第7幕 4日目午後
□地図
あいつはなぜ消えたのだろう? 小屋の前に立って、いったい何をやっていたのだろう? なにがあいつを……往人をそうさせたのだろう?
相沢祐一は天使人形を握りしめた。島中央に建つプレハブ小屋を遠望しながら、祐一の頭は疑問で溢れていた。
佐祐理さんと舞が根城にするあの小屋には、なにかがあるのだろうか? なにか秘密みたいなものが?
祐一は小屋に向けて一歩を踏み出した。地面にしゃがみ込んだまま動かない観鈴の隣まで来る。
いったん立ち止まって、意を決してまた足を進ませた。
小屋が近くなる。三十メートルくらいの距離。本来ならその周囲に結界が張られていたことなど、祐一は知るはずもなく歩いていく。
このまま小屋に入ろうかと思った。しかし祐一は考え直した。名雪と葉子のことを思い出した。
それに加え、彼女のことも気になっていた。
くるりと背を向けて、もう一度観鈴の側に寄った。
「……なあ。俺と一緒に来ないか」
唐突に言ってみる。
「名雪と葉子さんが待ってるんだ。だから、さ。俺と一緒に来ないか?」
観鈴は顔を上げない。前髪に隠れ、その表情はうかがえない。
「ええと、その、さ。ここにいたら危ないと思うんだ。敵の本拠地みたいなもんだし、佐祐理さんと舞がいつ襲いかかってくるかわかったもんじゃないし……」
答えは返ってこない。
祐一は口を閉ざし、観鈴の姿を見守るだけだ。どう接すればいいか、なんて言えばいいか、妥当な言葉が思い浮かばなかった。
やっぱり……ショックなんだろうな。俺は往人という男がどんなやつだったか知らないし、その往人が彼女とどういう関係だったかも当然知らない。
だけど観鈴の今の様子から、往人という人間が彼女の中で大きな存在であったことだけはわかった。
どうしようかと悩んだ。彼女をこのまま放っておくわけにもいかない。かといって無理に連れて行くというのも気が引けた。
……小屋の様子、見てくるか。
祐一はふたたび小屋に目を移した。まずは小屋の様子を見てこよう。彼女は動く様子がない、ならこの場所が安全かどうかを確認するべきだ。
小屋に近づく。べつに特攻をかけるわけじゃない。そんなことをしたら舞にバッサリやられるのが目に見えている。
ただ、いずれあの小屋にお邪魔する時が来ると、祐一は思っていた。佐祐理たちと争うためかこの島から逃げ出すためか、どちらなのかはわからないが、でも、それはだけは確信していた。
だから、彼女の安全と一緒に、これからのことを考えて様子だけでも見て来よう。
祐一は歩き出した。そして気づいた、出入り口の扉が閉まっている。鍵はかかっているだろうか? まあ、かかっているだろう。他の入り口を探すしかないようだ。
そのとき、遠くから音が響いてきた。
なんだろう。風、か?
その音に観鈴も気づいたのだろう、のろのろと立ち上がった。辺りを見回し、こちらに視線をよこす。真っ赤になった瞳、泣いていたんだなと思う。
音が大きくなっていた。地鳴りような音だった。
小屋と反対の方角からそれはだんだんと近づいて……いや、もうすぐそこ、観鈴の長い前髪、スカートがはためき――
「――きゃあっ!」
ゴオオオオオ、と大音量の風の音、突風が吹きぬけた。
ものすごい圧力だった。一瞬のうちに後ろにひっぱられ、祐一はたたらを踏んだ。観鈴は背中からひっくり返っていた。
止むのも一瞬だった。横になびいた髪が、重力を思い出したかのようにぱさりと下に垂れる。
風は、もう通り過ぎたらしい。自分らを越え、小屋のほうへと向かっていった。
観鈴と二人、惚けたようにその方向へと顔を向ける。
「び、びっくりしたね……」
「……ああ」
ガタガタと小屋が揺れていた。がしゃん、とガラスの割れる音、小屋の窓のひとつがここからでも確認できるくらい大きく割れていた。
おかしいな。祐一は首をかしげた。小屋の窓はすべて鉄板で覆われていたはずだ。教室に監禁されていたときに確認済みなのだ(ずいぶん昔のことのように感じるが)。
だというのに、窓は見るも無残に粉々で、中の教室の様子も、遠くからなのでうっすらだが見て取れる。
まさか、さっきの風があの鉄板を打ち破ったのか?
