し、長い時間をかけてのしのしと二人のもとに歩み寄ってきた。
新品同様に生まれ変わったウサギのぬいぐるみ――ラビット鈴木が葉子の様子を窺うように、頭上高くから眺め下ろしていた。
葉子は笑い出したい気分になった。
「まったく……とんでもない武器ですね、それは」
言ってから、葉子もまた事も無げな顔をして起き上がり、眼前の茜を苛立たしく見上げた。茜の無表情に驚きの色が浮かぶ。
「……平気なんですか?」
「そんなわけないでしょう」
はき捨てるように言う。
「痛いですよ。ええ、そりゃもう、死にたいくらいに痛いです。しかも腹立たしいったらないですね。あなたが言った通り、自分のお人よしかげんにうんざりですよ」
「……そのわりに嬉しそうですね」
葉子の頬がひきつった。
今度は葉子が動揺する番だった。そんなわけないでしょう、とそっけなく答えようとして、しかし考えていることとは別の言葉が喉から飛び出した。
「……そう見えるのなら、そうなんでしょうね」
そんな自分自身に驚き、次に葉子は諦めの混じった声で付け加える。
「たぶん、私がこうなったのは、どこかの誰かさんに悪い影響を受けたからですよ」
茜が傘を左右に振った。
それに合わせ、ぬいぐるみが前足を横殴りにしてくる。葉子は苦悶の表情で空気の壁を生成し、がちんと固いもの同士がぶつかる音をさせて防いだ。
はあっ、と葉子は吐息をつく。そこには血が混じっていた。
これが最後の力、ですか。葉子は苦笑する。案外あっけないものでしたね。
「……なんでそんなに落ち着いていられるんです?」
茜がお化けでも見たような口調で言った。葉子は皮肉っぽく笑って応える――その通り、自分は、落ち着いている。
さらに葉子は苦笑いする。自分はおそらく、もう満足に彼女に抵抗できない。胸の傷は深いし(当たり前です。穴開いてるんですから……)、ひどい睡魔には今にも屈しそうで、頭の中が白いもやもやで埋め尽くされている。
だけれど、自分がまだ余裕でいられるのは、きっと、自信があるからだろう。葉子には確信があった。この目の前の子と対照的に、私はいま自分に絶対の自信を持っている。
それは根拠なんてない自信だった。だから笑ってしまうくらいだけれど、葉子は自分が死にはしないと漠然とだが考えていた。
茜が顔を伏せ、上げたときにはつまらなそうな目つきをしていて、傘先を葉子の身体に押し当てた。
葉子は口を開いた。
「あのですね、ひとつ注文があります」
葉子は挑戦的に言葉を継ぐ。
「さっきのように、できればまた心臓を狙ってください。私は普通の身体ではありませんので。なかなか死なないですので。長く苦しむのはごめんしたいですし。でもまあ、もう一度その武器で心臓をやられれば、いくら私でも即死は間違いないとは思うんですけど」
「……イライラします」
ウサギのぬいぐるみが横殴りしてきた。防げなかった。葉子は雪原の上を転がった。凍ってささくれ立った雪が服を裂き、肌に擦り傷を作った。
茜が鈍い歩調で寄ってきて、大の字になって倒れる葉子を上から睨んだように見つめた。傘を振り下ろしてその傘先を葉子の面前に向け、言った。
「あなた、なに考えてるんですか。なんであんな真似したんですか。私を助けて、恩でも売ったつもりですか。自己満足ですか。いったいなに考えてるんですか」
「あなたが決断したように、私も決断しただけです。これが私の答えだからです」
「私を助けることが答えだっていうんですか」
「まあ、そうなりますね」
「それで自分が死んでもいいっていうんですか」
「そうですね。それも私の答えです」
「死ぬことが答えだっていうんですか」
「違います」
葉子は、自分の長髪が脂汗で額や頬に貼りついているのを感じ、瞳をうっすら細めてそれを払った。
はっきりと口にした。
「私は帰るだけですよ。覚えていませんか? このゲームが始まる前、佐祐理が教えてくれたではありませんか。この世界で『死』などない、と」
たしかに佐祐理はそう言っていた。この永遠の世界で死などありえない。世界から姿が消えるだけだと。自分たちゲーム参加者は、死なない殺しあいをけしかけられたのだ。
ただ、同時にこうも言っていた。この世界から消えたとして、自分の居場所に帰れる保障もない、と。
