灯台の周りを囲んでいる塀。その一部分が崩れ、吹き抜けになっているところに一人の女の子が立っていた。

 天沢郁未は、灯台のてっぺんからその女の子の様子を見守っている。

 地面から二十メートルを軽く超える高さではあるが、郁未の視力なら顔の判別くらいはできる。日本人形のような髪を腰辺りまで足らした女子生徒、瑞佳と同じ制服を着ている。

 さっきからずっと、きょろきょろと首を回している。そのうちに、うろうろとそこらへんを歩き回る。

「……なんか挙動不審なやつね」

 探し物でもしてるんだろうか。もっとよく観察しようと瞳を凝らす。背中に背負っている棒状のものが見えた。先っぽが陽光を反射して白く光っている。

「あれは……」

 獣の槍だった。丘の草原で出会ったツインテールの子が持っていたはずの武器だ。

 あの武器は持ち主を選ぶらしいけど……そう。あの黒髪の子がお眼鏡にかなったというわけね。

 郁未は飛び降りた。灯台から、コンクリートの地面を蹴って、真下に。風が郁未の髪をばさばさとなびかせ、途中、灯塔の壁をふたたび蹴る。

 そのまま住居部の屋根に着地した。がしゃん、大きな音を立ててトタン板がひしゃげる。何事もなかったように、郁未は屋根から降りて玄関から中に入った。

「な、なに今の音。天井から聞こえてきたけど……」

 瑞佳が廊下でおろおろしていた。その隣には、瑞佳の袖をひっぱりながら椎名繭がきょとんとしていた。

「あっ、天沢さん。今ね、天井から」

「気のせいでしょ。それより」

 つかつかと先を歩いていくと、あわてて瑞佳が隣に並んだ。

「外に人がいるわよ」

 リビングに入ると、ソファに座っていた栞がこちらに視線を注いでくる。ほかは、誰もいない。美凪、みちるはここにはいない。

「うん。さっき美坂さんから聞いたよ。だから、ちょっとお話してこようと思って」

 郁未は眩暈を覚えた。

「美坂さん、お留守番お願いね。あ、繭。あなたもここに残って。わたしひとりでいいから」

 不満げな顔をする繭の手は、瑞佳の袖を離そうとしない。

「繭。おねがい。すぐ戻ってくるから」

「みゅー……」

「美坂さん、繭を頼んでいいかな」

「……はい。でも長森さん、本当に行くんですか?」

「うん。前に言ったじゃない。もし誰かを見つけたら、この灯台に誘うって」

 きびすを返そうとする瑞佳の手首を郁未は握って、引き寄せた。

「ちょっと……。なに考えてるのよ、あなた」

「何って、お話――」

「バカ言わないで」

 瑞佳の言葉を鋭く遮った。

「あの黒髪の子、武器持ってるわよ。問答無用で刺されたらどうするつもり」

「平気だよ。ちょっとお話するだけだから」

「だから……」

 ああ、もう。その楽観的な思考はどこからやってくるのよ。

「天沢さん。わたし、何度も言ったよね。もし誰かを見つけたら、この灯台に誘う。みんなで決めたことだよ。天沢さんだって納得してくれたんじゃないの?」

「場合によりけりよ。最悪の結果がわかっているのにわざわざその過程を通るやつなんかいない」

 ふん、と郁未は鼻を鳴らす。

「いい? ひとつ忠告するわ。彼女の持ってる武器、あれはとても危険なものよ。特に今の私たちにとってはね」

 神奈が、人外の存在である翼人が寝室で寝ているのだ。ひょっとしたら黒髪の子は神奈を追ってここにやって来たのかもしれない。そして獣の槍が神奈に反応したら、黒髪の子は問答無用で襲いかかってくるだろう。あの武器は、そういう武器なのだ。

 それにね、あの獣の槍は神奈だけじゃなく、あなたにも反応するかもしれないのよ、瑞佳?

「行けば、あなた死ぬわよ」

 確実に、死ぬわよ。

 瑞佳はうつむいていた。じっと何かに耐えるように、スカートをぎゅっと握って、上唇を噛み締めて。

 それから、言った。

「でも……そうだとしても、わたしは行かないと」

「あなた正気? わたしの話ちゃんと聞いてる?」

「聞いてるよ」

「じゃあ、なんで。死ぬってことがわかってて、なんでそこまで」

 そこまでするのよ、瑞佳? 灯台に誘うって、それってそんなに重要なこと?

