「近づかないでください」
森沿いに西へ進んでいくと、丘のふもと辺りで急に声をかけられた。
「そのまま立ち止まっていてください。これ以上近づけば、撃ちます」
緊張を含んだその声に、どきりと心臓が高鳴り、それから相沢祐一は自然に笑みを浮かべてしまう。
「葉子さんか? 俺だ、祐一だよ」
太い樹の幹の向こうで、人影がわずかに動いた。驚いたような仕草だった。しかし相手はこちらに顔を見せようとはしない。
「ごめんな、遅くなってしまって」
「本当に祐一さんですか?」
疑心に満ちた声だった。
「……いや、だから俺だって」
「なら証拠を見せてください」
証拠もなにも、俺の姿を見れば一発のような気がするが。警戒しているのか、葉子は姿を見せようとはしなかった。
「祐一さん……」
隣に立つ観鈴が、不安げな視線をよこしてきた。大丈夫だから、と手で応じておく。
「葉子さん、とりあえずそっち行っていいか?」
「だめです」
断られた。
「近づいたら撃ちます」
断固とした口調だった。観鈴の顔がますます不安に染まる。
「あのなあ……ここは感動の再会場面のはずだろ。命からがらやっとここまで来たってのに」
といっても、たとえば葉子さんに満面の笑みで抱きつかれて出迎えられたら、それはそれで怖かった。
「あなたが祐一さんであるなら、その証拠を見せてください」
念を押すようにして言う。
「だから、俺は相沢祐一だって!」
「言うだけならサルでもできます」
サルは喋れないと思うが。
「とにかく証拠を見せてください」
譲るつもりはないらしい。というか、これと似たような問答は前にもやった気がする。夜遅く、診療所で葉子の帰りを待っていたときのことだ。
あのときは郁未にやられたんじゃないかと心配したものだった。
祐一は腹を決めた。
「わかった。葉子さんがぐうの音も出ないほどの証拠を見せてやろう」
「お願いします」
「葉子さんはなぜブラジャーをつけていない――」
どん! と大砲のような音が聞こえたと思ったときには祐一は後ろにすっ飛んでいた。
「わあっ、祐一さん!」
観鈴の顔が遠くなり、祐一は地べたを転がった。
「ゆ、祐一! 葉子さん、なんてことするの!」
これまでどうしていたのか、木々の奥から名雪が飛び出してきた。
「遅れた罰です。天誅です」
続いて葉子があからさまに不機嫌な顔をしながら登場した。
「にしたって、これはないだろ……」
まだ腹のあたりがズキズキ言っている。
「私なりに感動の再会場面を演出してみました」
「どこがだよ……」
「今のは葉子さんが悪いっ」
名雪がぷんぷんに怒っていた。
「……すみません」
なぜだか素直に謝る葉子さん。
「祐一も、なんでこんなに遅いのっ」
名雪の怒りの矛先がこっちにもやって来た。
「いや、いろいろあってな」
「すっごく心配したんだよ。なにかあったんじゃないかって、すっごく心配……」
頬を紅潮させてまなじりを滲ませて、本気で怒っているのがわかった。
「……ごめん」
「イチゴサンデー、七十個」
それは多すぎだろう。
「……わかった」
が、祐一はうなずいておいた。立ち上がろうとして、さっきしたたかに打った背中が痛んで息を詰まらせる。
葉子さん、もっと加減してくれよな……。
「あ、あの。大丈夫?」
観鈴が寄り添ってきた。しゃがみ込んで、どこか痛いところは……なんて言いながら額に手を乗せようとしたり(別に熱はない)、引っ込めたりしている。こういう場合、どうしたらいいかわからないといった様子で。
と、同じように寄り添ってきた名雪と目が合った。
「あれ……」
「にはは。こんにちは、名雪さん」
観鈴がぺこりとお辞儀する。それから、おずおずと名雪の顔をうかがうような上目遣いをした。
「うん、こんにちは。観鈴ちゃん、だよね」
にっこり笑った名雪を見て、観鈴の顔にも笑顔が戻った。ホッとしたような、でも無理に不安を押し隠すような顔だった。
「祐一さん」
すぐ側で葉子が仁王立ちしていた。
「なんですかこの子は」
「……焼きもち?」
葉子さんの髪が逆立ったので平伏しておく。
「観鈴さん、と言いましたか」
きょとんとする観鈴に、葉子が右の手の平を向けた。スッと目を細くする。
「おい、葉子さん」
「べつに取って喰おうと言っているわけじゃありません。ですけど、用心くらいはさせてください。観鈴さん、武器をこちらに渡していただけませんか?」
強い口調に、観鈴の顔に怯えの色が走った。
「あの、わたし、武器なんてないです……」
