倉田佐祐理が乗り込んだエレベーターは、今ようやく地下一階に到着していた。さっきまで地震のために安全装置が働き、動作を停止していたのだ。
扉が開いても、佐祐理は外に出ることをしなかった。身体が重くて動けなかった。シュンに撃たれた左太ももと右肩の傷には、それぞれ制服のリボンと髪のリボンを包帯代わりに巻いていたが、気休め程度にしかなっていない。
エレベーターの床に長い間座っていたせいで、制服のスカートはすっかり赤でぐしょぐしょだ。
あはは……佐祐理としたことが、油断しちゃいましたね。
地震のことはじゅうぶん予想できたはずなのに。だけど自分は失念していた。計画が順調であったことで、気の緩みを生み出していた。
佐祐理もまだまだ甘いということでしょうか……。やはり氷上シュンはキュレイシンドロームが発動した時点で始末しておくべきだった。やれるチャンスはいくらでもあったのに。
にもかかわらず、自分はシュンを始末するどころか、目の前でぺらぺらと聞かれもしない計画の全容を語っていた。反抗されるのは目に見えていたのに。この計画――記憶操作の事実を知ったら、シュンは必ず自分を消そうとする。明白だったのに。
だというのに自分は調子に乗って、結果この様。
けっきょく、佐祐理は冷静になりきれず、冷酷にもなりきれていなかったんだ。
「ごめんね……」
ごめんね、一弥。お姉ちゃん、もっとしっかりしなきゃなのに。佐祐理は、一弥が自慢できるお姉ちゃんにならなきゃなのに。
こんなんじゃ、会わせる顔がないよね……。
佐祐理はどうにか動く右足だけで立ち上がり、壁沿いに廊下を歩き始めた。結構な時間をかけて管制室の扉の前に立ち、倒れこむようにして中に入った。
すぐに近くの長机へと寄りかかり、ほっと一息つく。
一弥……。もうちょっとだからね。もうちょっとで会えるからね。そしたらなにしよっか。なにしてあそぼっか。なにかして欲しいことある? なんでもいいよ、お姉ちゃんに言ってごらん。
椅子の上に倒れこむように腰を落として、背もたれに体重をあずけた。たちまち赤黒く染まっていくシートなど、佐祐理は気にもとめなかった。
うん、そうだね。たくさんの駄菓子、また買ってあげよっか。広いお屋敷でかくれんぼしよっか。そうだ、一弥、前に水鉄砲で遊びたいって言ってたよね。お姉ちゃんと撃ちあいっこしよっか。あはは、負けないよ。お姉ちゃん、こう見えても運動神経いいんだから。
深く息を吸い込み、はあっと吐き出して、身体を前に倒した。机に肘をついて、手の甲を額に当てて、また息を強く吐き出した。
白い息。強く吐いたつもりだったけれど、か細い息だった。
一弥……。会いたい、はやく会いたいよ……。
そのとき、こつん、と佐祐理の肘になにかがぶつかった。どうもそれはスイッチのようだった。それで正面のコンソールがぱちっと光り、どこかの映像が流れ始めた。
佐祐理は自分の手の甲の隙間から、ぼんやりとそれを眺めた。
そこに映っていたのはプレハブ小屋のあった場所だった。おそらく監視カメラの捉えた画像だろう。
更地になったその場所は、今やもう雪原のようになっている。そこに、ひとつ、影が差し込んだように見えた。
「あ……」
生徒が誰か、雪原に到着したところだった。
「舞……」
川澄舞がそこに立っていた。
佐祐理は画面を凝視する。舞は満身創痍の様子で雪の中に足を踏み入れ、時に倒れそうになりながら、必死に雪原の中央を目指していた。通ったあとには、赤い斑点(これは……血?)がぽつぽつと浮かんでいた。
舞は、ちょうどこの部屋の真上に来るように動いていた。
なにをするつもりなの、舞?
舞は雪原の中央に到着すると、途端にがくんと膝を折り、そのまま四つん這いの体勢を取った。
それきり動かなくなった。糸が切れた人形のように、ぴくりともしない。
動くことを放棄したみたい。
しかし、佐祐理には、こう見えた。
舞は、何事かを始めようとしている。
佐祐理は舞の様子をただ静かに見つめていた。
川澄舞はまだ動こうとしない。この場を離れようとしない。
洞窟へはもう、戻る気はなかった。どうせ道は閉ざされている。それに、体力的な問題もあった。この場所にたどり着くだけで精一杯だったのだ。
だったら……と、舞はうすく笑った。
洞窟ではなく、ここから佐祐理の元に戻ればいい。
舞はゆっくりと瞳を閉じた。はあはあと荒かった呼吸を整え、ぎりっと奥歯を噛んで消えそうになる意識をつなぎとめ、暴れる動悸をどうにかゆるやかにした。
かなりの時間を、舞はそうしていた。
佐祐理……。ちゃんと無事でいる? いつものように笑顔で、穏やかで、優しくて、ちょっと悲しそうな瞳で誰かを見つめて、でも元気にしてる?
