倉田佐祐理は管制室で、自分の席である椅子の背もたれに寄りかかった。静かに息をついて、額の脂汗を指先ですくい取る。銃で撃たれた傷は痛むが、死に至るほどではない。
佐祐理は部屋の奥に佇むエレベーターの扉に視線を送った。
さきほど、祐一と名雪が下に降りていくのを確認した。だから祐一は地下室で月宮あゆに出会うだろう。
そしてきっと、ここに連れてきてくれる。佐祐理のもとにちゃんと連れてきてくれる。地下室にはシュンさんもいますけど、佐祐理は祐一さんを信じてますから。シュンさんなんかには負けないで、祐一さんはあゆさんを奪い返してくれるって、佐祐理はそう信じてますから。
祐一さんは、佐祐理の願いを叶えてくれるため、ぜったいに、あゆさんを佐祐理のもとに届けてくれるって、そう、信じて疑いませんから。
そうして佐祐理は、ゆっくりと瞳を閉じる。一弥の顔、その色白で貧弱そうな表情に秘められたはずの格別の笑みを思い浮かべようと努める。
今はもう霞んでしまった、お姉ちゃんだけに見せてくれるその笑顔を、佐祐理ははっきりと思い出そうとしていた。
名雪がいなくなったところをぽかんとして見つめるあゆの傍らで、相沢祐一は床につけていた腰を浮かせた。
唇をぎこちなく震わせて「名雪……」と呼ぼうとしてうまくできなくて、細い息と一緒にもう一度口を突き動かした。
「お、おい。名雪……?」
もう誰もいなくなったその場所に祐一はのろのろと向かおうとする。今のこの状況が脳に浸透してこない。なんだろう? いったいなにが起こったんだろう? 名雪はどこへ行ったんだ?
「ね、ねえ祐一君。なんで名雪さん、消えちゃったの?」
そんなふうに声を上げるあゆの言葉を耳にして、ようやく祐一の頭に現状を把握する力が戻ってきた。
「消えた……?」
名雪が消えた、だって? 実際に口にすると、祐一の中にもうひとつの疑問が浮かび上がった。そういえば、名雪は、あゆが入っていたあの容器のところから離れていたようだった。なんでだろう。なんで名雪は、俺の隣にいなかったんだろう。なんで俺は、名雪の側にいなかったんだろう。
祐一の、現実味の帯びないぼんやりした頭の中でその疑問がだんだんと膨らんでいく。そうだ、俺は葉子さんに誓ったはずだったんだ。名雪の側を離れないと。だというのに、なぜ俺は、一時でも名雪の存在を忘れて側を離れてしまった?
そのとき祐一の視界の隅にスッと入り込む影があった。
「キミにも死んでもらうよ」
男の声だった。祐一はその方向を緩慢に振り向いた。それと同時だった。さきほど聞いたのと同じ乾いた音が響いて、祐一の胸に大きな衝撃が跳ねた。
肺が圧迫され、そこから伝う振動が脳を急速に揺らし、祐一は視界を霞ませて背中から後ろに倒れた。がちん、と手にあった剣の刀身と後頭部が床に叩きつけられた。
「ゆ、祐一君!」
「おっと。動かないでくれよ」
あゆが祐一の側に駆け寄ろうとしたところで、機材の横に立つ男の手にあるもの――拳銃、だろうか? 頭がくらくらしてよくわからない――をあゆの進行方向に向けた。
あゆの足が止まり、祐一のほうを向いていたあゆの視線が男のほうに移った。
「王子様との再会を邪魔して悪いけど」
男が持っているもの――あれは拳銃だ、間違いない――をあゆのびっくりした顔に合わせた。
「公演時間はとっくに終了してるんだ。だからサヨナラ、お姫様」
男の指がぐっと引き金を絞ろうとしたところで、祐一は一気に上体を跳ね起こした。
「あんたが名雪を撃ったのか……」
痛む頭を、首を振ってどこかに押しやり、祐一は剣を杖代わりに起き上がろうとする。それを見た男の瞳に動揺の色が走った。
「……おかしいな。たしかに心臓を狙ったはずなんだけど」
と、祐一の制服の胸あたりからぽろっと何かが落ちた。床に円を描くように転がって、からんと音を立てて横になる。
どこからどう見てもそれは、やかんのフタだった。
「そういうことか。キミ、運がいいね」
男の銃口がまた、祐一を狙う。あゆがなにか叫んだが、祐一の耳には届かなかった。込み上げてくる激しい感情が周囲の音すべてを遮断していた。
「それじゃあ今度は頭を狙ってあげるよ。サヨナラ王子様」
男が銃の引き金を絞った。宣言どおりその弾丸は正確に祐一の額めがけて突き進んだ。
が、途中で失速し、あらぬ方向へと飛びすさっていく。
男の双眸が見開かれた。
「それは……ディオスの剣か」
両刃の剣を中心に、祐一の周囲から風が巻き上がっていた。男は連続して発砲するが、圧倒的な風力に押し流されて祐一の身体までは届かない。
「答えろよ……あんたが撃ったのか……」
祐一はゆっくりと男のほうへ近寄っていく。風を取り付かせた剣先を男に向けた。男は後ずさりながら発砲する、弾は烈風によってすべて弾かれる。男の顔に焦りが浮かぶ。かち、かち、と銃からはもう弾が出てこなくなる。男が必死の形相で弾倉に弾を詰めて、また撃ち出してくる。
と、このときようやくあゆが祐一の側に駆け寄った。何か言っている。聞こえない。邪魔するなよ、どけ。
「なあ……なんで名雪を殺した」
祐一は剣を横に薙いだ。男との距離はまだだいぶ離れていたが、それでじゅうぶんだった。強風に押され、男は後ろに吹っ飛んだ。側にいた女も飛ばされたようだった。
男が背後の壁に激突し、ずるずると腰を床に沈めた。
「許さねえ……」
祐一はしゃがみ込んだまま自分を見上げてくる男の前に立った。ためらいもなく剣を振った。男の悲鳴が聞こえたような気がして、後ろからも女の悲鳴が聞こえたような気がして、自分の顔になにか赤色の温かいものがひっかかったような気がしたが、祐一はまた剣を振った。
「殺してやる……」
剣を振るいながら、祐一の頭の奥底ではいまだ疑問が暴れ狂っていた。なんで俺は名雪の側を離れたんだろう、なんで俺は名雪を守れなかったんだろう、ごめん葉子さん、俺は約束を破った、誓ったのに、ぜったいに離れないって、そう約束していたのに、大事な約束だったのに、なのに、俺はこんなにもあっさりと破ってしまった。
なんでこうなってしまったんだろう?
