第9幕 5日目午前




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 ボクはまだベンチに座って待っていた。

 正面では、駅前のロータリーから長い長い人波が吐き出されている。そこから絶え間ない雑踏がボクの耳に入ってくる。

 さまざまな場所を目指して行き交う人々、いろんな格好をしたいろんな人たちを、ボクは眠たい瞳でぼんやりと眺め続けていた。

 みんな……どこに行くんだろう。どこに向かって歩いているんだろう。

 自分の家? 誰かのところ? 好きな人のそば? 目的、意思、期待――そんな想いを抱いて、なにかやらなきゃいけないことでもあるのかな? そんなに急いで、焦って、一直線に、わき目も振らず、後ろなんか気にもせず。

 みんな、なにをやりたいの? そんなにしてまで、なにか成し遂げたいことでもあるの?

 わからない。だけど、たしかにその人たちはなにかを目指して歩いている。しっかりとした目的意識を持って進んでいる。

 そう思うとボクは不安になる。

 ボクもそう、どこかに向かわなきゃいけないんじゃないかって不安になる。

 ただ待っているだけ……うぐぅ、こんなんでいいのかなあ、ボク。

 そろそろ歩き出したかった。

 だって待っているだけなのはやっぱり不安で、イライラしちゃって、いてもたってもいられなくて、身体の奥がなにかこうぐっと熱くなる感じで、ちょっと辛くて、苦しいから。

 こうしてベンチに座っているだけだと、なにか……そう、ボクの内から生まれてくる感情と、それと同様に、どこか他のところから入り込んでくる感情があるのがわかる。

 これはボクの感情なのか、それとも、誰か違う人の感情なのか。

 その感情は時に楽しくて、時に辛くて。

 とっても嬉しかったり、とっても悲しかったり。

 涙が出そうなくらい気持ちよかったり、死んじゃいたいくらい痛かったり……。

 そんなふたつの感情が、ボクの身体に入り込んでくる。

 なんだろう、これ。

 うぐぅ……わかんない。

 でも、そのふたつの感情は、ぜんぜん違うようで、似ても似つかないほど違うように感じて、でも同時に、なんか似てるなって思う。

 楽しくて、でも、辛くて。

 嬉しくて、悲しくて。

 気持ちよくて……痛くて。

 こんなにも違うのに、なんで似てるんだろう。

 比べてみるとぜんぜん違うのに、なんで同じように感じるんだろう……。

 ねえ、祐一君。

 ボク、暇だったからちょっと考えてみたんだよ。暇つぶし、そう、それ。あまりボクらしくないけど、頭使ってがんばって考えてみたんだよ。

 そしたら、祐一君に聞きたいことができたんだ。

 月宮あゆの、一世一代の疑問。なんちて。

 うぐぅ……。

 で、ボクの考えてたことっていうのはね、ええと……そうそう、祐一君がいつか言ってくれた「願いを叶えてくれる」っていうもの。

 願い……叶えてくれると嬉しいな。たしか三つまでだよね。あ、でも、もう二つ叶えてもらったんだっけ……じゃあ残りひとつ。ふふ。なんにしようかなあ……その願いってなんでもいいのかなあ。祐一君ができることならなんでもいいんだよね。なんでも願いを叶えてくれる、ふふ、それってけっこう奇跡だよね。

