相沢祐一は地下を歩いていた。方向はひとつしかなかったので、このまま一直線に進むしかない。実は、廊下は左右に続いていたはずなのだが、天井が崩れたせいで片方の道は閉ざされていたのだ。

 祐一は振り向いて、今はもう塞がれている天井を見た。やはり外の様子はまったくわからない。天井の壁はけっこうな厚さがあるのか、外の音は完全に遮断されている。

 しかも天井はぐらぐら揺れていてまだ崩れてきそうな様子だったため、この場を離れるしかなかった。

 葉子さん、ちゃんと追いついて来いよな……。まあ葉子さんの力なら、壁をぶち抜いて地下にまた降りて来られるとは思うんだけど。

 祐一は前方に顔を戻した。廊下は先まで続いている。歩くと、かつかつと無機的な音が木霊する。否応なく緊張が高まってくる。

 つい身震いしてしまった。どこからかいきなり佐祐理さんと舞が襲いかかってくるんじゃないだろうな……。

「ゆ、祐一、待ってよー」

 ぼーっとしていた名雪が、後ろからぱたぱたと追ってきた。気づかないうちに、名雪との距離はけっこう離れていたらしい。まったく、なにやってるんだ俺は。葉子さんに離れ離れになるなって忠告されたばかりなのに。

「名雪、遅いぞ」

「祐一が早いんだよー」

 緊張していたせいか、歩調が早くなっていたようだ。名雪が祐一の背中にぴたっとくっつき、怯えたふうに前のほうをうかがった。

 その先は薄暗く、奥まであまり見通せない。

「おまえ、先行くか? バックアップは任せろ」

「そんなのやだよう……」

 名雪が泣きそうな顔をする。ぱぱっと名雪の後ろに回って前に押し出したら、さらに泣きそうな顔をしてポカポカ殴りながらふたたび祐一の背中に回りこんだ。

「祐一嫌い……」

「冗談だって」

「祐一最悪……」

 名雪はご立腹だ。

 けっきょく祐一が前、あとから名雪といった格好でまた廊下を歩き始めた。名雪がこちらの制服の裾をぎゅうっと握ってくるのがわかる。

 すこししてから、ふと思いついて祐一は足を止めた。名雪がそのまま背中にぶつかって「いきなり止まらないでよー」と非難してくる。

「名雪」

 呼びかけると、名雪は瞳の奥に頼りない光を灯らせたまま「なに?」と小さく答えた。

 怯えているのがありありだ。そりゃそうだ、こんな薄気味悪い場所にいきなり放り込まれれば、誰だってそうなる。俺だって怖い。マジで。

 葉子さんは、俺に名雪を守れと言った。言われるまでもない。それはこの島に連れて来られてからずっと誓っていたことなのだから。

 祐一は、自分のほうへと引き寄せるように名雪の腕をつかんだ。「わ、わわ……っ」とそんな名雪の驚いた顔をすぐ目の前にして、どうしようかいくぶん躊躇してから――持っていた剣の柄を押し付けた。

「これ、持ってろ」

 パッと名雪の腕を離した。

「俺が持っててもしょうがないしな」

 どうせ腕に覚えなんてないのだ。こんなことなら剣術くらい習っておけばよかったと祐一は後悔した。以前、舞と一緒に中庭で剣の稽古をつけてもらったが、あまり身についていなかったことを今になって痛感する。