「ねえ。なんでそこまで他人を信じられるの。裏切られたりとか考えないわけ?」

「…………」

「あなた、怖くないの?」

「怖いよ。決まってるじゃない」

 瑞佳は、はっきりと答えた。

 意外な答えだった。ますます瑞佳の考えがわからなくなった。

 もう、本当にわけがわからない。

「……やらなきゃなんだよ。誰かがやらなきゃいけないの」

 瑞佳のこの声は、さっきの断固とした口調とはすこし違って、弱々しかった。

「みんなを助けるには……みんな一緒に助かるには、これしか思いつかないの。わたしバカだから、こんな考えしか思いつかないの」

 瑞佳の声は、もう、ほとんど聞き取れないほどに脆く、小さかった。

「ほかに思いつかないから……。でも、他人を信じられない人が、自分を信じられるはずないって思ったから……」

「……そう」

 郁未は思う。

 この島から抜け出すにはどうすればいいか。それは、勝ち残るしかない。このゲームに生き残って、ひとり生き残って、もとの世界に戻るしかない。

 それが私たちに与えられたルール。他人を信じることを拒否せざるを得ないルール。そうでなければこのゲームには勝ち残れない。

 そしてそのルールを無視するなら、それ相応の覚悟と代償が必要だ。

 既定の道を自ら踏み外すことほど辛い道はない。

「……あなた、意外と強いのね」

「そんなことないよ。弱いから、がんばるんだよ」

 瑞佳がかすかに笑った。困ったような、そんな笑み。

「私が行くわ」

 郁未は、意識せず、言葉を漏らしていた。

「……え?」

「私が行くって言ったの」

 郁未はこのとき、ようやく瑞佳を認めたのかもしれない。戦いたいとか、自分の目的とか、そんな事情とは関係なく、ただ瑞佳というひとりの女の子を、自分はようやく認識したのかもしれない。

「安心していいわよ。べつに殺しあいに行くって言ってるわけじゃない。あなたの言った通り、お話してくるだけ」

「え、で、でも」

「それに、この子もあなたに行って欲しくないみたいだし」

 繭が、いまだ瑞佳の袖を握って、瑞佳の顔を泣きそうな瞳で見つめていた。

「う……うわああああああん!」

 実際に泣き始めた。

「ああ、うるさい!」

 郁未が叫ぶと、繭はびくっとして、さらに大きな声で泣いた。

「ああ、もう、泣き止んでよ!」

「……もう。わがままなんだから、繭は」

 瑞佳は繭を抱きしめ、脱力したように大きく息を吐いた。ぴたりと繭の泣き声が止んだ。

 はあ。ここに来てからペースが乱れまくってるなあ、私。冷徹冷酷が私の売りだったはずなのに。

「天沢さん、気をつけてください」

 これまで口をつぐんでいた栞が声をかけてくる。

「あの人、盲目ですけど、全部見えているみたいですから」

「……なにそれ」

「とにかく、気をつけてください」

「あなた、黒髪の子のこと知ってるの?」

「名前はみさきさんです」

「なんで知ってるの?」

「…………」

「そういえばあなたの武器ってなんなの?」

 栞は答えず、視線を逸らした。

「まあ、いいわ」

 郁未はリビングを出た。

 まったく……なんでこの私が。けっきょく、瑞佳を説得することはできなかった。瑞佳の役目が私に変わっただけで、黒髪の子(みさきっていう名前らしいわね)を灯台に連れて来ること自体は、なにも変わっていない。なんか瑞佳にいいように使われてるだけのような気もしてきた。