小屋はあたかも誰かが侵入した後のような様相を呈していた。
このまま自分も侵入……という考えがもう一度よぎった。窓は開いている、ならこれはチャンスかもしれない。この島を抜け出す手段、脱出経路を探すためには、この時を置いて他にないかもしれなかった。
だが、中にはあの舞がいる。あははーっと笑う佐祐理さんもいる。見つかったらどうなるか、さっき想像済みだ。
まあ死なない程度にがんばってみるか……。
ふと、名雪の顔が思い浮かんだ。俺には守るべき約束があった。二人が、丘のふもとで待っているはずだった。
……ちょっとくらいの遅刻は大目に見てくれよな。駅前のベンチで待ちぼうけを食らった仕返しだ。
ごめん、と心で名雪に謝った。ついでに怒り顔の葉子にも謝ってから祐一は小屋へと向かう。
「ゆ、祐一さん、危ないよ……」
「平気だ。すぐ戻るから」
「だめっ!」
観鈴が祐一の制服の裾を後ろからつかんだ。
怯えた瞳だった。迷子の子供がやっとのことで母親を見つけ、二度と離れないようにするみたいだった。
「往人さん、そう言って帰ってこなかったんだよ……」
制服をつかむ観鈴の手が震えていた。
祐一は何か言おうとして、上手い言葉が出てこなくて、それでも口を開いて――
直後、爆音と爆風が起こった。とんでもない圧力が今度は正面、プレハブ小屋のほうから襲いかかってきた。
観鈴の手が祐一から離れた。そのまま後ろに倒れこんだ。地面をすべり、あっという間にその姿が遠くなる。
今回ばかりは祐一も耐えきれなかった。観鈴と二人して額を地にこすりつけ、腕で頭を抑えて飛んでくる埃や小石をやり過ごす。
しばらくして風は静まった。閉じていた瞼を開け、おそるおそる祐一は顔を上げた。
そして目を見張った。
小屋はもはや見る影をなくしていた。窓だけではない、壁や屋根もすべてが粉々になっていた。その残骸の山からは、風に揺れながら黒い煙が立ち昇っていた。
爆発でも起こったかのような、そんな光景。
祐一には身の毛のよだつ思いだった。もしこの彼女――目を真ん丸くして残骸の山を眺めている観鈴――に止められなかったら、あの爆発に巻き込まれていたかもしれない。
祐一は起き上がり、埃まみれになった制服を払ってから、依然しゃがみ込んだままの観鈴に近寄った。
「……立てるか?」
手を差し出す。観鈴は心ここにあらずといった感じでその手を見て、
「にはは。ありがと」
にっこり笑って答えてくれた。つかんだ観鈴の手は土だらけだった。ゆっくりと立ち上がらせた。
「なんだったんだろうな、今の」
「……わかんない」
さっきからいったいなにが起こっているのか。見当もつかない。
「あの……神尾さん」
「観鈴でいいですよ」
「あ、ああ。じゃあ観鈴さん」
「にはは。呼び捨てでいいですよ」
「……そっか」
なんだかやり辛い。
「で、さ。何度も言うようだけど、俺と一緒に来ないか?」
「…………」
「ここにずっといるわけにもいかないだろ?」
「……いいの?」
怯えた瞳、そしてなにかを恐れたような、そんな顔だった。
「いいに決まってる」
「でも、わたしと一緒にいると、みんなに迷惑かけちゃうから……」
なぜそんな顔をするんだろう? なんというか、気後れしているような、人と接するのを恐れているかのようだった。診療所ではそんな素振りはなかったのに、いきなり顔見知りし出したように感じる。
この変わりようはなんだろう。なにが彼女をそうさせるのだろう?
