里村茜の身体は半分、雪に埋まっていた。ひとしきり泣いた後、また切り株を背にしてしゃがみこみながらぼーっとしていたら、いつの間にかこんなふうになっていた。
茜は気がついたら、浩平の鈴がなくなって、またひとりぽっちになっていた。
自分の足は積もった雪でほとんど見えず、というより腰あたりまで雪がすでに浸食していた。スカートは当然びしょびしょ。下着までぐっしょりだ。
――耳の奥で、ざーざーとなにかの音がする。
このまま雪だるまになって死んじゃおうかな。でも、なんかマヌケですよね。凍死っていうのは人の死で一番綺麗だって言うけれど、さすがに雪だるまはどうだろう。
ちょっといただけない。
なんとかしなきゃ。
――耳の奥で、ざーざーと大降りの雨の音がする。
そうだ、傘、差そうかな。
茜は起き上がろうとして、と思ったら頭にたくさん雪が積もっていて、重くて、うまくいかなくて、べちゃっと前に突っ伏した。
雪の味がする。冷たい味が口の中に溢れた。
無味乾燥。まずい。
甘いもの、食べたい。
思い出した。
そういえば、私、お腹減ってたんだな……。
茜は今度こそ起き上がった。すぐに自分の傘を捜して、見つからなかったので周囲の雪を掻き分けた。そこらじゅうの雪を掘り返していった。
見つけた。すぐ後ろに、横に倒れたまま埋まっていた。
茜は手に取った。傘を差した。
その水玉模様のピンクの傘はとても大きく、茜の身体ひとつ納めるにはじゅうぶんすぎる広さだった。
誰か、まだ、入れるスペースがあった。
――雨の音はひどくなるばかりで消えてくれない。
茜は思いなおして傘をたたみ、それからすっと腰を上げた。急に動いたせいで目がくらんだ。傘を杖代わりにして倒れることはどうにか免れた。
茜はふらふらと歩き出す。靴は片足しか履いていなかったけれど、関心はなかった。雪の絨毯は冷たいけれど、柔らかかったので。
茜は誰かを探していた。一緒に傘に入ってくれる誰かを。
だって、やっぱり、ひとりは寂しかったから。
耐えられなかったから。
ひとりぽっちは、限界だから。
待っているだけなのはもう嫌だから。我慢なんか懲り懲りだから――
――雨の音なんか、嫌い。
茜は傘をぞんざいに持ったまま、傘の先で雪道に線を引くようにひきずって、ひらひら舞う雪に濡れながら森をさまよい始めた。
相沢祐一たち三人は森から抜け出ていた。
頭上にかぶさっていた梢は完全に開けたが、陽の光が落ちてくることはなかった。空は明るくてもその白色の光は微弱で、自分らをじゅうぶんに照らしてはくれない。
「葉子さん。どこ向かってるんだ?」
「北のほうです」
あたりの風景を見ると、たしかに自分たちは西の丘を通過して海岸沿いを北上しているようだった。遠くの海原は、落ちてくる雪を際限なく吸い込んでいる。
「教会に行くのか?」
「はい。雨宿りもかねて」
葉子の提案に、祐一もうなずいた。名雪も同意する。三人共に、そろそろ寒さが限界だった。名雪は小刻みに震えているし、右足(包帯が巻かれた足)も傷が痛むのか、さっきから歩調が鈍かった。
「名雪。ふぁいと、だぞ」
「そのセリフ、まだわたし一回も言ってないのに……」
会話するたび、吐く息で二人の間に白い膜ができ、たちまち寒風で横に流される。祐一は右手で名雪の手をつかみ、左手でディオスの剣(これは舞の持ち物だ。なぜ森に残されていたのかは知らないが……)を握り、そうして雪道に足跡を残していくと、教会の屋根が祐一たちの前に姿を現した。
初めて見るその白亜の建物はほとんど風景と同化していて、なにやら綺麗だと感じたが、祐一には薄気味悪い印象のほうが強かった。
三人一緒で、要らぬ緊張を抱えて敷地内に入った。石畳の道を通り、ひさしのついた玄関前で雨宿りをする。肩や頭に乗っかる粉雪を払い落としてから、ため息混じりに外の様子をうかがってみる。
「やみそうもないな……」
