そろそろいいかな。

 天沢郁未はすっくと立ち上がり、手首足首をぶらぶらさせた。それから、ぐるりと肩を回す。特に痛みはない。負傷していた箇所は、もう完全に癒えたようだ。

 ここは洞窟の中。シュンたちの本拠と神社を結んだ中間あたりだろう。天井を崩れさせたあと、郁未はここで一眠りしていたのだ。

(眠りっぱなしよね、最近)

 頭の中のドッペルゲンガーに話しかける。

(そうね。不可視の力を使いすぎってことかしらね)

(あなた、もうちょっと考えて使いなさいよ)

(手を抜くのは私の主義に反するの)

 まったく。郁未は口を開きかけて、その前に足のほうが動いていた。洞窟の奥のほうへと進路を取る。

(……勝手に人の身体動かさないでよ)

(人の身体じゃないわ。私とあなたの身体よ)

 そうだけど。

(そのわりに私の意志がまったく反映されてない気がする……)

(気のせいよ)

 ぜったい違う。

(たぶん、あれね。あなたが長時間眠っていたから、肉体が私のほうにリンクしやすくなってるのよ)

 そういうものだろうか。納得いかない。

(……はあ)

(心配しなくても、すぐに返してあげるわ。どうせ私はじきに消える)

(え)

 唐突だったので、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。

(……そうなの?)

(ええ)

 そっけない答え。

(こんな状態がいつまでも続くはずないわ。私は間違った存在なんだから)

 やっぱりそっけない口調だった。

 会話が途切れた。岩壁に反響する足音が、いやに大きく耳に触れた。

(どうしたのよ。心拍数が上がってるわよ)

 鼻で笑われた。

(……あなた、ほんとに消えるの?)

(なによ、消えて欲しくないの? あなたは私のこと嫌ってると思ってたけど)

(…………)

(おっと、おしゃべりはおしまいね)

 郁未は立ち止まった。ドッペルゲンガーが警戒態勢を取っている。

(どうしたの?)

(すぐにわかるわ)

(……そう)

 まあ、いいか。郁未はそのまま身体を委ねた。今は、ドッペルゲンガーに身体を預けておこうと考えた。

 彼女は、もうすこしで消える……。

 そのとき私はどう思うだろう? 喜ぶの? それとも悲しむ? 想像してみるけど、うまくいかなかった。

(さて、お客さんのご来場よ)

 行く手に人が現れた。








 実は、郁未――ドッペルゲンガーはだいぶ前からその人影に気づいていた。

 かすかに足音が響いていたのだ。いったい誰だろうと考え、答えはふたつしかないことに気づき苦笑する。

 氷上シュンか、倉田佐祐理。そのどちらか。二人一緒ということはない。足音はひとりのものだったから。

 たぶんシュンだろうと予想していた。おそらく私を始末するのに、この洞窟にやって来たのだと。

 相手のものだろう岩肌の苔に伸びる細い影が、だんだんと大きくなっていく。

「あれ、郁未さんじゃないですかあ」

 郁未の予想は外れた。

「こんなところで出会うなんて、奇遇ですね」

 チェック柄の大きなリボンが目に入った。淡い光に照らされ、蜃気楼のようにはためいて見えた。

 佐祐理が、向こうから歩いてきていた。

「心配しましたよ。でも安心しました。郁未さん、無事だったようで」

 いつもの笑顔を満面に浮かべ、佐祐理は続ける。

「立ち話もなんですし、戻りませんか? おいしいお茶があるんです。郁未さんのために佐祐理が煎れてあげます。お砂糖はいくつですか? あ、もちろん緑茶じゃなくて紅茶ですので安心してくださいね」

 佐祐理はぽん、と胸の前で両手を合わせる。

「それでは参りましょうか。シュンさんも胃に穴が空くほど心配してますから。はやく元気な顔を見せてあげてください」

「……よくもまあ、ぬけぬけと」

 郁未は忌々しく吐き捨てた。

「舞の無表情も相当なものだけど、あなたもそれに輪をかけて無表情ね。その仮面のような笑顔、虫唾が走るわ」

「あははーっ。郁未さん、あいかわらず毒舌ですね。ほんと、安心しましたよ」

 佐祐理のにこにこ顔は崩れない。

「だって郁美さん、地下室で会ったときは様子がおかしかったですから。佐祐理、てっきり郁未さんが元に戻ったんじゃないかって思ってました」

 郁未は心で舌打ちした。

「それとも、元に戻りかけてる途中なんでしょうか」

(な、なに? この人、私たちのことに気づいてるの?)

