今は何時くらいだろう? すこし眠りすぎたようだ。折原浩平はぼんやりした頭を振り、寝ぼけ眼で教会から外に出た。
けっきょく昨日は夜遅かったのでこの薄気味悪い教会に泊まるハメになっていた。まあ幽霊なんかは出なかったし、わずかだが食料がキッチンにあった(誰のかは知らないがデイパックも置いてあった)から食事もちゃんと取れたし、毛布が転がっていたので風邪も引かなかったしで、言うことはなかったのだが。
ほぼ真上から太陽の光が降り注ぐ。時間は昼前くらいか。こんな時間まで寝てるなんてな……。浩平は眠気覚ましに散歩でもするように歩いていく。
一度、あの陽気な放送で起こされたのだが、その時間は外もまだ薄暗いほど早かったためだろう、いつの間にか二度寝していた。そして今度は、大きな地震があった(今はほとんど止んでいるが)。それで今度こそ起きたのだ。
もし学校があったなら、完全に遅刻だな。こんなときでも思ってしまう。長森が側にいないオレは、こんなもんだろうな、と。
「…………」
あいつ――長森は今頃どうしているだろう? 放送で名前は呼ばれていないので、まだこの島にいることだけは確実だ。
しかし今回、放送で名前が呼ばれたのは知らない者ばかり、というわけでもなかった。柚木詩子の名が呼ばれていた。にわかには信じられなかった。あの、詩子が死んだって?
あいつはなんていうか、したたかなところがあるやつだった。殺しても死なないという形容がぴったりのやつだった。しかもあいつは、自分の身体を透明にする武器を持っていたはずだ。これ以上に生き残る確率の高い生徒が、他にいるだろうか?
「……茜が、ショック受けてるだろうな」
ふたりは親友だったのだ。悲しんでいないわけがない。
「…………」
そういえばオレは、茜とも出会っていないんだよな……。プレハブ小屋の教室で会ったきりだ。
ゲームが始まってから浩平が出会った生徒は、七瀬留美、柚木詩子、鹿沼葉子と相沢祐一(二人がいた診療所ではもうひとりいたらしいが顔は見ていない)、そして川名みさき。全部で五人。
少ないと感じた。おそらく他の生徒に比べても、自分は接触している人の数が少ない。
普通では考えられないことだった。なぜならオレは、島の生徒の現在位置を把握できるレーダーを所持している。ゲームが始まってすでに四日目、オレは自分以外のすべての生徒と接触していてもおかしくはない。
しかもオレは、人を探しているというのに。澪を殺したやつと、みさき先輩を。その過程ですべての生徒と接触を果たしていたとしても不思議ではないのだ。むしろ、そうなるのが自然なのだ。
なのに、オレはそれをしていない。……なぜか?
「……はは」
つい笑ってしまった。
自分自身、なんとなくわかっていた。たぶん、オレは恐怖しているのだ。他人と接触することに対し、恐怖を抱いている。
それは当然のことと言えた。この殺しあいという名のゲームの下では、他人との接触イコール争い、そしてどちらかの死、となる確率はじゅうぶんにある。
オレは人と争うこと、殺しあうことに恐怖している。
「……はは」
笑う。復讐しようとしていたやつの考えじゃないな、これは。澪が死んだことでオレもゲームに乗った口だと思っていたが……どうやら違うらしい。
「…………」
いつから違ってしまったのだろう?
たぶん、みさき先輩に出会ってからだろうな……。
「……先輩」
今頃、どうしているのか。みさき先輩、茜、長森……
「近づかないでください」
浩平は足を止めた。急に声が聞こえたせいか、心臓がばくばく鳴る。
制服の内ポケットに忍ばせてあるスタンガンに手をやり、周囲を見回す。どうやら自分は教会から海沿いに南に下っていたらしい。ここは……ちょうど丘のふもと辺りか。
「そのまま立ち止まっていてください。これ以上近づけば……撃ちます」
どこから聞こえてくるのだろう? けっこう距離が離れている気がする。周りにはひょろ長い木々が立ち、なだらかな丘の斜面が目の前を横切っていて視界が悪い。こちらからは相手が死角になっているようだ。
なら、相手はこちらが見えているのか。それともこちらの足音に気づいただけか。
「ひとつだけ聞かせてもらいます。名前は?」
どうやら、向こうにもこちらは見えていない。
「相沢祐一……では、ないですか?」
浩平は警戒を解いた。
さきほどから続くこの声は、聞き覚えのある声だった。
「答えてください。祐一さんではないのですか?」
やはり、聞き覚えのある女の声だ。レーダーを覗くと、南東の方向、ある程度距離を置いたところに点がふたつ明滅していた。
「……鹿沼さんか?」
大きめな声で言った。
すこしの沈黙のあと、
「その声、折原さんですか……」
丘の向こうから、人影が現れた。
ころころ、ころころと、音が聞こえていた。なにかを転がすような音。
いったい何の音? と思って、知った。いや――正確にはどこから音が聞こえているのかを知った。瑞佳の制服のポケットから、その転がすような音は聞こえていた。
そこにはたしか、瑞佳の武器が入っていたはずだけど……?