「……したたかじゃない、瑞佳」

 まあ、本人は意識してないんだろうけど。それはそれで賞賛に値する。

「…………」

 ふと、思った。

 瑞佳は、本当にこの世界を作った『創造主』なんだろうか。それは、これまでずっと考えていた疑問だった。

 そのことを確かめるために私は瑞佳に近づいたけど、瑞佳という存在はそんな大それた存在ではないと感じる。

 普通の、どこにでもいそうな女の子。でも、ちょっと勇気のある女の子。

 そう感じる。

 もう……潮時かな。これ以上瑞佳のもとに留まっていても、しょうがない。

 空気が揺らいでいた。海の匂いがする。気づけば、郁未は外に出ていた。

 吹き抜けの門のところに、せわしなく頭を巡らせている人影があった。

「ちょっと、そこのアブなそうな人」

 声をかけてみる。

 みさきは視線を宙に泳がせたまま首をかしげた。焦点のあっていないような目、光の灯っていない瞳。盲目というのは本当らしい。

「えっと。わたしのことかな?」

「それ以外に誰がいるって言うのよ」

「ふうん、そうなんだ」

 みさきは顔をこちらに向ける。しっかりとした足取りで寄ってきた。一直線に、盲目であるとは考えにくい早さで。

「……訊くけど。なにか用があるの?」

 みさきは足を止めた。

「なにが?」

「あなた、用があるからここに来たんでしょ」

「うーん、まあ用があるっていえばあるよ。人、探してるの」

 ぴんときた。予想通りでもあった。神奈のあの怪我だらけの姿と、目の前の獣の槍が繋がった。

 残念ね、瑞佳。あなたの期待通りに事は運べないようよ。そう考えて、ちくりと罪悪感が沸いたけれど、郁未の表情にはすこしの変化も現れない。

「キミ、知らないかな」

「知らないって言われてもね。誰のことよ」

「名前は知らないよ」

「じゃあ姿格好は?」

「えっとね。羽生えた女の子」

「なにそれ。そんな不気味な子、ここにはいないわ」

「ふうん、そうなんだ」

 みさきの足がふたたび動き出した。こちら側、灯台のほうへと。

「ここには私以外誰もいないわ。わかったらとっとと消えて」

 一瞬、目の前の彼女と瑞佳を引き合わせれば、瑞佳の正体を知れるかもしれないと思い浮かんだが、なんだか今はそんな気になれなかった。

 全身に虚脱感。倦怠感みたいなものがわだかまっている。

 もう、いいや。もう、私、瑞佳の側から離れよう。

「……て、ちょっと!」

 みさきが自分の横を素通りするところだった。

「あなた人の話聞いてたのっ」

 後ろからみさきの肩をつかむ。

「なにか言ってたっけ」

「ここには誰もいないって言ったでしょ」

「そうだっけ」

「そうよっ」

「じゃ」

 みさきはどんどん進んでいく。

「ちょっとちょっとあなた! どこ行くのよ!」

 慌てて回り込む。

「灯台」

「なんでよっ」

 みさきは得意げな顔をして、

「わたしのたぐい稀なる第六感が告げてるんだよ。ここは要注意だって」

「……あっそ」

 どん、と。水平に掲げた郁未の手の平から空気の奔流が走った。

 みさきの黒髪が急激に後ろに流され、次には背後にのけ反っていた。だん、だん、と背中で二度、地面を跳ね、滑り進んで止まる。

「……な、なに今の」

「不可視の力よ。ま、タネを明かす気はないけど」

 みさきが、のろのろと起き上がる。

「私の前から消えなさい。じゃないと、あなた死ぬわよ」

「……うう。ひ、ひどいよ」

 みさきが恨めしげな目で見つめてくる。郁未の、今はもう閉じられた手の平を灰色の瞳で射抜く。

「わたし何もしてないのに……」

「立ち去りなさい」

「わたし何も悪いことしてないのに……」

 みさきは独りごちながらこちらに向かってくる。ゆっくりと、ゆっくりと。

「言っとくけど、あなたの持ってる獣の槍は私には利かないわよ。私、これでも人間だから」

 みさきの足は止まらない。

「わたし、ただ、人を探してるだけなのに……」

「なら、死になさい」

 郁未の手の平が、開いた。照準はみさきの顔。一寸の狂いもなく捕らえる。

 ばいばい、獣の槍を持った人。とても強い人。でもあなた、運がなかったわね――

「――やめて天沢さん!」

 郁未はバッと振り返った。住居の玄関付近で、瑞佳と繭が手をつないでいた。こちらに歩み寄っている。

 直後に、地を蹴る音が耳に触れた。

 郁未はまた振り返った。そこにみさきの姿はなかった。なに……この素早さ。獣の槍は発動していないのに!

 そこまで思考してハッとする。郁未の視線は誰もいない空間から瑞佳のあっけに取られたような顔、そして隣の繭のぽけっとした顔へと移り、その上、頭にかぶっているフェレット型帽子へと注がれた。

 帽子? 獣の槍はこれに反応したの?

