遠くの空が赤い。陽が沈み始めている。

 緑色の網目模様になっているレーダーの画面にも、夕陽によって朱色が落ちていた。そこには自分の位置を示す三角形のマークしか映っていない。だいぶ前に点が消えてから、ずっとだ。

 折原浩平は今にも崩れそうな様相を呈した灯台の前にいた。

 轟音が聞こえてきたのだ。そしてその方角には、点がいくつか集まっていた。祐一という男を捜すという約束もあって、浩平はここに足を運んだのだが……

 ぐるっと周囲を回ってみる。焦げ目のついた塀(火事でも起こったのだろうか。轟音の正体はそれか?)はほとんどが崩れ落ち、灯塔のところにも大きなひびがいくつか入っている。午前中に起こった地震が再び襲ってくれば、跡形もなくなりそうだ。

 もう一度、レーダーを覗く。他の生徒を示す点はやはり明滅していない。この場所には誰もいない。

 ここにいた誰かは、もうこの場を離れたということか。それとも、死んだということか。

 午前の放送では、実に五人もの生徒が名を連ねていた。その中には浩平の見知った名前もあった。

 椎名繭と、川名みさき。

「どうして……」

 なぜ、死んでしまったんだろう。誰かと争った結果だろうか。

「……くそ」

 考えてみれば繭は華奢で力も弱い。真正面から襲われてもほとんど抵抗できないだろう。有効な武器を持っていたとしても、不器用な繭に使いこなせるとは思えない。

 だから、そう、繭の死は納得できるものだったのだ(もちろん、納得なんかしたくはないが……)。

 しかし、みさき先輩の死が浩平には信じられなかった。彼女は強かった。実際に戦ったわけではないが、そう感じることができたのだ。一度集落で出会ったときに。

 先輩には、確固たる信念があって、だからそんな簡単に死ぬなんてことはないと、勝手に確信していたのだ。

「くそ……くそ……」

 浩平は苛立たしく灯台の周囲を何度か回り、門前に戻ったところで立ち止まった。

 灯台に背を向ける。浩平は森沿いを南に下っていった。

 オレにはまだ、探し出さなきゃならない人がいる……。

 放送であった通り、この島にはもうあまり生徒は残っていない。レーダーに点が映るのは難しい気がしていた。

 漁業組合の跡地を左手に、さらに南へと進む。診療所が見えた。しかしその場所にもレーダーは反応しない。

 はやく、はやく見つけ出したいのに。誰かに殺されてしまう前に、オレは出会わなきゃならないのに。

 長森瑞佳と、里村茜。

 探し出して、出会って――そしてどうするのかなんて、浩平はそこまで考えてはいない。その二人もみさきのようにゲームに乗った口かもしれないなんて、澪を殺した人物がその二人のうちどちらかかもしれないなんて、頭に浮かびもしなかった。

 ただ、会いたい。無事を確認したい。元気であるはずのその二人の顔を、この目に焼きつけたい。

 澪が死んで、七瀬が死んで。そして繭、みさき先輩が死んだ。

 もう誰かがいなくなるのは耐えられなかった。

「…………」

 浩平は足を止めた。レーダーに反応があった。ここからさらに南、点がひとつ明滅していた。

 あたりを見渡す。古めかしい住宅が点在している。人の姿は見えない。

 点の示す位置、その生徒はおそらく住宅の中にいる。

 レーダーに視線を落としながら前進する。画面に射し込む夕陽の赤が、浩平には血の色に見えた。

 誰だかわからないが、頼むから、死なないでくれよ……。

 家の門が立ちはだかった。屋根は瓦で壁には木目が浮いている。他の住宅に比べてもよりいっそう古ぼけた感じを受けた。

 点はこの家の中心を示している。門に手をかけると、ぎしぎしと立て付けの悪い音を響かせて道を作った。

 玄関の扉には鍵がかかっていない。そのまま中に踏み入った。

「…………」

 しかしそれ以上、浩平は前に進めなかった。廊下の上に、ふよふよと浮かぶ透明色の球体が陳列していた。

 なんだ、これ? シャボン玉、か?

