今日も暑くなりそうだった。東からそよぐ海風が、長時間棒立ちしていたせいで額に浮かんでいた汗を、熱と一緒に運んでいく。

 あ……貧血起こしそう。

 手すりに手をついて、ホッと一息。壁に背をつけてから、美坂栞は頭上に広がる水色の空を仰ぎ見た。

 太陽が、ひさしの縁からわずかに顔をのぞかせている。その下、灯台のベランダの床には小さな陽だまりができていた。

「……ふう」

 しばらくこうしていると、さっき覚えた眩暈も鎮まった。

「よし。がんばらなきゃ」

 栞はまた手すりに寄って、今度はその遥か下、土の地面を凝視する。

 灯台の周りに人影はない。

 自分は目は悪くないほうだし、そんなに高い場所から見下ろしてるわけじゃないので、ある程度明確に見通せる。やっぱり辺りに人影はない。

 もし誰か見つけたら、みんなに報告してから、その人を灯台に誘ってみる。できるだけ多く、島のみんなをこの場所に集める。それから、みんなでこれからどうするかを考える。

 これが、今この灯台にいるみんなの考え。

 だから私も、こうして見張り番に立っている。

 人影は、やっぱり見当たらない。もう、生徒は私たち以外残っていないんじゃないかと想像して、そんなはずないと考え直す。

 放送ではまだ十五人が残っているはずだし、現に、遠野さんがあの翼の生えた不思議な女の子を見つけたんだから。

 でも今のところ、灯台の付近で見つけたのはその女の子、ひとりだけだった。

「…………」

 その不思議な女の子は、私の知っている子だ。以前、漁業組合で出会った神奈ちゃんだった。なんで神奈ちゃんは背中に翼が生えているんだろう? なんで神奈ちゃん、あんなにボロボロだったんだろう? 神奈ちゃんと一緒に居たはずのあの従者みたいだった二人は、なんで死んじゃったんだろう……?

「……ん」

 栞は背伸びした。

 思考が暗くなってきた。気が滅入る。ひとりきりだと、なおさら。

「……はあっ」

 大きく息を吐き出した。

 こんなふうに見張り番をやって、どのくらい時間が経っただろう? ほんの少しの気もするし、もう何時間もこうして立っている気もする。でも、代わりの人はまだやって来ないので、まだ一時間も経っていないのだろう。

 栞は額の汗をぬぐった。それから、海風に身をゆだねてぼーっとする。

 うーん、気持ちいい。陽気もぽかぽかとして……というより、ちょっと熱いかも。お日様の下にいるのは嫌いじゃないけど、すこし体調のほうが心配だなあ。

 まあ、でも今日は調子がいいほうなんだ。だから長時間立っていたって、たぶん平気。もしお姉ちゃんに見つかったら叱られるだろうけど。

 でもお姉ちゃんは、ここにはいない。

「…………」

 栞は、なびく髪を手で抑えながらぼーっとする。

 風が、気持ちいい。

「……祐一さん」

 祐一さんは……今ごろどうしているだろう。ふと、気になった。

 この島で私はまだ、祐一さんに出会っていない。ううん、正確には教室でちょっとお話したけれど、でもそれっきり。祐一さんは、今、どこにいるんだろう?

 放送ではまだ名前は挙がっていない。だからまだこの島にいるはずなんだ。

 お姉ちゃんと違って、祐一さんは、まだ生きている。

 そして私も、まだ、生きている。

 だからきっと出会えるよね。こうして待っていれば、見張り番をしていれば、きっと祐一さんを発見できるよね。

 栞は手すりに身を乗り出して、海とは逆方向、島の全貌を見渡した。それから、どうにか見える範囲――灯台の付近を注意深く探してみる。

 誰かいないか、誰か通りかからないか、見過ごさないよう瞳を凝らす。

 と、また立ちくらみがした。

「……ふう」

 ふらりとしゃがみこむ。この病弱な身体が恨めしい。本当なら、待っているだけじゃなく島を探し回りたい。祐一さん、名雪さんも、見つけ出してこの灯台に連れてきたい。

 また、みんなでお話したかった。そう、あの喫茶店で大きなパフェを頼んだときみたく、みんな一緒で。

「……お姉ちゃん」

 栞は立ち上がった。

 私は、今、自分がやるべきことをやらなきゃ。そのために私はこの灯台に来たんだから。

 灯台のみんなはとても優しくて、親切で、だから私は自分のやるべきことが見つかった。とりあえず今は、みんなの役に立たなくちゃ。

 何度か深呼吸して、落ち着いてからまた手すりに身を乗り出した。ぐるっと首をめぐらせる。灯台の付近から、それから西へ、すこしずつ、だだっ広い森のほうへと視線を移す。

 そのとき、黒い点が視界の隅に入った。

 あれは……人影? 森のほうから誰か来る……?