 夜の学校でも、俺は足手まといだったからな……。

「わたしだってこんなの使えないよ……」

 名雪が情けない顔で、受け取った剣を返そうとする。

「だからだよ。どうせ二人とも使えないんだから、おまえが持ってろ」

 剣をぐいっと押し返す。

「それ持ってれば、すこしは安心するだろ?」

 名雪は一度きょとんとして、ちょっとうつむいてから、ぶんぶんと首を横に振った。

「これは葉子さんが祐一に渡したんだから、ちゃんと祐一が持ってないと」

「でもな」

「だめっ」

 名雪に怒られた。

「わたし、祐一の背中に隠れてたほうが安心するから」

 にっこり笑ってまた剣をこちらに持ってくる。

「バックアップは任せて」

 名雪はガッツポーズをとって、背負っていたデイパックから望遠鏡を取り出した。長い筒を持って、えいっと縦に振り下ろす。

「……わかった。それ持って、ちゃんと隠れてろよ」

 名雪はこくっとうなずいて、片手に望遠鏡を持ったまま、開いている手で祐一の制服の裾を握った。

「迷子になるなよ」

「ならないよ……」

 祐一はずっと担ぎっぱなしだったデイパックをぽいっと捨てた。もう食料も飲料も必要ないと思ったから。名雪もそれを見て、真似してデイパックを床に置いた。

 どうせもう、ゲームは終わる。

「……名雪、これ使うか?」

 懐から、自分の武器であるやかんのフタをちらっと名雪に見せる。名雪が困ったような笑ったような微妙な表情をする。

「まあ、盾にもならないからな」

 苦笑いして祐一はまたそれをしまった。名雪はくすっと微笑んで、これでじゅうぶんと言わんばかりに望遠鏡をまたぎこちなく構えた。

 二人は廊下を進んだ。

 廊下は長かった。永遠に続くのかとすら思った。だが、ようやくこのとき、延々と歩いていた二人の足が止まった。壁に、見るからに怪しい両開きの扉が設置されていた。

 廊下は先までまだ続いている。どうしようか悩んで(といっても、足はすでに棒のようで、もう歩きたくないんだが)、再度扉に目をやった。

 名雪の足のケガも心配だった。これ以上は限界だろう。現に、名雪の顔には疲労の色が濃く出ていた。

「入る……か?」

「う、うん……」

 祐一の頭にあははーっと笑う佐祐理さんの顔が浮かんだ。そんなものは遠くに放り投げておいて、扉を押し開けようとする。が、びくりともしなかった。鍵がかかっているらしい。

 こういう場合、剣で扉をぶった切ったりするんだろうが……。だめ元でやってみたが、やっぱり軽く弾き返されるだけだった。今度は名雪が取っ手のところに手をあてがう。

「……開いたよ」

 あっさり開いていた。

「なんで!」

「引いただけだけど……」

 どうやら押すタイプの扉じゃなかったらしい。

「……行くか」

「うん」

 祐一たちはわずかに開いた扉の隙間から中に入っていった。その部屋の名前は管制室というのだが、どこかに表示されているわけもなく、当然、二人には知る由もなかった。








 管制室からさらに地下深くの部屋で、氷上シュンはようやく気絶から立ち直っていた。

 後ろ頭から響く痛みで徐々に頭の中のもやが晴れていき、完全に晴れたときシュンは勢いつけて立ち上がった。

 がらがらと全身を覆い尽くしていた鉄の瓦礫が地にこぼれる。それらを忌々しく眺めやり、思い余って蹴飛ばし、そのとき肩の辺りがずきりと痛んだが、気にもしないでずかずかと周辺を歩き回った。

 そうしていると次第に気分が落ち着いていき、冷静になったところで重要なことを思い出した。

シュンはさっそく近くに転がっていたモニタの電源を入れ、外の様子を確認した。シュンの胸に歓喜が漲った。雪が……雪がやんでいる! すぐさま島の気温を確認、氷点下を下回っていたのがまるで嘘のように、春の気候を取り戻していた。

 まだ外の風景は白で埋め尽くされてはいるが、上出来だ。積もった雪などいずれ溶けて消えるのだ。この世界の観察を続けているうちに以前の様相を取り戻すだろう。

 シュンは震えた。僕は……勝ったのか? 倉田佐祐理に? 彼女の計画は失敗したのか? 彼女は僕らの記憶を操作すると言っていたが……。シュンは自分の記憶の糸を手繰り寄せる。コンピュータのエラーチェックでもするように、記憶の隅の隅まで確認を試みる。

 僕の名前は城島司。幼なじみは二人、柚木詩子と里村茜。そんなふうにひとつずつ思い出していく。けっこうな時間をかけて行っていく。

「……くく」

 シュンの唇が凄絶な笑みをかたどった。大丈夫だ。なにも欠損していない。僕の記憶は守られている!

 シュンは高笑いを上げながら、これからの自分の行動を模索した。さっそく思いついて、月宮あゆの眠っているポットを探した。すぐに見つけた。無事だった。コード類に囲まれたままなんの変化もなく、厳かに鎮座していた。

 あゆの寝顔も普段通りの穏やかな調子に見えた。時折もごもごと口を動かし、「うぐぅ……」となんだかよくわからない寝言をつぶやいている。

 本当にそれは、何も知らない無垢な子供のよう。

 癪に障った。

「今さら用なしなんだよ、キミは……」

 この世界が無事で、僕の記憶が無事ならば、キミの存在に価値はない。佐祐理の計画などもはや知ったことか。

 シュンは閉じられたあゆの瞼をじろりと舐めるように見つめ、また高笑いを上げた。








 管制室の中は暗かった。祐一は名雪と一緒に、足元に注意しながら一通り見て回ったのだが、室内はそんなに広くはないようで、すぐに一周できた。

 正面には巨大なスクリーンがぶら下がっている。机や椅子がところどころに設置されていて、パソコンも何台か置いてある。そのほか、よくわからない機械類がぶうんぶうんと不吉な振動音を醸していた。