「みゅー?」

 繭が首を傾げたのとそのフェレット型帽子に変化が起こったのは同時だった。フェレットの鼻の横についた細長いヒゲ、それらがドリル状に伸び上がり、四角とか三角とか幾何学的な軌跡を描いて天を貫いた。

 その方向に、みさきはいた。尋常でない長さの黒髪を棚引かせ、宙を飛んでいた。

 みさぎが、にやりと笑った。

 フェレット型帽子に反応した獣の槍が、うなりを上げて横薙ぎされる。ざん、とドリル状のヒゲ数本が切断された。

 そしてみさきは落下する――瑞佳と繭をめがけて。

「……くっ!」

 郁未は不可視の力を行使した。どんどんどん! と三発。みさきがバウンドしたように空中で跳ね上がる。

 また三発、郁未は不可視の力を放った。みさきが仰け反りながら灯台の周りを囲む塀を越え、海辺のほうへと飛び退っていく。

「……瑞佳っ! はやく逃げなさい!」

 郁未は叫んだ。

 獣の槍は一度発動すればある一定の時間、所有者に限界を超えた力を与える。その時間の長さは所有者の精神力に比例するが、とにかく、今のみさきはもう相手が人間であろうとなかろうと、現実離れした速度で斬りかかっていくだろう。

 この島には動物はおろか虫一匹すらも生息していないから、獣の槍は極端に制限された武器であるはずなのだが。

 みさき……か。あの子、運がいいわね。

「なにしてるの! その子を連れてさっさと逃げなさい!」

 瑞佳は呆然として一向に動こうとしない。繭のかぶった帽子から伸びるヒゲが、みさきが飛んでいった方向、海辺へと注意を向けるようにして幾何学的な模様を描く。

「え、えと、あの人は……」

 瑞佳が、思いついたように海辺のほうに向かおうとする。

 まったく……世話が焼ける!

 郁未が瑞佳に駆け寄ろうとした、そのときだった。

 空気の裂かれる音がすぐ側で鳴った。瞬間、郁未は身をひねっていた。

 制服の肩の部分がスパッと裂け、血飛沫があがった。郁未は肩を抑えて後ろに飛んだ。

 そして見た――そこには、みさきが立っていた。

「……な」

 思考が真っ白になる。だがそれは一瞬だった。ずきっと響く肩の痛みが理性を呼び起こす、考える、驚くべきことがひとつ、なぜ、私はあの子の気配を察知できなかった?

 あの子は海辺から瞬間移動でもして私の背後に立ったとでもいうの?

 ――否。

 みさきはのろのろと近づいてくる。郁未は不可視の力を連続で放った。みさきはよけなかった。ぎくしゃくした動作ですべて受け止め、そして霧散した。

 ――偽者。

『ラクガキ王国』で作成されたコピーだとすぐに悟った。おそらく事前に待機させておいたのだろう。

 なら、本物はどこにいる?

 答えはすぐに出た。ラクガキ王国は模写したものをただ動かすだけ。だから獣の槍の表面上の形はコピーできても、内に潜む能力まではコピーできない。

 現実離れした素早さを見せて瑞佳と繭に斬りかかっていったあのみさきが、本物のみさきなのだ。

 みさきは、海辺にいる。

 郁未は海辺に向けて駆け出した。とどめを刺すため、これ以上コピーを作成されないために。コピーに紛れて襲われでもしたら、さすがに対処できそうにない。不可視の力もまた、精神力に比例して使用回数が制限されるのだから。

 郁未の動きが、ふと鈍った。郁未は逡巡した。先に瑞佳たちを安全な場所に連れ出そうか? って、ちょっと待ってよ。なんで私がそんなことまでしなくちゃなんないの。私はべつに瑞佳なんか――

 その、わずかな迷いが郁未の注意を散漫にしたのかもしれない。瑞佳と繭の背後に、人影があった。

 すぐさま郁未は手の平を掲げて、そのコピーだろうみさきに照準を合わせて、空気の弾丸を放とうとして。

 ――ここからでは瑞佳と繭に当たる!