 栞はさらに身を乗り出した。そのときひときわ強い風が吹いて、バランスが崩れ、あやうく下にまっ逆さまになるところでどうにか踏ん張ってぺたんと床に尻餅をつく。

 栞は急いで立ち上がり、眩暈なんか頓着せずにその人影を凝視した。

 その黒髪の頭を、見た。

「あれ……あの人」

 ぐっ、と。

 ストールを握った。

「あの人……あの人……」

 ぎゅっと固く、爪が食い込むくらいにストールを握った。

 遠目だからはっきりとは確認できない。それでも、姿かたちの輪郭から、栞にははっきりとわかった。

 あの人、私にクッキーをくれた人だ。

 ――お姉ちゃんを殺した人だ。

 思考が真っ白になり、でもそれは一瞬で、次にはもう栞は思っていた。

 自分のやるべきこと。私は、今、自分のやるべきことをやらなくちゃ……。

 栞は建物の中に戻った。みんなにこのことを知らせるために。

 ストールを、固く、血が滲むほど握り締めながら。








 相沢祐一は、ふと目を覚ました。

 その目に、ゆらゆらと舞い降りる白い結晶と、その奥に広がった、重々しく低い空が見えた。

 祐一はがばっと体を起こした。きょろきょろと辺りを見回す。ここは……駅? え……この殺風景な島に、こんなところあったっけ。

 駅の改札口から、傘を差して大通りに出る人たちでごった返していた。

 祐一はベンチに座りなおした。湿った木の感触が、冷え切った身体をさらに凍えさせる。ああ、俺も傘持ってくりゃよかったな。そんなことを感じながら、そういえば、と思い出した。

 そうだった。俺は、ここでいとこの名雪を待っていたんだった。

 うっかりすると寒さで眠ってしまいそうになる身体に鞭打って、ポケットに手を突っ込む。頭を振ると、はらはらと積もった粉雪が左右にこぼれる。

 ……遅い。もう二時間はこうして震えながら座っている。

 おのずとため息が漏れる。白い息が眼前から昇って、立ち消えた。

 もう一度はきだす。

 ――と、そのとき。

 黒い影が頭上から射し込んだ。

 俺は、顔を上げた。

 顔を上げて――見た。

 その、女の子の顔を。

「……目、覚めた?」

 静かに微笑む顔が、ほんの目と鼻の先にあった。長い髪の先が、祐一の頬をくすぐった。

「おはよ」

 女の子が口を開く。ぼんやりとした頭にその声が時間を置いて射し込まれ、ああ挨拶か、と理解した。

「……おはよう」

「にはは。ちょっとごめんね」

 そっと、額に触れる小さな手の感触が、あった。祐一はその手から腕、腕から肩へと目で追って、もう一度、見た。

 なじみのない制服に見を包む少女――いとこの名雪ではなかった。見たことのない顔……いや、前に、会ったことがある?