 ここは無人のようだった。部屋全体がごちゃごちゃしていて全てを確認できたわけではないが、すくなくとも祐一たちにはそう思えた。

 だが、たしかにここには、以前に人が居た。確信できるだけのものを祐一は発見していた。スクリーンのまん前の長机、その傍らにある椅子の上のシートがぐっしょりと赤く濡れていた。どう見ても血だった。

 血は、乾いていない。だからさっきまでこの椅子に誰かが座っていたのだ。

「祐一、これ……」

 名雪が部屋の片隅に立って手招きしてきた。祐一は駆け寄って、その側に立つ重厚な扉を前にした。

 エレベーターのようだった。電光板には一階、地下一階、二階、三階を表示している。点滅しているのは地下一階で、そこがどうやら自分らがいる階らしい。

 一階はたぶん教室のほうだろう。あそこは爆破跡だから、もう上には進めないはずだ。祐一はすこし思案して、名雪に言った。

「もうこうなったら……」

「……うん。行こっ」

 名雪を連れてエレベーターに乗り込んだ。エレベーターの中は思ったより広く、二人だけだと落ち着かない感じ。

 そして、そこかしこに血が付着していた。そっとなぞってみる。椅子のシートに付いていたのと違って、こちらはもう乾いている。

 祐一のそんな行動を名雪が不安そうに見守っていると、扉が閉まった。

「……ん?」

 完全に扉が閉まる寸前、祐一は部屋の奥のほうに人影らしきものを発見した。さっきまで人の気配なんてなかったなのに。気のせいだろうか? それとも葉子さんが到着したのか? それとも、まさか、佐祐理さん……? 『開く』のボタンを押すが、なにも反応がない。かちゃかちゃと連打するが、やはり扉は開かない。

「……おわっ!」

 がくんと大きな揺れとともに、エレベーターが勝手に下降を始めた。

「ゆゆゆゆゆ祐一っ!」

 名雪が瞳をウルっとさせて祐一にすがりついた。

「地獄への直行便か……」

「変なこと言わないでよう……」

「やっぱ片道切符なんだろうな……」

「祐一最悪……」

 名雪の瞳は涙でいっぱいだ。

 かなりの時間をかけても、なかなかエレベーターは止まらなかった。下はとんでもなく深いようだ。

「……名雪。いつまでしがみついてんだ」

「だってえ……」

 名雪はかわいそうなくらい縮み上がっている。名雪って怖がりだったんだなあ……。普段から緊張感のかけらもなくボケボケしていたから、名雪のこんな態度は意外というか新鮮だった。こりゃ、あゆに勝るとも劣らないな。

 しみじみとそんな感想が浮かびあがらせ、祐一は壁にゆったりと背をつけた。








 気分がよかった。こんなに笑ったのは久しぶりだった。いつまでも笑っていたい衝動に駆られていた。

 と、シュンはようやく高笑いを止めた。シュンの耳に、小さな音がひっかかったのだ。機械音のような、駆動音のような……そこまで考えエレベーターの電光板を見ると、たしかにエレベーターは動いていた。

 倉田佐祐理か? 今さら何の用だ? 月宮あゆを回収しにでも来るのかい?

 シュンはポットを横目で見やった。あゆは何事か寝言をつぶやいていて――おや? とシュンは首をかしげた。急いで横のスクリーンを確認した。

 なにも確認できなかった。そこは黒い画面だけを空しくさらしていた。おそらく地震のせいだろう、電源が切れてしまったらしい。

 青白かったはずのポットも、たった今、ぷっつりと暗くなった。予備電源すら落ちたらしい。そのポット――運命改変装置――は、このときを持ってのっぺりしたただの容器に変わってしまった。

 本来ならすぐに復旧を試みるところだが……まあ、いい。どうでもいいことだった。ふんと鼻を鳴らして、シュンは懐から銃を探り当てる。

『うぐぅ……遅いよ……』

 ごぼごぼとあゆの口から気泡が湧いた。あゆが身をゆだねている液体が波打っていた。あゆの瞼はうすく開いていて、今にも開かれそうだった。

『出番少ないよう……ボクいちおう原作のメインヒロインなのに……』

 お目覚めの時間かい、お姫様? 王子様との感動の再会ってわけだ。ま、それにしてはそのセリフはどうかと思うけどね。

 うんうん唸るあゆに背を向け、シュンはこの場を離れた。








 エレベーターが止まった。祐一はホッと安堵して、

「じゃ、行くぞ」

 名雪に言ったつもりだったのだが、返事はなかった。名雪はまだご立腹のようだ。

 目の前の扉が重々しく開いた。名雪がびくっと震え、ささっと祐一の背後に隠れる。それでもしっかりと望遠鏡を握りしめる名雪に、祐一は苦笑し、すぐに顔を引き締めて剣を構え、意を決して飛び出すように外へと足を踏み出した。

