岩の地面がリノリウムに変わった。倉田佐祐理は洞窟から引き返し、今、ようやくプレハブ小屋の地下に辿り着いていた。
息が白い。身体が寒かった。それは長時間寒々した洞窟内にいたせいであり、この場所が地上の奥深くのため太陽の熱が届かないせいでもあり、佐祐理の今の心情を物語っているようでもあった。
雪でも降ったらいいのに……。自分の身体に両腕を回し、そんなことを思う。
佐祐理は伏し目がちに先を進んでいく。管制室の前まで来た。寄りかかるように扉を押し開き、部屋の明かりを灯す。
蛍光灯から落ちる薄い光のもと、佐祐理は他より一段高くあつらえられた自分の席に座った。
両肘を突いて、組んだ手を額に当てた。
「舞……」
自分が洞窟におもむいたのは、なにも郁未の動向が気になったからではない。自分は舞のことが気になったから洞窟に向かったのだ。
「舞……」
佐祐理は、舞がちゃんと外に出たのか確認するために洞窟へ向かった。佐祐理は舞を疑っていたから、自分を裏切るんじゃないかって思ったから。だから舞には発信機をつけていたし、洞窟へもこの目で確認するために向かったんだ。
舞の姿はなかった。舞はちゃんと佐祐理の言うことに従ったみたいだった。舞は佐祐理をまだ信頼しているらしかった。
なのに、なんで。
「舞……」
こんなにも身体が寒いのか。
佐祐理はしばらく舞の名をつぶやいていた。こつん、こつん、と額に何度も手の甲を押しつけて、気を紛らわすように何度もつぶやいていた。
身体の震えは止まらない。じっとしていると凍えそうなほど。
佐祐理は顔を上げた。席を立って、管制室をあとにした。
エレベーターに乗った。浮遊感が気持ち悪かった。壁に支えられるように立ち、じっと我慢した。
エレベーターが止まった。外に出た。すると生暖かい風が前髪と頬を撫で上げ、さらに気分が悪くなった。
「……キミか」
氷上シュンが、顔をこちらに向けようともせず声をかけてきた。カタカタとキーボードを打つ手は一時も休まない。
「ずっと姿を見てなかったけど。今までどうしてたんだい」
「……お散歩ですよ」
シュンはなにも答えなかった。黙々と作業をこなしている。
「なにをしているんですか?」
「月宮あゆの体調チェックさ」
「どうです?」
「問題ない」
佐祐理は腰を降ろした。ボロボロになって倒れる近くの機材にそっと身体を預けた。
「どうしたんだい?」
「あはは……ちょっと疲れただけですよ」
佐祐理は目を閉じた。
ここは嫌いな場所なのに。ここは寒くて嫌いだったはずなのに。なのになんで佐祐理はここで休もうとしてるんだろ。どうしちゃったんだろ、佐祐理。
佐祐理は大きく呼吸した。ゆっくり、深く、何度も息を吸って吐き出した。心臓の鼓動がゆるやかに聞こえてきた。
そして思った。
ああ、なんだ。佐祐理、もう、気分悪くないみたい。
寒いの、慣れちゃったみたい……。
折原浩平はぱちりと目を開けた。
一瞬、自分がどこにいるか判断つかなかった。ただ乱雑な家具の光景だけが瞳に飛び込んできていた。
次に、下腹部がひどく痛んだ。ずきずきと、心臓の鼓動に合わせて刺すような痛みが這い上がってくる。
「く……」
床に拳をつけ、堪えるようにぐっと握った。すると何かをつかんだようだった。丸い形をしたなにか。浩平は拳を開いて覗き込んだ。
それは見慣れた鈴だった。自分が所持しているふたつの鈴と、まったく形状を同じにしていた。
「……かはっ」
痛みは治まらない。だが、おかげでぼんやりした頭がだんだんと覚醒してきた。
ここは……リビングか。自分は今まで気絶していたらしい。
目を泳がせると、視界の隅に人の影がちらついた。
美凪が壁に背をつけて座っていた。その目はとろんとして、一見、いつもの彼女となんら変わらぬように感じた。
「……折原さん。起きたんですね」
瞳だけ動かしてこちらを見た。