 そう思った途端、その球体のひとつが天井にぶつかり、弾け、爆発した。

「……!」

 浩平は吹き飛んだ。あっという間に家の門を超え、受身も取れず左肩から地に落下し、額を土にこすりつける。

「な……」

 痛む肩に手を当てながら顔を上げると、シャボン玉は不規則な軌道を描いてこちらに向かっていた。ひとつ、ふたつ、みっつ……ゆうに十個はある。

 そのうちのひとつが空中で弾け、連鎖するように他の玉も弾け飛んだ。

 ぼぼぼぼぼん、と空気が振動し、浩平は強風にあおられ、這ったままだった身体は再び吹き飛ばされるはめになった。

 これは……攻撃か? シャボン玉なのに?

 しかし今のこの状況は考えるまでもなく攻撃だった。浩平はどうにか立ち上がり、内ポケットに忍ばせていたスタンガンを手に取った。

 構えを取り、宙に浮かぶシャボン玉を睨みつける。

「…………」

 シャボン玉にスタンガンって、効くのか?

 ていうか、なぜにシャボン玉が爆弾に?

 浩平はあとずさった。シャボン玉が爆発した。三度、浩平は吹き飛んでいた。

「く……」

 頭がくらくらする。それでも浩平はスタンガンを握りしめ、電源を入れ、ジジジジジジという音を聞きながらシャボン玉を見つめ、思考し、悩み――電源を切った。

 シャボン玉にスタンガンを押し当てた瞬間に粉々になる自分の姿が浮かんだ。

 けれど手持ちの武器といったらこのスタンガンしかない。ほかはレーダーと、『鈴』がふたつのみ。これでは手も足も出ない。

「……あの。私、戦う気はないんです」

 向こうから声が聞こえた。女の声、どこか間延びした感じ。

 家の門を通って、ストローを手にした女の子が外に出てくるところだった。灰色の髪に青のリボン、とろんとした瞳。十字架をあつらえた制服を着ている。見覚えのない女子生徒だ。

「ですから、お願いします。この家に入って来ないでください。あの子がお昼寝中なんです……」

 言って彼女はシャボン玉を吹いた。ちょうどいい具合に海風に乗り、こちらに押し寄せてくる。

「ち、ちょ、待ってくれ。あんた戦う気ないんだろ!」

 シャボン玉が弾け、浩平はふっ飛んだ。

「お願いします。このとおりですから」

「言いながらシャボン玉を吹くんじゃねえっ!」

 浩平は駆けた。森近辺の樹の一本に身を潜め、爆風をやり過ごす。

「……あの。こんなに頼んでもダメなんですか?」

 誰もダメとは言っていないが。

 木陰から顔を出すと、まさに目前に透明の物体があった。浩平は横っ飛びした。直後に爆音が響いた。

 粉々になった大木を見て、ゾッとする。

「……ええと、どうすれば立ち去ってくれるんでしょう?」

「そもそもあんたが立ち去らせてくれないんだろ!」

「あまりうるさくすると、あの子が起きちゃうんです……」

「あんたがうるさくしてるんだろ!」

「戦う気なんかないのに……。あなた、往生際が悪いです」

「そのセリフは戦う気満々なやつのセリフだっ!」

 次々と襲いかかるシャボン玉を、地面を転がりながらかわしていく。爆音の連続で聴覚が麻痺してくる。もう生きているのも不思議なくらいだ。

 と、ストローを持つ彼女の手がぴたりと止まった。左手に持った容器の口を覗き込み、うーんと唸ってから、今度は逆さにして振った。

 浩平の聴力が回復してきた頃、彼女はようやくストローをくわえた。

 だが、スカスカと空気が漏れる音がするだけだった。どうも石鹸水が切れたらしい。

「……ちょっとお待ちください。補充してきます」

 彼女は家の中に戻っていった。あたりにはようやく平穏が訪れていた。浩平は脱力して、膝から崩れ落ちそうになったが、必死に堪えた。

 この隙に、さっさと逃げてしまおうか……。

「……お待たせしました」

 戻ってくるのは早かった。

「では、いきます」

「頼むからいかないでくれ……」

 もうこれ以上相手をするのは限界だ。が、浩平はこの場を離れようとはしなかった。身体じゅうが擦り傷だらけで動くのも辛かったし、なにより自分はまだ大事なことを確認していない。