「あの……俺、さ。人と待ち合わせしてるんだよ。名雪と葉子さんが待ってるんだ。二人ともいいやつだから。だからさ、なにも気にする必要ない」
「……でも」
「往人の代わりにはなれないけど、俺らのところに来ないか?」
なにかに耐えるように、観鈴は自分の身体をぎゅっと抱きしめる。
「みんな、観鈴の友達になれると思うから」
観鈴はうつむいたまま、うん、うん、と何度もうなずいていた。
「まあこれは、応急処置みたいなものだけどね」
氷上シュンは機材に囲まれた地下深くの部屋で、モニタを確認していた。
画面には森の樹の一本に備え付けられたカメラ(これは小屋に近づく生徒を監視するために設置しておいたものだ)から送られてくる映像、跡形もなくなったプレハブ小屋が映し出されている。
生徒たちのスタート地点だったあの教室も、これで木っ端微塵になったことになる。
「これで小屋からこの部屋に侵入することは困難になったはずだよ」
小屋を爆破したのは(自爆装置ってやつだ。悪の本拠地には付き物だろう?)、他の生徒がこの地下室に入り込まないよう、エレベーターを封鎖するためだった。
とはいえ、破壊などしなくともエレベーターの電源を止めればいいだけの話でもある。だが、万全を期しておきたかった。システムコンピュータをハックされて、エレベーターのコントロールを奪われる恐れだってあるのだ。
まあ、そんな芸当ができる人物がこの島にいるとは思えないけど(できるのは僕と、今は亡き裏葉と、そしてやっぱり今は亡き水瀬秋子くらいか)。
「……それにしても、乱暴なやり方でしたね」
倉田佐祐理が、部屋中央に佇む青白いポットを見上げながら言った。
そのポットは、今はもう静かなものだった。羽根リュックの少女の表情は苦しげではあったが、前と違ってそれほど呼吸も乱れず、落ち着いたように見える。
「ここが崩れたらどうするつもりですか」
こちらには目もくれず、また佐祐理が言った。その後ろには、いつもの無表情で川澄舞が静かに立っている。
「その心配はないさ。現に大丈夫だったろう?」
大きな揺れはあったものの、地下のこの部屋は強固な造りをしているので天井が崩れる心配などない。もし万が一、崩れたとしても、
「奇しくもキミが放置しているあの洞窟が、僕たちの脱出経路になるわけだ」
あの洞窟は神社に続いている。そして岩戸によって神社への出入り口は固く閉ざされている。他の者が簡単に出入りできる道ではない。
だから洞窟は自分らの脱出経路ではあっても、他の者にとっての侵入経路にはなり得ない。岩戸を開くための方法は、自分たちが握っているのだ。
「この『鈴』が唯一の鍵というわけか」
シュンは鈴をひとつ、白衣のポケットから取り出した。
「そうなのだろう?」
「……はい」
佐祐理も同じく、鈴をひとつ手の平の上に乗せた。
このふたつの鈴が、まるで手品のように岩戸を開ける。すでに確認済みだった。以前に佐祐理の手によって見せてもらったのだ。
「えらく手の込んだ仕掛けだとは思うけどね」
「あははーっ。用心に越したことはありませんよ」
「その通りだけどね」
鈴をポケットにしまう。
「けど、なんで鈴の形をしているのかが僕には疑問だよ」
「欺くためですよ。あからさまに鍵の形をしていたら、もし他の皆さんの手に渡ったときおもいっきり怪しまれるでしょう?」
まあ、一理あるだろう。
「じゃあ鍵が二つもあるのは、どうしてだい?」
