空気が冷え込んできていた。相沢祐一は身体に両腕を回し、ぶるっと身震いした。

 そういえば佐祐理さんがいつだったかの放送で、午後から雪が降るとか言っていた。まさかそんなことはないだろうと一度は呆れ、しかし言われてみると今の季節がなんなのかわからない。暑くもないし寒くもない、過ごしやすい気候だということくらいしか知らない。

 俺は、この世界についてなにもわかっちゃいない。この永遠の世界が、なんなのか。

「……ごめんなさい」

 その声のした方向に祐一は顔を向けた。観鈴がこちらを上目遣いでちらちらうかがい、「恐縮です」と言わんばかりに頭を下げた。

「わたし、昔からこうなんです。人と一緒にいると、ああいうふうに泣き出して……」

「びっくりしたけど、気にしてないから」

「…………」

 観鈴は縮こまったまま顔を上げようとしない。

「葉子さんだって気にしてないし」

「勝手に決めつけないでください」

 葉子が大きな樹に背をやりながら大きく息を吐き出した。観鈴が、葉子のほうにちらっと瞳を向けて、沈んだ調子でふたたびうつむいた。

「……い、いえ。そうじゃなくてですね。もちろん私も気にしてないという意味でっ」

「決めつけるなとか言ったくせに」

 ぎろりと睨まれた。

「……ありがと」

 ようやく観鈴が顔を上げてくれた。そわそわして、まだバツが悪そうな様子だったが、祐一は苦笑した。内心、ホッとしていたのだ。さっきの彼女の姿は尋常じゃなかったし、加えて自分はおろおろするばかりでなにもできなかったから。