いったいいつまで降り続けるのか。この調子で積もると山や丘なんかではスキーができるかもしれない。事実、降り始めてまだそう時間はたっていないというのに、その積雪量は考えられないほどだった。
「なあ葉子さん……て、いないし」
すでに葉子は扉を開けて教会内に侵入していた。
「だめだよ葉子さん。中に入るときはお邪魔しますって言わないと」
名雪があとに続いた。足をひきずりながら、途中、ふらっと倒れそうになった。危なっかしい。
名雪に肩を貸してやってから祐一は中にお邪魔すると、天井のステンドガラスが目についた。派手な模様だ。不吉な感じがする。俺は好きになれない。
ここは礼拝堂のようだった。縦長の室内の先で、葉子が静かに立っている。FARGOの信者の正装をした葉子の姿は、この場所にいやにマッチしていた。
「祐一さん、名雪さん」葉子が振り返って言った。「音が聞こえます。なにか……打ちつけるような。壊すような音が」
祐一は眉間にしわを寄せて、名雪の顔を見る。
「聞こえるか?」
「ううん。でも葉子さん、耳いいから」
祐一たち二人が、葉子の隣に並ぶ。
「どこから聞こえるんだ?」
「この部屋……でしょうか」
葉子が端のほうの小さな扉を指で示した。
「じゃあ、行ってみるか」
「危険かもしれませんよ?」
「かもな。でも、ここにいたってしょうがないしな」
雪がやむまで教会にこもっているのもいいが、どうせならその間にやれることをやっておきたかった。
「折原ってやつが言ってたんだろ? おもしろいものがあるって」
葉子はためらいがちに顎を引いて、先導するように扉の前に立った。ゆっくりとドアノブをひねる。
「さて、なにが飛び出すのか」
「楽しそうですね、祐一さん」
扉が開かれた。
葉子の肩越しから、そうっと奥を覗いてみる。名雪も真似して覗き込んだ。
「……二人とも、私を盾にするのはやめてください」
と、部屋のほうに視線を投げていた祐一は、あっけに取られた顔をした。
「神社?」
すぐ目の前に鳥居が立っていた。部屋の床は、室内だというのに小石に敷き詰められ、その奥にはこぢんまりした社も建っている。
紛れもない、教会の中に神社があった。
「わあ、すごいねー」
名雪がのんびりと感想を述べた。
「折原君の言ってた通りだよ」
「そのようですね」
葉子が感心したように相づちを打って、砂利道を進んでいく。祐一も名雪を連れてあとを追った。あたりは薄暗いが、どこからか差し込む明かりで足元は判別できる。
ここは、おそらく教会の外に出ているのだろう。周囲も天井も岩に囲まれていて、一個の隔離された空間を形成していた。差し込む明かりは、岩と岩の隙間からのようだった。
「……ん?」
いや――明かりは、それだけではなかった。差し込んでいた光は、ズボンのポケットからも生まれていた。祐一はすぐにポケットをあさる。鈴が出てきた。
祐一と同じように、葉子、名雪の手に乗った鈴も、ほのかな輝きを発していた。
「……なんだこれ」
「さあ」
薄気味悪い。祐一は身震いしながら鈴をしまった。しかし光は遮断しきれず、おかげでランプ代わりになっているのだが、なんだか素直には喜べない。
「この鈴、この神社に関係しているらしいですね」
葉子のつぶやきは祐一の耳にいやに響いて聞こえた。ここは静かだった。外であるはずのこの場所には、海の音も風のそよぎもなにも感じ取れない。
進ませていた葉子の足が、途中で止まった。
「これは……」
葉子が社の柱の一本に指を添え、何度かなぞっていた。そこに彫ったような文字が施されている。祐一も興味本位でその文字を見た。
『司記の杜』
うすくて読みづらかったが、これで合っているだろう。
「しきのもり?」
とりあえず口に出して言ってみるが、誰もなにも答えなかった。名雪はきょとんとしているし、葉子は思案げに眉をひそめていて、
「……祐一さん、名雪さん」
ふいに呼びかけてきた。
「この永遠の世界がどのような場所か、ご存知ですか?」
唐突に、葉子は言った。
「知るはずないだろ。勝手に連れてこられたんだから」