「やですねえ。なくしたら困るからに決まってるじゃないですか」
ちりん、と佐祐理が鈴を鳴らした。こうしてみると、なんの変哲もない鈴のようだ。
「キュレイシンドローム、ですよ」
鈴をしまってから佐祐理がつぶやいた。突然だったのでよく聞き取れなかった。
「……なんだって?」
「『キュレイシンドロームの鈴』、ですよ。あははーっ、カッコいい名前でしょう? 語呂がいいので佐祐理が勝手に付けちゃいました」
「……どういう意味なんだい?」
「あははーっ、言ったでしょう? 佐祐理が勝手につけたんだって」
佐祐理はころころと笑い声を立てる。その笑顔が、シュンには小悪魔めいて見える。喰えない女……悪女という単語がぴったりだ。
「まあ、いいさ。それより、もう放送の時間じゃないのかい?」
時間はそろそろ正午だろう。
「ここはいいから、上にあがりなよ」
追い払うように言っていた。急き立てるような言葉、余裕ない声……僕らしくもない。
佐祐理とこれ以上会話するのが苦痛だった。なぜとない苛立ちに駆られていた。
「あははーっ、そうですね。行こっか、舞」
当然のようにうなずく舞……と思いきや、舞はその場を動かなかった。珍しいな、彼女はめったに佐祐理の命令(?)には逆らわないのに。
「? どうしたの、舞?」
舞は腰に下げた剣の柄に手を添えていた。険しい表情で前方、エレベーターのほうへと眼光を飛ばしていた。
つられてシュンもエレベーターの閉じられた扉に視線を注ぐ。
「異常はないようだけど」
エレベーターはこの階に止まっている。動いてはいない。
「あははーっ、ほんと舞は心配性なんだから」
「……黙って」
小さく、しかし鋭く舞が言う。
「なにか来る……」
その舞の声にはわずかだが動揺があった。細めだった舞の瞳が大きく開き、横顔に焦りの色が混じり始めていた。
「何が来るんだい?」
「……とても大きな、なにか」
いつも無感情だった彼女のこんな様子は初めてだった。つまり、それほどの何かがこの部屋に向かっている?
この場所は地下数十メートルに位置しているというのに?
「……小屋は爆破したはずだけどね」
「では、爆破する前に誰かが侵入した、ということでしょうか」
それとも、そんなことすら関係なく、誰かが侵入を果たした?
「あははーっ、百メートル近くあるエレベーターのワイヤロープを伝ってくるなんて、そんな化け物いるんでしょうか」
「……佐祐理。下がって」
佐祐理をかばうように舞が前に出た。腰を低くして、両刃の剣を正面に構え、エレベーターを凝視して――
「――来た」
轟音が鳴った。
エレベーターの分厚い金属性の扉が飴のようにひしゃげた。どごん、どごん、とハンマーで打ちつけるように、扉の中心が盛り上がる。
その一部が、砕けた。金属の破片がこちらに襲いかかってきた。反射的にシュンは身を低くする。
舞が、飛んできた破片を一刀両断した。
「……侵入者は、討つ」
舞の瞳が細く、鋭くなる。
そのとき、舞とエレベーターの間の空間が蜃気楼のように歪んだ。
盛り上がっていたエレベーターの扉が逆側にへこみ、そのまま潰れた。向こうに居ただろう侵入者もろとも潰すかのように。
これが彼女の力――魔物。彼女の持つスタンド(幽波紋)。
「……すごいもんだね」
「でも、いったい誰だったんでしょう」
エレベーターのほうに寄ろうとする佐祐理を、舞は強引に引き寄せた。
「……まだ、終わってない」
ふたたび空間が歪んだ。