 すると、祐一の目にそれは飛び込んできた。

 正面の奥に段違いに巨大なものがそびえ立っている。なんだろう、これは? その中に人が入っていることに、祐一はすぐに気づいた。

 そして、信じられない気持ちになった。

 おまえ……なんでこんなところに……。

 一瞬惚けてしまって、疑問に思ったときには祐一は足元に伸びるコード類に目もくれずそのポットに駆け寄っていた。

 それで、祐一の制服の袖をつかんでいた名雪の手が、振りほどかれた。

「あ……」

 名雪の漏らした声には気づかず、祐一はポットの前に立った。

「なんでここにいるんだよ……あゆ」

 と、ここまで口にして祐一の記憶の底にあったひとつの言葉が鮮明になった。それは水瀬秋子――秋子さんの最後の言葉だった。秋子さんはたしかに月宮あゆの名を呼んで、消えたのだ。

「おい……おいっ!」

 眼前の容器をがんがんと揺さぶった。それに合わせて液体に漂うあゆの身体が左右に揺れる。祐一はさらに激しく容器を叩いた。

 祐一の脳裏に、いつかの光景、ずっと昔の出来事が蘇った。それは子どもの頃、あゆが木の上から落下してそれきり動かなくなってしまった情景だった。

「目を覚ませよ! あゆ!」

 祐一は狂ったように容器を揺さぶった。それから今度は手にあった剣を取り出し、上から横から刀身で容器を殴りつけた。その下、スイッチやら何やらでごちゃごちゃしたボードを剣先でぶっ刺した。

 そのポットは以前、青白い光――外敵への防護膜が張られていたはずだったのだが、今は電源が切れていて跡形もない。ボードからはよくわからない部品が飛び出し、すこしずつ容器のところどころにヒビが入ってきた。

 びしり、と嫌な音を立てて中の液体が外にこぼれ始めた。

 あゆの身体がかたむき、こつん、と額が容器のカドにぶつかった。

『うぐぅ……痛い』

 容器の中から聞こえたその懐かしい声を耳にしたとき、祐一の中でなにかが爆発した。剣の柄を絞り込むように握った刹那、周辺の空気がつむじ風を起こし、刀身にまとわりついた。

「いいかげん起きろよ、あゆっ!」

 祐一は容器をななめに切断した。液体がものすごい勢いで部屋じゅうを浸し始めた。勢いに押されてあゆの頭が祐一に体当たりを食らわすように突っ込んできて、祐一は腹で抱きとめ、背後に倒れた。

 そのときにはもう、あゆの瞳はめいっぱい開かれていた。

「え、あ、あれ? ゆういちく――」

 覆い被さってくる液体にあゆの言葉は途切れ、祐一はあゆの小さな身体をしっかりと抱きしめたまま床の上を流れた。

 容器の中身が空っぽになってようやく、流れてくる液体の勢いは止まった。祐一は全身濡れ鼠になったまま、胸の中でぽかんとするあゆの、これまた濡れ鼠になった顔を覗きこんで、言った。