祐一の目が下を向く。この男が悪いのか? この、俺の目の前で、全身赤くなってもうぐったりして動かなくなったこいつが、悪い、のか?
祐一は剣を持つ右腕を後ろに引いて、男の喉元に剣先を向け、突き出した。
「やめてよお!」
背中になにかぶつかってきて、剣先は狙いを逸らし壁に突き刺さった。
「やだよ……もうやめてよ……」
女のすすり泣く声が聞こえたような気が――いや、はっきりと、その声が今、ようやく祐一のもとに届いた。
「違うから……祐一君のせいじゃないから……」
祐一の眼がこのときはっきりと正面の男の顔を認め、そいつがもう意識をなくしていることを悟って、祐一はかくんとその場に膝を落とした。
「くそ……」
そうだよ。この男のせいじゃない。名雪が死んだのは、俺のせいなんだよ――
「くそおおおおおおおおおお!」
あゆがまだ何か言っていたが、その言葉はまた、祐一のもとには届かなくなった。
月宮あゆは祐一の側から離れなかった。
祐一は膝を落としたまま顔も上げないで、もしかしたら永遠にこのままなのかもしれないと考えてしまったけれど、それでもあゆは待っていた。祐一のところに自分の声が届くのをずっと待って、それは、かなりの時間が経ったあとにようやく訪れた。
「……あゆ、行くぞ」
そう言って祐一は立ち上がり、この部屋から去ろうとしたとき、あゆは慌ててあとに続いた。たくさんの疑問を抱えたままで。ここはいったい、どこなんだろう。なんでボクこんなところにいるんだろう。ずっと夢を見ていた気もするけど、思い出せない。
あゆはふと、この薄暗い部屋を見回した。やっぱり、名雪の姿は見えない。消えたと思ったのは、やっぱり錯覚じゃない。名雪さんは本当に死んじゃったの? それに、あの、壁のところで倒れている男の人は誰?
ただ、さっき、祐一君がその男の人を殺そうとしていたことはわかって、だから必死になって止めた。悲しかったから。そんなこと祐一君にして欲しくなかったから。
そうしてエレベーターのほうに向かっている途中にあゆは気づいた。視線がついと下に落ちる。床に何か落ちていた。
銃だった。きっとあの男の人が持っていたものだ。さっきまですごい風が起こっていたから、こんなところまで飛ばされたんだ。
そしてその隣にもうひとつ、落ちていた。
なんだろう、これ……。
拾ってみると、それは小さな鈴だった。
あゆは首をかしげながらそれらを手にとって、すると、祐一がエレベーターの中に乗ってこちらに視線を送っていた。
ドキッとした。
「なんだよ、俺の顔なんか変か?」
おどけたように言う祐一のその表情、自分を見つめてくる両目は、どこかで見たような瞳をしていた。ああ、そうだ、ボクたちがまだ子どもだった頃、ボクが木登りして落っこちちゃって、大怪我しちゃって、そのときボクを見つめていたあの瞳と、一緒。
「……ゆ、祐一君」
「? なんだよ。もたもたしてると置いてくぞ」
あゆは駆け寄って、祐一の腹に頭突き――ではなく、頭から飛び込んで抱きしめた。
「お、おまえな……」
祐一の苦笑気味の言葉があゆの頭の上から降ってきて、でもその声はなんだか元気がなくて、悲しそうで、あゆはぽろぽろ涙した。
もうそんな祐一君、見たくなかったのに。だけど、嗚咽が邪魔して、あゆの口からその言葉は出てこなかった。
エレベーターが上昇を始めても、あゆの額は祐一の胸に押し当てられたままだった。
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