「私は、知っています」言ってから葉子は自嘲気味にほほえんで「いえ、知っている、というのはおこがましいかもしれません。けっきょくのところ、FARGOの研究員にもこの世界の全容までは解き明かせなかったのですから」
「……ここって、FARGOと関係してるのか?」
この孤島――永遠の世界というやつは。
「関係している、というより利用しているといったほうが正確ですね。この世界はなにもFARGOが作ったわけではありません。総資産を費やしてとか、そんな大そうなことではなかったんですよ。ここは、なにげないひとつの『約束』が作り出した、ちっぽけな場所なのですから」
葉子は息をついてから、祐一と名雪、二人の表情を見比べるように視線をさまよわせ、続ける。
「話を戻します。偶然か必然かはわかりませんが、この世界は生み出された。それを知ったFARGOは、この世界を利用しようと考えた。まあ、最初は核や生物化学兵器の実験場程度に考えていたんでしょうね。この場所は、たとえ違法行為だろうと人目をはばかる必要がない、現実の世界と隔離された空間だったんですから」
祐一と名雪は、ただ茫然と葉子の語り口に耳を傾けている。
「ですが、FARGOの計画は難航しました。この永遠の世界は誰もがたどり着ける場所ではなかったからです。資格、というのでしょうか。そういったものが必要らしいですね。詳しくは私も知りませんが」
祐一は首をひねった。にわかには信じられなかった。この葉子の話が本当だとすると、現在この世界でゲームを行っている自分たちには、その資格があったということになるのだ。
そんなもの、俺は手にした記憶はないが。
「まあ、鈍感な人ほど手にしやすいものなのかもしれませんね」
葉子は意地悪く笑って、
「とにかく、研究員達は悩んだ。効率よくこの世界を利用するには、まず世界自体の解明が必要になったんです。しかし自分らは世界に足を踏み入れられない。だから資格を持つ者を探すことにした。そして、発見した。その資格持つ者は抵抗したのですが、けっきょくFARGOの言いなりになった。この永遠の世界を観察し、解明するという仕事を受け入れるしかなかった」
「……なんでだ?」
「わかりません。想像はつきますけどね。どうせ、誰か人を盾にして脅したのでしょう。家族か、それとも恋人か。大切な人に危害が加わるのを恐れて、従うしかなかったんですよ。FARGOのやり口は、たいていこれです」
「そんな……」
名雪が悲痛な表情をする。祐一は一度かぶりを振って、搾り出すように口を開いた。
「……その、脅されたやつっていうのは、誰なんだ?」
「名前は城島司といいます。当時は中学生だったらしいですが、もしまだ生きているのなら祐一さんたちと同じくらいですね」
また、葉子は言葉を切った。ぐるりとあたりを見回して、言った。
「けっきょく彼はこの場所――永遠の世界の観察を続けて、そして、発見したんです。解明の手がかりを。それは、世界の性質、とでも言えば妥当でしょうか。世界の本質かどうかはともかく、一部分の性質は見つけ出せたんです」
「……なんなんだ、それ」
「時間、ですよ」
葉子がその言葉を強く口にする。
「私たちのいた現実の世界、そこに生きる者、存在するものすべて――それは私たち人間から始まり、動物、虫、自然、人工物、それと空間。私たちの居るべき場所、とも表現できるかもしれません。それらを構成するファクターとして、ひとつに『時間』が挙げられます」
葉子はうっすらと笑みを浮かべて、
「ですが、ここにはないんですよ。この世界には、時間というものが存在しないんです」
「……時間が、ない?」
「はい。だからこそこの世界は、永遠の世界と呼ばれた。最初にそう呼んだのは、城島司なんです」
葉子がふう、と大きく嘆息して、視線を外した。そのまま沈黙する。
祐一はもう頭がこんがらがってきていた。時間がない世界? 永遠の世界? それは、その、よくは表現できないが、すごいものなんじゃないのか?