「本当ですか?」
「う、うん。わたしの武器、往人さんにあげちゃったから」
「信じられませんね」
「が、がお……」
観鈴が瞳を潤ませた。
「葉子さんっ!」
今度は祐一と名雪の声が綺麗にハモった。
「葉子さん。わたしたちのためにやってるってことはわかるし、嬉しいけど、でも友達を疑うのはやめて」
名雪が諭すように言った。
「友達……」
観鈴が、ぽかんとしてから、照れたように縮こまった。
「というわけで、葉子さんの負け」
判決を下しておく。
「……どうせ私には味方なんて誰もいないですし、いつもいつも損な役回りですし」
葉子さんがいじけた。
「ごめんな。葉子さん、心配性だから」
「あなたたちが楽観過ぎるだけですよ……」
まだいじけている。
「にはは。わたし、気にしてないから」
葉子を気遣うように、観鈴は照れ笑いを浮かべた。はあっ、と心底疲れたように葉子はため息をついた。
祐一は今度こそ立ち上がった。制服についた土や枯葉を払う。するとまた背中が痛み、顔を歪ませると、ちょうど葉子の冷たい視線にぶつかった。
「……不可視の力はないだろ、いくらなんでも」
「知りません」
顔を逸らされた。祐一も視線を空のほうへと向ける。地平線の上に浮かんだ太陽が目に入った。
空はまだ茜色に染まってはいない。夕暮れまではまだ時間があるようだった。
「あ、そうだ。祐一、折原君に会った?」
同じく空に目をやりながら、名雪が思いついたように訊いてきた。
「誰だそれ」
「前に診療所で会ったでしょう。もう忘れたんですか、記憶力乏しいですね」
まだ怒ってるのか葉子さん。
「見てないけど。なんでだ?」
「折原君が約束してくれたんだよ。祐一を見つけたら連れてくるって」
なんでまたそんなことになっているのか疑問だったが、とりあえず観鈴に視線を振ってみた。観鈴も見ていないらしく、首を横に振った。
「わたし、折原って人、顔も知らないし」
そうらしい。
「まあ、入れ違いになったんだろうな」
「……そっか」
そう呟く名雪の隣で、葉子が思案げにうつむいていた。
「どうした?」
「これからどうしようかと思いまして」
「どうするんだ?」
「……他力本願ですね」
「俺らのリーダーは葉子さんだしな」
「勝手に決めないでください」
葉子は呆れた顔をしてから、
「提案ですが。神社を見てきませんか」
「なんでまた」
「折原さんが言っていたんです。神社に、おもしろいものがあると」
「……おもしろいもの?」
「なにかは教えてくれませんでした。だから、それを確認するために神社に行こうと提案しているんです。あと、折原さんは『この島から抜け出せるかもしれない』とも言っていました」
いったん言葉を切り、葉子はふっと笑んだ。
「性質の悪い冗談だと思いますけど」
「わたしは折原君のこと信じるよ」
名雪が口を挟んだ。
「あなたはなんでも信じ過ぎです。そのうち痛い目に遭いますよ」
「でも、信じたいから」
にっこり笑う名雪に、葉子はなお言い募ろうとして、口から漏れたのは嘆息だけだった。
「にはは。よくわからないけど、わたしも信じる」
観鈴も賛同した。
「わからないのならそんな簡単に信じないでください……」
呆れ最高潮といった感じの葉子だった。
「祐一さんはどうですか?」
「……どうって言われてもな」
まあ、折原という男が信頼に値する人物なのかどうかはともかく、神社を見てくるくらいどうってことない気がする。
「もしくは、このままどこにも行かず、じっとしているのも悪くありませんよ。そうすれば、島の生き残りの生徒も着々と減っていくでしょうから」
葉子の言葉に、観鈴がぴくりと震えた。
「でも、それは……」
「生き残りが私たち四人だけになるのを待つ、というのもひとつの方法です」
「…………」
観鈴は口をつぐんでしまった。
祐一は、葉子の言葉を考えていた。たしかにそうだ。このゲームに勝ちたいのなら、それはひとつの手ではあった。
しかしそれはこのゲームに乗ったやつの考えだ。だんだんと死んでいく生徒を黙って見ているだけなんて、自分は耐えられるだろうか。
「……葉子さんはそうしたいのか?」
「私は提案をしただけです。私たちが取るべき行動、その選択肢は多いほうがいいでしょう」
誤魔化された感じ。
「じゃあ、もし生き残りが俺たちだけになったとして、そうなったら葉子さんはどうするんだ?」
俺たちを裏切るのか? 俺たち三人を殺して、ゲームに勝利するのか? 最後のひとりになるのか?
