洞窟全体が崩れ出してきた。ぱらぱらと降りかかる岩屑を全身に受けながら、天沢郁未――ドッペルゲンガーは地面を這っていた身体を止めた。

「くぅ……っ」

 ひどい揺れだ。とんでもなく傷に響く。郁未は銃創が浮かんだ制服の上から、ぎゅうっと胸を抑えた。その奥にある心臓まで鷲掴むように。

 出血がまた激しくなってきていた。手をあてがったくらいでは止血にもならない。もう、自分の命は長くないと、いやがうえにも認識させられる。

「く……はあっ」

 郁未は首を持ち上げた。左右を見比べる。ここはどこらへんだろうと思って、左のほうの道の先に、岩壁が見えた。天井が崩れた様子で行き止まりになっている。

 舞と争った場所だった。その岩壁の向こうは、神社に続いているはずだ。

 腹這いで、気づかぬうちにこんなところまで進んでいたらしい。どうせなら……と、郁未は行き止まりの場所まで行こうとしたが、自分の両足はやはり痺れたように動かない。

 郁未は腕だけで移動を開始した。

 依然続く縦揺れのせいで、方向感覚さえあやふやになっていく。もどかしいくらいゆっくりと、郁未は前進した。そこは、ほんのすぐ近くに感じるのに、やけに遠い。

 行き止まりの場所はけっこうな厚さの岩が積み重なっていた。けれど、もしかしたら、不可視の力で壊せるかもしれない。この地震で地盤は緩んでいる、ならば道が開けるかもしれない。

 自分で塞いでおいて、今さらって感じだけど……。

 郁未は自嘲する。今さら外に出てなにをしようというわけじゃないけど、でも、死ぬ前に何事かやっておきたかった。そんな衝動に駆られていた。

 これは懺悔かもしれない。自分がドジを踏んだせいでこんな無様な格好をさらすハメになって、それでもうひとりの私まで巻き添えにしてしまった。自分が、佐祐理から持ちかけられた提案――名も知らぬあいつを生き返すという、そんな冗談みたいな提案で迷ったせいで、もうひとりの私までこの私とともに死んでしまうことになる。

 だから今の悪あがきのような自分の行動は、もうひとりの私に対する懺悔なのかもしれない。そう考え、納得しそうになって、そんな自分をあざ笑った。

 情けないったらありゃしない。

 だけど、もうひとりの私にさえ見捨てられた今の自分には、お似合いかもしれなかった。

 やがて、郁未の伸ばした手がざらっとした岩壁の感触に突き当たった。

「……ふう……か、はっ」

 呼吸がひどく不規則になっている。こんな調子で、不可視の力はあと何回撃てるだろうか。郁未は意識を手の平に集中させる。

 あはっ、一発でも撃ったら、意識が途絶えてそのまま死んじゃうかもしれないな……。

 一発、撃った。目の前の岩壁が弾き飛んだ。精神をごっそり持っていかれたが、どうにか気を失わずに済んだ。

 まだだ。まだぜんぜん、道は開けない。

 もう一発放とうとして、そのとき声が聞こえてきた。

(……もう、いいよ)

 頭の奥底から、滲み沸いてくるようにその声は発せられていた。

(ありがとうね。あなたにばかり苦労させちゃって)

 もうひとりの私が、すまなそうな声色で話しかけていた。

 郁未には信じられなかった。

(あ、あなた……どうして)

(? なにが?)

 きょとんとした声が返ってくる。

(な、なにがって、私、あなたのこと何度も呼んだのよ。なのにぜんぜん……)

(ああ、それ、たぶん銃で撃たれたときショックで気絶してたからだと思う)

(…………)

 頭が真っ白になった。

 全身が脱力し、そらからふつふつと怒りが込み上げてきた。

(……バカ。死んじゃえ)

(な、なによいきなり……)

(ふん)

 なんなのよ、まったく。むかつくったらありゃしない。

 泣きたいくらいホッとしている自分が、こんなにも許せない。

(バカ、ドジ、マヌケ、死んじゃえ)

(なっ……もう。どうしたのよ)

(ふん)