 レーダーに映った点はひとつだけだ。しかし彼女はこう言った。あの子が起きてしまう、と。

 この家には、彼女のほかにもうひとり誰か居るのだ(なぜレーダーに映らないのか謎だが……故障でもしたんだろうか)。

 とにかくそれが誰なのか確認するまで、ここを離れるわけにはいかない。その誰かが、ひょっとしたら茜か長森かもしれないのだから。

「……なあ、聞きたいことがあるんだけど。あんたの他にこの家に――」

 言葉の最後は爆音によって掻き消えた。聞く耳持たぬといった感じで彼女が次々とシャボン玉を生成していた。

 だが、浩平はもう吹き飛ばされなかった。シャボン玉がこちらまで届かぬうちに破裂していく。どうやら風向きが変わったようだ。

 胸を撫で下ろしていると、ふらふらと浮遊するシャボン玉が今度はUターンしていくのに気づく。

急な逆風で、彼女のほうへと近づいていた。

 ぼん、と破裂した。彼女の髪が後ろに流され、身体がぐらりと傾いた。

 浩平は彼女に向かって走り出した。

「あ……」

 彼女は口を丸くして、いまだ空中に残っているシャボン玉を見上げていた。それはゆっくりと、ゆっくりと、彼女の頭上を至近距離で通過して――

 破裂すると同時に、浩平は彼女を抱えて倒れこんだ。

 がん、と頭を鈍器で殴られた感覚。さすがに鼓膜が破れたかな、と思った。浩平は彼女に覆い被さるようにして背中にかかる圧力に耐えた。その時間はほんの一瞬かもしれなかったが、浩平には長く感じた。ぱらぱらと舞い散る小石が、擦り傷に響いた。

 ほどなくして爆風が止み、浩平は四つん這いになって彼女から離れる。

 ……オレの話、聞く気になったか?

 そう口にしたつもりだったが、ちゃんと言葉になったか疑問だった。すぐ近くにある、大きく見開かれた彼女の瞳が、暗幕が垂れたように見えなくなる。

 また、浩平は彼女の上に倒れこんだ。

 彼女は瞬きを忘れたように目を見開いたまま、一言。

「……痴漢?」

 浩平の意識はそこで途絶えた。








 今、何時くらいだろう? ここにいると時間の感覚がなくなる。ずっと夜のように感じてしまう。

 薄暗い地下室で、倉田佐祐理は壁にかかっている時計に目をやった。

 秒針が動いていなかった。壊れているらしい。

 地下室はとんでもない惨状だった。モニタは割れ、ケーブルはちぎれ、無事なコンピュータがあるのか疑問なほどだ。

 まるでどこかの粗大ゴミ捨て場のよう。倉田佐祐理は感嘆しながら、残骸に足を取られないよう気を付けつつ歩き、壁にそっと手を当てた。

 鋼鉄製の壁にさえ、ところどころに亀裂が入っている。あの郁未という少女の力の大きさを物語っていた。

「シュンさん。そちらはどうです?」

「問題ない。まあ問題あったら困るんだけどね」

 月宮あゆを収容したポットだけは、傷ひとつなく佇立していた。シュンはその前に座って、どこからか持ってきたモバイルコンピュータを駆使していた。

 ポットに近寄る。シュンの隣に立ち、そして見上げる。

 あゆの顔は穏やかだ。でも、ほんのすこし青ざめているふうに佐祐理には映った。

「……佐祐理」

 声に振り向くと、舞がいつもの無表情でエレベーターの前に立っていた。ちょっと機嫌悪いかな? と感じる。

 憮然として舞が歩み寄ってきた。

「郁未さん、いなかったの?」

「……うん」

 舞は郁未を追い、エレベーターで階上に向かったのだ。しかし見失ったらしい。

 それも仕方なかった。相手には逃げる時間がじゅうぶんあったのだ。この地下室は、地上の奥深くに位置する。エレベーターの昇り降りにはけっこうな時間を費やすのだ。

「管制室には寄った?」

「……うん。でもだめだった」

 地下一階の管制室に行けば、生徒全員の現在位置を把握することができる。スクリーンに皆の居場所を示すことができるのだ。皆には、発信機が付いているから(発信機を除去した神奈さんだけは例外ですけど)。