「……うにゅ。わたしイチゴジャムでご飯三杯はいけるよ〜」

 名雪の寝言だ。もう名雪は横になって睡眠に入っていた。こっちは完全に目が冴えてしまったというのに。ますます苦笑する。

「寝付きいいですね、名雪さん」

「ああ。こいつの特技みたいなもんだ」

「……ちょっとうらやましい」

 観鈴はそっと立ち上がった。ぱたぱたと丘のほうへ駆けていく。

「どこ行くんだ?」

「にはは。トイレです」

 あ……そう。祐一はぽりぽりと頭を掻く。

「花摘みというやつですね」

 葉子さん、あんたいったい何歳だ。

「まあ、ひとりになりたかったのかもしれませんが」

 そして葉子は瞳を閉じた。立ったまま仮眠でも取るようにして。

「……まだ居心地悪そうだよな、彼女」

「私たちに気を遣ってますね」

 しょうがないと言えばそれまでだ。自分らは出会ってからまだ間もないのだから。

 だが、そんな事情とは別に、観鈴はやはり自分らと距離を置こうとしている。なにかに怯えるように。そんなふうに思う。

 それがいやに歯がゆく感じられた。

「……彼女、ひとりにしていいのかな」

 葉子が閉じていた瞳を開け、こちらを見る。

 じと目で。

「本当にお人好しというか、八方美人というか。いえ、単に何も考えていないだけでしょうか」

「……何が言いたい」

「自分で考えてください」

 つっけんどんに言われる。

「なに怒ってるんだよ」

「怒っているのは私じゃなくて名雪さんでしょう」

「……はあ?」

 葉子が、しまった、という顔をしてあさってのほうを向いた。

「……ラブコメは苦手」

 意味不明なことをつぶやいた。

「葉子さん、だいじょうぶか?」

「……どういう意味ですか」

「いや、なんか葉子さんらしくないセリフが続いたから」

「……つくづく失礼ですね、あなたは」

 葉子は身をひるがえし、奥のほうへひっこんでいく。

「逃げたか……」

 祐一も立ち上がり、きょろきょろと首を回し、たしかこっちのほう……と、観鈴のあとを追っていく。草を踏み分け、月明かりを頼りにして。

 一瞬、名雪をひとりにして大丈夫か? と考え及んだが、すぐに戻ると心に決めて獣道を踏みしめた。

 いくぶん進むと、見知った背中が視界の隅にひっかかった。

 観鈴が、棒立ちしたまま肩を震わせていた。

 祐一は近寄れなかった。そんな雰囲気ではなかった。彼女は、なにかに耐えていた。それがなんなのかは見当もつかないが、とにかく、彼女は戦っていた。

 彼女は戦っているのだ、巨大な何かと。

 足を前に出そうとしたが、動いてくれなかった。ふたりの間には確固とした壁がそびえ立っている。そう感じる。

 俺の出る幕じゃ、ない。

 あの目つきの悪い男を思い出す。勝手にひとりでいなくなった、あの男を。

 おまえ、やっぱり、間違ってたよ。彼女をひとりにして、おまえ、いったいなにやってるんだよ……。

 祐一はきびすを返した。名雪のところに戻ろうとした。

 がさり。

 音がした。それはとても小さな音だった。気づいたのは運がよかったとしか言い様がないほど、かすかな、草の葉の揺れ。

 祐一は振り返った。

 そして見た――頭上から降り注ぐ月明かり、淡く照らされた観鈴の背中、一瞬走った影、ゆっくりと、ゆっくりと、前のめりに倒れる、観鈴の身体。

 人が立っていた。その人影は倒れ伏す観鈴を見下ろしていた。凛々しい横顔。後ろで束ねた長髪が、さらりと風に流される。

 その手には煌く剣。鮮やかに、綺麗に、生々しく月の光を反射する。

 目と目が、合った。

「祐一さん!」

 どこからか呼び声がかかった。人影が動いた。瞬く間にその姿は木々の陰に隠れ、視界から消えてなくなる。

 入れ代わるように葉子が横手から飛び出してきた。さっと周囲を見回し、倒れる観鈴の姿に目が留まり、わずかに顔をゆがませ、また走り去る。

 風が吹いていた。冷たく、乾いた風。

 祐一は、観鈴のもとに、ふらふらと長い時間をかけてようやくたどり着いた。

「おい……」

 肩に手をやる。ゆっくりと仰向けにする。観鈴は瞳を閉じていて、その顔は蒼白だった。

「しっかり、しろ……」

 観鈴は応えない。祐一は身体を揺さぶる。けれど反応はない。

 頭がぼんやりとして、自分が何をやっているのか、何を話しているのか、判断できなくなる。観鈴の身体はもう透け始めていて、支えている身体の重さも、熱も、だんだんと希薄になっていた。

「頼むよ、おい……」

 観鈴が、うっすらと瞼を開けた。

 視線をさまよわせて、今初めてこちらに気づいたように、かすかに目を見開いて。

 にこっとほほえんだ。

 それだけだった。

 彼女は何も言わず、何も語らず……。

 俺は、彼女の気持ちも、願いも、けっきょくなにもわからずに。

 観鈴の姿はなくなった。

「…………」

 なんだよ、これは……。

 祐一は観鈴のいなくなったところを見下ろし続けていた。月はもう雲に隠れたのか、そこには光の灯らない純粋な闇だけが広がっていた。

 なんだってんだよ、いったい。なにがどうなってるんだよ。

 ――もう、わけがわからない。

「なんでだよ……舞!」

 叫びは空しく、静かな夜の空気に消える。








 鹿沼葉子は疾走していた。

 森に入り、藪を抜け、枝や葉が服に引っかかるのも厭わず、前を走る人影に追いつこうとさらにスピードを上げる。

 けれどお互いの差は一向に縮まらない。ぎり、と歯噛みする。誰だか知らないが、接近を許してしまったのは自分の責任だ。ほんの少しの油断が、取り返しのつかない結果を導いてしまった。