「……で、おまえ、こんなとこでなにやってたんだ?」

 あゆは大きな瞳をきょときょと動かして、

「うぐぅ……わかんない。気づいたらこうなってた……」

「わははははははははっ!」

 祐一は両手両足を投げ出して大笑いした。

「ひ、ひどいよっ! なんで笑うんだよっ!」

「い、いや……ははっ」

 祐一は心の底から笑っていた。頬がゆるんで、全身が脱力し、これ以上ないくらい安堵している自分に気づく。

 まったく……なんなんだかな、これは。

 あゆは祐一のそんな態度を理解不能といった様子でおろおろと見守っていたかと思うと、いきなりぽろぽろと涙を溢れさせた。

 あれ……。ボク、なんで泣いてるのかなあ……。

 胸がちぎれるくらい痛かった。痛く痛くて、でもなんだかそれは、心地よかった。

 あゆは涙を止めようとはせず、祐一と一緒に笑い出していた。








 名雪は、そんな祐一たちの光景を後ろから距離を置いて眺めていた。

 わたし……どうしちゃんたんだろう。

 名雪は、胸の前で腕を交差させて両肘を抱えこむようにしてから、固く両目を瞑り、ふるふるとかぶりを振った。

 祐一たちの交わす会話が耳に痛い。笑い声を聞きたくない。何度もかぶりを振る。けれど、耳に入る楽しげな声は消えてくれない。

 わたし、なんで、こんな気持ちでいるんだろう……。

 名雪はうつむいていた顔を上げた。それで、あゆが祐一のほうを見つめていて、笑いながら泣きべそをかいているのに気づいた。

 そういえばお母さんが言っていた。この世界から消えてしまう前に、あゆちゃんの名前を呼んでいた。だから、きっと、あゆちゃんは悪い人たちに捕まってたんだ。理由はわからないけど、でも、たぶん、ひどいことされてたんだと思う。

 だからあゆちゃんが助け出されて、わたしは喜ばなきゃいけないはずなのに。すぐにでも祐一の隣に行かなきゃなのに。あゆちゃんの側に寄っていかなきゃなのに。

 なのに、わたし、こんなところでなにやってるんだろう……。

 ――と。

 そのとき、名雪の視界の隅になにかが入り込んだ。まさしくそれは偶然だった。あゆが眠っていたポットから離れていたからこそ、名雪にだけ知れた光――ちかっと光るもの。なんだろう、なにが光ったの?

 名雪はその方向に視線を押しやった。

 すぐに目を見張り、息を呑んだ。

 立ち並んだ機材の裏に潜むそれに、まだ祐一たちは気づいていないようだった。

 しかし名雪は気づいてしまった。

 積み上がった瓦礫の奥に佇む機材、その隙間から覗ける黒い物体――それは、銃口のようだった。天井からほのかに降りる蛍光灯の光を反射していた。

 その向こうには、人の顔があった。男の人? その男はポットのほう――祐一たちのほうを見ていたが、自分に注目している名雪の存在に気づいたのか、苦々しげに口元をゆがめてこちらに視線を送ってきた。

 それで祐一の背中に向けられていた銃口が、名雪のほうに移った。

 どくん、と心臓が鳴った。

 名雪は動くこともできず、目を見開いているだけで、相手は今にも引き金を引きそうで――驚き、混乱、焦り、恐怖。一瞬のうちに様々な感情が頭を渦巻いた。

 ああ、なんでわたし、気づいちゃったんだろう。

 そのとき名雪の脳裏に、泣きべそをかいて、それと同時に屈託なく笑うあゆの顔が映し出された。あゆちゃんはいつでも無邪気に祐一の側にいて、祐一もなんの抵抗なくあゆちゃんの行為を受け入れていた。それが二人の日常だった。

 そうなんだ、二人はずっとそうだったんだ。まるで昔からの恋人だったみたいに、二人の間には誰にも侵すことのできない何かの絆が結ばれていた。

 そして、そんな二人に銃口は向かず、今は自分を狙っている。

 本当に、わたしは、なんで、気づいちゃったんだろう。気づかなきゃ、撃たれなかったかもしれないのに。死なずに済んだかもしれないのに。

 祐一の側からいなくならずに済んだのに。

 これじゃあ、また、昔みたいに、祐一のこと、あゆちゃんに取られちゃうよ。

 運が悪いなあ――――

 名雪の目尻に、ぽつ、と涙が浮かんだ。

 そして名雪は諦めたように瞼を閉じようとして、

 ――違う。そうじゃなかった。

 名雪の閉じかけた瞼が、ふたたび開いた。涙が頬を伝った。

 違う。わたしは、運がよかった。

 運がよかったんだ。

 名雪の瞳が、向けられている銃口から逸れ、祐一の背中についと移った。

 本当に、よかった。

 撃たれるのが祐一じゃなくて、ほんとに、よかった――――








 銃声が聞こえた。その乾いた音は祐一を振り向かせるのにじゅうぶんな大きさだった。

 祐一は見た。

 名雪が、まるでビデオのコマ送りを見ているみたいにゆっくりと身体を折り曲げ、そのせいで髪がわずかに浮き上がり、髪の隙間から見える名雪の瞳は、しっかりと祐一のほうに向けられていて。

 そのままどさっと音を立てて名雪は倒れた。

 床に垂れた髪で名雪の顔は隠れてしまい、それから徐々に足先から上へ、胸元まで薄らいでゆくのを、祐一はぼんやりと見つめ続けるしかできなかった。

 名雪の姿が、やがて消えた。

 そのとき名雪がどんな表情をしていたのか、祐一にはわからなかった。




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