その空間が、今度は炎に包まれた。潰れた扉が炎で燃え上がり、そのまま空気を伝うように舞へと襲いかかった。
「……くっ」
舞が剣を薙いで炎を払う。次々と飛来する炎の矢は、途中で四散した。舞が魔物を盾に防いだのだろう。
シュンは燃え盛る炎の中から人影が這い出てくる様を見、ごくりと喉を鳴らした。
「許さない……ぜったいに……」
生徒がひとり立っていた。栗色の髪に黄色のリボン、クセっ毛の髪の先が、炎に煽られゆらゆらと揺れていた。
「みんな……壊してやる……」
そこに、長森瑞佳がいた。
「……最悪だな」
結界のない今のこの状況、最も出会いたくない人物に出会ってしまったようだ。
「みんな壊れちゃえ……!」
瑞佳の瞳が妖しく光る。髪がばさばさと靡き、茶系だった瞳の色が朱色へと変貌し、弾けたように炎が吹き上がった。細く伸びた炎が立て続けに突進してくる。
舞が魔物を盾にしてそれらを弾いた。
「あれが、長森さん……?」
舞の後ろで佐祐理が口を丸くしていた。あの瑞佳の姿を見て瑞佳だと言い当てた佐祐理は賞賛に値するかもしれない。今の瑞佳は制服の代わりに白のワンピースを着ているし、背丈は小学生並に縮んでいるし、しかも宙に浮いているのだ。
「厳密には違うけどね。あれは長森瑞佳の幼い頃の姿をした、化け物さ」
この世界を創造した、とてつもない化け物。あれが彼女のもうひとつの姿。
だからもう、本来の瑞佳の意識は残っていないだろう。あの姿は、彼女の内に秘められた巨大な力――『ウィッチの遺伝子』が覚醒した証だ。
それは選ばれた血筋、中世ヨーロッパの魔女の血。人外の力を授かった者。
世界をひとつ創造するほどに巨大な、クラフトの力。
「まさかお目にかかれるとはね……」
そうならないよう、彼女には封印の品を渡していたはずだが……おそらくなんらかのショックで封印が解かれたのだろう。
シュンは舌打ちした。僕の計画を進行させるに当たって、一番の要注意は彼女の存在だった。
彼女の存在が最大のネックだったんだよ。
まったく、最悪なときに覚醒してくれたものだ。
「舞っ!」
佐祐理の悲鳴がこだました。舞の制服は炎に煽られところどころが焦げ付いている。それでもあの化け物とまともに渡りあっているとは、彼女もまた『ウィッチの遺伝子』を継承している証か。
「……あの子、強い」
舞は短く言葉を吐き、片膝をついた。それでもキッと視線を尖らせ、魔物を行使し、湧き上がる炎を立て続けに消し止めていた。
瑞佳の燃えるような朱色の瞳と舞の研ぎ澄まされた眼光がぶつかりあう。部屋全体が異様な熱気に包まれ息苦しい。瑞佳の炎はところかまわず飛来し、暴れ回っていた。
シュンは頭を低くして毒づく。まったく……冷や汗ものだな。いったいどこを攻撃目標にしているのか。
「壊れろ……壊れろ……!」
力を制御しきれていないのだろう、どうやら彼女はノーコンらしい。だから部屋の隅に潜んだ自分を含め、舞も、佐祐理も彼女の炎の直撃を食らってはいない。けれども逆に、立ち並ぶ機材のいくつかは炎の流れ弾にやられ、もう使い物にならなくなっていた。
背後に佇む青白いポットもまだ飛び火の被害を受けていないが、もし舞が倒れたらたちまち火の海にさらされるのは確実だ。
シュンは忌々しげに拳で床を叩く。このままでは被害は洒落では済まされなくなる。こんな冗談みたいな化け物に、僕の計画を頓挫させるわけにはいかない。
こんなところで邪魔されるわけにはいかないんだよ、長森瑞佳!