 しかしそれでも、郁未の居場所はつかめなかったと舞は言う。

「荒らされた跡は?」

「……なかった」

 なら、受信機は正常に稼動しているはず。

「……ごめん」

「謝ることなんてないよ。郁未さんの居場所なら予想できるから」

「……そうなの?」

「あははーっ。郁未さんは独力で発信機を取り外せません。だったら答えは簡単。郁未さんは発信機の信号が届かない場所に潜んでるんですよ」

「洞窟だね」

「あははーっ。シュンさん、正解です」

 郁未は、地下二階の洞窟で身を休めている。あれだけ力を酷使したのだ、眠っている可能性だってある。

「……行ってくる」

 すぐさま舞がきびすを返す。

「舞、急がなくってもいいよ」

「……悠長にしてる暇なんてない。今度こそ、討つ」

 ちらりとこちらを見、すぐに前方を睨みつけた。

「でも舞、疲れてない?」

「平気」

「ちょっとくらい休んでいったほうがいいよ」

「大丈夫」

 舞は歩いていく。佐祐理は腕を伸ばした。駆け寄ろうとして、数歩進んだだけで手をひっこめる。

 ぎゅっと胸の前で両手を握った。

 佐祐理はまた、汚いこと考えてる……。

「川澄さん。ちょっといいかな」

 エレベーターに乗り込もうとする舞に、シュンがモバイルを床に置いて言った。

「頼みがあるんだ。洞窟に行くなら、そのまま地上に出てくれないかな」

 舞がいぶかしげな顔をする。

「二人、消して欲しい生徒がいるんだ。神尾観鈴と、神奈」

 それはまさに佐祐理が考えていたことだった。佐祐理を射抜くシュンの視線――その瞳の奥に、嫌らしい光が宿っていた。

 この目が佐祐理は好きになれない。でも、佐祐理だってこんな目をしてるんだろうな……。

「……どうして」

 舞が不機嫌そうに聞き返す。

「長森瑞佳が消えたあと、次にこの世界を脅かすのはその二人だからさ。今のこの状況じゃあ、翼人相手に彼女を確保し続けるのは困難だ」

 シュンは、あゆの寝顔を横目に肩をすくめた。

「僕の銃も防護服も、このポットも、対ウィッチ用にコーティングされてはいるけど、他種の力には効果がないもんでね」

 だから自分らには結界が必要だった。翼人に対して有効な法力、ウィッチとは系統を別にする日本古来のその力によって練り上げられた結界は、しかし今はもう消滅している。

 いくら小屋を爆破しようが、相手は地面を掘り進んでくるかもしれない。瑞佳がエレベーターの扉を破壊して襲撃したように、鋼鉄製の天井を突き破ってこの部屋を訪れるかもしれない。

 その様子を想像すると、なにやらモグラのようでおかしかった。あははーっと笑っておく。ギョッとして二人がこちらに視線をよこすが、無視。

「……でも、あいつはどうするの」

「天沢さんのことかい? キミに任せるよ。なんなら放っておいてもいい。もしまた彼女がここを急襲しても、どうせ不可視の力では月宮あゆをどうこうできないんだ。それに」

 シュンは、にやりと笑う。

「心配しなくても、僕がちゃんと始末してあげるさ。FARGOの幹部としての義務でね」

「…………」

 舞がこちらに視線を振る。佐祐理はどうして欲しいの、と訊いてくるように。

 佐祐理は何も答えなかった。ふぇ……と言葉が漏れた。

「……その二人、どこにいるの」

 舞がシュンに目線を戻す。

「管制室で調べてきなよ」

「……神奈って子は、発信機付いてない」

「ああ、そうだったね」

 シュンがカタカタッ、とキーボードを打った。近くにあったヒビ入りモニタに、島の映像が流れる。

 空が映っていた。日が高いので昼に録画していた映像らしい。プレハブ小屋の外に設置してあった監視カメラが捉えたものだろう。

 遠くのほうに人影が見えた。画面がズームしていく。そこには全裸の神奈と、その背に乗った美凪が空を飛んでいた。数秒後、地上へと急降下し、そのまま森に遮られ見えなくなる。