 まじまじと彼女を見つめる。すると、相手もこちらを見つめてくる。至近距離で、鼻先がくっつきそうな距離で。

 ……照れくさい。

「? どうしたの?」

 祐一は目を逸らした。そうすると、自分がシーツのかかったやわらかいベッドの上に寝ていることに気づく。

 ここは……どこだ? すぐ左側には塗料が剥げ落ちた壁、その上には染みのついた天井。いやに古ぼけた感じを受ける。狭い部屋だ、でも、なにか見覚えが――

 祐一は身体を跳ね起こした。とたん、ごほごほごほっ、と咳が連続して出て、喉の痛みとともにまた身体を元に戻した。

「ここは……診療所か?」

「うん、そうだよ」

 どうりで見覚えがあるはずだ。ついさっきまで俺はこの場所に居たのだから。そう、ほんのついさっきまで。名雪と葉子さんと、ついさっきまで。

「…………」

 ついさっき、だって? そうだ、俺は、俺たちは診療所を出たはずだ。それから……あの女の子。霧だ。どす黒い霧に襲われて、そのあと海に入って……。

 このとき、ようやく祐一の頭の中で記憶と現在が合致した。ふたたび身体を起こそうとする。

「わあ、だめだめ! じっとしてなきゃ」

 額に手を置いていた彼女が、眉を吊り上げて強引に寝かせつけてきた。

「葉子さんは……名雪はどこにいるっ!」

「え、な、名雪さん?」

「ああ、俺は名雪のところに――」

 ごほごほごほっ、と咳が出る。喉がひりつき、そしていやに身体が寒かった。

「えっと、よくわからないけど、わたしが見つけたときは祐一さんひとりだったよ。……あなたの名前、祐一さんでいいんですよね?」

「……ああ。えっと、キミはたしか」

「神尾観鈴です。にはは、前に会ったよね。名雪さんと一緒に」

 たしか、この島に来た初日だった。森で、大事なデイパックを盗まれそうになったのだ。この目の前の女の子――観鈴と、あの、目つきの悪い男によって。忘れるわけもない。

「祐一さん、倒れてたから。だから往人さんがここに連れてきてくれたの」

「……倒れていた?」

「うん。海辺でぐったりしてた。死んじゃってるのかと思ってびっくりした」

「…………」

 海辺で倒れていた、だって? 俺はあの傘の女の子に襲われて、海に飛び込んで、それから……そうか。俺は、溺れたのか。ようやく理性が働くようになり、思考が回転し出す。

 そして真っ先に聞かなければならないことを言った。

「今、何時だ? 俺はどのくらい眠っていた?」

「えっと、十時くらいかな。……うん、あの壁の時計、十時ぴったり。祐一さん見つけたのが朝早くで、それからずっと寝てたよ」

 ということは、俺は佐祐理さんの放送を一回、聞き逃したことになる。

 誰だ? 今度は、誰が死んだんだ?

