夢を見ていた。

 それは夢とわかる夢だった。理由なんて知らないけれど、ボクにはわかった。直感的にわかっていた。

 ボクはベンチに座っていた。いつからなんて知らないけれど、ボクはそのベンチに座って待っていた。誰かをずっと、待っていた。

 駅前のロータリーには人の波が行き交っている。学校の制服を着た女の子、サラリーマン風の男の人、杖をついたおばあさん、お母さんの手をしっかりつかんで離さない子供。

 ボクはそんな光景をずっと眺めていた。

 いつ来るとも知れない人を、ずっと、ボクは待っていた。

 懐かしい場所で。

 時間の流れがとてもあやふやな場所で。

 海の中のようなふわふわしたところで。

 なんだかちょっと不安にさせられるところで。

 なんで不安になるのか、ちょっとよくわからなくて。

 でも、わからなくても、そんなのはどうでもよくって。

 現実のボクがどうなっているのか、そんなのはどうでもよくって。

 ただボクは待っていたいからここで待っていた。

 そしてそれは……もうすぐ終わるんじゃないかって。

 勝手にそんなこと思ったりして。

 ちょっぴり希望なんか抱いたりして。

 何度も、何度も、そんな小さな想いを繰り返し胸に秘めて。

 ああ、早く来ないかなあ……。

 ボク、お腹すいちゃったよ。

 タイヤキ食べたいよう。

 うぐぅ……お腹いっぱい食べたいよう。

 ボク、もう我慢できないよう。

 だから……早く。

 早く、ボクのところに来てよ。

 待ってるから。

 こうやってベンチに座ってるだけなのはすっごい暇だけど。

 行き交う人々を眺めるくらいしか暇つぶしはないけど。

 お母さんと手をつないでにっこり笑う子供を見てると、なんだか涙が出てくるけど……。

 でも。

 ずっとずっと、待ってるから。

 祐一君。

 ボク、待ってるから。

 あのとき交わした約束。

 嬉しかったから。

 だから。

 それがあるから、ボクは。

 こうして待ってることができるんだよ――








 声が聞こえたようだった。そう感じるとともに、里村茜の意識が戻ってきた。

 誰、だろう? 瞼を開けるけれど、どうにも重くて、半分くらいしか視界は広がらない。しかも霧がかかったように薄くて、白くて、まるで夢のように感じる。

 また、声が聞こえた。誰なの? 私を、呼んでるの?

 自問自答を幾度か繰り返すと、頭がくらくらしてきた。後頭部に痛みが走った。耳の奥がキーンとした。脳震盪でも起こしたような感じだった。

 霧がかかったような視界はきっと、そのためだ。

 確信すると、記憶がまざまざと蘇ってきた。そうだ、私はあの長身の女の人と戦っていたんだ。その真っ最中だったはずだ。

 だというのに、自分はこうやってぼーっとして、無防備で、抵抗すらできないような状態なのだ。

茜の顔に緊張が走った。

 私、このままだと……。

 瞳をめいっぱい開けてもやっぱり前は見えなかった。耳鳴りのせいで周囲の音もよく聞き取れなかった。

 私……殺されちゃう……。

 茜は手をさまよわせた。どうにかこの場所から逃れようと、後ろ手に上体を支え、足を掻いて後退した。

 また、声がした。

 いや……来ないで……。

 声は自分の追ってくるようだった。

 やだ……やめて……。

 指先になにかが触れた。固い何か。どうやら地面に転がっているらしかった。茜は無我夢中でそれを手に取った。

 人の気配がすぐそこにあった。うすぼんやりした視界にはしっかりと人型のシルエットが浮かび上がっていた。

 お願い……来ないで……!