 たとえば、ボクがこうして待っていると、それだけで奇跡が起こるのなら……それってすっごくラッキーだよね。

 もう踊り出したいくらい嬉しい。

 でも、そのぶん、もし願いが叶えられなかったらって思うと、すっごく悲しい。ボク、たぶん三日くらい寝込むよ……。

 だから、願いが叶うのを待っているのは、嬉しくて、そして同じくらい悲しい。

 奇跡って、ちょっと怖い。

 ねえ、祐一君。

 なんでなのかなあ。

 ボクがこうして待っているっていうのが、そうすることで奇跡が起こるっていうことが、こんなにも楽しくて、嬉しいはずなのに。

 なのになんで、こんなにも、辛くて、怖くて、切ないのかなあ。

 なんで胸が、こんなに熱くて、痛くなるのかなあ……。








 相沢祐一は自分の手にあるものを見た。その天使人形から、あゆの声が聞こえた気がしたのだ。

 俺もヤキが回ったかな……。こんなときに幻聴なんて。いや、こんなときだからこそかもしれない。あゆの顔が見たい、会いたい。ふと、強くそんなことを思う。

 あいつは今頃どうしているのか。まあ、どうせまたいつものベンチに座ってタイヤキ(やっぱ盗品だろうな……)でもむさぼっているんだと想像つくが。

 祐一の視線がふたたび落ちる。もう一度手にある天使人形を凝視した。何回か握ったり強く押したりしてみる。

 これはあの目つきの悪い男――往人からもらったものだった。祐一は今となっては遺品といえるその人形を、顔の前までもってくる。

 なんとなく空に透かして、見つめる。

この人形には見覚えがあった。いや、正確には自分の知っている人形に似ていた。遠い昔、子どもの頃にゲーセンで取って、あゆに贈ったものだ。

 たしかあれは、タイムカプセルみたいにしてどこかに埋めたはずだった。この人形は、しかし新品のように新しい。だからこれは自分の知っている人形であるはずがなかった。

 人形をポケットにしまった。すると今度は頭上を覆う空が両目に映る。

 怖いくらい純粋な白、そんな雪雲が、締めたカーテンのようにしてその奥の空を隠してしまっている。そこから絶えず大粒の雪が降りてくる。

 突然の異常気象? あの、三つ編みの女の子が操っていた霧みたいなものだろうか? 

 その発生源だったろう場所を、祐一たち三人は目指していた。葉子を先頭に、祐一と名雪が肩を並べて追うかたちで、すでに森深くまで入り込んでいる。

 頭上の雪雲……霧、か。霧で思い出した。そういえばあの三つ編みの子は今、どうしているだろう。

 まあ、できればもう二度と出会いたくはないのだが。

 さくさく、と道に積もった雪を踏み締めて進んでいく。それにつれて大小の足跡が残される。足が冷たい、寒い、手の平がかじかんでくる。

 三人共に、白い息を吐き出しながら黙々と歩を進めていた。

 あたりは静かで、人の気配なんかありはしない。これまでずっと誰とも出会っていなかった。三つ編みの子は出てこない。

 ホッとすると同時に、なんとも言い表せない鈍痛が胸を苛んだ。

 この島にはもう、どれだけの生徒が残っているのだろう。わからない。定例の放送はまだ始まっていない。まだ、朝じゃないのか。それとも、もう朝なんて来ないのか。白一面の空を見上げて思ってしまう。

 朝なんかずっと来なくていい。放送なんて、死んだ人の名なんてもう、聞きたくない。

三十人近くいた生徒は、そのほとんどがすでに死んでしまった。知らない人たち、たくさんの人たちが。

 香里、真琴、天野、栞……。親しかった者も例外なく死んでいった。

 往人、観鈴……。この島で初めて出会い、知り合った者も死んでいった。

 いったいこの島には、俺たち以外にあと何人が生き残っているのだろう。

 俺たち以外――そう。俺たちはまだ、生きていた。

 自分の前を進む葉子さん、隣にいる名雪はまだ、生きていた。

 でも、だったら、もしも葉子さん、名雪までも殺されたとしたら。やる気になっている誰かが殺したとしたら。

 俺はそいつを許すことができないだろう。そして、おそらく俺は、そいつを殺すのだろう。復讐という名のもとに。

 おまけにその復讐の相手というやつは、この馬鹿げたゲームを始めた、佐祐理さんや舞にも当てはまるわけで――

「復讐……か」

「? なに?」

 名雪が小首をかしげてこちらを覗きこんだ。その拍子に、頭に積もっていたわずかな雪がはらはらとこぼれ落ちた。

「いや……」祐一はごまかすように名雪から視線を逸らす。「あいつ、けっきょく来なかったなって」

「折原君のこと?」

「ああ」

 祐一はうなずいた。折原浩平という男の口から、俺は復讐という言葉を聞いた。探している人がいると言っていたが、出会えたのだろうか。

 探している人。復讐の相手。それとも守るべき相手?