「場所から見て、神奈は集落に向かったんだろう。これは数時間前の映像だから、今はどうだか知らないけどね」

「……わかった」

 舞はエレベーターに乗り込んだ。

「待って!」

 佐祐理は大きな声で呼び止めた。舞が、びっくりして(顔には出ないけど)こちらを見る。

「あはは……舞、洞窟通って外に出るには、鍵が必要なんだよ」

 ちりん、と鈴の音が響いた。駆け寄って、舞の手を握って、ぐっと押しつける。

「だからこれ、持っていかなきゃ」

「…………」

 舞は、なにやら考える仕草をして、

「……うん」

 鈴と一緒に拳を握った。

「気をつけてね、舞」

「……佐祐理こそ」

「だめだよ」

 口調が強くなった。舞がたじろぐ。自分らしくなかったとちょっと後悔して、佐祐理は伏し目がちになる。

「……ね、舞。佐祐理のことばかりじゃなくて、ちゃんと自分のことも考えないと」

「…………」

 しかし舞の次の言葉は聞けなかった。

 顔を上げたときには、すでにエレベーターの扉は閉まっていた。

「僕の持っている鍵を渡してもよかったけどね」

 シュンがモニタの電源を切った。青白いポットに向き直り、作業を再開する。

 佐祐理はいまだエレベーターを見つめていた。

 舞は知っているはずだ。さっき渡した鈴――キュレイシンドロームの名を冠した鍵は、佐祐理たちが持つふたつだけではないと。

 だって一度、神社への道は開かれた。天野さんを追ったとき、そう舞は話していた。

 岩戸は他の生徒が開けた。だから鍵は、佐祐理たち以外の誰かの手にも渡っている。でもそれは当然だった。だってキュレイシンドロームの鈴は、佐祐理が武器として支給したんだから。

 そして舞は、そのことについてなにも疑問を口にしなかった。

 シュンに不審がられないように振舞ってくれた。

 舞には、本当に助けられてばかり。

「……ごめんね」

 ごめんね、舞。

 佐祐理は、頭悪い子だから。大事な人も守れなかった、弱い子だから……。

 制服の裾を上げ、佐祐理は左の手首をあらわにする。直線に引かれた、消えることのない傷痕をさらして自分を戒める。

 覚悟を持つために。

 ゲームはもう終わりに近づいていることを、再認識するために。








 夜の帳が降りていた。空は薄ぼんやりした雲に覆われ、星々を隠している。

 相沢祐一は寝返りを打った。なかなか寝つけない。首あたりに草の先っぽが当たっていて、一度気になるともうどうしようもなくなって、祐一はついに身体を起こした。

「……はあっ」

 どうにも落ち着かなかった。いったい自分はなにを焦っているのか。折原ってやつがけっきょくこの丘のふもとに姿を見せなかったからか? そのせいで、四人で野宿をするハメになったからか?

 どちらも違う。俺はショックを受けているんだ。だからこんな、どうしようもない気持ちでいるんだ。

 美坂栞の死を知ったから――

「…………」

 あ、だめだ。泣きそうだ、俺。

 ふと隣を見ると、名雪が糸目になってすーすー寝息を立てていた。もうだいぶ前から聞こえてくる音だ。

 その寝つきの良さがちょっと恨めしくて、でも名雪だって名雪なりにショックを受けているんだと、祐一は思う。

 奥のほうでは、木陰に隠れるようにして、幹に寄りかかって葉子が立っている。暗くてよくは見えないが、瞼は閉じているようだ。立ったまま眠っているんだろうか? さすがは葉子さん、変に器用だ。