「……茜」

 その声が間近から聞こえたとき、茜は手にあるものを前に突き出した。先のほうから柔らかいなにかを突き抜けた感触が伝ってきた。

 ほとんど同時に、黒のシルエットがだんだんと色を帯びていって――

「……茜」

 茜の瞳が、今、ようやく相手の姿を完全に映し出した。

「……やっと、見つけたぞ」

 折原浩平がそこにいた。

 そうだと確信するのはけっこうあとになってからだった。茜はまずその意地悪っぽく笑う表情を凝視し、それから自分の手元、そこから伸びる棒状のものを目で追った。

 剣だった。

 次に、その剣先を見ようとして、できなかった。

 その部分は浩平の身体の奥に隠されていた。

「え……私……」

 浩平は自分と同じ目の高さになるようにしゃがんでいた。ふいにポケットに手を突っ込んで、それから苦しそうに、無理に笑おうとして、変な顔になって、でもしっかりと茜を見据えて言った。

「この鈴持って、西の丘に行け」

 茜の手を取った。ゆっくりと手の平が開かれ、三つの鈴をぐっと押しつけてくる。

「そこに葉子と名雪って子がいる。あいつらは信用できる。合流したら、一緒に神社に向かえ」

 茜の耳にその言葉は届いていたけれど、なにを言っているのか理解できなかった。いや、この状況自体が理解できなかった。

「いいか、わかったな。わかったら、さっさと行け……」

 浩平はくずおれた。茜の横に、どさりと音を立てて。背中には剣先が天を向いていた。自分の手にあった剣は、どうやら、浩平の身体を貫いていたらしかった。

それで茜はようやく思い知った。

「わ、私……なんで……」

「どうせ長くはなかったんだ」

 目を閉じたまま浩平が言った。茜は知った。自分が刺し貫いた傷とは別のところ、浩平の制服の脇腹から下は、べっとりと赤く濡れていた。

「だから気にすんな。はやく丘に向かってくれ」

 茜は浩平に触れようとした。その手はしかし、宙をさまよった。そのとき茜は、自分の心の底にある感情に気づいていた。

 動揺、悲観。いろんな感情が混じり合う中、ひとつの思いが茜の脳をかすめた。

 ――後悔。

「あ……浩平……」

 私はこのゲームに乗った。だから浩平の死は望んでいたことだった。

 それは決断だった。いくつかの選択肢から選んだ決断だった。

 私はぜったいに生き残って、司と一緒にこの島から出ることを決めた。

 他人を犠牲にして自分の望みをかなえることを決めた。

 そのはずだったのに。

「べつに、茜に殺されるんなら、構わないから。だから……」

 浩平が笑った、ような気がした。茜はそろそろと手を伸ばし、ついに浩平の肩をつかみ、背中に触れた。

 茜は何度も浩平の身体を揺すった。けれど浩平はなにも言ってこなかった。口は笑ったように開いているのに、そこから言葉は漏れ出てこなかった。

 なんだか浩平の身体が霞んで見えた。

「浩平……浩平……」

 そしてようやく悟った、浩平がもう、死んでいることを。

 そう認識した途端、自分の中で感情の奔流を押しとどめていたダムがばきっと壊れた。

「やだよ……嫌だよ……」

 茜は消えかかる浩平に折り重なり、思いきり目を瞑り、搾り出すようにして叫んだ。

「嫌だよっ、浩平……っ!」

 ふっ、と両腕から温もりが消えた。

 目の前には剣だけが無造作に転がっていた。

「ど、どうしてっ、こんなこと……」

 茜は草むらの上に手を何度も往復させた。掻き抱くように、浩平のぬくもりを探し当てるようにして、その行為を繰り返した。

「みんな……澪も、詩子も、司も……」

 手に伝わる感触は、無機質な鈴がみっつだけ。

「浩平も……」

 茜は浩平のぬくもりがわずかに残る草の上に、とさっと倒れこんだ。

 けっきょく――私の望みはなんだったんだろう? 司に会いたかったはずなのに、そのために他人を切り捨てたはずなのに。

 なのになんで、私の気持ちは、こんなにも。

 ――とめどなく後悔が押し寄せてくる。

「どうして……私を置いていくんですか……!」

 自分はひとりだった。今はもう完全にひとりきりだった。その思いが痛烈に茜の心を裂いた。こんな思いは二度としたくなかったのに。司と別れたときのような、こんな思いは。

 なのになんで、私の気持ちは、また、こんなにも。

 なぜまた同じ思いを味わっているのか。

「やだぁ……もうやだよう……」

 またひとりで待ち続けるのは耐えられない。温もりもなにもない場所で、いつ来るかも知れない人を待ち続けるのは、いつ会えるかもわからない人をずっと待ち続けるのは、もう。