(らしいわね)

 その洞察力は感服に値する。

「……で、こんなところに何の用かしら」

「さっき言ったじゃないですか。奇遇だって」

「たまたまこの洞窟に入ったと?」

「気晴らしですよ」

「こんな薄暗くて気味悪いところで?」

「佐祐理は好きですよ、ここ」

 くるっと首を回して佐祐理は見渡した。

「あと、強いて言えば郁未さんのことが心配だったからです」

 天使のような微笑みを浮かべて言う。

「私の動向が気になったから、というわけね」

「はぇー。曲解されちゃいましたね」

 困ったように眉尻を下げた。

 にしても、洞窟の奥までたったひとりでノコノコやって来るとは。

(この人……強いの?)

(そうは見えないわね)

「舞には会いました?」

 佐祐理が訊いてくる。

「会ったわよ。もう二度と会えないだろうけど」

「…………」

「あら、まだ笑っていられるんだ」

「あはは……会えないって、どういう意味でしょう」

「私が殺したから」

 ふふん、と笑って。

「って、言ったらどうする?」

「…………」

 佐祐理の表情は変わらない。

「まあ、殺したかったって言ったほうが正しいけど」

「……からかわないでくださいよ。じゃあ、どういう意味なんです?」

「洞窟が崩れてね。だからこの先は行き止まりよ。でもって、舞は洞窟の外」

 くすくすと笑う。

「だから、舞は助けに来ないわよ」

(……あなたほんと性格悪いわね)

 頭の中でツッコまれた。

(前から知ってたことでしょ)

(そうだけどさ。なんか私のイメージがどんどん……)

 ぶつぶつ文句を垂れていた。

「ふぇ……佐祐理のこと無視しないでください」

 ギョッとした。どうやら頭の中で会話していることすら見抜かれたらしい。

 この女、やはり危険だ。

「……ひとつ聞いていいかしら」

「はあ。なんでしょう」

「この洞窟、あなたみたいなお嬢さまにはキツイ道のりだったんじゃない?」

 佐祐理があははーっと破顔する。

「お心遣い、感謝です。でも心配は無用ですよ。佐祐理、こう見えても運動神経抜群なんですから」

「それじゃ、試してみようかしら」

 佐祐理はきょとんとする。

「ふぇ……試すんですか?」

「ええ、今この場でね」

 郁未は足を踏み出した。佐祐理の存在を排除するために。彼女は邪魔なのだ、シュンとの決着を邪魔されたくはないのだ。たとえ相手が華奢なお嬢さまだとしても。

 一番の障害だった舞は、もはやこちら側には戻れない。今がチャンスだった。舞が付いていない佐祐理など、赤子同然。

 郁未がもう一歩足を踏み出したところで、

「佐祐理と取引しませんか?」

 唐突に言ってきた。

「簡単な取引です。このゲームが終わるまで、他の生徒たちから羽リュックの女の子を守ってもらいたいんです」

 郁未は思い返した。ポットに満たされた青白い液体に身をゆだねる、あの少女のこと。そのポットを見て、もうひとりの私は嫌な感じを受けたと言った。

 佐祐理たちがなにをやろうとしているのかは知らないが、その少女が大事な存在であることはさすがにわかる。

 郁未は検分するように佐祐理を見た。

 一度は裏切った私に取引とはね。その場しのぎの戯言だろうか。

「このまま郁未さんがシュンさんに殺されるのを見過ごしたくないんですよ」

「私も見くびられたものね」

「どうです? あゆさんを守るくらい、郁未さんの力ならたやすいと思いますけど」

「なんで私がそんなこと」

「頼みを聞いてくれるなら、あの『少年』を生き返らせてあげます」

 郁未は息を呑んだ。

「あなたが愛した人と、再会させてあげます」

「……バカらしい」

「信じられないのは無理もありません。ですが、可能なんです。佐祐理たちには『奇跡』が起こせるんですよ。今のこの計画が成功すれば」

 郁未は佐祐理の瞳の奥に潜む真意を見極めようと、じっと観察する。佐祐理はにこにこ顔で見つめ返した。

「どうです? 割の良い取引だと思いますけど」

「……本当に可能なの?」

「はい。佐祐理は、冗談は言ってもウソはつきませんよ」

「あなたの計画って、なんなの? 奇跡なんてどうやったら起こせるっていうのよ」

「そんなことは問題ではありません。重要なのはあなたの望みが叶えられるという、その一点です。佐祐理たちの計画は、あなたにとって有益に利用できる道具なんですよ」

 たしかにウソをついている素振りはない。郁未は思案した。本当に、あいつを生き返らせることができるというの?

(そうだよね。あいつとは、もう会えないんだよね)

 頭の中からもうひとりの私が言葉をかけてきた。確認するような声で。

(……あなたはどうしたい?)