天沢郁未は、痺れたように痛む肩に手をやりながら、自分の胸にすがりついたまま一向に離れる気配を見せない瑞佳を見下ろしていた。
もう泣き声を発さなくなってどのくらい経つだろう。瑞佳は、静かだった。
今頃みさきって子が灯台に入り込んだかもしれないが、今となっては関心はない。
さっき起きたあの大きな揺れだって、そう。この世界に地震なんてあるわけないのに、あんな揺れが起きて。今もまだ微震が続いていて。その原因も、考えるのが面倒になっていた。
私、疲れてるのかな……。
そうなのだろうか? そうなのだろう。言い聞かせると納得できた。
ころころ、ころころと音が聞こえていた。この殺風景な場所にこの乾いた音は、いやになじんだ風に聞こえる。
……で、私、いつまで瑞佳を抱いていればいいの?
瑞佳は、やっぱり離れる気配がない。
郁未は灯台を見上げた。ここも、そろそろ引き払う時期かもしれない。見納めのつもりで眺め、また、視線を下に降ろす。
自分の胸にいる瑞佳――
「…………」
これから、どうしようか。とりあえず肩の傷を癒そうか。森深くに入って、半日寝れば、こんな傷くらいは簡単に癒える。
瑞佳とは、もう、離れて……。
と、瑞佳がようやく顔を上げた。郁未の視線とぶつかった。
瑞佳の瞳は充血していた。
郁未は焦った。ああ、もう、こんなときどうすればいいのよ!
「瑞佳……」
郁未はとりあえず声をかけようとして、そのとき瑞佳は胸ポケットに手をやり、キャラメル(おまけ付き)を取り出し、そして。
にぎりつぶした。
「……わたしの世界を踏みにじらないで」
ぼそりと瑞佳が呟いた。
「わたしの世界に土足で入って、踏み荒らして……。わたしの……わたしと浩平だけの場所なのに……」
ころころ、ころころと、音は、もう聞こえない。
瑞佳の手から、緑色のおもちゃ(長い舌に大きな目……カメレオンだろうか?)が見えたかと思うと、さらさらと砂のような粉末に変わり、そのままこぼれ落ちた。
ぞくり、と背筋が凍った。
「こんなとこ……もう……わたしの世界じゃないよ……」
さらさらと、カメレオンのおもちゃだったはずの物体が、粉状になって宙を舞う。
緑色の粉が、郁未の頬を撫で、風に運ばれて去っていく。
「だったらみんな……壊してやる」
郁未は目を剥いた。なにを見たわけではなく、それは本能だった。肌が粟立ち、瞬間的に危険を察知し、瑞佳から距離を取ろうと跳躍しようとして、同時に瑞佳の身体の中心に光が爆ぜたと認識し――なにこれ、逃げ、やだっ、間に合わな――
「みんな壊れちゃえばいいんだ……!」
郁未の意識は消し飛んだ。
なんか、人が消えたような気がしたけど。川名みさきは首をひねった。
今、灯台を挟んで向こう側、門のあたりで気配がふたつ、瞬間移動でもしたように掻き消えたのだ。
なんだろうと考えながらも、まあいっかーと自己完結してみさきは改めて灯台の敷地を囲む塀の前に立った。
微震が続いている。ふらっと倒れそうになった。身体じゅうが悲鳴を上げていて、とてもじゃないが立っていられる状態じゃない。
「うー。ひどいよ……」
こんな地震くらいで歩くのも辛いなんて。みんな、あの、変な超能力を使う女の子のせいだった。攻撃されて、吹っ飛ばされて、かなりの高さから落下して、その先が柔らかい砂浜だったからよかったものの、もしコンクリートの上だったら自分は今頃このゲームから脱落していたことだろう。
運がよかった、とは思えなかった。悔しさのほうが先に立った。今度会ったら絶対ぎゃふんと言わせてやると心に誓いながら、みさきは塀の崩れた部分(地震のせいでできた穴みたい)を通り抜ける。
ふらふらする足取りを、どうにか前に進ませる。
ちょっと休んでから、もしくは怪我を治療してから、とか、そういうのは最初から頭になかった。だってここには翼の少女がいるんだから。ここを逃したらまたいつ出会えるかわからないんだから。
なんで自分はこんなに翼の少女に執着するのか、理由はさっぱりだったけど、でもはっきり言えることはあった。
自分は、成し遂げたいんだ。なんでもいい、なにかを成し遂げたかった。盲目という障害なんか苦にもならない、わたしは普通の女の子として生きていける、その証みたいなものが欲しかったのかもしれない。
まあ、たぶん、これは後付けの理由でしかないんだろうけど。
みさきは歩いていく。不遜な態度で、余裕の笑みで。身体はぎしぎし言っているけど、そんな事情はすこしも表に出さないで。
「……ふふ」
そうだよ。わたしは、強くなるんだよ。弱いから奪われるなんていうのは嫌だから、強くなって奪う側に回るんだよ。
住居に入った。目的地は最初から知っていたかのように、迷いなどなく。そのまま土足で廊下に上がって足を踏み出す。
わき目も振らずに歩いていく。
しっかりした足取りで、弱さなど微塵も見せずに。
一室の扉が、見えた。
その足音を、美坂栞は灯台の住居部の一室、ベッドのある寝室で聞いていた。
ビニール張りの丸椅子に座って、身じろぎ一つせず、神奈の寝顔をその瞳に宿して。
「…………」
いや。
もしかしたらその瞳にはなにも映っていないのかもしれない。
「…………」
栞はただうつむいている。一言も発さず、呼吸すらしていないような穏やかさで。
神奈の寝息は聞こえない。死んでいるように動かない。
ここには二人の姿しかない。
「…………」
そんな寂しい部屋で、近づく足音だけが木霊している。
栞は動かない。
栞は待っていた。
その胸に、自分の武器、『スケッチブック』を抱きしめて。
【残り12人】