心配。とても。だから、すぐ戻る。
佐祐理はなんだか脆くて、儚くて、放っておけないから。笑顔の仮面はとても強固だけど、その内側はなんだか弱くて、辛そうで、ぼろぼろな感じがするから。
だからすぐ戻る。
私が側にいる。
私は佐祐理から、もう、たくさん助けてもらったから、だから今度は私が助ける番。私が、佐祐理を守る番。
佐祐理にとってはお節介かもしれないけど。でも、私は、佐祐理の側にいる。
そう決めたから。
だって、私の意志は、佐祐理が好きだっていうこの気持ちは、誰にも侵せないんだから……。
舞は瞼を開けた。意を決して右腕を頭上に押しあげ、こつんと拳を地面に打ちつけた。じゃり、と雪と土の混じりあう音がする。もう一度、今度は殴りつけるように勢いよく拳を振るった。
どん、と地面がわずかに陥没し、それと同時に舞の背後に魔物が現れた。
「……っ!」
一瞬だけ意識が飛んだ。これでもう精神のすべてを消費してしまったようだった。
舞は唇を千切れるくらい噛み締める。舌の先に血の味がした。
まだ大丈夫、まだいける。舞は魔物を中空まで上昇させ、一気に下降させた。
どごん、と魔物が地面に体当たりした。はらはらと粉雪が舞い、土の地面が覗き、そこにいくぶんへこみができる。
魔物が受けた衝撃が立ち返ってきた。舞の脳が揺さぶられ、苦痛が身体の隅々まで跳ねた。
『ね……お姉ちゃん』
舞はまた、同じことを繰り返した。どごん、どごん、と工事現場のような音が静かだった空気を揺るがせた。地割れを作り、雪と土の混じった煙を吹き上がらせながらその行為を続けていく。それにつれ、煙をかぶった舞の全身が汚れていく。
『お姉ちゃん……なんでそんなに、あの人のことが好きなの?』
(わからない。そんなの考えたこともない)
体当たりを続ける魔物――舞の幼い頃の姿をした少女が、真ん丸い黒目がちな瞳で、雪と土まみれの舞の横顔を眺め、語りかけていた。
『友達だから、好きなの?』
(わからない)
『なにか恩があるから、好きなの?』
(わからない)
少女の横で、舞は素手で地面をひっかき始めた。掻いて掻いて、すこしずつ掘り進んでいく。皮が擦り剥けていく、がきっと石が当たって、爪がはがれた。でもやめない。
『わからないのに、なんで好きなのかな』
(わからない。そんなの関係ない)
『好きって……けっきょく、なんなのかな』
(わからない。でも、そんなの、大したことじゃない)
『……そっか』
少女がほほえんだ。その顔がうすぼんやりと蜃気楼のように揺れていた。少女が体当たりを続ける、すると今度は電波の調子が悪いテレビみたいにして、だんだんと姿が左右にブレていった。
『私も、お姉ちゃんのこと、大好きだよ』
少女は今までで一番高く浮き上がり、急激に地面に追突し、あたりに大きな音を轟かせた。広い範囲にクレーターを作った。直後にスコールのような土砂が天から降り注いだ。
スコールが晴れた頃には、少女の姿は消えていた。
舞は黙々と土の地面を掘り返す。自分の姿もまた、足元から消えかかっていることも知らずに。
そのとき底のほうに黒いものが見えた。地下の天井のようだった。鋼鉄製の板のところどころにヒビが入っている。少女の体当たりの影響で、そこは今にも崩れそうだった。
もうすこしだ、もうすこしで佐祐理の元に戻れる。
舞は傷だらけになった指をぐっと折り込み、拳を作って、風を切る勢いで一気に振り下ろした。
だが、しかし、舞の拳は空振った。
すでに、舞の拳はそこになかった。手元すら消えかかっていた。
舞はそれでも地面の遥か先を見通しながら、拳を振り下ろし続けた。
「もういいよ……。もういいから……」
佐祐理は正面のモニタを恐々と抱きしめた。
「お願い……もうやめて……」
映像の中の舞は、もう見る影もないほどに土砂まみれだった。徐々に、体全体が薄らいでいた。舞はそれでも自分の行為をやめようとせず、一心に下だけを見つめていた。
佐祐理だけを見つめていた。
ずっと、ずっと、身体はもうほとんど失いかけているのに。
「舞……どうして……」
そして、モニタは舞の姿を映さなくなった。
そこには、もう、誰もいなくなった。
佐祐理はしばらくモニタから身を離さず、すこしだけ泣いた。
「あはは……なんで」
こんな感情、忘れたはずなのに。
涙が流れたのは、ひさしぶりのことだった。
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