葉子さんの力なら、まともな武器を持たない俺たちに対しそれは簡単に行えるだろう。
「…………」
葉子は答えなかった。葉子だけではない、誰も言葉を発さなかった。
けっきょく、この島から抜け出るためには最後の一人にならないといけないのなら、四人で行動している俺たちはどうなるのか、考えても答えは出なかった。
重い沈黙が垂れ込める。
「神社、行くか」
大きめな声で祐一は言った。同意を求めようと、名雪と観鈴に視線を注ぐ。
「……祐一。わたしは神社に行きたくない」
名雪がすまなそうな顔をする。
「あ、でも反対ってわけじゃなくて。ただ、わたし、折原君にイチゴサンデーごちそうするって約束したんだ。だから、ここで待たないと」
「来ないかもしれませんよ。約束を守る保障なんてありません」
「でも、待ちたいから」
そこでいったん、会話が止まった。
「……じゃあ、待つか」
「私は賛成できかねます。なるべく他の生徒との接触は避けるべきです」
「葉子さんは折原ってやつ、信用してないのか?」
「用心に越したことはありません」
「折原君、いい人だよ。みんなで助けあわなきゃだめだよ」
「えっと、あの。わたしは、みんなが死んでいくの待つのは、やだな……」
小さく漏らした観鈴の言葉で、場に沈黙が降りた。これで何度目の沈黙だろう?
これからどうするべきか、どう行動するのが最善か。わからない。
皆、なにも話さなくなった。
空気が重い。
そしてこの重苦しいこの雰囲気を破ったのは、場の雰囲気にそぐわない陽気な声だった。
『すみません、遅くなっちゃいましたー。みなさんお待ち兼ねの放送の時間ですよー。もう正午は過ぎちゃってますけど、こちらもいろいろ都合あるので許してくださいねー。
それでは時間ないので、ちゃっちゃっと簡潔にいきますねー。ゲームの脱落者の追加を発表しまーす。耳かっぽじってよく聞いてくださいねー。まずは、
八番、川名みさきさん。
十一番、椎名繭さん。
十四番、美坂栞さん。
十八番、国崎往人さん。
二十四番、みちるさん。
以上でーす。
今回はたくさん脱落しちゃいましたねー。文句なしに過去最高記録ですよー。でもこの結果に満足しないで更なる躍進を目指してくださいねー。みなさんはもっとできる子だと佐祐理は信じて疑いませんからー。それではみなさん、午後もはりきっていきましょー』
うるさいなあ……なんの音だろ……。
近所迷惑な騒音みたいにして、どこからともなく陽気な声が耳を打ち、天沢郁未はゆっくりと頭を持ち上げた。
身体の前面に固い感触。リノリウムの床だと気づいた。どうやら自分はうつ伏せに寝ていたらしい。
ここ……どこ?
首を巡らせる。左右には分厚そうな金属製の壁、天井の蛍光灯は弱々しく、あたりはいやに薄暗い。窓がないのでますます暗く感じる。
重厚な雰囲気を持つ廊下、まるで牢獄のようだと郁未は感じた。
ひょっとして、ここ、FARGOの隔離施設?
ぱっと見、似ている。雰囲気などそっくりだ。けれど記憶にある施設の造りとは微妙に違っている気もした。
郁未はふらりと立ち上がった。ぼんやりした頭を左右に振る。そのとき肩に鈍痛が走り、うっと呻いてしまう。手の平で押さえると、そこはすこし熱を持っていた。
じくじくと、うずくような感覚。そんなに痛くはない。治りかけの傷みたいな疼きと痒さがある。
私……どうしてケガなんか? いつ、肩に怪我をしたの?
いや、それだけじゃない。私は今まで、どこで、何をしていたんだろう? なんで私はこんな場所で倒れていたんだろう?
思い出せない。記憶があやふやだった。
「…………」
もう一度、あたりを見回す。誰もいない。
廊下は前後に続いているが、暗くて奥のほうまで見通せない。
ここには私ひとりだけだった。
「……まあ、いっか」
郁未は体育座りをして、膝に顔をうずめた。
なんだか身体は重いし、肩も痛いし、あまり動きたくなかった。
「おやすみ……」
それにとても眠かった。
(て、いきなり寝ないでよ!)
郁未は顔を上げた。きょろきょろと首を回すが、誰の存在も感じ取れなかった。
「……気のせいかな」
郁未は膝に顔をうずめた。
(寝るなって言ってるのがわからないの!)