 ぜったい……許さないんだから。

 そうしてドッペルゲンガーは天沢郁未に、久方ぶりに身体を返した。








「……もう、歩けそうですね」

 鹿沼葉子は、しがみついていた大木からぱっと身を離した。ささくれだった樹皮が手の平を傷つけていて、そこに寒さが加わっていやに疼いた。

「なんだったんだ、今の?」

 祐一が頭を振りながら立ち上がった。

「さあ……私にもさっぱりです」

 とんでもない揺れだった。このまま何もかもがなくなってしまんじゃないかと危惧するくらいに。自分らはこの島と一緒に消えてしまうんじゃないかと、何度もそう思った。

 けれども今は、どうにか歩けるほどに収まっている。

 地震は一時的なものだったのだろう。ただ、またこれからもやってくるのだろうと葉子は感じていた。そんな気がしてならなかった。

 祐一が、しゃがみ込んでいた名雪の手を取って立ち上がらせた。

「では、行きますか」

 歩き出す。そろそろ目的地のはずだ。葉子は予想していた。天を覆う雪雲の発生地、そこにはおそらく誰かがいると。

 祐一と名雪が後ろからついてくる足音を確認しながら、葉子は直進していく。しばらくすると、行く手にぽっかりと空間が空いた。白く霞む森の景色に、その場所はいやに浮いて見えた。

 はたして、そこには女の子がひとり、うずくまっていた。

「……祐一さん、名雪さん、下がって」

 葉子は立ち止まり、右腕で後ろの二人を制する。

「どうしたんだ?」

 祐一が葉子の肩越しからひょいと首を出し、女の子のトレードマークの三つ編みを視界に入れたときには顔をしかめていた。

 相手との距離はまだけっこう離れている。向こうはこちらに気づいていないのか、三つ編みの先を地面に垂らしたまま、じっと下を見つめるだけ。そのまなじりは曇っていて、そして、死んでいるように濁っていた。

「あいつが、雪を降らせたのか?」

「知りません」

 が、祐一のその問いは、あの彼女に妙にマッチしていると思えた。

「まあいい。名雪、葉子さん、戻るぞ」

 祐一が低い声で促した。名雪の手を取り(いえ、最初から繋いでいましたね)、強引に後ろにひっぱっていく。

「……祐一、待って」

 名雪は動こうとしなかった。

「あの子……」

 逆に名雪は、三つ編みの子のところに近寄ろうとしていた。

「なっ、おい、やめろ」

「だって祐一、あの子、なんか……」

「名雪さん。気になるなら、私が様子を見てきます」

 名雪を押しのけ、向こうに近寄っていく。

「おい、葉子さん!」

「祐一さん、名雪さんを頼みますよ」

「不吉なセリフ言うなよ!」

「冗談に決まってるでしょう。さっきも言った通り、様子を見てくるだけです」

 葉子は苦笑する。まったく、祐一さんはどうしてこう他人に対して心配性なんでしょうか。もうすこし自分自身のことにも気を使って欲しいものです。

 葉子はちらと祐一の隣に立つ名雪を見やった。心配そうな顔をしていた。

 祐一さん、あなたはもっと自分自身のことを知るべきです。じゃないと、そのうち名雪さんを泣かせることになりますよ……。

 葉子は視線を前に戻した。先に言った通り、三つ編みの彼女に対し特に争うという気はない。それに、そんな必要はないことも知っていた。

 今の彼女は、そう、あのときの郁未に似ていた。FARGOの施設で、名も知らぬ少年を失ったときの郁未に。

 三つ編みの彼女はもうすぐそこだった。と、そのとき葉子は気づいた。彼女の隣に、剣が刺さっている。見覚えがあった、これは、川澄舞が所持していた両刃の剣だ。

 その刀身の周辺だけ、なぜか雪が積もっていなかった。わずかに空気の流れを感じる。風を纏っているのだろうか。風が、あたりの雪を押しのけているように見えた。

 そして、地肌が覗けるその場所には、鈴がみっつ転がっていた。

 葉子は彼女の前に立ち、それでも彼女は顔も上げなかったが、言った。

「あなた、名前は?」

「…………」

「しゃべる気力もないのですか?」

 彼女は微動だにしない。死人のよう。けれど、ときおり唇から漏れる白い息が、まだ彼女が生きていることを告げている。

「寒くなってきましたね。もう地面は雪でいっぱいです」葉子は淡々と言葉を投げかける。「あなたの身体も、雪でいっぱいになってますよ。いつまでそんなふうにしているつもりですか? このままだと、あなた、凍死しますよ」