葉子さんはそんな世界をちっぽけだと言った。ちっぽけな約束から生まれた、と。そんなバカな。たったひとつの約束だけで、島一個が、世界ひとつが出来上がるものなのか? たかがひとつの約束から、そんな……。
そこまで思考し、祐一は寒気を覚えた。たかが、だって? ちっぽけ、だって? 約束が? 違う。それは他人から見た場合の話だ。たしかに約束は『ちっぽけ』かもしれないが、約束を交わした本人たちからすれば『たかが』なんて言葉で片付けられはしない。
だって、それは、俺にも経験があった。俺も昔、約束を交わしていたのだ――月宮あゆというひとりの少女と。
大切な、かけがえのない約束を。
「祐一……」
名雪が不安そうな瞳でこちらをうかがっていた。恐々と手を伸ばしてきて、祐一の指先に触れたところで、きゅっと握ってくる。
祐一もまた、握り返した。名雪の顔に安堵が戻る。
「二人とも、これを見てください」
葉子が傍らに立つ社の柱に、そっと手を置いた。
「司記の杜……この神社の名前だと思います」
「ああ。それが?」
葉子はちらと横目でこちらを見て、
「祐一さん、おかしいと思いませんか? この世界には建造物がたくさんありましたが、どれも固有名詞はつけられていませんでした。集落の住宅に表札は出ていませんでしたし、部屋をあさっても人の名前や住所を示すものはなにも見つかりませんでした。診療所もそう、灯台、漁業組合だって同じでしょう。当然ですよね、この世界にそんなものは必要ないんですから」
「なのに、この神社には名前がついている……」
祐一が漏らした言葉に、葉子はうなずく。
「この建物は永遠の世界のものではありません。外の世界からやってきた誰かが、あとから建造したものなんですよ」
祐一は葉子の話をどうにか理解してから、首を縦に振る。そうなのだろう。葉子の説明に、祐一も納得できた。
できた、が。
「でも……なんでそんなこと」
名雪が、祐一の疑問を代弁するようにぽつりとこぼした。
「わかりません。ですが、この建物はここにあるべき存在ではない。だからこそ、なにかしらの意味がある」
葉子は指先で柱の文字をひとつずつなぞっていく。司・記・の・杜。
「簡単なパズルですよ。『司記の杜』を逆から読んでください」
急に言われて、祐一はとっさに考えた。
「……りものきし?」
「漢字を逆さにして読んでみてください」
司・記・杜の部分を逆さ――杜・記・司――にして読むと。
「もり、き、し?」
いや、こうも読める。と・き・し。
「と、き、つかさ……」
その名雪の言葉に、葉子が口元をゆがめた。
「この神社は、時をつかさどるんですよ」
祐一は乾いた唇を舌で湿らせ、ごくりと唾を飲み込んだ。
時間のないこの世界に、時を司る――
「ちょっと、笑えない答えでしたね」
天沢郁未は手の平を撫でるように正面の岩肌に当て、不可視の弾丸を放った。どおん、と轟音が鳴り、天井からぱらぱらと頭に粉状の石がかかり、思わず吸い込んでしまってけほけほと咳き込んだ。
なにやってんだろ……私。
ずるずると前のめりに倒れこむ。泣き腫らした目の下がひりひりした。もう、情けなくて情けなくて、今の自分に愛想が尽きる。
私、こんなに疲れてるのに。こんなに痛くて、辛くて、さっさと眠ってしまいたいのに。だけどそうすることはできなかった。強迫観念とでもいうのか、休むことが許されない気がしていた。
楽になってしまうのは、まだ、早いようだった。
郁未はまた上体を押しあげ、睨みつけるように目の前の強固な岩に眼光を飛ばした。まだ届かない、まだ外の道は開けない、いつになったら開けるのかとんと見当がつかない。
左手で右の腕を支え、ぐぐっと手を開いて、不可視の力を放った。反動で傷の出血がひどくなり、激痛が跳ね、郁未はその場にうずくまる。
道が開くのが先か、私の命が燃え尽きるのが先か。
たぶん、勝負はそんなに長くかからない。
郁未はまた、ゆらりと上体を持ち上げた。
「どうした? 葉子さん」
きょろきょろと首を回しはじめた葉子に、祐一は問いかけた。