郁未は顔を上げた。しかしあたりに人の姿はない。
「……やっぱ気のせい」
今度はごろんと横になる。
(あなた、いいかげんにしなさいよ……)
その声には怒気と一緒に殺気が含まれていたので、郁未は慌てて飛び起きた。
(まったく、手間かけさせないでよ)
呆れた声が聞こえた。脳を揺さぶるようにして、頭の中に響き渡った。
「もしかして……」
(ええ、そうよ。久しぶりね、『もうひとりの私』)
その声は郁未の頭から直接、滲み出るようにして耳に届いていた。
思考がこんがらがって、まとまるまで結構な時間を費やして、それから言った。
(あなた……なんでここに)
声には出さず、自分の頭の中に問いかけた。それだけで自分の声は相手に届く、私はそれを知っていた。
(なんでって、私はあなたの側にいたじゃない。昔からずっと)
ふん、と鼻で笑われた。
(……相変わらず嫌味ね)
(それが私だから)
郁未のぼんやりしていた頭がようやく働き出す。
そう。彼女は私自身。過去に置き去りにした私の思い出、忘れていた辛い記憶が作り出した幻影――ドッペルゲンガーなのだと、郁未はようやく思い出した。
(……FARGOの施設が崩壊したとき以来、か)
一緒に彼女もいなくなったとばかり思っていたのに。
(そうね。そして私はまた作られた。あなたによって)
(……どうして)
(あなたには私が必要だったからよ。名も知らぬあいつがいなくなってから、あなた、自分がどうしていたか知ってるでしょう)
(…………)
あまり、覚えていなかった。ただショックで、あいつだけじゃなく、仲間だったみんなもいなくなってしまって、それから自分はどうしていたか、あまり覚えていない。
(あなたがそんなだから私が出てきたの。あなたの代わりに私があなたをやることで、あなたの気持ちが私の気持ちに代わったの)
(……なにそれ)
(あなたのその女々しくて情けない気持ちを、すこしだけど私がもらってやったってことよ)
ハッとした。郁未は、胸に手を当てた。
心臓の鼓動が伝わってくる。ゆっくりと音を刻んでいる。制服ごとぎゅっと握りしめたが、やっぱり心臓の音はゆるやかだった。
気持ちが、すこし軽くなっていた。
(……私、助けられたの?)
彼女が、私を助けてくれたというの?
(私は気まぐれだからね。て言っても、この性格だってあなた自身なんだけど)
(……ありがと)
(礼なんかいらないわ。私も好き勝手やってただけだし)
多大な不安が頭をかすめた。
(……ねえ。あなた、私の身体使ってなにやってたの?)
(殺しあいを少々)
のけぞった。
(な、なななにやってんのよあんたっ!)
叫んだとたん肩が痛んだ。この傷はそういうことだったわけね……。
(安心しなさい。けっきょく誰も殺してないし。あ、でもプレハブ小屋の前で男の子ひとり殺ったっけか。まあいいじゃない、そんなの)
(そんなのってね……)
軽すぎるにも程がある。
(残念ね。あなたの目覚めがもう少し遅かったらもっと殺れたかもしれないのに)
空恐ろしいことを言う。
(ていうか、なんで殺しあいなんかやってるのよ……)
(もっと遊びたかったわ。こんなに早く交代するなんて思わなかったし。たぶん何らかのショックであなたは目覚めたんでしょうけど)
(人の質問に答えなさいよ……)
(それより、いつまでここでじっとしているつもり?)
横柄な態度。やっぱり相変わらずだと思った。
(そんなこと言われても、ここ、どこなの)
(永遠の世界よ)
(……は?)
(だから、永遠の世界に私たちはいるの)
言ってること意味不明。
(ひょっとして、ギャグ?)
(私はそんなキャラじゃないわ)
そうだけど。
(要するに私たちは現実じゃない世界で殺しあいというゲームをやってたってわけよ)
とりあえず自分らはとんでもないことに巻き込まれていることだけはわかった。
(ちなみにゲームには私自ら志願したんだけどね)
もう泣きたくなってきた。
(で、いま私たちが立っているこの場所は、殺しあいを主催したやつの本拠地ってわけ……て、なにさめざめと泣いてるのよ)
(……あなたに身体を奪われた自分の不甲斐なさに絶望してるの)
(ようやく自覚したわけね)
皮肉も通じない。
(敵の本拠地って、なんでそんな危険なところで私は倒れてたのよ……)
(倒れていた理由はわからないわ。ある程度なら予想つくけど)
一度、言葉を区切って言った。
(たぶん私たちは、女の子にひっぱられてここに来た)
(……女の子?)
(そ。ちょっと勇気のある普通の女子高生に)
その口調がなんだか楽しげで、びっくりした。こんな彼女を見るのは初めてだった。
(それと、あなた間違ってるわよ。ここは敵の本拠地じゃない)
(違うの?)
(ええ。殺しあいの主催者を誰が『敵』って言った?)
嫌味たっぷりな口調。
(……まさか、あなたが殺しあいをしようとかバカなこと言い出したんじゃ)
(そこまで私は飢えてないわ)
じゅうぶん飢えてると思う。
(このゲームにはFARGOが絡んでるのよ。事実、主催者のひとりはFARGOの人間よ。だからFARGOの信者である私たちにはいちおう味方ってことになるわね)
(ち、ちょっと待ってよ。FARGOってもう無いんじゃないの?)
あのとき、教主の死によってFARGOは壊滅したはずだ。そのあと私はFARGOを去ったし、あの葉子さんだって……。
(FARGOは無くなってなんかない。研究員がひとりでも生き残っている限り)
吐き捨てるような言葉だった。
(まあ、信者の私にはFARGOを非難する資格なんかないけど)
(……また、戻ったの?)