「寝てる間、ずっと震えてたけど。だいじょうぶ?」

 観鈴が、自分の上に覆い被さるようにもう一度、額に手を置いてきた。ひょうしに、ふわりと金色の髪先が浮き上がり、鼻腔をくすぐる。

 彼女の顔が、ほんの目と鼻の先にある。

 ……とても、照れくさい。

「うーん、熱はないみたい」

「い、いや、それより、今朝に放送あったろ? 誰の名前が呼ばれた?」

 観鈴の顔が陰りを帯びた。そのまま、うーんと唸って首をひねった。

「知らない人ばかりだったよ」

「名雪は? あと、葉子さん……鹿沼葉子は呼ばれなかったか?」

「うん。違う人だった」

「……そうか」

 どうやらあの二人は無事に逃げおおせたようだ。傘の女の子の霧は自分のほうに向かっていたので、たぶん大丈夫だろうとは思っていたが。

「……で、いつまでこうしてるんだ」

 額には、彼女の手が乗せられている。

「あ。忘れてた、にはは」

 手が離れ、ようやく女の子の顔が遠くなる。はあ、と吐息をついて、今度はくしゃみが出た。

 さっきから全身が凍えるように寒かった。寝汗のためか、Yシャツが肌に張り付いて気持ち悪い。

 祐一は制服の上着を脱ごうとして、そのときようやく気づいた。

 どうりで寒いはずだ、自分の着ている服はびっしょりと濡れていた。そして納得する。このせいか、俺があんな夢を見ていたのは……。

「わ、だめだめ。じっとしてなきゃ」

 女の子が強引にベッドに寝かせつけようとする。

「いや、いいから」

「でも顔が青ざめてるし。動かないほうがいいよ」

「……いや、たぶん、動かないから青ざめてるんだと思う」

 寒くてじっとしてられなかった。

「そのまま寝ててね。今、あったかい飲み物持ってくるから」

「おまえもまだ寝てろ」

 と、向こうから声がかかった。男の声。

 長身の男がこの部屋に入ってくるところだった。

「おかえり、往人さん。ご飯あった?」

「外のニワトリ小屋から卵をかっぱらってきた」

「にはは。にわとりさん、かわいそう」

「それよりおまえも寝てろ。動けるっていってもまだ十分じゃないだろ」

「目玉焼き作るね〜」

「作るな、寝てろ」

「セミは入れないから平気」

「それは当然だ」

「じゃ、作るね〜」

「作るな、寝てろ」

「にはは、平気平気」

「平気じゃない」

 往人は観鈴の腕を引っ張って、隣のベッドにぽすっと座らせた。

「頼むから、じっとしてろよ」

「が、がお……。でもお腹空いたし」

「我慢しろ」

 往人は言い捨てて、また廊下に出ようとする。

「あれ。往人さん、どこ行くの?」

「また食料調達だ。今度は集落に行ってくる」

「おい、あんた」

「じゃ、行ってくる」

 無視された。

「……待て待て待て待て、コラ」

 往人は面倒くさそうに振り返った。

「なんだ、おまえ起きたのか」

「さっきから起きてるだろうが」

「ならとっとと出て行け」

「往人さんっ!」

 観鈴が顔を真っ赤にして怒鳴り、それからごめんなさいごめんなさいと頭を下げた。

「……で、なんだ。なにか用か」

 往人がこちらを見向きもせずに言う。

「ああ。あまり出歩かないほうがいい。忠告だ」

 往人はいぶかしげな顔をした。観鈴もきょとんとしてこちらを見る。

「どうしてもって言うなら、俺が食料調達に行ってきてやる」

「病人が、よけいなお世話だ」

「誰が病人だ」

「おまえ以外に誰がいる」

「もう治ったって」

 というか怪我は特にしていない。

「震えてるくせに説得力ないな」

「悪かったな。寒いから動きたいんだよ、俺は」

 ぐっしょり濡れた自分の制服を人差し指でつまむ。

「だいたい、なんで俺はこんな格好で寝てるんだよ」

「助けてやったのになんだその言い草は」

「助けるんならもっとちゃんと助けろよ」

「なんだその偉そうな態度は」

「病人なんだから当たり前の態度だ」

「怪我ひとつしてないくせに説得力ないな」

 本当に俺はこいつと相性が悪いと思う。

「あ、あの、寒いんだったらお風呂入ったほうがいいよ。わたし、用意してくる」

 祐一たち二人の間に割って入るように、観鈴がベッドから降りようとする。

「……頼むからじっとしててくれ」

 すぐさま往人が寄ってきて押さえつけた。

 入れ代わるように、祐一は立ち上がった。

「集落だったか。俺が行ってきてやるよ」

「病人は寝てろ」

「……あのな。あまり出歩くなって言いたいんだよ、俺は」

「よけいなお世話だ」

「とにかく、一人では動かないほうがいい」

「心配ならいらん。俺はそんなやわじゃない」

「バカか。まだわからないのか。彼女の側を離れるなって言ってんだ」

 ぐっ、と往人が喉を詰まらせた。それから、チッと舌打ちする。

「……よけいなお世話なんだよ」

 往人は廊下に出ようとして、何かに気づいたように足を止め、もう一度いまいましげに舌打ちした。

 乱暴に後ろポケットに手を突っ込んで、なにかを取り出し、ゴミでも捨てるようにこちらに投げつけた。

「……なんだよ、これ」

 天使の格好をした人形だった。

「おまえにやる」

「はあ? なんで」

「声が聞こえるんだよ。その人形からな」

「…………」

「……往人さん」

 観鈴が、なにか言いたそうにして往人に眼差しを送っていた。

「……すぐ戻ってくる」

 往人はきびすを返した。

「たく。どいつもこいつも、よけいなお世話なんだよ……」

 そして往人は今度こそ姿を消した。

「……声?」

 往人は人形から声が聞こえると言った。耳を当ててみるが、特になにも聞こえない。当たり前と言えば当たり前。

「……うーん」

 なんだったんだろうな、さっきのあいつ。無礼な態度はあいかわらずだったが、なにか思いつめているようにも見えた。

「往人さん……」

 観鈴がベッドの上にぺたんと座ったまま、心配そうな顔で往人が出ていった扉の向こうを見つめていた。

「すぐ戻ってくるだろ。そう言ってたし」

「うん……」

 納得いっていないようだ。気持ちはわからないでもない。

 だが、忠告はしたのだ。だったら人の心配よりも自分の心配か。いいかげん、寒さで凍え死にそうだった。それに、俺は葉子さんとの約束を守らなきゃならない。

 こんなところでぐずぐずしている余裕は、ない。

 祐一はそそくさとシャワー室へ駆け込んだ。




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