 復讐の相手だったら、あいつは復讐を果たそうとするのだろう。守るべき相手なら、その人の側にずっとついていてあげるのだろう。

 どっちしろ、祐一はかなり気になっていた。

 その人を見つけ出したとき、あいつはどんな気持ちでいたのか、あいつはどんな行動に出たのか。そして相手は、浩平に、どんな言葉を投げかけ、どんな出迎えをしたのか、と。

 ちら、と隣の名雪にふたたび視線をやった。

 名雪が顔に「?」を浮かべて、それからしばらくの間、時が停止した。ただ見つめるだけの祐一を、名雪は困ったように見返し、照れたように瞳をくるくるさせた。

「……寒くないか?」

 そんな当たり前のことを聞いてしまった。

「え、う、うん。ちょっと寒いかな」

 名雪は言って、はあっと手の平に息を吹きかけた。名雪の唇の色はもう薄くなっていて、顔色もすこし青ざめている。指の先も、赤くなっていて痛々しい。

「……手、つなぐか?」

 違うだろう。バカか俺は。

「……うん」

「…………」

 本当に俺はバカだ。祐一は名雪の指先に触れ、手を、そっと握った。思ったよりずっと小さくて、冷たかった。前に名雪を背負ったときはあんなにも熱かったというのに。

「……なんだか今日は暑いですね。特に後ろが」

 葉子さん、うるさい。

 それきり三人の会話は途切れた。葉子は歩調を緩めず、その後ろを祐一と名雪は二人してうつむき気味に歩いていく。

 名雪の手は本当に冷たかった。血が通っていないみたいだと、大バカなことを思ってしまった。

 そんなふうに祐一は、名雪の手のひらの感触、それからゲームのこと、死んでいったみんな、観鈴を殺した舞、そして佐祐理のことを考えていた。

 これから自分はどうするのかと問いかけた。

 もしみんなのように名雪まで殺されて、こんなふうに冷たくなってしまったら。

 俺は、佐祐理さんを、殺すのか――?








 地表から数十メートル深くに位置する一室で、氷上シュンと倉田佐祐理のふたりは固まったように動かず、対峙していた。手にはそれぞれ拳銃を握って、銃口はお互いの顔を狙ったままで。

 いつまでこの状態は続くのだろう。打破する機会は本当に訪れるのか。シュンはじっとりと汗ばんでくる手の平の不快さに顔をゆがめ、けれども視線はしっかりと佐祐理を射通していた。

「氷上シュンは偽名です。あなたの本当の名は、城島司」

 佐祐理がその言葉を強く口にして、静寂を破った。

「自分の居場所に帰ろうとはせず、自ら望んで永遠の世界に在住し続け、FARGOのために研究を続ける者……いえ、もしかしたらそれはご自分自身のためでしょうか。そこまで佐祐理にはわかりませんが」

「……調べたのか」

「はい。苦労しましたよ、だってFARGOの施設でさえちゃんとしたデータが存在してなかったんですから」

「それなのに、よくそこまで突き止めたね」

「あははーっ。実を言うと、半分以上は佐祐理の想像だったんです。でも、どうやら当たらずも遠からず、といったところでしょうか」

 シュンは笑った。虚勢ではなく、純粋に感心したのだ。佐祐理というひとりの人間に対して。

「キミも存外、いい性格をしている。けっきょくは僕もキミの計画の一部でしかなかったわけか」

「それは今さらですよ。シュンさんだってそうでしょう? 佐祐理だってあなたの計画の一部でしかないのでしょう? ああ、そういえば、その計画がなんなのか佐祐理はまだ教えてもらっていませんでしたね」