私が絶望していたとき、彼女――ドッペルゲンガーは一度出たFARGOの施設にまた戻ったということらしい。
どうして? と聞こうとして、聞くまでもないことだとすぐに知った。
彼女は身の安全を確保するためにFARGOに戻ったのだ。不可視の力の会得に成功した私を、施設を出たとして、FARGOが放っておくはずがないから。
(葉子さんは、どうしてる?)
同じく不可視の力を得た葉子はどうしているのか。とても気になった。
(FARGOには戻ってきてないわね。ゲームには参加してるけど)
(…………)
ということは、私、葉子さんにまた出会える……。
(そろそろ行くわよ)
無駄話はおしまいとばかりに急かしてくる。
(……だから、どこに行けばいいのよ)
前後を見比べると、同じくらい長い廊下が続いていて、どちらに進めばいいか逡巡してしまう。
(このまま直進しなさい)
言われるまま郁未は歩き出した。かつかつと足音がやけに大きく響く。
会話はない。お互い口をつぐんだまま、ぼんやりと考え事をしながら……永遠の世界、ゲーム、殺しあい、FARGO、彼女が言った単語を自分なりに繋ぎあわせようとしながら、長い廊下を進んでいく。
(ねえ)
先はまだ見えない。かなり広い建物なのだろう。
(ねえ、あなた)
ドッペルゲンガーが話しかけてくる。
(……私のこと?)
(決まってるじゃない。あなたと私しかいないんだから)
たしかにそうだけど。
(なんかわかり辛いなあ。私たちって言葉づかいもほとんど同じだから、他の人が聞いたらどっちがどっちだかわからないわよ、ぜったい)
言ってみて、これは大問題だと思った。
(私たちがわかれば問題ないでしょ)
ちなみに今の発言は彼女、つまりドッペルゲンガーのほう。
(てわけで、呼び方を決めましょう)
今のは私の発言。
(どうでもいいでしょ、そんなの)
(だめ)
(なんでよ)
(読みづらいから)
(ミもフタもないわね……)
そうだけど。
(じゃあお互いなんて呼ぼうか)
(……はあ)
ため息をつかれた。
(私はあなたのこと『もうひとりの私』って呼んでたけど)
なんだかんだでノッてくる。
(じゃあ私はあなたのこと『相棒』って呼ぼうかな)
(……なんか千年パズルを組み立てたり闇のゲームが行われたりバランスの壊れまくったカードゲームで対戦したりしそうね)
危険なのでボツにしておく。
(そのまんまドッペルゲンガーでいいんじゃないの)
面倒くさげに言ってくる。
(長すぎて読みづらいからボツ)
(……あっそ。もうなんでもいいわ)
疲れた声が返ってきた。
(で、用件だけど。私、すこし眠るから)
本当に疲れた声だった。
(もしかして不可視の力を使いすぎたの?)
(そうじゃないわ。単にあなたの身体を動かすのに疲れただけ。慣れてないせいか、なんか重くてね)
(……私、そんなに体重、重くないけど)
(そうじゃなくて……はあ。もういいわ)
ため息のあと、頭の中が静かになった。
(て、ちょっと)
返答はなかったので、どうやら眠ったらしい。素早い。
「…………」
ということは、私、この広くて薄暗くて気味悪い建物の中をひとりでさまようことになるの?
「あ、でも直進すればいいんだっけ……」
と、ようやく先が見えた。
T字路だった。
左右には行けるが、さすがに直進はできそうにない。
(おーい、ドッペルゲンガー)
返答はない。
どっちにいけばいいのよ、私……。
迷うのもほどほどに、郁未は左に進んだ。勘だった。
今回はあまり歩く必要がなかった。行く手は、たいした距離もなく遮られた。
あれは、エレベーター? 疑問系になるほど、そのエレベーターは原形を留めていなかった。
金属製の扉はひしゃげ、スイッチの盤が壁からぶら下がり、回路があらわになっている。電源はもう通っていないのだろう、電光板を見ても何階に止まっているのか確認できない。
「…………」
あれは……。
その手前に人が倒れていた。郁未は駆け寄った。
女の子だった。仰向けに倒れた幼い女の子、おそらく小学生くらい。清潔そうな白のワンピースが見る影もなく、まるで火事にでも巻き込まれたように煤だらけになっている。
それだけではない、胸から腹あたりにかけて、四つ、赤い点が浮かんでいた。
これ……銃創? 女の子の口の端にも、血の跡が見られた。
心臓の鼓動が早くなっていくのに気づく。
でも、思ったより動揺していないのは、自分が人の死に慣れているからだろうか?