 そして名雪の反対側、観鈴が同じようにして寝息を立てて……

「よいしょ、よいしょっ」

 いなかった。

 カチャカチャと、観鈴はなにやら組み立てていた。

「……寝てたんじゃないのか?」

 観鈴はびくっとして振り返った。その顔は、母親に悪戯がバレた子供のような顔だった。

「にはは。なんか眠れなくて」

「で、なにやってんだ?」

「うーん、よくわかんない」

 首をかしげている。観鈴の手元には、見覚えのある長い筒が握られていた。脇には横長の箱。名雪の望遠鏡のようだ。

「……それ、組み立てるのか?」

「にはは。よくわかんない」

 観鈴は困ったような笑顔を浮かべた。今度は祐一が首をかしげる番だった。

「……とにかく、寝たほうがいいぞ。もう夜遅いし」

「うん……」

 しかし観鈴は手元を動かし続ける。カチャカチャと、プラスチックのこすれる音が夜の空気に流れ出す。

「なあ」

 観鈴は手元を動かし続ける。

「そんなの組み立てても、しょうがないだろ」

 観鈴は魅入られたようにその行為をやめようとしない。

「いいかげんにしろって」

 側に寄って、観鈴の手にあった物を取り上げた。

「あ……」

 観鈴の視線と祐一の視線が絡みあった。

「う……うあっ……」

 祐一はギョッとした。観鈴は顔をゆがめ、見開かれた瞳から次々と涙がこぼれ出た。

「えぐっ、ぐす……」

 口元に手を当て、嗚咽を漏らし、なにかに耐えるように身体をくの字に曲げた。

「な……おい。どうしたん――」

 肩に手を置くと、そくざに払われた。怯えた眼差しをこちらに突き刺し、せきを切ったように声を上げて泣き始めた。

「泣あかした、泣あかした。祐一さんが泣あかした」

 葉子が無表情で唄っていた。

「ていうか葉子さん、起きてたのか……」

「見張り番です。いつ誰が襲ってくるかわかりませんから」

 癇癪を起こしたような観鈴の泣き声は止む気配を見せない。祐一はなにがなんだかわからなかった。

 もう一度観鈴の肩に触れようとして、さっき払われたのを思い出し、すぐにやめる。

 葉子に救いの視線を送るが、ついと顔を背けられた。情けない顔をして祐一は観鈴の様子をもう一度うかがう。

 おもちゃを取り上げられた子供のように観鈴は泣いている。いったいどうしたというんだろう? 手元にある長い筒に視線が落ちる。これを取り上げたのがいけなかったのか?

「ええと、その。これ、返すから」

 おそるおそる持っていくが、あっさり弾き返された。

「……葉子さん、助けてくれ」

「知りません」

 そりゃないだろう。

「俺じゃどうしようもないんだよ」

「知りません。祐一さんが泣かせたんだから、祐一さんが責任を取るべきです」

「俺はただ望遠鏡を取り上げただけだ」

「やっぱり祐一さんのせいじゃないですか」

「泣かせるつもりなんかなかったんだよ」

「女泣かせの男はみんなそう言います」

「誰が女泣かせだ」

「鈍感な男とも言います」

「誰のことだよそれは」

「救いようがないとも言います」

「だから誰のことなんだよ」

「……二人とも、いいかげんにして」

 いつの間に起き出したのか、名雪が肩をいからせていた。

「そんなことやってる場合じゃないでしょ」

 観鈴は、いまだわんわんと泣いている。名雪はそっと寄り添って、しかし観鈴は跳ね除けようとする。それでも名雪は近寄っていった。

 名雪は優しくあやすように、観鈴の背中に腕を回した。観鈴はびくっと震えて、ぽかぽかと拳を振り回した。

 それでも名雪は離れようとはしなかった。

「だいじょうぶ、だよ。怖くないよ」

 ひくっ、と声を上げ、観鈴は名雪の胸に顔を押し当てる。

「往人さん……往人さんっ……!」

 ひときわ大きな声で泣いた。

 そのとき頭上からほのかに光が落ちてきた。空を覆っていた雲がわずかに途切れ、月が姿を現していた。

 淡い月明かりの中、名雪と観鈴、重なった二人の影が地面に伸びる。

 観鈴は泣き続ける。名雪は優しく観鈴をあやす。

 そんな様子を、祐一と葉子は静かに見守っていた。




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