 訊くと、もうひとりの私が意外そうな声で言う。

(あなたらしくないよ。訊くまでもないじゃない)

 それは断固とした口調だった。

(あいつがそんなこと望むはずがない)

 郁未は、言った。

「……断るわ」

「本気ですか?」

「……ええ」

 一瞬、佐祐理の顔に影が落ちた。悲しそうな、やりきれないような顔だった。

「残念です」

 佐祐理は懐に手を突っ込んだ。そしてなにかを取り出した。

 拳銃だった。

「では、あなたにはおとなしくしてもらいます。佐祐理たちの計画を邪魔させるわけにはいきませんので」

(……あれ、もしかしてあの時の)

 シュンの持っていた『オルボ』?

 郁未は身構えた。佐祐理からいつでも距離を取れるように。ふたりの間は五メートルほどしか開いていないが、私の脚力ならそれでじゅうぶん。

「その銃が私の天敵だとして、お嬢さまのあなたに扱えるのかしらね。当たらなきゃ意味ないわよ。それにたとえあなたが防護服とやらを身につけていたとしても、意味はない。私の身体能力なら、不可視の力に頼らなくても人ひとり殺すくらい簡単にできるわ」

「郁未さん、勘違いしてらっしゃいますよ」

 銃口を向けたまま、佐祐理が困ったように言う。

「これはオルボではありません。ただの拳銃です。オルボは作るのがとても困難なんです。シュンさんの持っているものが唯一の完成品なんですよ」

 発砲した。

 郁未は手の平から不可視の壁を生成する。なんなく銃弾を食い止めることができた。

「ほら、普通の拳銃でしょう?」

 立ち昇る硝煙が消えるのを待って、佐祐理は銃をしまった。

「……あなた、バカ?」

 わざわざ手の内をひけらかすなんて。

 佐祐理は刺すような視線を向けるだけで、なにも答えない。

(なんか、嫌な視線)

 もうひとりの私が、ぽつりとこぼしてくる。

(もう、行こう)

(そうね。先を急ぎましょうか)

 てっとり早く気絶でもさせようと、郁未は右腕を地に水平に伸ばした。すると同時に佐祐理も右腕を上げた。

 二人、まったく同じ体勢で対峙する格好になった。

「……なんのつもり?」

 佐祐理はこちらを見つめるだけで答えない。

「付き合ってられないわね」

(ま、待って)

 もうひとりの私が、焦ったふうに言った。

(なに……あの人の目)

 そこで郁未はようやく気づいた。佐祐理の瞳に、なにか模様が浮かび上がっていた。その中心から、こちらの身体を絡め取るかのような眼光が伸びていた。

 ゾッとした。

「郁未さん。あなたに佐祐理を倒すことはできませんよ」

 郁未は本能的に不可視の力を放っていた。圧縮された空気がうなりをあげて佐祐理に襲いかかった。

 しかしそれは中途で四散した。

 そのとき、ごうっ、と郁未の頬をかすめるものがあった。

 郁未の髪が数本、散った。

「……うそ」

 それは空気の弾だった。

 佐祐理は手の平を横に向け、気体の弾丸を数回放った。岩壁が砕け散る。片目を瞑って、照準でも合わせるようにまた撃った。

「あははーっ、コツつかみましたー」

 郁未は愕然とした。

「……まさか、あなたも不可視の力を会得してたなんてね」

「はぇー、違いますよ」

 ぴん、と人差し指を立てた。

「さっき郁未さんが佐祐理の銃弾を弾いたときに、やり方を覚えたんです」

「…………」

 絶句。

(あの人、天才?)

(そんなレベルじゃないでしょ!)

「あははーっ。祐一さんと行ったゲーセンで姐さんと呼ばれ畏怖された佐祐理のコツつかみは伊達じゃないですよー」

「ふざけないでっ! ゲーセンと不可視の力を一緒にしないでよ!」

「一緒ですよ」

 佐祐理の眼光が鋭くなる。

「『うちは一族』の血を受け継ぐ倉田家の人間には、稀にこういう特異体質を持った子が生まれるんです。この『写輪眼』を持った子が」

 佐祐理の両の瞳が禍々しく光った。

 写輪眼……。噂では聞いたことがあった。他人の能力を一見しただけでコピーできるという、古来忍者の遺伝の成せる術。

「だから郁未さん、あなたは佐祐理に勝てませんよ。だって佐祐理は、もう郁未さんと同等なんですから」

「……あはっ」

 せせら笑った。

「同等? 不可視の力をコピーしたくらいで同等ですって? 笑わせないでよ」

「そうですね、間違えちゃいました。今の佐祐理は、きっと、郁未さんよりも上です」

「……!」

 郁未は攻撃に出ようとして、しかしそれよりも先に佐祐理が突っ込んできた。まるで低空飛行するように身を低くし、あっという間に接近する。

 速い。佐祐理の写輪眼はこちらの身体能力すらもコピーするらしい。

 が、驚くには値しなかった。この動きは自分と同じスピードなのだ。自分よりも速いわけではないのだ。

 郁未は背後に飛んだ。相手と同様、地をすべるようにして。

 二人の距離は、一定を保ち続ける。

(……戦うの?)