「…………」

「なにがあったかわかりませんが、そろそろ立ち上がったほうがよくありませんか? 立ち上がって、それから歩き出したほうがよくありませんか?」

「…………」

「あなた、死ぬつもりですか? あなたが殺してきた人たちと同様、あなたも消えるつもりですか?」

 彼女の瞳はなにも映していない。それでも葉子はかまわず続ける。

「私はあなたに初めて出会ったとき、愕然としました。あなたからは驚異的な精神力――強い想いを感じたから。尊敬すら覚えましたよ。でも、今のあなたはもう見る影もない」

「…………」

「なんとか言ったらどうです? それとも、もう以前のような強さはなくなってしまったのですか?」

 彼女はただ地面を見下ろし続ける。

「そうですか。なら、いつまでもそうしていてください」

 葉子は突き刺さった剣の柄を取り、引き抜いた。風を纏った剣、名前をたしか、『ディオスの剣』。

 この武器は、人の命を代償にして初めて真価を発揮すると聞く。

 舞は、やはり神奈という子を殺したのですか……。葉子はぐっと唇を引き結んだ。自分が舞を止めなかったから、人がまたひとり、犠牲になったのだから。

 次に葉子は、彼女がさっきからずっと視線をやっている先――そこに転がっているみっつの鈴を手に取った。

 なんだろうこれは。ちりん、と振ってみる。なんの変哲もない音色だったが、頭の片隅になにかひっかかった。

 すぐに思い出した。そういえばあのとき、西の丘で折原さんに再会して、去り際にこの音色を聞いた気がする。

「あ……それ……」

 彼女がようやく顔を上げた。ゆっくりと、おそるおそる、こちらに手を伸ばしてきた。初めての反応だった。

「それ……返して……」

 曇っていた彼女の瞳は今は懇願の色を帯びていた。

「大事なものなのですか? ですけど、今のあなたには不要でしょう。そんな体たらくのあなたにとっては」

 葉子はすばやく身を返した。

「や、やだぁ……持ってかないで……」

 葉子は振り返りもしない。さっさと祐一たちの元に戻っていく。

「だめ……浩平の……浩平のもの……」

 そうして葉子は祐一たちを促し、来た道を戻ろうとして。

「う……わあああああああぁぁぁぁ!」

 切り裂くような泣き声が後ろから聞こえてきた。

「いいのか? 葉子さん」

「…………」

 祐一の言葉には応えず、代わりに葉子は自分の服の袖をまくり、腕をそっと手の平で撫でた。そこにはぽつぽつと鳥肌が立っていた。

 葉子は三つ編みの彼女に恐怖していた。

 彼女はあんな様子でも、以前とまったく遜色ない精神力を感じ取れたから。いったいどこからそれは湧いてくるのだろう。きっと彼女の記憶、経験した過去から来るものだと、漠然とだが察せられた。