 みさきが槍を振りかぶる。郁未は低く地を蹴った。

 郁未は腕を伸ばした。ずきりと肩が痛んで、顔をゆがませ、足が鈍くなる。

 みさきが槍を振り降ろした。

 細長い槍の影が繭のフェレット型帽子に落ち、次の瞬間、帽子が宙を飛んだ。

 帽子から伸びたドリル状のヒゲに貫かれながら、みさきは霧散した。

 ようやく瑞佳が背後に振り返った。

 繭が、よくわかっていない顔で、地に倒れていた。

 ころころと、帽子が地面を転がって、ぱさりと止まった。

 瑞佳はしばらくその帽子と繭を交互に見て、郁未を見て、また繭を見て。

「……いやあ」

 つぶやいた。

「だめだよ、やだよ……」

 瑞佳がぽすんと尻餅をついた。

 繭の開かれた瞳は、何も映してはいなかった。足元がすこしずつ消えていた。

「やめてよ……こんなの……」

 瑞佳が繭の身体に手をやって、しかし繭の身体を素通りして、すくい取るように空気をつかんだ。その行為を何度も繰り返す。

 何度も、何度も、何度も。

 そして繭は完全に消えた。

「あ……」

 瑞佳の瞳が揺れていた。

 郁未は肩の傷を押さえながら瑞佳のそばに寄ろうとして――そのとき、瑞佳が立ち上がった。

「あ、あの人を誘わないと……」

「……え?」

「わたし……誘わないと……」

 瑞佳が、海辺に向けてふらふらと歩き出した。

 ちょっと、なに考えているのよ、この子は? たった今、大事な友達が死んだところだというのに。

 なのに、まだ……。

「だ、だって……わたし、みんなを……」

「……瑞佳」

「そう、決めたから……」

 郁未は、瑞佳の肩を強くつかんだ。

「わたしががんばらなきゃって決めたから……」

「……瑞佳」

「わたしががんばらなきゃ、みんな、死んじゃうから……」

「瑞佳ってば!」

 ひくっと瑞佳が息を飲んだ。

「……もう、がんばらなくていいから」

「…………」

「もう、我慢しなくていいから……」

 瑞佳は、もう一度、ひくっと喉を鳴らして。

「わああああぁぁぁぁ……!」

 郁未の胸にすがりついて泣いた。

 瑞佳はひっくひっくと、何度もしゃっくりをあげ続けて泣いていた。








 目的地は決まっていた。集落ではない。食料など調達する気はない。

 国崎往人は、集落とはちょうど逆方向に歩いていた。

 足取りは乱暴で、苛立っている感じで、顔は不機嫌だった。

 森沿いに、今はもう形のない漁業組合(火は消えているが……)を通り、灯台が見えてきたところで左折する。

 森を迂回して、平原を横断して、けっこうな距離を歩く。

 前方を見据え、地を踏みしめ、荒い歩調で進んでいく。

 するとプレハブ小屋が見えた。

 ここは自分らのスタート地点だった場所。この、殺しあいという名のゲームの開始地点だった場所だ。

 といっても、特に感慨深いものはない。恨みつらみを吐き出したい、という感情も特に湧かない。

 ただ、どうしようもない苛立ちだけが心を急き立てる。

 周囲を見回し、誰の姿もないのを確認してから、ゆっくりと近づいた。とたん、透明の壁に阻まれた。その結界の固い感触を手の平で確かめる。

 ぐっ、と拳を握り締めた。

 この辺りに人の気配はない。だが安心はできなかった。小屋の中に誰か――少なくとも教室で会った女二人――が居るのは確実だ。

「…………」

 小屋を注視するが、誰かいるのかどうか判断はできない。

 向こうはこちらに気づいているだろうか? 気づいていたとしたら、さっさと終わらせるに限るだろう。あまり時間はかけていられない。

 もう、覚悟はできているのだ。

「……はあっ」

 大きく息をついた。動悸が激しくなっていた。

 そしてここは静かだった。とてつもなく静かだった。静かすぎて耳が壊れてしまうくらいだった。

 そんな冬の寒空のような張り詰めた空気の中で、往人は思い出していた。

 観鈴を診療所まで運んだときのこと。そのときの観鈴はもう意識がなくて、これから先、目を覚まさないんじゃないかと勘ぐって、焦って、不安になって、そんなとき、観鈴の身体が淡い光に包まれた。