「キミは、弟さんを生き返らせたい。以前にそう話していたね」

「はい」

「だったら……」

 シュンはぐっと下唇を噛み締める。

「今のこの状況はなんだ? この永遠の世界が、なんでこんなふうになっているんだ!」

 モニタの映像には雪がしんしんと降り積もる光景だけが映し出されている。森や集落はもう完全な雪景色、このまま島全土を覆い尽くすかのごとくその勢いは止まらない。

「それも佐祐理の計画のひとつだからですよ」

 佐祐理が口の端を吊り上げる。

 シュンはなにか応えようとして、けっきょくなにも応えられなかった。

「もう一度言いましょうか? 佐祐理は一弥を生き返らせるために、この世界を利用する必要があった」

 苦虫を噛み潰した表情でシュンは舌打ちする。

 違う。そんなことはもう知っているのだ。この永遠の世界で生徒たちを争わせ、命を落とさせる。現実の世界ではないからこそ可能になる違法行為だ。

 そして、互いに争うことによって弾けた生徒たちの想い、意志、生きていく中で消費するはずだった『運』を、ポットで眠る月宮あゆへと転送する。

 そうすることで、月宮あゆに奇跡を起こさせる。死んだ者を生き返らせる。

 人の死を覆すというのは簡単なことではない。それは、その者の運命だからだ。月宮あゆ個人の『運』だけで、運命までは変えられない。だから他の者の『運』も必要だった。

 このポット――運命改変装置によって、死という運命を改変する。

 人々の『運』、費えた『命』が、人の『運命』を修正する。

 これが、佐祐理の望んでいたこと。

 最初から納得済みだったことだ。

「僕が聞きたいことはそうじゃない。問題なのは、なぜ、この永遠の世界がこんなにも変わってしまったのかということだ。この穏やかで素晴らしかった世界を、雪景色なんてわけのわからないものに変えて……。くそ、いったいキミは、なにを狙っている?」

「はえー。どういう意味でしょう」

 ひどくイラつく。

「とぼけないでくれよ。キミは、この世界の崩壊を狙っているんじゃないのか」

 と、佐祐理の双眸に悪戯めいた光が灯った。

「シュンさん、それは被害妄想ですよ。何度言えばわかるんでしょうか。佐祐理は一弥を生き返らせるため、この世界を利用したに過ぎない」

「だから! そのためだけになぜこの世界が変貌してしまったのかを聞いているんだよ、僕はっ!」

「キュレイシンドロームですよ」

 佐祐理は、はっきりとその言葉を口にした。シュンがなにか反応する前に、ほとんど間をあけないで佐祐理が説明を始めた。

「鍵は全部で四つありました。永遠の世界を創造した長森瑞佳。創造主に選ばれた折原浩平。永遠の世界に魅入られその住人となったあなた、城島司。そして、そんなあなたに恋焦がれ、同時に恨み続けて、自身の記憶を消去しなかった里森茜。四つの鍵――キュレイシンドロームの鈴は、あなた方四人を象徴するメタファーです。一度でも『えいえん』に属した経験を持つあなた方が、この現象を引き起こしたんですよ」

 シュンは口を半開きにするだけで相づちも打たず、佐祐理のその説明を聞き入っていた。

「ただ……そうですね、佐祐理は謝らなきゃいけないですね。シュンさん、すみませんでした。ごめんなさいです。まさかこの世界にまで影響が及んでしまうとは思わなかったんですよ。佐祐理が望んでいたのは、永遠の世界ではなく、そこに集まった生徒たちを改変することだったんですから」

「……なんだって?」

 言葉の意味がつかめない。

「いえ、生徒たちだけではありませんね。ほかにも現実に生きる人たち、佐祐理に近しい人たちを改変したかった。佐祐理は、一弥の運命だけでなく、みなさんの運命も一緒に変えてしまいたかった」

 佐祐理の淡々と紡ぐ言葉に、シュンは一心に耳を傾ける。ざわざわとした気持ちを抱えながら。

「シュンさん、考えてもみてください。死んでしまった佐祐理の弟が生き返ったとして、それだけで本当に生き返ったことになると思いますか?」

 ひどく寒気がする。なんだ? 彼女は、なにを言っている?