茜は胡散臭そうに眉をひそめていた。それから思い出したのだろう、表情を陰らせて、ため息を吐き出した。
茜が蔑むような視線を投げた。
「そう……ですね。私たちは死なないのかもしれないです」
言葉尻が震えていた。茜の眉がつり上がり、顔がみるみる怒りに染まっていく。
「でも、帰ったとして、どこに帰るかわからないのに。周りみんな、知らない人たちばかりの場所かもしれないのに。自分のことを知っている人……覚えていてくれる人は誰もいないかもしれないのに。それは死と同じじゃないんですか!」
「そうかもしれませんね」
「そ、そうかもって……」
「あなたは自分が信じられないんですね」
葉子はそっと、自分の服の内側に手を突っこんだ。
「これはあなたに返します」
葉子は言って一個の鈴を取り出し、上にぽいっと投げつけた。茜がきょとんとした目でそれを追い、手の平で受け取った。
「その鈴から意志めいたものを感じるんですよ。離れ離れになりたくないという意志、自分の居場所に戻らなきゃいけないという気持ち――それは、以前にあなたから感じた感情と同質のものです」
それは、鈴を持ってあの神社を出たときからだんだんと、そして茜との戦いの最中でようやく確信に至ったことだった。葉子の視界には、そのときから、たしかに『道』が見えていたのだ。
道の先には人の気配があった。あやふやだけれど、たぶんそれは、郁未だった。郁未が死んだと知って、それから自分はたびたび郁未のことを考えるようになって、そのうちに郁未のことが頭から離れなくなって、すると自分の目の前からは、道――綺麗にたとえるなら、それは紡がれる人の繋がり――が自分の瞳に映るようになった。
「これは推測ですが。おそらくその鈴にはプログラムされているんですよ。私たちが帰るべき世界までの道順が。佐祐理たちゲーム主催者はこのプログラムを使って帰る予定だったのでしょう。だからすくなくとも佐祐理と舞の二人分の鈴……もしこのくだらないゲームの勝者に帰還のプレゼントが用意されているなら、三人分の鈴。その分は、この世界に存在する。現に、あなたはその鈴を三つ所持していた」
そこまで一息で言ってからすこし間を置いて、ずきりと傷が痛んだが、かまわず続けた。
「さすがにプログラムの起動方法までは知りませんが。まあ、とにかく、その鈴は私たちにとっての道しるべになるというわけです。それはたぶん『絆の力』とでも言ったほうがピッタリ来るんでしょうけど……ふふ、でも、ちょっと寒いですよね」
私らしくないセリフですね、ほんとうに。私をこんなお人よしに変えてくれて……。葉子は身体を横にする。横顔に当たる冷たい雪の感触が心地良い。
まったく、恨みますよ。祐一さん、名雪さん。
「どうしてそんなこと……」
茜はもう信じられないといった具合に葉子のその姿を見つめている。
「出血大サービスってやつです……これも、ちょっと寒かったですか」
まっさらな雪の上に赤の染みをたくさん作って、葉子が口元をゆがめる。
葉子はまた言葉を続けようとして――血を吐いた。
まだ、だった。まだ言わなきゃいけないことが残っていた。思い通りに動かなくなってきた唇を舌先で濡らし、葉子は必死で口をこじ開けた。
「あなたは、自分をもっと誇りに思うべきです。自分の過去を否定せず、逆に誉めてあげるべきなんです。だってそうじゃないと、過去の自分がかわいそうじゃないですか」
「…………」
「あなたを見ていると昔の郁未を思い出すんですよ。過去の思い出を否定して、嫌な思い出ばかりを否定して。そのうちに自分自身すらも否定するようになって……」
偉そうなことを言っている。じゅうぶん承知だった。自分だって、似たようなものだったのに。
「私は郁未のもとに帰ります。彼女は私が側についていないとだめですから。それに、郁未から借りたままのものがあるんですよ。携帯ゲーム機なんですけど。それを返さなくちゃいけませんから」
「……言ってる意味がわかりません」
茜の手が小刻みに震えていて、澄んだ鈴の音が幾度か鳴った。
「この鈴が必要なんじゃないんですか。さっき自分でそう言ってたじゃないですか。なのに、私に返してしまって、どうやって帰るんですか……」
「なんとかなりますよ」