(なにを今さら)

(でもあの人、私たちと同じ力なんでしょ)

(そうね)

 たしかに佐祐理は私と同等と言った。そうなのだろう。たしかに私は佐祐理に勝てないかもしれない。

(けどさ、それは相手にも言えることじゃない?)

 郁未は身を引きながら不可視の力を放つ。佐祐理が追跡しながら不可視の力で相殺する。

 要するに、これは、根比べ。

 不可視の力は精神がものを言う。どちらの精神がはやく尽きるか、言い換えれば、想いが強いほう、それがこの戦いに勝利できる――

「――だから佐祐理には勝てないんですよ」

 佐祐理が地に左手をついた。どん、とその手から咆哮があがり、反動で加速度が上がる。

 やばい。そう思ったときにはもう佐祐理は目と鼻の先にいた。手の平を突き出してくる。

 郁未は両手であたりの空気を密集させ、全身を包み込ませた。

 その空気の防護服を佐祐理は引き裂いた。佐祐理の右腕からほぼゼロ距離から不可視の力、もう目で追える距離ではない。手の方向、そこから空気の流れを読み郁未はどうにか相殺、もう一発、相殺、もう一発、相殺――

 ぱん。

 その音は佐祐理の左手から響いていた。郁未は何が起こったのかわからなくて、ゆっくりと目線を落とす。

 そこには佐祐理が握る拳銃があった。そして気づいた。その銃口から発射された弾丸は正確に自分の心臓を貫通していたこと。

 もんどり打って倒れた。勢い余って地面を転がった。

「……く、かはっ」

 血を吐いた。ぱっと岩肌に赤の斑点模様が広がる。

 ひとりしきり吐いて、郁未は顔を押し上げ、相手を睨みすえる。

「郁未さんらしくない、受身の行動でしたね」

 佐祐理がすぐ側で見下ろしていた。

「迷ってたんですね。佐祐理の頼みを受け入れるべきか、断るべきか、あなたはまだ迷っていた。そして心がふたつあるということは、そのぶん迷いも二倍になるということです」

 左胸からはどくどくと血が溢れ出し、郁未の制服を汚していく。油断すればすぐにでも気が飛びそうなほどの出血だった。唇を噛んで、どうにか意識をつなぎとめる。

「迷っていては、佐祐理には勝てません。勝てるはずがありません」

 佐祐理の顔からはいつの間にか笑みが消えていた。

「聞かせてくださいませんか。どうしてあなたは、佐祐理の頼みを断ったんですか」

「……あいつの悲しむ顔を、見たくないから」

「なぜですか。最愛の人と再会できるんですよ? 悲しむはずがないじゃないですか」

「それでも、あいつは悲しむから」

「なぜですか!」

 佐祐理が銃口を向けてくる。郁未の額の前で、今にも引き金を引こうとして。

 郁未は顔を逸らさない。

「どうして……。もう二度と会えないと思っていた人と、また一緒になれるのに。また一緒に暮らせるのに。一緒にご飯食べて、一緒に勉強して、一緒に遊んで、なのに……」

 佐祐理は腕を引いた。瞳をそらす。うつむいて、じっと地面だけを見つめた。

「……あなたの傷は致命傷です。いくらあなたが驚異的な回復力を持っているといっても、そんなに長くは持たないはずです」

 ゆっくりと、こちらから遠ざかっていく。

「ですから……とどめは刺しません。死を迎えるまで、そうしていてください。そうやって、自分のした選択を悔やんでいてください」

「私は、悔やんでなんかない」

「…………」

 佐祐理が背を向ける。よろめくように歩いていく。

 その背中が岩壁に隠れると、あたりに静寂が戻った。

(……ねえ)

 頭の中に呼びかける。しかし、答えはなかった。

(どうしたの。返事して……)

 以前と同じ、答えが聞けなくなっていた。

(ねえってば……)

 もうひとりの私は、反応してくれない。

 またなの? また心の内に篭っちゃったの? あなた、あいつの死を乗り越えたんじゃなかったの? 痛みを克服したんじゃなかったの?

 そう考え、郁未は悟った。

 迷っていたのは、私ひとりだけだった? あいつを生き返らせるかどうか、本当に迷っていたのは、もうひとりの私ではなく、この私――

 郁未は起き上がろうとして、また血を吐いた。

 足腰が立たない。痺れたような感覚。郁未は這った。腹這いで、ずるずると移動した。その跡には赤い線が引かれていた。

(ねえ……ねえってば……)

 郁未は移動を続ける。どこに向かうとも知らずに。

 ぶつぶつと独り言を繰り返しながら。




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