 あの光はなんだったのか……とにかく、観鈴は目を覚ました。そればかりか、ある程度動けるまでに回復した。

 観鈴は、小さな女の子のおかげ、と言っていた。

 驚くべきことはもうひとつあった。俺には、そのとき声が聞こえていた。

 手の平で弄んでいた人形が、語りかけていた。天使の人形と、古ぼけた人形。

 そのふたつの人形が俺に語りかけていた。

「……ふう」

 結界に手をついて、吐息を漏らす。

 どうやらあの天使人形は、祐一という男の物らしい。だから返してやった。俺が持っていてもあの人形は使えない。あの人形は、あいつが勝手に考えて勝手に使うだろう。

 だからそれはもう、どうでもいいこと。

 俺ができることは、この人形を使うことだった。それは、使命、と言ってもいいのかもしれない。

 ぐっと、古ぼけた人形を握る。そのまま握りつぶすほどに、強く。

 母から受け継がれ、その前、さらにその前からも受け継がれていた人形。

 まったく……よけいなものを押し付けてくれたもんだ。

 往人は正面を見据えた。プレハブ小屋ではなく、その間を隔てるように取り囲む結界を、見た。

 俺ができることといえば、このくらいが関の山か……。往人は、その透明色の結界に意識を集中させる。

 法力を行使するために。

 結界を破るために。

 それは、たいしたことではないのかもしれない。結界を破ったからといって、なにが変わるわけでもないのかもしれない。

 だけどこの行為には、たしかな『意志』が感じられる。脈々と受け継がれてきた意志が、人の想いが感じられる。たくさんの人の想いが感じられる。

 俺の祖先、観鈴にかかわった人間。そのすべての人々の、意志が。

 往人は法力を行使した。

 古ぼけた人形の作用で、法力が増幅する。

 そして自分の命が削られていくのを知る。

 ――少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。

 遥か昔から受け継がれてきたその意志を、今、ここで、俺が終わらせてやる。

 俺がその意志を叶えてやる。

 あいつの笑顔を見たいっていうその意志、たしかに俺が叶えてやる。

 そのための障害を、今、俺が壊してやるよ。

 だから……だから。俺が、壊してやるから――

 ――観鈴。

 少女の笑顔が今、はっきりと脳裏に刻まれた。

 神尾観鈴。

 俺たちの意志の終着点、それがおまえだ。

 だから、ぜったいに。

 せったいにおまえは、笑顔で、生きて――

「――間違ってるよ、往人さん」

 声が聞こえた。

 往人は重い身体をどうにか動かし、緩慢に振り返った。霞がかった視界で、見た。

 観鈴が、祐一に肩を貸してもらいながら立っていた。

「……よけいなこと、しやがって」

 搾り出すようにして言葉を吐き出し、往人の表情がゆがむ。

「悪かったな。彼女が言って聞かなかったんだよ」

「だから、それが、よけいなお世話だって言ってんだろが……」

「……往人さん」

 観鈴が、ぽつりと名を呼んだ。

「わたし、お母さんがいなくなって、往人さんまでいなくなったら、笑って生きていけるはずないよ……」

 観鈴は泣いていた。

 笑ったような、悲しんだような、ぼろぼろ涙を流して、これまで見た中で一番痛い泣き顔だと、感じた。

 脳裏に刻まれたはずの笑顔なんか、またたく間に塗り替えるような、強烈な泣き顔。

「……はは」

 まったく、俺は、ほんとうに。

 どうしてこう、あいつを泣かせてばかりいるんだろうな……

 往人は正面に目を戻した。がくりと膝を折った。もう、自分も泣いてしまいたい気分だった。

 俺は、いつもそうだ。

 あいつの泣き顔なんて見たくないのに。

 もう二度と見たくないって思ってたのに……

 俺は、本当は、あいつの笑顔を見たいはずなのに……

 どうしてこう、俺は、おまえを――

 目の前の結界が揺らぎ始めていた。それにつれ往人の思考が白濁し、意識が途切れ途切れになり、地に突っ伏した。

 草木の匂いが、鼻腔をくすぐる。

「往人さん……!」

 観鈴が祐一の手を振り解き、足をひきずるように駆けてくる。自分の名を呼ばれているのを感じて、だけど、身体は動いてくれなかった。

「往人さん、往人さん……!」

 このときにはもう、往人の意識は完全になくなっていた。姿すらも徐々に消えかかっていた。

 往人の握り締めた古ぼけた人形が、あのとき纏っていた観鈴の淡い光を同じように纏っていたことを、往人は知ることができずに。

「往人さん……往人さん……」

 観鈴はその名を呼び続ける。二人の距離を徐々に縮めながら。でも、その距離はもう絶対に縮まることはないんだと観鈴は悟っても、往人の姿が完全に消えてしまっても。

 観鈴はその名を呼び続ける。

 人形もまた、今、消えた。

 往人が倒れていたところ、観鈴がたどり着いた先。

 結界が、断たれた。








 薄暗い明かりの元、キーボードを操作する音だけが響いている。

 ……おいおい。

 氷上シュンは我が目を疑った。

 ……冗談だろう?