「ひとりはやだよ……」

 また会えるって約束もないのなら――

「もう我慢するのはやだよ……っ!」

 茜はこのとき、ようやく、本当に久方ぶりに涙を流した。一度流すともう止まらなかった。茜は泣きじゃくった。肩を震わせ、しゃっくりを上げ、子供のように恥も外聞もなく泣いた。

 茜の視界が純白に染まっていた。

 それは涙のせいではなかった。茜の手から漏れ出した光によるものだった。徐々にその白色光は大きくなり、薄暗い森の木々を照らし上げた。

 鈴が急激に熱を持ち始めていた。しかし今の茜には問題にならなかった。固く握りしめる茜の拳から三本のまばゆい光が飛び出し、螺旋を描き、天を覆う梢を突き破り、さらにその上、灰色の雲を蹴散らした。

「会いたい……会いたいよう……浩平……っ!」

 島が、白い光に包み込まれようとしていた。








「なんだ、あれ……」

 相沢祐一は空を見上げて茫然とした。どこからか膨大な量の光が一直線に立ち上ったかと思うと、途中でねじ切られたように破裂し、島の全方向に飛び散ったのだ。

「よ、葉子さん……」

 名雪がおろおろして葉子のほうを見た。

「私にだってわかりませんよ……」

 幾重もの光が放物線を描いて海に落ちる。紺色だったはずの空には真っ白な世界が残されていた。雲ではない、朝陽が昇ったわけでもない、深いような浅いような、そんな一面の白だけがそこにあった。

 まるで白昼夢のただ中にさまよっているよう。

 言葉を失い、しばらく三人は惚けたように空を眺めていた。

 そのうちに葉子がつぶやく。

「ただ、あの光がどこからやってきたのかは……」

「……ああ」

 たしか森のほうからだった。そこから突如、ロケットでも上がったように光の螺旋が現れたのだ。

「……行きますか?」

 誰にでもなく葉子が問う。祐一も名雪も、首を縦には振れなかった。視線を上向けた体勢で、動くこともできなかった。

 葉子が歩き出した。森の方角だ。丈の長い雑草を踏み分け、どんどん先に進んでいく。

 名雪の不安げな眼差しがこちらに向いていた。

「……俺たちも行こう」

 小さくあごを引く名雪を見て、祐一も葉子のあとを追った。

 ――と。

 鼻の頭にやわらかいなにかが乗っかった。

 光のかけらのような、白いなにか。

「あ……」

 祐一はさっきまでしていたように、また瞳を上げた。

 そこにはやはり、たくさんの白が天を覆っていた。

 でも、それとはまた違った、白があった。

 名雪が手の平を前にやって、それを受け止めた。

 高い空からゆらゆらと舞い降りる、それは。

「雪……」

 結晶の隅の隅まで見通せるような、そんな大粒の雪だった。








「信じられない……」

 氷上シュンは白の結晶に覆われ始めた孤島を、スクリーンを通して眺めていた。

 この世界に雪、だって? こんなことは初めてだった。この世界の観測を始めて以来、雪なんて見たこともなかった。

 僕がこの永遠の世界にやって来てから――それは長いようで短い時間、永遠とも取れる刻――こんなことは、一度だってなかったんだ。

 シュンは立ちくらみを覚えた。まったく、どうかしている。ここは永遠の世界だぞ? 言い換えれば不変の世界、天気なんて変わるわけもない。

 事実、この世界は春のような陽気が延々と続いていた。雨もほとんど降らず、人が一番過ごしやすい気温、湿度がずっと保たれていた。

 だというのに、今、季節はいきなり真冬に突入したかのように、世界は雪景色に変遷しつつあった。

「まさか……」

 またこの世界が崩壊に向かっているのか? あの往人という男が引き起こした大きな地震のあと、僕が食い止めたのではなかったのか?