「う、うう……」
女の子の唇がわずかに動いた。まだ息がある。
郁未は女の子の首の下に腕を通し、ゆっくりと上体を起こした。
女の子がうっすらと瞼を開けた。長いまつげがとても重そうなほど、ゆっくりと。
完全に瞼が開いたとき、瞳が大きく見開かれた。
「来て、くれたんだ……」
女の子が震える指先を伸ばして、そっと郁未の頬に触れた。
絶対的な信頼が宿った瞳。だけどその目は空ろで、なにも見えていないようだった。
この子、私のこと誰かと勘違いして……。
「ごめんね……。こーへーの世界、守れなかったよ……」
空気を漏らすように言葉を吐く。
「約束、守れなくて……ごめんね……」
女の子の声はとても小さくて、弱くて、もう郁未にはほとんど聞き取れなかった。
「ずっと一緒に……いたかった……のに……」
頬に伝わっていた指先の感触が、消えた。郁未は持ち上げていた女の子の上体をゆっくりと降ろした。あどけないその顔をしばらく見つめていた。
突き上がってくる感情があった。
郁未は驚いた。私のものじゃない、それはもうひとりの私の感情だった。
動悸が激しくなり、額から脂汗が吹き、吐き出される呼吸が荒くなった。
(ど、どうしたのよ……)
あなた、寝てたんじゃなかったの?
答えはない。しかし自分の胸の奥に、なにか衝動めいたものが生まれていた。
(あなた……怒ってるの?)
やはり答えはない。
女の子の身体が薄らいでいた。足先から徐々に上へ、首まで達したとき、彼女の姿は消えた。
あまりの激情に、郁未はかきむしるように胸をつかんだ。
(もしかして、あなた、悲しんでるの……?)
ゆらりと郁未は立ち上がった。近くの壁に手をやり、瞳を閉じ、呼吸を整え、するとようやく気持ちが治まってくる。
郁未は壁に背をやり、脱力したように大きく息を吐き出した。
「……おや」
エレベーターの反対側の廊下から声がした。
「珍しいところで会うね、天沢さん」
それは、白衣の男だった。
「さっきのエレベーターはもう壊れて動かないんだ。今現在で稼動するのは、管制室の中にあるこのエレベーターだけさ」
白衣の男に促されるまま、郁未は管制室という名らしい薄暗い部屋に通されていた。
正面には重厚な扉。廊下で見たエレベーターとうりふたつだった(こっちは新品同様だけど)。鈍く光っていて寒々しい印象を受ける。
「今となっては地下へ行くための唯一の道ってわけだ」
そうらしい。いったい地下に何があるのか、見当もつかないが。というか、この部屋がなんなのかもよくわからない。
(さっきシュンが管制室って言ってたでしょ)
頭の中の彼女につっこまれた。
(シュンって?)
(目の前で嫌らしくにやにや笑っている糸目の男のことよ)
どうやら彼女はシュンという男に対していい感情は持っていないようだ。
(ちなみに彼がFARGOの人間よ)
…………。
(……そっか)
(そうよ)
心の奥底から湧きあがってくる衝動がある。それはさっきドッペルゲンガーから発せられたものと似たような衝動だった。
「あれ。郁未さんじゃないですかあ」
のんびりした声が投げかけられた。
見れば、横手から女の子が歩いてきていた。にこにこした笑顔、大きな緑色のリボンがエアコンの風に揺れている。
そのすぐ後ろに控えるようにして、長身の女の子が付いてきていた。無愛想な顔、冷たい瞳をしている。
「どうしたんですか? 殺しあいに飽きちゃいました?」
「キミには生徒たちをゲーム参加に誘導させる役割を任せていたはずだけどね」
郁未はまごつくだけでなにも答えられない。話についていけなかった。
(彼女は倉田佐祐理。後ろにいるのが川澄舞)
ドッペルゲンガーが説明してくれる。
(ていうか、あなた、なんて役割を担ってるのよ……)
涙ぐんだ。
「そういえばキミ、どうやってこの場所に戻ってきたんだい? 上はもう更地になってるはずだけど」
シュンが探るような視線を送ってきた。
「ええと、その……」
「ちょうどよく結界がなくなったときにちょうどよく入り込んだんじゃないですか?」
あははーっ、と笑いながら佐祐理もこちらを見る。舞の冷たい瞳もこちらを向く。
三人の視線が痛かった。
「まあ郁未さんですし、いいですけど」
ぽん、と佐祐理が両手を合わせて話を締めくくった。郁未は安堵のため息をついた。
(生きた心地がしない……)
心臓に悪かった。
(適当に相手に合わせとけば問題ないわ)
(……そんな無責任な)
「僕はそろそろ下に戻るよ。たったさっき、長森瑞佳の生命反応も途絶えたしね。どこで死んだのかは知らないけど、もう安全だろう」
シュンのその言葉は何気ないものだったのだろう、しかし郁未には重くのしかかった。