「こんなに早く取っておきを使うハメになるとはね……」
機材の陰に隠れながら、シュンは懐に手をしのばせ、『拳銃』を握り締めた。
にやりと笑う。
さよなら、永遠の世界を創造した人。こんなに素晴らしい世界を作ってくれて、とても感謝してるよ。
でもね、ここはもうキミだけの世界じゃないんだよ――
「みんなみんな、壊れちゃえ……!」
炎に囲まれた瑞佳の小さな姿。
「こーへーだけでいいんだよ。わたしはこーへーと一緒にいたいんだよ。わたしはこーへーだけが欲しいんだよ……!」
それはわがままな子供のよう。
――無い物ねだりはいけないなあ。今さら、キャラメルのおまけなんか要らないだろう?
シュンは黒光りする銃口を瑞佳の幼い姿に向け、撃鉄を上げた。
細長い雲が遠くのほうで流されている。心地よい風。中天に昇った太陽の光も、ぽかぽかと暖かい。
もう昼だろうか? それにしては定例の放送が始まっていない。
鹿沼葉子は小屋の方角に瞳を細めた。立ち並ぶ木々のせいで視界が悪く、それに結構な距離があるため葉子の視力をもってしても確認はできない。
佐祐理は、そういったことにはきっちりしているし、まさか忘れているわけでもあるまい。ひょっとしてプレハブ小屋のほうで問題でも起こったのだろうか。
「あの……折原さん」
名雪がおずおずと口を開いた。浩平は表情を変えず目だけで先を促す。
「祐一、見ませんでしたか?」
「誰だそれ」
ぶっきらぼうな言葉に、名雪の目がウルっとなった。
「診療所で会ったでしょう。あなたと同じくらいの背の男子生徒です。忘れたわけではありませんよね、まさかそこまで記憶力が乏しくはないですよね」
「……あんた、口悪いな」
「あなたがいいかげんな言葉を吐くからです。あなたぜったい周りに敵を作るタイプでしょう」
「葉子さん……」
名雪がにらんでいた。
「話のコシ折らないで」
「……すみません」
謝っていた。
「あの、それで、どうなんですか」
名雪が改めて聞く。真剣な顔、切羽詰ったような調子で。
「たしかに覚えてるな。あんたがオレの武器をかっさらおうとしたんだったか」
「レーダーですか。私たちに譲る気になりました?」
「なるか」
「その武器は非常に強力です。特に、生き残ることに関してはステルス迷彩と同等、それ以上かもしれません。あなたには不相応なものだと思いますが」
「勝手に決めるな」
「望遠鏡あたりがあなたには妥当だと思いますが」
「ふざけんな」
「レーダーも望遠鏡も人を見つけ出すという点では同等ですよ」
「ならあんたが望遠鏡使えばいいだろ」
「なんで私がそんな貧相なもの使わなきゃならないんですか」
「……わがまま女」
「ぶっきらぼうのあなたよりマシです」
「葉子さん……」
名雪がにらんでいた。
「……すみません」
謝っていた。
前々から思っていましたが、どうもこの子は苦手ですね……。祐一さん、私に名雪さんの護衛は荷が重いです。早く帰ってきてください……。
ふと見ると、浩平が樹の幹に背を預けて難しい顔をしていた。先ほどからこんな調子が続いているように思う。自分らと偶然に合流し、それからずっと。
「祐一に、会ってないんですか?」
また、名雪が聞いた。
「……ああ。会ってないな」
抑揚のない言葉だった。心ここにあらずといった感じ。
「まだ復讐なんてバカげたことを考えているんですか」
言ったとたん浩平が顔を上げ、鋭い視線を投げてきた。
「……そうだな。バカげてるのかもな」
ふう、とため息をついてまた樹にもたれかかった。
しばらく沈黙が続いた。周囲の葉を揺らせる風、すこし湿っていることに気づく。午後からは天気が悪くなるのかもしれない。
「時間の浪費は青春の無駄遣い」
「……はい?」
浩平の言葉に、葉子は名雪と一緒に変な声をあげた。