「また……聞こえたような気がしました」
「例の音か?」
この神社を訪れる前、葉子はなにかを打ちつけるような音が聞こえてきたと言っていたのを思い出す。
「はい。とてもかすかですし、もしかしたら気のせいかもしれませんが」
と、泳いでいた葉子の視線が、そのときある一点に固定された。砂利道を、社を迂回して葉子が歩き出す。
「社の裏からでしょうか……」
祐一と名雪も葉子の後ろに続いて、社の裏側までやって来た。
そこは絶壁になっていた。
正面に崖崩れのような跡があった。そのあたりは他に比べて前に突き出たようになっていて、なにかの入り口のようにも見えた。
葉子が近寄って、ぺたんと手の平をその岩壁に押し当てた。
「……なんなんだ、ここ?」
「洞窟の跡でしょうか。地震で崩れたのかもしれませんね」
かつて襲った巨大な地震は、今はもうほとんど感じられなくなっている。葉子は検分するように岩肌をなでたりこんこんと叩いたりしていたが、ふと「誰かいるのですか?」と大きめな声で言った。
「またなにか聞こえたのか?」
「いえ、ただの確認です。音はもう途絶えてしまいました」
葉子は告げて、右腕を水平に伸ばし、手の平を押し広げた。ふわり、と葉子の金色の髪が扇のように虚空を舞う。
葉子が不可視の力で次々と岩を砕いていた。べこんべこんとへこむが、思ったより崩れていない。この岩はどうやら強固らしい。
「洞窟なら、入り口が開くかと思ったのですが」
葉子はふうと吐息をついてから、きびすを返した。もう用はないと言わんばかりに。
「葉子さん、どこ行くの?」
これまで口をつぐんでいた名雪が、思いついたように訊いた。
「さあ。どうしましょうか」
郁未の半分溶けかけていた意識が、今、覚醒した。なにか音が聞こえた気がしたのだ。向こう側から、この壁の奥のほうから、岩を砕いた音が。その音は本当に小さくて、おそらく発生源は壁を挟んで十メートル以上離れているようだった。まさしくそれは、郁未の聴力だからこそつかみ取れた音だった。
誰か、向こう側にいるの……?
それとも、ただ自然に岩が崩れ落ちただけだろうか。しかしそうだとしても、郁未の気持ちを奮起させるにはじゅうぶんだった。見えないと思っていた出口は、ちゃんとそこに存在していたのだ。
郁未はすがりつくように岩に手を当て、不可視の力を放って、轟音とともに郁未の口から鮮血がパッと舞い、地にくずおれた。
あれれ……? 郁未の視界が陽炎のように揺れて、ぷつんと電源が落ちたように真っ暗になった
命の火は、今にも消えそう。
こんなところで。
ひとりきりで、誰にも見つからず、じめじめした、薄暗い場所で。
「私らしい最後かもね……」
息苦しかった。酸素がじゅうぶんに肺に浸透してくれない。
声を出すのは、もう無理かもしれない。
葉子の足が止まった。バッと身をひるがえして、ふたたび社を迂回していった。
「な……おい、葉子さん」
祐一は急いで追いすがろうとして、名雪の歩調が鈍かったことに気づき、慌てることもないかと思い直してゆっくりと絶壁のところに戻っていった。
葉子が、眉間にしわを寄せて岩くずの山を眺めていた。
「どうしたんだ?」
「いえ……」
「また聞こえたのか?」
葉子は自信なさそうにこくんとうなずく。
「……はい。でも今度は、声、だったような気が」
歯切れ悪い答えを返して、葉子はさっきやったのと同様に空気の塊を正面に飛ばした。一時、大きな穴が空いたがまたがらがらと上から岩が転げ落ちてきて塞がってしまう。
「ね、ねえ。もしかしたら……」
名雪が葉子と祐一の顔を順に見て、それから岩壁に視線を戻した。
「そうだな。崖崩れで人が閉じ込められてるのかもな」
祐一は持っていた両刃の剣を構え、振り下ろして岩を砕こうとしたが、あっさりと弾かれた。扱いに慣れていないせいか、柄を握る両手が痺れただけだ。
祐一は代わりに声を張り上げた。
「おーい。聞こえるかー」
「だいじょうぶですかー」
名雪も続いた。
葉子はびっくりしたように口を丸くして、ふっと笑み、二人のあとに声をあげた。