 ポットを注視する。地震以来、この世界を維持している羽リュックの少女が中に漂っている。

 調子は変わりないようだった。逆に微笑んでいるみたいに、その表情は穏やかだった。

 じゃあ、なんで。わからない。わからない、わからない、わからないわからないわからないわからない――

「こんな……こんなバカなことがあってたまるかっ!」

 シュンはタッチパネルに指を叩きこんだ。地下室に並ぶモニタすべての電源が入れられた。それらすべてを確認した。だがそのどれもが、雪の舞い散る映像を映し出していた。

 そのうちのひとつのモニタにシュンはすがりついた。

 そうだ、監視カメラの故障かもしれない。きっと故障のはずだ、頼む、そうであってくれ。シュンは祈るような気持ちでモニタをがしがし揺する。

 それとも誰かがイタズラにこんな映像を流しているのかもしれない、たとえば今、僕の後ろで横になって休んでいる倉田佐祐理――そうだ、彼女は最初からあやしかったんだ、いきなり僕の目の前に現れて、ゲームなんか持ちかけてきて、いつもいつもあははーっと意味もなく笑っていて、何を考えているかさっぱりわからないで、そうだ、そうに決まってる、これは彼女の仕業に違いない!

 そのときだった。

「……ぐあああああああああ!」

 シュンの着用する白衣が突然、火に包まれた。それは白い炎だった。とてつもない熱、そして衝撃にシュンはその場を転げ回り、白衣をばさっと脱ぎ捨てた。

 オルボという名のその白衣は、主人を失って寂しそうに燃え続けていたが、やがて煙を巻いて消えた。

 シュンはその場にうずくまっていた。重度の火傷を負った全身はこの上なく疼き、喉はひりつき、頭の中身は疑念と怒りでいっぱいだった。

 いったい、なにが起こった? 僕の身になにが起こったんだ!

「おや、シュンさん。火だるまになったのにまだ生きてらっしゃるんですね」

 その声はすぐ近くから聞こえた。シュンはひどく痛む首をどうにか回し、その方向を向いた。

「びっくりしました。感心しちゃいます」

 いつ起き出したのか、佐祐理が白衣の焦げ後のところに立っていた。その中に、なにかを探すように手を突っ込み、丸い形状のものを摘み上げた。

「これ、ですよ。この鈴が発火したんです」

 何事もなかったようにそっけなく言って、鈴を制服の内側に隠した。

 鈴だと? じゃあなにか、僕は彼女からもらったあの鈴で……

「く……倉田佐祐理いいいぃぃぃ!」

 シュンは弾かれたように立ち上がった。血の気が引くような痛みが全身を跳ねたが、強引にねじ伏せた。肌身離さず持っていたオルボの短銃を構え、銃口を佐祐理に向け――すると、こちらとまったく同じ動作で彼女も銃を構えた。

 佐祐理の瞳に異質な模様が描かれていた。

「…………」

 お互いの銃口は、正確に相手の頭を狙っていた。その体勢のまま、二人は信号待ちでもするかのように、機会を窺うようにして固まった。

 静かな時間が過ぎ去っていく。

 動けなかった。すくなくともシュンには動く勇気はなかった。佐祐理のあの『写輪眼』はその瞳に映した人物の能力、そして動作すらもコピーする。

 シュンが動けば佐祐理も動く。シュンが引き金を引けば、佐祐理も引き金を引く。コンマ一秒の誤差もなく、まったくの同時に。

 完全な膠着状態だった。

「賢明なご判断ですね」

 佐祐理がスッと視線をモニタに移した。実は、これはチャンスかもしれなかった。相手の注意がこちらから逸れたのだ。

 だがシュンは、すくんだカエルのように動けなかった。ずきんずきんと、脈動と同じ速度で巡る痛覚が、シュンの気を弱くしていた。

 モニタの流す映像には、しんしんと雪が絶え間なく降り積もっている。その勢いは留まるところを知らない。

「そうですか。起動スイッチはあの三つ編みの子が押しましたか」

 佐祐理の瞳が、シュンのもとに帰ってくる。

「折原浩平、長森瑞佳、里村茜、そして氷上シュン。『えいえん』に近しい存在であったあなた方四人に対応した、四つの鍵。それらが解放され、このキュレイシンドロームは発動した」

 あははーっと笑って、続ける。

「さあ、楽しいショーの始まりです。佐祐理の、佐祐理による、佐祐理のための世界の創造が、今、始まるんです」

 シュンは言葉も出なかった。

 佐祐理の瞳に冷たい光が宿った。

「だからあなたはもう用済みなんですよ。ねえ、シュンさん。いえ、本当の名は――」

 そして佐祐理はその名を告げる。

「――城島司さん」




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