 必死の抵抗空しく、今、結界制御装置が完全に沈黙した。

 あんな男ひとりの力で、この結界が破られただって?

 僕たちFARGOの科学力が、あんなちんけな男一人に負けるだって?

 あの往人という男の行動は小屋の監視カメラで捉えていた。法力で結界を解除しようとしていることは考えるまでもなくわかった。だから、なにも対処はしなかった。そんな個人の法力程度で解除させられる結界なら、最初から使っていない。たとえ翼人ですら超えられない結界、それがFARGOの生み出した防護壁。

 だというのに、その壁は、いま完全に崩れ落ちた。理解しがたいことだった。

 そのとき部屋全体に大きな揺れが走り、氷上シュンはバランスを崩して床に手をついた。振り仰ぐように顔を上げた。視線が、頭上のポットへと注がれる。

 天を貫かんばかりの高さで尊大に構える青白いポット。液体に身をゆだねる羽リュックの少女を隠すかのように、中ではごぼごぼと盛大に泡を吹いていた。

 ――違う。結界だけでは、ない。

 ポットは、今にもその中身を吐き出さんばかりにみしみしと音を立てる。

 部屋全体が地震のような揺れに襲われていた。これは……なんだ? いったいどこが震源だ? 機材のひとつに設置された小型スクリーン、そこに映った島の映像を確認する。

 この部屋だけではない、島全体が大きな地震に見舞われていた。

 ――信じられない。

 結界と同様、この孤島さえも崩れようとしている?

 この永遠の世界さえも崩壊しようとしているだと?

 たかだかひとりの、ちっぽけな男の力だけで。

 いや……それとも。それは、本当はひとりではなかったのかもしれない。

「……くく」

 シュンは立ち上がり、カタカタカタカタ、と機械的にキーボードを打った。

 ――楽しませてくれる。

 キーの操作にあわせ、目の前のポットの異変にさらに変化が起こった。吹き上がる泡の中、あゆの顔がみるみるうちに青ざめ、苦悶の表情へと移り変わっていく。

『ゆ、祐一くん……』

 雑音交じりのスピーカーから流れるその声さえもか細く、ほとんど聞き取れない。シュンはもはやポットの様子など一顧だにせずキーの操作だけに集中していた。

『い、痛い……痛いよ……苦しいよ……』

 させはしない。

『た、助けて……祐一くん……』

 させはしないよ。この世界を壊すなんて、こんな素晴らしい世界を壊そうなんて、そんなことはぜったいにね――

「――氷上さん!」

 佐祐理が、治まらない揺れに壁に身体を預けながら、叫んだ。

「わかってるよ。月宮あゆの命を奪おうなんて考えてるわけじゃない。ちょっと借りるだけだよ、彼女の持つ『奇跡』という名の力の一部をね」

「ですけど……!」

「わかってると言っただろう? 安心しなよ、僕はまだ理性的だ。だってキミは目的を達していないし、僕だって目的を達していないんだからね」

 青白かったはずのポット、その中ではぱちぱちと光が閃き、今やもう白一色に塗りつぶされたように見えていた。

 佐祐理がなにか言いたげにシュンに詰め寄ろうとするが、依然続く揺れに足を取られ、すぐに舞に抱きかかえられ、そのまま床に座り込む。

『う……あ……あっ』

 閉じられていたあゆの瞳はめいっぱい開かれ、その視線はどちらにも向いていなくて、そしてその声は、もう声とはいえない呻きに変わっていた。

 ……そうさ、まだなにも目的は達成されちゃいないのさ。

 この素晴らしい世界で、永遠という名を借りたこの世界で、人の絆というあやふやでちっぽけな糸がとても強固に紡がれるこの世界で、それゆえに張り詰めた糸がぷつりと切れるように、いとも簡単に人の絆を断ち切ることのできるこの世界の中で――

 ――僕は、まだなにもやっちゃいないのさ。

 シュンは、ただひたすらキーを打ち続けていた。




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