「うら若き男がなんでこんなへんぴな孤島で一生に一度しかやってこない貴重で高価な青春時代を無駄に潰さにゃらなんのだと言いたかった」
「…………」
「というわけで、じゃあな」
浩平はくるりときびすを返して歩いていく。
「ち、ちょっと、どこ行くんですか!」
「どこって、あんたにゃ関係ないだろ」
「あります」
「なんで」
「レーダーを置いていってください」
浩平はげんなりした。
「あなたの武器であるレーダーを私たちに渡して、それからどこへなりとも去っていってください」
「……あんた、いい根性してるな」
「あなたは面白いというかよくわからない人ですね」
浩平と目線がぶつかりあう。
「……なんでオレの武器が欲しいんだよ」
「あなたには無関係です」
「オレからもらおうとしてるくせに無関係はないだろ……」
「もらうんじゃありません。これは献上です」
「……なんでそうなる」
「目上の人に対する礼儀というものです」
「目上? 嘘つくな。どう見たってオレらと同じくらいだろ」
「私、ハタチ過ぎてますけど」
「若作りのおばさんか……」
「……つくづく失礼な人ですね、あなた」
「そうだよ。折原さん、ひどいよ。年上に見えないかもしれないけど、これでも葉子さんは年上なんだよ」
名雪が諌めてくれたが、あまり嬉しくはなかった。
「とにかくですね。私たちはあなたの武器が必要なんです」
「だからなんで」
「人を探したいからです」
ここで名雪がハッとした。葉子の意を汲み取ったのだろう、上目遣いで見つめてくる。
「さっき言ってた祐一ってやつか?」
浩平が訊いてくる。
「はい。祐一さんを見つけたらすぐに返します。だからお願いできませんか」
「嫌だと言ったら?」
「力づくで奪います」
「山賊かおまえ」
「本当に失礼な人ですね、あなた」
「葉子さんっ。今のは葉子さんが悪いよ」
名雪に怒られた。
「……すみません」
謝っていた。
「あの、どうしてもって言ってるわけじゃないから。折原さんだって都合があるだろうし……」
顔を上げたりうつむいたり、名雪が言いにくそうに口を開く。
「……はあ。そんな顔して頼まれたら断り辛いだろ」
「じゃあ……!」
「いや。誰もレーダーを渡すとは言ってない」
目に見えて名雪がシュンとなった。
「だから、そんな顔されると断り辛いだろ……」
「じゃあ……!」
「レーダーは渡せないけど」
名雪がますます落ち込んだ。
「折原さん、いったいどっちなんですか。人が喜んだところで悲しませて楽しむ悪魔ですかあなた」
「いや、だからそうじゃなくてだな。オレが探して来てやるって言おうとしたんだ」
葉子と名雪は、一緒にぽかんとした。
「一度見たから顔も覚えてる。オレが探してきてやるよ」
「……なにが目的ですか」
「素直じゃないな、あんた。人の厚意は素直に受け取るもんだろ」
「……どうせ私はひねくれてますよ」
「ありがとう、折原さん」
名雪がにっこり笑って素直に言った。
「……いや、まあ」
鼻の頭をぽりぽり掻いて、はあ……と浩平がため息をつく。
「ただのついでだから。オレも探してる人がいるし」
「それは前に言っていた二人ですか」
「ああ。一人は見つけたんだけどな……」
なにか思い巡らすふうに視線をさまよわせている。
「折原さん。今この島にやる気になっている生徒は何人いると思いますか?」
「……なんだ、いきなり」
「もしくは、何人のやる気になっている生徒と出会いましたか?」
これは訊かなければならない事柄だった。今、この場で確認しないといけない。特に、やる気になっているだろう人物を探しているという浩平にとっては。
「私のほうは、知りうる限り二人です。天沢郁未と、それともうひとり。大きな三つ編みをした女子生徒」
浩平の顔色が変わった。
「茜か……?」
「名前まではわかりません。ただ、彼女はピンク色の傘を持っていました。とても強力な武器です」