 何年も、何年も、想像もできないほど強い想いを抱いていたに違いない。その想いがどういうものなのか、私には知る由もありませんが……。

 悲鳴にも似た泣き声は、しだいに嗚咽混じりになっていた。

「わ、わたし、やっぱりっ」

「名雪さん」

 葉子の鋭い視線を受け、引き返そうとしていた名雪が押し黙った。

「……これ、あげます」

 葉子はなだめるように言って、鈴をひとつ名雪に手渡した。

「祐一さんにも」

 そうして、三つの鈴がそれぞれ葉子たち三人の手に乗せられた。

「あと、これも」

 持っていたディオスの剣を、ふいに祐一の顔面めがけて突き出した。おわっ、と祐一が顔を青くしてのけぞる。

「刃先を向けるなよ……」

 祐一が疲れた様子でそれをぶん取った。

「これ……舞が持ってたやつか?」

「はい」

「じゃあ、これは?」

 祐一が鈴をちりんちりんと鳴らしながら聞いてくる。

「知りません」

 葉子は言って、歩調を速めた。それから、誰にともなく呟いた。

「悔しければ取り戻しに来なさい。いつでも相手になりますよ」








 寒い。岩肌は氷のように冷たい。体中の血を流し尽くしたみたいに、全身が寒くてたまらない。

 私――天沢郁未は、崩れた壁に背をつけてかなりの時間をぼんやりしていた。あたりは天井から落ちてくる埃やらなにやらで息苦しく、疲労とあいまって頭がよく働かない。

(地震……収まってきたんじゃない?)

(さあね。どーでもいいでしょ)

(よくないでしょ……外に出るって言ってたじゃない)

 実際、揺れは小さくなっている。なにが原因で地震なんかが起きたのか知りもしないけれど、収まってくれるならそれに越したことはない。自分らは洞窟の中に閉じ込められているのだ。崩れた洞窟と一緒にお陀仏、というのはあまりゾッとしない。

 だからこそ、目の前の壁をどうにかしなければならないのだけど。郁未はこうやって休んで気力を蓄え、不可視の力を使おうとしていたのだ。

(でもさ、この岩壊したら天井も落ちてきそうじゃない?)

(さあね。どーでもいいでしょ)

(よくないでしょ……私たちまでぺしゃんこになるじゃない)

(……ふん)

 ドッペルゲンガーの口調はなんだか苛立たしげだ。

 郁未は大きく息を漏らして、こつんと後ろ頭を壁にぶつけた。気を紛らわせるように何度もそうした。

 ずきずきと痛む全身が、残った気力さえ削いでいく。せっかく気力を蓄えても、あとからあとからこぼれ落ちていく。

 辛い状況だ。外に出られるかもわからず、そして、命の火も確実に消えかかっている。常人ならとっくに死に至っている胸の傷が、今の郁未には恨めしかった。どうせなら、こんなふうに悪あがきできる間もなく死んでしまいたかった。

(もし私が消えたら、半分受け持っていたあなたの気持ちが、あなたの元に返っていく。痛みも、悲しみも、全部)

 ふいにドッペルゲンガーが言った。

(心配よ。ほんと、心配。あなたひとりでちゃんとやっていけるか、すっごく心配)

(……よけいなお世話よ)

(そうね。よけいなお世話だったのかもね)

 そして――沈黙が訪れた。

 彼女は、それっきりだった。ドッペルゲンガーの声はもう聞こえなくなっていた。耳がおかしくなったかと錯覚するくらい、頭の中が唐突に静かになった。

(……え、あれ?)

 郁未がこうやって答えるよりも先に、ドッペルゲンガーの言葉、息遣い、自分の頭に潜んでいるという実感、なにもかもが感じられなくなっていた。

(え……うそ。ちょっと、ねえ――)

 言葉の途中で、郁未はひくっと喉を鳴らした。

 さっきまで自分が感じていたものとは比べ物にならない痛みが傷口を襲った。郁未はたまらず身体をくの字に曲げた。

 肩が震える、膝ががくがく鳴る、噛みあわない奥歯で懸命に歯を食いしばる。もう全身がひどい痙攣を起こしていた。

 胸からどっと血が流れた。痛い、苦しい。涙がとめどなく溢れてくる。

 だがそれは、傷の痛みのためだけではなかった。襲いかかってくるのは過去の記憶、少年との思い出、友達、好きだった人、みんなみんな自分を置いて死んでいったこと。そこから生まれる感情が郁未の心をずたずたに切り裂いた。

 視界がぐにゃりと歪む。たくさんの涙でもう、なんにも見えない。

 耐えられないくらいの喪失感が、今の郁未の全てになった。

「……ばかっ」

 ドッペルゲンガーの、ばか。

「お別れの言葉くらい言ってから、いなくなりなさいよ……」

 郁未は泣きながら、だけど、笑っていた。

「あはっ……でも、必要なかったか」

 どうせ私も、もうじきいなくなる。

 そしたらまた、みんなに会えるかな……。




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