「おまえ、大丈夫なのか?」
訊いてから間抜けな質問だったと後悔した。彼女の着ている制服は、胸からスカートにかけて朱に染まっている。
「へっちゃらへー……じゃないです、さすがに」
どう見ても普通の出血ではなかった。当然だった。彼女は、剣を胸に受けたのだから。
と、浩平は思い出した。首をめぐらせるが、舞の姿はなかった。今はもうこの場所には静かな時間が流れている。
「折原さんは、平気ですか?」
「なんとか生きてるってとこだ」
美凪が顔を伏せて微笑んだ。
「そうですね。私たち、まだ生きてるんですよね……」
彼女の視線の先、膝の上には神奈の頭が乗っていた。美凪に身体を委ね、眠っているようだった。目の下には泣き腫らしたあとがある。
でも、穏やかな寝顔だな、と思った。
美凪はさわさわと神奈の髪を撫でている。
「神奈さんのおかげですね」
言って、自分の制服の襟をそっとめくった。そこには白く巻かれたものがあった。
「……神奈がやったのか?」
「たぶん。いえ、きっと」
浩平は自分の制服の裾もまくってみた。腹から背中にかけて、包帯がぐるぐる巻きになっていた。ところどころほつれていて、必要ないくらいたくさんの布を使って、その包帯は不器用に巻かれていた。
「この子はがんばりました。こんな小さな身体で、小さな手で。自分だって傷ついているのに……」
浩平はやっと気づいた。美凪の制服が赤いのは、美凪自身によってだけではなかったのだと。美凪のスカートは、神奈の流す血によって染まっていたのだと。
神奈のその姿がゆっくりと薄らいでいた。
「私たちがまだ消えないでいられるのは、この子のおかげなんですね……」
美凪は愛しそうに神奈の髪を梳く。浩平にはたまらなかった。憤りと、悲しさと、この神奈の姿と、この美凪の姿が、どうしようもなく今の自分にこたえた。
「私は、たぶん、心のどこかで神奈さんを恨んでたんだと思うんです。みちるがいなくなって、奪われたみたいに感じて。神奈さんの姿がみちるの姿と重なって、よけいに許せなくなって。でも……」
消えてゆくその美凪の姿もまた、浩平はまともに見られなかった。
「この、今の、神奈さんがくれたすこしの時間で、私は救われたんだと思うんです……」
浩平は身を返した。もう人が死ぬのは、誰かが死ぬのは懲り懲りだったのに。
「すみません。つまらないこと話してしまって」
「……いや」
浩平は振り向けない。もう限界だった。
「オレ、もう、行くから」
「はい」
「……じゃあな」
「はい」
……ごめんな。
浩平は謝ろうとして、けっきょくできなかった。代わりに、ひきずるように足を前に出した。
玄関のほうへ歩いていく。腹部が痛んだ。傷口が開いたのか、巻かれた包帯がじっとりと濡れていくのがわかった。
壁の塗料を肩で削りながら廊下を進む。静かだった。リビングからは神奈の寝息も、美凪の息遣いもなにも聞こえてこない。
ただ、二人はもうここからいなくなってしまったのだと、それだけを感じ取れた。
外に出る。遠くの空が白み始めていた。夜明けは近いようだった。
寒い。吐く息が白かった。その息はすぐに寒風に運ばれ、すぐにまた吐き出される。荒く呼吸しながら浩平は先を進んだ。
感覚が薄らいでいく両足を、浩平は必死に動かし続けていた。
浩平と同様、川澄舞もふらふらだった。
ぐらりと大きく身体がよろめき、木々の谷間に片膝をつく。足が思うように動いてくれない。それはなにもここが森の中で、足場の悪い獣道を進んでいるせいではない。翼人によって負わされた傷はやはり深かったのだ。
私は戻らなきゃいけない。佐祐理の元に戻らなきゃ……
気を抜けばすぐにでも意識を失いそうだった。全身を支配する疲労と痛みは、とおに限界を越えていた。
この森を抜ければ、プレハブ小屋に出る。舞はそこに向かっていた。すでに小屋は跡形もないはずだが、それでも舞は迷いもせず向かっていた。