もうひとりの私が、過敏に反応していた。
「キミらはどうする?」
「そうですね。ご一緒します」
エレベーターの扉が開かれ、シュンが乗り込んだ。それから佐祐理、そしてこれまで微動だにしなかった舞もあとに続いた。
「郁未さんはどうなさいますか?」
と言われても、逆に自分が教えて欲しいくらいだ。
「あははーっ。郁未さん、下は行ったことないですよね。どうです、佐祐理たちと一緒しませんか?」
断る理由もなく、郁未もエレベーターに乗った。
なんか、流されてる気がする……。
エレベーターが沈んだ。浮遊感のあと、けっこうな時間が流れ過ぎる。かなりの距離を移動しているようだ。
静かにエレベーターは止まり、シュンを先頭に四人は扉を抜け出た。
「まあ適当にくつろいでなよ。僕はコンピュータのエラーチェックを始めるから」
シュンはさっさと歩いていった。佐祐理たちも思い思いの方向に足を進める。
(どういう場所なの、ここ……)
(さあね)
部屋は雑然としていた。脇に置かれた機材のいくつかは倒れ、床を這うコード類には焦げ跡のようなものが付着していた。横手に、バラバラになった鉄板が転がっていた。もうひとつのエレベーターの残骸だ。
まるで火事後のような光景。そんな部屋を数歩進んで、郁未は足を止めた。
「…………」
目を奪われた。正面の奥に佇む巨大なポットに、郁未は釘付けになっていた。
青白い液体の中、瞳を閉じ、頬を赤らめ、苦しげな表情をした女の子が浮かんでいる。
(……なんだろう、これ)
なにか、嫌な感じがした。ぼんやりとした嫌悪感が心に湧いた。なんでだろう、理由は判然としない。
私の本能が警告しているのかもしれない。
このポットは、だめだ、と。
カタカタと音がする。耳障りな音。シュンがモニタの前に座り、キーボードを叩いている。
知らず拳を強く握っていた。じっとりと汗ばんでくる。
――コワシタイ。
(なら、壊す?)
彼女が言った。
(……でも、壊していいの?)
(それは誰に対しての問いかしら)
(…………)
(私たちを縛るものは、もうなにもない)
母親の死も、友達の死も、あいつの死も。
(そろそろ克服してもいいんじゃない?)
あなたが助けてくれたおかげで、私は克服できたかもしれない。
(なら、やりたいようにやりなさい)
(……て言われても、私、いまだに状況を把握してないんだけど)
この場所がなんなのか、この世界がなんなのか。
(でも、やるべきことは見つかった)
(正しいかどうかもわからないのに)
(でも、あなたはやりたいと思っている)
(じゃあ、やっていいのかな)
(いいもなにも、あなたの気持ちを邪魔するものなんていない)
(あなたは止めないの?)
(私? 聞くまでもないでしょ。私はあなたなんだから)
そして郁未は手の平を正面に向け、不可視の力を放った。
凝縮された空気の塊がポットに激突し、バチッと火花が散った。その音でシュンと佐祐理、舞がその方向に視線をやる。
ポットはその佇まいを崩してはいなかった。
(あれ。壊れてないけど)
(頑丈みたいね)
「……あははーっ。なんのつもりですかあ?」
気づけば、佐祐理が詰め寄ってきていた。顔はにこにこ、でも目は笑っていなかった。
「今の、郁未さんですよね? いったい何がどういうわけでこんなことしたのかその理由をつぶさに正確にいかなる曲解もせず懇切丁寧に説明をお願いできますか?」
郁未はたじろいだ。
「え、えっと。理由と言われても……」
(いちぬけた)
「そう、いちぬけたの」
頭の声に口がつられた。
「……これだから戦闘バカは」
シュンがモニタの前からこちらに振り返り、銃を向けていた。
「僕はキミの高慢な態度には敬意を表するけどね。でも、その気紛れな性格はいただけないな」
黒光りする銃口は、正確に郁未の頭を狙っている。
でも、たかが銃くらい、不可視の力を盾に使えば……。
(あの武器……ちょっと不味いわね)
(なにが?)
音もなく銃口から弾が発射された。
四発、こちらに向かってくる。その弾道は並じゃない動体視力を持つ郁未には明確に瞳に映る。けれど脳は認識できても、身体はすぐにはついて来れない。避けるのは困難。
郁未は手の平から透明な壁を生成した。空気の極度の圧縮によりその強度は防弾ガラス並にもなる。
しかし弾丸はその壁をなんなく通過した。
(え……)
ギョッとしたのも束の間、郁未は身体をひねっていた。太もも、わき腹に弾がかすめ過ぎ、背後にあったエレベーターの扉に跳ね返る。
(……まったく、危なっかしい)
ドッペルゲンガーが、とっさに自分の身体を動かしていた。
(な、なんで不可視の力が効かないの?)