 観鈴さんの死は、私のせい……。

 葉子は手の平を突き出し、立て続けに気体の塊を飛ばした。二発は立ち並んだ木々に阻まれ、葉を散らした。一発は相手のふくらはぎのあたりをかすめ過ぎた。

 相手の身体がぐらりと傾いた。距離が縮まる。葉子はまた続けて不可視の力を放った。振り返った相手が斜め上方に跳躍した。

 葉子も同じく地を蹴った。枝から枝に飛び移る相手、自分も追いすがりざま空気の弾を撃つ。相手の足場だった枝を粉砕した。

 相手が地に落下したところで、ここぞとばかりに不可視の力を連射した。

「……!」

 相手は中空で剣を横に構え、一発を防ぎ、しかし残りの弾をすべてその身に受けた。その反動が重力と合わさり、すさまじい速度で地面に激突した。

 葉子も地に降り立った。呼吸を整え、あるていど距離を置いて相手の様子を観察する。

「……く」

 相手は刀身を杖代わりに、重々しく身体を起こす。天井を覆う梢がわずかな夜空の光さえも遮断する中、葉子は相手の顔を見た。

 冷たい印象を与える彼女の瞳が、こちらを見据えている。

「……不可視の力」

 彼女は剣を正眼に構える。

「郁未以外にもいたの……」

 驚きの混じった言葉に、葉子もかすかに目を見開き、それから納得した。

「あなた、島の管理者ですね」

 名前をたしか、川澄舞。彼女は佐祐理と同じく、このゲームの主催側に立っている。ならFARGOの一員である郁未の力を見知っていてもおかしくはない。

「その管理者が、なぜこの場にいるんですか?」

「…………」

「なぜ、私たちを襲うんですか」

「…………」

 舞は応えない。

「なぜ、観鈴さんを……」

 無言で剣を構え続けている。

「あなたは、観鈴さんにしたように、これからも人を襲い続けるんですか?」

 舞は微動だにしない。

「……わかりました」

 葉子は右腕をスッと押し上げた。

「では、あなたには死んでもらいます」

 葉子は空気の弾丸を休みなく連続して放った。

 相手が剣で防ぎきれないほどの数、そしてどの方向に逃げようとも、すぐさま次が撃てるよう、左の手の平にも力を充填する。

 舞はしかし、こちらに向かって突進してきた。空気の弾丸は舞の顔面に直撃する前に霧散していた。

 喉元に刃先が突き出されていた。葉子は仰け反ってかわした。すると視界の端に人型のなにかが入りこみ、そのときには衝撃で葉子は吹き飛んでいた。

 地面を転がり、樹の根っこにぶつかった。舞が頭上から襲いかかってきた。葉子は横っ飛びし、不可視の力を放つが、相手の身体に触れる前に掻き消える。

 舞の目の前に、ブレた映像のようにして女の子が立っていた。

 しばし絶句。

 頭にはうさぎ耳のカチューシャ、手には一本のススキを持っている。

 これが、相手の能力? この小さな子供を、彼女が生み出したというの?