ぎり、と奥歯を噛み締めて舞は前進する。とにかく、今は、いっこくも早く佐祐理の顔が見たかった。そうすれば安心して身を休められる。心配も不安もなく、心から安らげる。その思いだけが舞を奮い立たせていた。
いくぶん進むと、すこし視界が開けた。
すると切り株の上にぼんやりと腰かけている生徒が目に触れた。
大きな三つ編みをした女の子。たしか集落へ向かっている途中にも見かけていた。ということは、目的地は近い。彼女とはプレハブ小屋の側の森で出会ったのだ。
舞は女の子などもう一顧だにせず先を急ぐ。
「……待ってください」
通り過ぎる途中、ためらいがちに声をかけられた。
「聞きたいことがあるんです」
舞は視線すらやらない。
「司、という人を知りませんか」
「…………」
と、舞の足が止まった。
「この島にいるんです。ぜったいにいるはずなんです」
司? 舞は首を横に振ろうとして、思いとどまった。
どこかで聞いた名だった。どこだったろう、ずいぶん前に、いや、最近? 記憶の底にひっかかる、司という名前。
フルネームは、たしか……
「あなたは島の管理者ですよね。永遠の世界のことに詳しいですよね。なら知ってるはずです。司は……あの人はどこにいるんですか」
切羽詰ったような声で問いかけてくる。
「……知らない」
相手をしている暇はなかった。そんな体力も、気力もなかった。
このまま去ろうとしたところで、
「……本当に知らないんですか?」
「そう言った」
「私は、司に会わなきゃなんです。会って話さなきゃいけないことがたくさんあるんです……」
「知らないって言った。私は城島司なんて知らない」
数秒の間が空いた。
「……司の苗字を知ってるんですね。やはりあなたは司の居場所を知っているんですね」
「佐祐理から聞いたことがあっただけ。佐祐理は、これは超重要極秘事項ですよーあははーって言ってた。だから教えない」
もう教えたあとのようなものだったが、舞は気にしなかった。また歩みを開始する。
「なぜ、ですか。なんで教えられないんですか」
「あなたには関係ない」
「お願いします……。教えてください……」
「関係ない」
「お願い……私……もう……」
その声に震えが混じり始める。ちくりと罪悪感が湧いた。
「私……私……」
「知ったことじゃない」
舞は吹っ切るように言った。相手が息を呑んだのがわかった。それでも舞は気にしないよう努めた。自分にはもう相手を気遣う余裕なんかない。喋るのも辛いのだ。
それに、もうプレハブ小屋はすぐそこなのだから。
と、舞の足はまた止まっていた。
「…………」
まじまじと行く手を眺めた。なんだろう、これは? なにか、黒い、霧のようなものが正面に立ちはだかっていた。
「……わかりました。なら、力付くで教えてもらいます」
あたりに漂うどす黒い霧がどんどんとその質量を増していた。
「あなたにふさわしいソイルは決まりました」
舞はついに振り返った。彼女の手にはピンク色の傘があった。目標を捉えるように先っぽをこちらに定め、ばさりと傘が開く。
「世界の始まりを告知する、トランス・レッド」
傘がゆっくりと回転を始め、次には猛回転に変わっていた。舞の脳に警鐘が鳴らされる。あの傘はとても危ない、とても危険。本能的に察知し、腰に下げた剣を抜く。
「世界の果てを見届ける、リミテッド・ブラック」
舞は身構えた。魔物を行使しようとしたが、まだじゅうぶんに気力が回復していないのだろう、なにも起こらなかった。代わりに頭痛がひどくなり、意識が飛びかけた。
背中に嫌な汗が流れる。立つのもやっとだった。しかし相手は待ってくれない、指に挟んだ小ビンをぽいっと傘の水玉模様に放り込んでいる。
私、こんな状態で、あの子と戦わなくちゃならないの……?