「…………」
「彼女はやる気になっています。二度、私も襲われました」
「……そうか」
「これは私の予想ですが。その女の子があなたの探している人物のひとりなのでは?」
「さあな」
この話はもういい、と言わんばかりに浩平がこの場を離れようとする。
「折原さん!」
名雪はすかさず駆け寄ろうとした。振り返った浩平が手で待ったをかける。
「わかってるって。祐一ってやつに会ったらこの場所を教えればいいんだろ。あんたらが待ってるって。もしケガでもして動けないんなら、仕方ないから運んできてやるよ」
あっけに取られたような名雪の顔。
「ま、高くつくけどな」
悪戯っぽく浩平が言うと、名雪もにこっとほほえんだ。
「イチゴサンデー、ごちそうするよ」
浩平はぽりぽりと鼻の頭を掻く。
「……島を出られたら、な」
「きっと出られるよ。みんな一緒に」
葉子は嘆息交じりに名雪を見つめた。みんな一緒、というのがどれだけ大変か、他人に対して疑いを抱かざるを得ないこのゲームでは尚更なのに。
だけど、名雪が言うと妙に説得力があった。
だからだろうか。この子は守らなければならない、と切に思う。
と、そのとき浩平はすこし考えるふうに、
「……神社」
ぽつりと言った。
「もし余裕があったら教会に行ってみな。おもしろいもんがあるから。あんたの言うとおり、ひょっとしたらみんなで島を出られるかもしれない」
また浩平は悪戯っぽく口の端を吊り上げる。
「ま、ただの勘だけどな」
浩平は歩き始めた。ズボンのポケットに手を突っ込んで、そのときチリンと鈴の音が鳴った気がした。
浩平の姿はすぐに丘の向こうに消えていった。
そしてここには葉子と名雪、ふたりだけが残された。パーティーの後のような寂しさが、葉子の胸をうずかせた。
ふふ。寂しいなんて、どういう風の吹き回しでしょうね、いったい。
思えば私はこの島に来てすぐ、祐一さんと名雪さんと行動を共にするようになった。私は、本当は最初から最後までひとりで行動するつもりだったのに。他人が側にいては自分の身が危険、いつ裏切られ、襲われるかわからない。ならば、ひとりのほうが安全。
そう考えていたはずなのに。
なのに私は、寂しい、ですって?
滑稽だと感じた。
「……神社って言ってたよね」
名雪が首をかしげて言った。
「なんだろうね、葉子さん」
こちらをまじまじと見つめる。
警戒も疑心もない、素直で自然な態度。これが、最初からの名雪の他人に対する態度だった。
自分がなぜ名雪を苦手だと思っていたか、なんとなくわかった気がした。
「おもしろい物って言ってたけど。神社の中に教会があるってことかな」
「……いえ、それを言うなら教会の中に神社、でしょう。地図には教会の位置は記してあっても神社はありませんから」
「あ、そっか」
うんうんと何度もうなずき、さすが葉子さん、と感心しきっていた。
……苦手意識を克服するのは時間がかかりそうですね。
「祐一が戻ってきたら、みんなで行ってみよっか」
「そうですね。でも何もないかもしれませんよ。折原さんのたちの悪い冗談かもしれません」
教会と神社、それらがいったいどういう理屈で島の脱出に繋がるのか、さっぱり見当がつかない。それになにより、浩平はつかみ所のない性格をしていた。祐一さんとはまた違った、なんと表現したらいいでしょうか……そう。
儚さというか、危うさというか。大人と子供が入り混じった、アンバランスな感じ。
「……また、会えるでしょうか」
ふと思った。無性に不安に駆られた。
私たちは再会できるのでしょうか。あの、ぶっきらぼうで、悪戯っ子のような少年に。
「うん。そのときは葉子さん、もっと仲良く、ね」
名雪がにこっと微笑む。
葉子は困ったように、鼻の頭をぽりぽり掻いた。
【残り12人】