また、自分の身体が動いていた。ドッペルゲンガーが郁未の手の平をシュンに向け、不可視の力を連射する。しかし空気の弾丸はすべて、シュンの身体に触れる寸前に霧散した。
「キミの力は僕には通じないよ」
シュンはふたたび銃を持ち上げていた。
「僕の着ている白衣は対ウィッチ用の防護服――『オルボ』だ」
くっくっ、と笑って、続ける。
「中世ヨーロッパではその異質な力により迫害を受けてきた魔女。その時代遅れの力は、FARGOの科学の前ではもう無力なのさ」
(私の力って、そういうことだったの?)
初耳だった。
(らしいわね。どうでもいいけど)
「オリジナルのコピーでしかないキミの力では、この防護服は破れない。長森瑞佳のような純粋なウィッチでなければ破れはしない」
飄々と語るシュンには目もくれず、郁未はさっと周囲を見回した。
(……どうする? 逃げる?)
部屋はそんなに広くはない。身を潜める場所も限られる。
(シュンはこのさい無視ね。どうせ力は通じない。だったら)
ちら、と郁未の視線が他二人に移った。
(人質でも取りましょうか)
「この銃は瑞佳さえもハントした銃だ。ウィッチ達から抽出した人工因子で作られた、これもオルボさ」
言いながら三度続けて引き金を絞った。郁未は横に跳躍した。壁を蹴って空中で体勢を立て直し、今度は天井を蹴り上げる。
急降下、めざすはぽかんとした顔の佐祐理。三人の中で一番ひ弱そうな彼女を盾にしてこの場を逃れよう――すると、横合いからものすごい重圧が加わった。
郁未の身体がきりもみし、背中から壁に激突した。肺の空気が一気に吐き出される。
「……佐祐理に危害を加えるやつは許さない」
腰の剣を抜き、舞がずいっと足を踏み出していた。
(『魔物』、か。私たちと同質な力を感じるわね)
たしかに相手の攻撃は見えづらかった。常人なら何が起こったかまったくわからなかっただろう。私でさえ、ブレた映像のようだった人型のなにかが突進してきたくらいの認識しかなかった。
ふたたび魔物が襲いかかってくる。続いてシュンの手から銃が放たれる。不可視の力を放って魔物を牽制し、弾丸をどうにか避けきった。
(いったん引いたほうがよさそうね)
(どうやって?)
(こうやって)
ばんざいのように両手をかかげ、ガガガガガ、と不可視の力をマシンガンのように乱射した。上から下へ、左右に腕を回転させ、そこらじゅうに空気の弾を吐き出していく。
コードがちぎれ、機材の破片が飛び、もうもうと埃が舞った。視界が悪くなり、すぐに三人の姿が見えなくなる。
(この隙に逃げましょう)
(ていうか、いつの間にか入れ代わってるし……)
さっきからずっと身体が勝手に動いていた。
(些細なことよ)
郁未は地を蹴った。相手の気配に注意しつつエレベーターに駆け寄る。
予想済みだったのか、扉の前に魔物が立ちはだかっていた。
(しつこいわね)
足に急ブレーキをかけ、握っていた拳を広げ、魔物に向けようとしたところでぐらりとふらついた。視界が揺れ、膝に力が入らない。
(……あんなに力を乱射するから)
(調子に乗りすぎたわね)
(人事みたいに言わないで……)
魔物が迫ってくる。郁未は動けない。精神力が限界に来ていた。
「舞、待って!」
佐祐理の声が、埃の漂う向こう側から届いた。
魔物がすっと身を引いた。その隙に、すぐに郁未はエレベーターに乗り込み、階上へのボタンを押した。重く扉が閉まり、エレベーターが浮上する。
郁未はくたっと座り込んだ。
(……なんで通してくれたんだろ)
自分たちを逃すような真似なんかして。
(あのまま戦ってたら、エレベーターまで巻き添えを食らうからでしょうね。地下と地上をつなぐ唯一の道らしいし)
(じゃあ、上に着いたら私たちで壊そうか)
(こんな分厚い鉄板をどうにかするのは骨ね)
大きく息をついた。
(すこし眠りたいわね……)
あれだけ不可視の力を使ったのだ、精神がまいるのは当たり前だ。自分も同じく、頭がくらくらしている。
天井を見上げ、前髪をかきあげる。額に流れる汗をぬぐった。
(……私たち、これからどうなるんだろ)
これはやはり、FARGOに歯向かったことになるんだろうか。
あのシュンという男と、佐祐理、それに舞のふたりの女の子。三人は、私を許さないだろうか。敵、ということだろうか。
そして私は、なぜ、あんな真似をしてしまったのか……。
(ねえ、聞いてる?)
頭の中が静かだった。言葉通り眠ってしまったようだ。
エレベーターが止まった。地下二階らしい。外に出て、郁未はふらふらと廊下を歩いていく。どこか身を休めるところを求めて。
背後のエレベーターが階下に降りていくのに、郁未はしっかりと気づいていた。
【残り9人】