舞は彼女めがけて駆けた。そのつもりだった。足はまったくと言っていいほど付いてきてくれなかった。距離は、まだ、五メートルは離れていた。
しかし勝機はまだあった。今となっては唯一といっていいほどの勝機。
「……はあっ!」
勢いつけて剣を払った。身体を支えきれず、草木の上に倒れこんだ。
直後、周辺の空気が巻き上がり、その太刀筋は五メートルの距離など関係なく彼女に襲いかかった。
カマイタチの刃はピンクの傘にぶつかり、立ち消えた。
「そして……世界の意義を確定する、パーフェクト・ブラウン」
舞は愕然とした。傘は回転をやめてはいない。何事もなかったように動いている。
たったひとつの勝機は、いとも簡単に潰されていた。
「虐げよ……召喚獣、主!」
彼女が頬をほんのり赤くして叫んだと同時に、なんだかよくわからない物体が出現した。
「リ、リスさん……?」
背丈はゆうに舞の三倍はある、大きなぬいぐるみのようだった。やわらかそうな茶色の毛並みに、つぶらな瞳、なぜか手はヒレのよう。やはりよくわからない物体だったが、舞はむりやりリスということにしておいた。
どすんどすんと足音を鳴らしてリスがやってくる。退きながら舞はやみくもに剣を振るった。いくつもの風の刃が形成され、巨大リスを切り刻んだ。
が、リスは気にするふうもなく、あらゆるところから綿をはみ出させながら接近を果たした。間近で見るとその姿はとてもグロテスクで、舞は涙ぐみそうになった。
こんなリスさん、嫌だ。
手ヒレを叩きこまれた。まともに受け、舞は無様に転がった。
追い討ちをかけようと、リスがまた接近してくる。舞は身構えることができなかった。立ち上がることも、這いつくばって動くことも、なにもかも。
もうダメかもしれない、さすがに。
「……司の居場所、教えてください」
巨大リスの奥から、彼女の声が聞こえてくる。
「私は、ただ、司に会いたいだけなんです。ちょっとお話したいだけなんです……」
「…………」
舞はうつ伏せのまま首を横に振った。
「なんでですか……どうして……。あなた、死んじゃいますよ? 私がちょっと命令すれば、あなたは死んでしまうんですよ? それでもいいんですか!」
そして舞はかすかに笑う。
「私は、佐祐理を泣かすやつは、誰であっても、どんな理由があっても」
たとえそれが正しいことであっても、許さない。
舞は渾身の力で剣を地面に突き立てた。湧き上がるような旋風が、這ったままだった舞の身体を包み込み、急激に中空へと押しやった。
そのままリスの頭上を越え、その後ろ――
「――はああああ!」
目をぱちくりさせる三つ編みの女の子に向かって落下し、刀身を振り下ろした。
がぎん、と甲高い音が鳴った。風を纏った刃と猛回転の傘が激突していた。周囲に小規模の竜巻が起こり、反動で二人の身体は弾け飛んだ。
剣と傘、ふたつの武器が宙を舞う。彼女は背後に立つ樹に追突し、ずるずると膝を落とし、糸が切れたように地に横たわった。その傍らに、ころんと剣が落ちた。
その様子を、舞は倒れ伏したまま眺めやり、同じように気絶しそうになったが、どうにか堪えた。ぜえぜえと息を吐き出し、手近の枝にすがりつき、身体を押し上げた。
霧が晴れている。リスもいつの間にかいなくなった。舞は移動を始めた。立ち並ぶ木々に手をつきながらプレハブ小屋を目指した。
すぐ近くのその場所が、途方もない道の果てにある気がした。
【残り6人】