茜は情けない顔をする。
「なんで、そんな簡単に言えるんですか……」
茜の顔はもう泣きそうなほどゆがんでいる。ああ、泣かないでくださいよ。励ますつもりだったんですけどね。まあ、私も言い方がキツイですから。祐一さんにも何回も注意されましたし。
葉子は小さく息を吸い、言った。
「私は、ぜったいに、郁未のもとに帰ってみせますよ……」
葉子は思い巡らせる。この島に来てからのこと。そして、ちょっぴり心が痛んだ。唯一の心残りといえば、祐一さんと名雪さん、二人に何も言わずにお別れしなきゃならないことでしょうか……。
「だいっ嫌いです。みんなみんな、だいっ嫌い」
茜の泣き顔が葉子のすぐ目の前にある。ぽたぽたと、雫が何度も葉子の頬に降りかかった。葉子はまた、苦笑いする。
「どうせすぐに忘れるんですから。あのときみたいに、司のときみたいに、どうせ誰も覚えていないに決まってるんですから!」
どん、と傘の先から咆哮が上がり、呼応するように葉子の身体が弾み、急激に熱くなった。葉子はしっかりと見た、自分の左胸に弾丸が突き刺さったのを。
葉子はふう、と息をついて、瞼が重かったので逆らわずに目を閉じた。それから、思った。
私は……落ち着いてなんかない。
虚勢だった。全部が全部、虚勢。
自分が死なないという絶対の自信――そう思い込んでいただけ。
怖くないわけがない。
自分は郁未のもとに帰れるのか、帰れないのか、だいいち郁未自身がどこの世界に向かったのかもわからないのに、それでどうやって探し出すのか。
だから、怖くて怖くて、たまらない。心が押し潰されるよう。
でも目の前の彼女にそれを見せたくなかった。今の彼女に自分の弱気な姿を見せるわけにはいかなかった。
なにやってるんでしょうね、私は……。病にでもかかった気分だった。そしてその病は、この上なく重症だ。
ふたつの顔が瞼の裏に浮かんでくる。
祐一さん、名雪さん。できるなら、最後まで一緒にいたかった(ああ、やっぱり私は重症ですね。こんなときでも二人の心配をして……)。
葉子は想い続ける。薄らいでいく意識の中で、恐怖の中で、一心に想う。郁未のこと。そして私の大切な友人たち。祐一さんと名雪さんと、もっとお話したり、冗談を言いあったり、悩みを相談しあったり、一緒に笑って、一緒に悲しんで……ああ、そうだ。祐一さん、名雪さん、私の三人で、団らんというものをやってみたかったなあ……
茜の手から、葉子に向けられていた傘の先が、ためらいがちに引かれた。
そのときにはもう、葉子の意識はなかった。
「なんで、そんなふうに笑っていられるんですか……」
茜は葉子の横顔をしばらくの間、眺め降ろしていた。信じられないものを見る瞳で、葉子の姿が消えてしまうまでずっとそうやっているつもりだった。
だが、けっきょくその時は訪れなかった。葉子は消えなかった。
そういえば彼女は、自分の身体は普通じゃない、と言っていた。彼女の命の火はまだ潰えていないようだ。
そのうちに自分の手にある鈴に視線が移り、茜はつぶやいた。
「司……」
あなたは今、どこにいるんですか? 私のこと、もう、忘れてしまいましたか?
――耳の奥で、ざーざーと雨の音が続いている。
茜は視線を上げた。周囲の霧はもう晴れていた。
と、茜は気づいた。ウサギのぬいぐるみが暴れ回って地盤がゆるんだせいだろう、ふさがれていたはずの地下への穴は、再度その姿をさらしていた。
「浩平……」
もしも、まだ、どこかで生きているなら……。茜はぐっと拳を胸に当てた。あなたは今、どこにいるんですか? 私のこと、まだ、覚えていますか?
恨んでますか? 私のこと、もう、だいっ嫌いですか?
茜は拳を開いて、手の中にあった鈴を眺め、またぎゅっと握った。だいっ嫌いでも、そっちのほうが、いいな。忘れられるより、そっちのほうが、ずっと。
茜はふるふると肩を震わせた。
――どしゃ降りの雨はやまない。
私はけっきょく、この想いを捨てきれない。
私の絆は、まだ、断ち切れていないみたい。
雨が、やんでくれない。
断ち切ろうと思ったのに。もう終わりにしたかったのに。
もう嫌なのに。苦しくて痛いのはもう嫌なのに……。
ぐしぐし泣きながら、茜は地下に降りていった。
【残り3人】