「誰かいるのでしたら、返事をしてください」
これ、ひょっとして……。
三人の声が、今、しっかりと郁未の耳をついた。
外にいるのって、まさか……。
郁未は声を出そうとして、「う……」と呻き声にしかならなかった。
視界の闇が晴れない中、郁未はせいいっぱい目を見開いて、地面に両腕を立てた。渾身の力でどうにか上体だけを起こし、しばらくその体勢のままでいて、すると、また声が聞こえてきた。
懐かしい声だと思った。
郁未は思いっきり息を吸い込んだ。きっとこれが、最後。これが最後の声。私の最後の言葉。
郁未は全力で息を吐き出した。
「葉子さん……!」
葉子の顔色が変わった。ぐっと息を詰まらせたのが祐一にもわかった。葉子はすこしの間硬直していて、次に、突き動かされたように拳で岩を叩き始めた。
「郁未? 郁未ですか? そこにいるんですか?」
祐一は耳を疑った。「……郁未、だって?」
そんな祐一のつぶやきには目もくれず、葉子は矢継ぎ早に言葉を吐く。
「どうしたんです? なんでそんなに苦しそうなんです? ケガをしてるんですか? 誰かに襲われたんですか? 崖崩れに巻き込まれたんですか? どうしたんですか、なんで返事しないんですか!」
不可視の力を行使し、葉子は必死の形相で何度も岩を砕いた。けれど入り口は開かない、岩はほんのすこし崩れるだけでまた元の姿に戻ってしまう。葉子の顔が苦悶に満ちる。
祐一と名雪は、そんな葉子の様子を黙って見守ることしかできなかった。
「なんとか言ってください! なんで何も答えないんですか! たちの悪い冗談ですか? 私をからかって遊んでいるんですか? そうなんでしょう? そうに決まってますよね? お願いですから何かしゃべってください、郁未!」
郁未は驚いていた。葉子さん、私のこと呼び捨てにしてる……。前は、さん付けで呼んでいたのに。
それでふと、郁未は、葉子と始めて出会ったときのことを思い出した。葉子さんはいっつも慇懃な口調で、なんか偉そうで、ちょっと浮世離れした感じで、なに考えてるのかぜんぜんわかんなくて。そうだった。鹿沼葉子という人はそういう人間だった。
葉子は幼い頃、母親に連れられてFARGOに入信し、それからずっと施設で育ってきたのだ。外界には出られず、閉鎖的な空間だったFARGOの施設が、彼女の世界の全てだった。
そんな中で、郁未は彼女と出会った。
あはっ……そっか。郁未は静かに瞳を閉じる。葉子さん、FARGOが一度なくなって、外の世界に出られて、変わったんだ。
私のこと、呼び捨てで呼ぶようになったんだ……。
郁未の身体がゆっくりとかたむき、ことん、と横に倒れる。そのまま身じろぎひとつしない。感謝するよ、葉子さん。これはきっと、私にとって、いい思い出になる。
思えば私は、これまで生きてきて、事あるごとに後悔していた。だからすぐ忘れようとしていた。嫌な過去は心の奥に眠らせて見ないようにしてきた。
そうするうちに、彼女――ドッペルゲンガーが現れるようになった。彼女は私の嫌な部分、嫌な過去そのものだった。だから私は、彼女のことも見ないようにしてきた。
「郁未……お願いです。お願いだから。頼むから、なにか言ってよ……郁未っ!」
葉子の声はとても遠くに感じられて、もうほとんど聞き取れない。ありがとうね、葉子さん。私、あなたのこと好きだった。
郁未の呼吸が細くなり、止まる。私、あなたにも感謝してるよ。ありがとうね、ドッペルゲンガー。私はあなたのことも好きになれる。
今度はもう、拒絶しない。もう差別はおしまい。
嫌な想い出も、大好きな想い出も、全部いっしょに受け入れるから――
郁未の鼓動は停止した。
葉子はいつまでも声をかけ続けた。答えがなくても、なにも音がしなくなっても、そうすることが自分の仕事であるかのように葉子はその名を呼び続けた。
葉子たち三人がこの場所をあとにしたとき、すでに、外では雪がやんでいた。
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