「……私が言われていたのは観鈴と神奈だけ」

 ヒュン、と舞が剣先を向けてくる。

「でも、やる気があるなら相手になる」

「……神奈という子があなたの次の標的なのですか」

「教える理由はない」

 もう教えていると思うが、とくにツッコまない。

「なぜその二人を殺すのですか」

「…………」

「あなた方の目的はなんですか」

「…………」

「返答いかんによっては、私はあなた方を殺しますよ」

 葉子は背後にジャンプしながら、空気の弾を連射した。しかし舞の目の前に立つ薄透明の少女が、手にあるススキで「無駄無駄無駄」と言わんばかりにことごとく弾き返した。

 舞はその場から動かず、ただこちらを見つめている。

「……その力、好きじゃない」

 舞は剣を納めた。

「見えない力……夜の学校を思い出すから」

 舞はくるりと背を向けた。

「……だから郁未も、あなたも、嫌い」

「郁未と戦ったのですか?」

「…………」

「郁未は今、どこにいるんです?」

「……知らない」

 舞は立ち去った。

 葉子は追おうとはしなかった。彼女を行かせてはならない、また犠牲者が増えるのは確実だ。けれど焦る気持ちに反して、追う気を持てなかった。

 額に脂汗が滲んでいる。大きく息を吐き出し、茂みに腰を落とした。

 あのまま戦っていたら、どちらが生き残ったでしょうね……。

「……ふふ」

 郁未だったらどうしたでしょうか。なにがなんでも彼女を止めたでしょうか。いえ、今のあの郁未なら、ただ純粋に戦うことを選ぶかもしれませんね……。

 そして自分は戦うことを選ばなかった。止めることができたかもしれない彼女を、止めなかった。

 これは、いけないことでしょうか……。

 葉子は身を休める。もうすこししたら祐一さんたちの元に戻ろうと、心に決めながら。

 舞は神奈という子を襲うのだろう。でも今は、顔も知らない誰かよりも、自分の身近にいる人を気にかけていたかった。

 偶然とはいえ自分と縁のあった、観鈴のことを思いたかった。

 これは、いけないことなのでしょうか……。

 答えは出なかった。








 神奈はほくほく顔だった。

 目の前のテーブルに鎮座するどでかいハンバーグを慣れないフォークで突き刺し、そのまま口に持っていく。

 うむ、やはり美凪の料理は絶品じゃな。口の周りについたデミグラスソースなどまったく気にせず、ぱくぱくとかぶりついていく。

 できれば柳也と裏葉と、三人でまた食卓を囲みたい。湧き上がる感傷を必死に押し静めるようにして、神奈は一心不乱に食べていた。

 と、手からフォークがこぼれた。かしゃん、とテーブルに落ちる。箸と違ってこの上なく使い辛いそのフォークに神奈は手を伸ばした。

 正面に座る浩平と視線がぶつかった。

「……なんじゃ」

 眉根を寄せる。浩平の様子が変だった。じろじろと、けげんな顔でこちらを見つめていた。

「余の顔になにかついておるのか」

「ああ、目と鼻と口と眉と」

 神奈は無視を決め込んだ。

「……神奈さん」

 隣からぽつりと名を呼ばれる。見れば、美凪のほうもけげんな顔をしていた。

「あの、なにかあったんですか?」

「…………」

 意味がわからない。

「おまえの顔についてるものだよ」

「……目と鼻と口と眉は誰にでもついておる」

「神奈さん、気づいてないんですか?」

 美凪が心配げに訊いてくる。やっぱりよくわからない。

「自分の目元を触ってみろ」

 浩平が言う。神奈は指先でそっと目の下に触れた。

 冷たかった。

 どうやら自分の顔には他に、涙もついているらしかった。

「……なぜじゃ」

 わからない。

「なぜ余は、泣いている……?」

 そう口にした瞬間、心の奥底からせり上がってくるものを感じた。溜めていた感情が、その反動で爆発でもしたかのようだった。

 神奈は口に手を当てた。なんじゃこれは……? 耐えられない。とても耐えられそうになかった。

 神奈は嘔吐した。

「……か、はっ」

 喉をかきむしる。美凪が驚いて寄り添い、神奈の背中に手をやった。浩平がキッチンへと駆け込んだ。

「う……あぁ」

 それは喪失感だった。とてつもない喪失感、身が引き裂かれるかのような、半身が奪われたかのような、そんな感覚。

 神奈はひとしきり吐いて、美凪に支えられながら床にくずおれた。

 浩平がキッチンから戻ってきた。水で絞ったタオルを美凪に渡す。神奈の額に押し当てる。

「……え」

 美凪が信じられないものを見る目で、そのタオルを神奈から取り除いた。タオルの温度が、沸騰でもしたように急激に上昇していた。

 意識が混沌としている。そんな中、喪失感はいつの間にか過ぎ去り、今は昂揚感にすげ替わっていた。半身が奪われたあと、次にはその半身の魂が逆流してくるような感覚だった。

 身体が熱い。とんでもなく。体内に並々と熱湯を注ぎ込まれているかのよう。

「はあっ、はあっ……」

 呼吸が荒い。頭痛がひどい。瞼の裏がちかちかする。

「はあっ、う……ああああああああ!」

 神奈は絶叫した。

 光が弾けた。それは自分の身体の奥から生み出されていた。背中に異物の感触、衣服が破け、そして大きな両翼が現れた。

「なんだ、これ……」

 浩平が目を点にしてつぶやく。翼が音もなく羽ばたき、神奈の身体が浮き上がった。

 まばゆい光をまき散らすその純白の翼は、今度は荒々しく前後に動いた。烈風が吹きぬける。テーブルに並んだ料理の数々が飛び散った。

 室内を荒れ狂う風に、浩平と美凪が身を低くして堪えている。左右の翼は己の意志から離れたように、絶えず羽ばたき続けていた。

 身体がすこしずつ上昇していく。

「み、美凪……」

 ――助けて。

 そう口にしようとして、言葉を呑みこんだ。頼るわけにはいかなかった。だって余は、頼るほうではなく、頼られるほうになりたいから……。

 意識が白濁していく。自分の身体で動くのは、翼だけ。ほかは言うことを聞いてくれない。神奈にはもう、どうすることもできなかった。

「……!」

 美凪がすがりつくように神奈の身体を抱きしめた。強烈な風に髪をめいっぱい後ろに流し、飛ばされそうになるのを堪え、そんな中で美凪は必死に神奈を繋ぎとめた。

「……世話が焼けるな」

 浩平も続いた。暴れる神奈の翼に取り付き、弾かれて、けれどまた取り付いた。

「神奈さん、だいじょうぶですから、だいじょうぶだから……!」

 それは意味が通っていない言葉だった。美凪自身も気づいていたに違いなかった。それでも美凪は繰り返しその言葉をかけた。

 神奈は瞳を閉じた。なんだか安心できる声だった。

 神奈は気を失った。




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