「みんなは一弥の死を知っている。親族、友達、舞、祐一さん。シュンさん、あなたもです。なのに、一弥は戻ってくる。佐祐理たちのもとに帰ってくる。驚くでしょう? みんな、不気味がるでしょう? そしたら一弥がかわいそうでしょう? だから、あなたたちのそんな態度を改変する必要があった。一度は死んでしまった人が、しっかりと、日常へと帰れるように」

 シュンは目を剥いた。

 ここで、シュンはようやく佐祐理の言わんとするところを理解しかけていた。そして震えた。全身の肌がこの上なく警戒を発していた。

「それは、べつにたいそうなことじゃないんです。ちょっとだけみなさんの時間をいじくるだけで済むんです。みなさんの過去の記憶を、ほんのちょっと変えるだけで」

 佐祐理は、にこっと微笑んで、言った。

「あなたがたから『一弥の死』という記憶を消し去れば、そして一弥がそこにちゃんと存在してくれれば、過去の事実など無関係に、それこそが現実となる。佐祐理は、一弥を迎え入れる環境が欲しかったんです」

 シュンは完全に理解した。

 それはつまり、自分らの記憶を操作するということ――

「キュレイシンドロームとは、周囲の人すべてが嘘をつくことで、本人がそれを本当だと思い込んでしまうパラノイアのことです。妄想が真実となり、虚構が現実となる。言い換えれば、過去というものは、未来によって決定される。実際にもよくあることじゃないですか。戦争の歴史なんかがまさにそれでしょう? 戦争の歴史とは勝者が改変した記録なんですから」

 バカな……バカな! シュンは歯噛みする。理不尽さと、それ以上の怒りが腹の底から湧きあがってきていた。

「佐祐理の現実の中で、いえ、佐祐理を取り巻く人々の現実の中で、一弥の死は現実ではなくなる。あゆさんの力で一弥を生き返らせ、キュレイシンドロームの力で一弥を迎え入れる環境を用意する。これが、佐祐理の計画の全容だったんですよ」

「そんな、バカなこと……」

 記憶を操作される――それじゃあ、僕の今の記憶はどうなる? 僕の計画はどうなる?

 僕の望みは人々の記憶と、その者たちの思い出を、拠り所にしているというのに……

「……そ、そんなことが、許されてたまるかっ!」

 無我夢中で叫ぶと、弾みでシュンの身体がかすかに動いていた。向けていた銃口もわずかにずれる。佐祐理はまったく同時に、シュンと同じ動きをする。

 均衡は崩れない。

「許さなくても結構です。そんなもの元から期待してません。佐祐理は、ただ、一弥のためにこの計画を実行する。他のみなさんはどうだっていいんです。佐祐理は一弥さえ居てくれれば、それでいい。それだけでいいんです」

「キミは……川澄さんすらもう、どうだっていいのか」

「はい」

 即答。わずかな動揺すらなかった。

 均衡は、崩れる気配を見せない。

 佐祐理が、にっこりと、本当に屈託のない笑顔を作って、言った。

「佐祐理はちょっと頭の悪い普通の、でも、汚い女の子ですから」

 そのときそれは起こった。

 揺れだった。

 あのとき、結界が壊れたときを彷彿とさせる、とても大きな揺れだった。

 佐祐理がよろめいた。シュンもよろめいたが、ちょうどよく脇に機材が置いてあり、手をついて堪えることができた。

 佐祐理の注意が自分から逸れた。

 ようやく――本当にようやくのことだった。永遠に続くと感じていた均衡は、今、崩れたのだ。

 佐祐理が体勢を立て直したのはすぐのことだったが、シュンはすでに動いていた。地を蹴って横っ飛びし、機材の陰に隠れざま、銃口を佐祐理に合わせる。向こうが先に発砲してきた。だが機材が盾になり、ここまでは届かない。腕を突き出し、シュンが引き金を絞る。

 大きな揺れは、しかし、また起こった。照準が狂う。銃弾は佐祐理の髪を数本、薙いだだけになった。

 ぱんぱんぱんぱん、と連続してシュンは銃を撃った。どれも外れた。佐祐理はもう片膝をついて身を屈めていて、しかしあたりに隠れる場所はなく、ひと刹那だけ躊躇して、こちらに向かって弾を何度か発砲してから身をひるがえして駆けた。

 シュンは銃の連射を止めない。当たらない、くそ、落ち着け、冷静になって正確に狙え――一発が、佐祐理の左太ももを貫通した。

「……っ!」

 佐祐理の身体が前に傾いた。それを認めたときにはすでにシュンはふたたび引き金を絞っていた。

「うあっ!」

 佐祐理の右肩を貫いた。佐祐理の身体が今度は横に反転し、倒れた。

 まだだ、まだ彼女は生きている――シュンは引き金を絞る、倒れ伏す佐祐理に向かって何度も、何度も、けれどなにも起こらない。弾切れだった。

 急いで弾倉に弾を詰め込もうとして、焦りのせいか弾倉を取り落とした。

 ふたたび銃を構えたときには、佐祐理は足をひきずりながらエレベーターの中に入っていくところだった。

 銃弾はエレベーターの分厚いの扉によって阻まれた。電光板がエレベーターの上昇のマークを映していた。

 どうやら逃げられたらしかった。

「……はあっ」

 シュンは機材を背に、喉の奥から息を吐き出した。よほど緊張していたらしい。今は重い倦怠感が全身を支配している。

 彼女のことは、もういい。それよりも……

 地震は続いていた。シュンはよろよろと立ち上がり、足をもつれさせながらポットの前に立った。ポットの中には、まぶたを閉じ、すやすやと寝息が聞こえてきそうなくらい穏やかな顔をする月宮あゆが浮かんでいる。

「……また、役に立ってもらうよ」

 シュンはキーボードを打ちはじめた。

 地震はやまない。それどころかひどくなっていた。キーボードを固定できないまま、シュンは必死になってキーを叩く、必死に世界の改変を食い止めようとする……なぜだ、なぜ揺れが収まらない? なぜ雪が止まない? なぜ月宮あゆは穏やかな寝顔を崩さない!

 シュンはキーボードを投げつけた。キーボードは正面のポットに跳ね返り、床に転がった。シュンはポットを拳で殴り始めた。

 こんなことが許されるのか? なあ、許されるわけがないだろう? 僕の記憶は、誰も侵す権利などない、僕だけのものなのに……

 びしりと嫌な音がした。リノリウムの床に亀裂が入っていた。その亀裂は徐々に大きくなり、鋼鉄製の壁、天井にまであっという間に突き進んだ。

 揺れは、もう船酔いを思い出させるほどになっていた。青白いポットだけが泰然としたままで、この部屋に転がる、あらゆるものが崩壊に至ろうとしているように見えた。

 これが……佐祐理の望んでいたこと? おいおい、違うだろう。キミは月宮あゆがまだ必要だろう? だいいち、この世界が壊れてしまったら、僕たち生徒はどうなる?

 世界と一緒に僕たちと、月宮あゆまで壊れてしまったら、なにもかもがおしまいなんじゃないのか。

 シュンは胸中で毒づいた。そりゃあ、たしかにこの永遠の世界に『死』という概念は存在しない。

 しかし、しかしだ。

 僕たちは『死』を経験しない代わりに、もっと恐ろしい――

「はは……ははははハハハハハ!」

 シュンはその思考を頭から追いやった。それよりも今迫っている危機のほうが何倍も重大だった。シュンは笑い続ける。恐怖をかき消すため、それが虚勢だろうと、恐怖に思考が塗り替えられて何もできなくなるよりは断然マシだった。

 ポット脇に備え付けられたスクリーンパネルに手を伸ばし、シュンは思う。僕はまだ諦めちゃいない、佐祐理がそうしたように、僕は僕のために、僕の望みをかなえる、それだけ、それだけが重要なのだから――

 天井が崩れ始めていた。壁の亀裂はもう幾重にもなり、そこからぼろぼろと欠片がこぼれ、屑やら埃やらがそこらじゅうに蔓延していた。

 それは、もう、とにかく、うざったかった。

 シュンは集中した。タッチパネルと、その上、月宮あゆのデータを流すスクリーンだけに意識をやろうと努めた。

 天井から落ちてきた瓦礫に、だからシュンは気づかなかった。

 後頭部からまともに受け、シュンは気絶した。




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