遠野美凪は悩んでいた。
みちるの様子がおかしい。
おろおろして、そわそわして、そうかと思えばじっとうつむいて何か考え事でもしているようで。そんな状態がずっと続いていた。
なんでだろう? なにがみちるをそうさせるのだろう?
なにか嫌な予感がする。
『あの子』が来てから、みちるに対し、自分はなにか嫌な予感を感じ始めている。
灯台の周辺に敷設された住居部の中で、そんなふうに考えめぐらせながら、美凪は廊下を歩いていた。
海辺で見つけたあの女の子。見覚えのある子だった。以前、ちょっとの間だったけれど灯台を訪れていた、神奈だった。そのときは嬉しそうに私の作ったハンバーグを食べていたのを覚えている。
その神奈は、身体じゅう傷だらけで倒れていた。なぜそんな状態だったのか、一緒に連れ立っていたはずの他の二人は、なぜ、死んでしまったのか……考えることはたくさんあった。
でも、とにかく、神奈を見つけたのは私だった。早朝、まだ太陽が地平線から姿を半分も見せていない頃。灯台を囲むように設置されたベランダ、そこで見張り番をやっていたら、ちょうど見つけたんだ。
かつかつと、殺風景な廊下に足音だけが響いている。
あの子……歳はみちるよりちょっと上くらいでしょうか。なにか……なんていうか、あの子は不思議な感じがしました……。いえ、私だけじゃない、それはみんなが思っていることでしょうね……。
だって神奈は、全裸で、そして背中には真っ白な翼が生えていたのだから。前に出会ったときには、そんなものなかったのに。
みんなで神奈をこの灯台に運んで、ベッドに寝かせつけ、手当てして(栞さんがたくさん薬を所持していたので助かりました)、そしてふと、みちるの様子がおかしいことに気づいた。
自分らが手当てするのを、遠くのほうで見守っていたみちる。背中に翼を持つ、そんな不思議なあの子を見ていて、みちるの様子がおかしくなったんだ。
「……不思議な女の子」
つぶやいてみると、それは神奈のことを言っているのか、それともみちるに対して言っているのか、わからなかった。
「遠野さん」
ふいに声が聞こえた。正面から長森瑞佳が歩いてきていた。
「どこ行くの? 見張り番なら、さっき美坂さんと交代してきたよ」
「……いえ。すこし寝室の様子を見てこようと思いまして」
「あ、そっか。遠野さんが看病する番なんだ」
「……はい」
現在、灯台に居座っている自分を入れた六人は、交代で見張り番、そして神奈の看病も交代でやっていた。次は、私の番。そういえば今は誰が看病しているんだろう?
「……では、ごきげんよう」
「うん、ごきげんよう……て、なんでそんな優雅なの」
「……たまにはいいかなあ、と」
「あは、遠野さんっておもしろい」
「……ありがとうございます。じゃあ、これ」
「う、ううん。お米券はいらないから」
断られた。
「じゃ、わたし行くね」
にこっと微笑んだ瑞佳が立ち去ろうとするのを見て、
「……あの、ちょっといいですか」
つい引き止めてしまった。
「? なに?」
「あの……みちるがどこにいるか、知りませんか」
神奈の手当てを終えてから、みちるの姿を見ていなかった。
この島に来てからこんなに長い間離れていたことはなかった……いや、ここに来る前だってそうだったかもしれない。
だからだろうか? 無性に、不安に駆られる。
嫌な予感が消えてくれない。
「あれ。そういえば遠野さんと一緒じゃないなんて、珍しいね」
「……長森さんもわかりませんか」
「うん、ごめんね」
「……いえ。じゃあ、これ」
「う、ううん。お米券はいらないから」
残念。
「じゃ、見かけたら教えるね」
「……はい。ありがとうございます」
「いいよ。あ、お米券はいらないからね」
先回りされた。
「それじゃ、また」
言って、瑞佳は今度こそ立ち去った。たぶんリビングに戻るのだろう。
瑞佳の足音が聞こえなくなってから、美凪もまた歩き始める。
寝室にたどり着いた。すぐに美凪は扉をノックした。この部屋では、神奈がベッドで寝ているはずだ。
神奈は、自分が確認した限りまだ一度も目を覚ましていない。危険な状態なのだということは医療知識の乏しい自分たちでもなんとなく推し量れた。
中から応答はなかった。やはりまだ眠っているんだろう。ひょっとしたら看病の人も一緒に眠っているのかもしれない。
美凪はゆっくりと入室した。
「…………」
小さな背中が見えた。
みちるが、ベッド脇の椅子に座っていた。
こちらに気づいていないのか、振り向こうとはせず、ベッドで眠る神奈の顔に見入っているようだ。
「……みちる」
呼びかける。相手は振り向かない。美凪は静かにみちるの側に寄り添った。そこでようやく、みちるの横顔が覗けた。
「……どうか、したの?」
なんでそんな顔、してるんだろう。いつもと違う、天真爛漫な笑顔じゃなくて、なんでそんな思いつめた顔してるんだろう。
ねえ、なにがあったの、みちる?
「んに」
みちるが神奈の顔に見入ったままつぶやいた。
「ね、美凪。美凪はみちるのこと、どう思ってるのかな」
それは急な問いだったので、とっさに答えられなかった。
「ね、教えてよ、美凪」
みちるがようやく振り向いた。にっこり笑って、無邪気そうな笑顔で。
「どうって……大切な妹です」
言うまでもないこと。
「うん。みちるも、美凪のこと大切だって思ってるよ」
そのとき、ざわり、と胸が騒いだ。
――嫌な予感が増す。
「みちるね、美凪からたくさんの思い出をもらったから。大切な思い出をたくさんもらったから、だからとっても感謝してるよ」
「なにを……」
突然、何を言い出すんだろう。
そんなこと、今、こんなときに言わないで欲しかった。
ざわざわとした気持ちを抱えているときに言わないで欲しかった。
「みちるね、この人のおかげで美凪からたくさんの思い出をもらうことができたんだよ。だから、とっても感謝してる。感謝しても足りないほど、感謝してる」
みちるが、ベッドの端にぽふんと頭を乗せた。
「だからね、みちる、この人に恩返ししたいんだよ。この人の役に立ちたいんだよ」
独り言のようなみちるの話は止まらない。
そして胸のざわめきも、止め処なく増していく。
「だから……もう、帰らなきゃ。みちるのいなきゃいけないところに。そうじゃないと、この人、このままだと……」
一呼吸、置いて。
「ね。これって、よけいなお世話かな」
美凪はみちるの顔から視線を逸らせない。
「みちるのわがままかな?」
美凪は首を横に振ろうとして、できなかった。
わがまま……そう、間違ってはいない。ううん、きっと当たってる。
ただ、違うのは、それはみちるのわがままじゃなくて、私のわがままだってこと。
私がみちるを手放したくないという、わがままにも似た想い。
「みちる、もう、帰っていいかな」
「……嫌」
これは、神奈に――翼の少女にみちるを返したくないという、自分勝手な想い。
「……そんなの、許さない」
美凪はふわりと包み込むようにみちるを抱き寄せ、次には、ぎゅっと固く壊れるくらいに抱きしめていた。
「ぜったいに渡さない……」
せっかく出会えたのに。せっかく私は手に入れたのに。
嫌な予感が、現実味を帯びて身を引き裂く。
「嫌なの……もう、ひとりぼっちは嫌……」
みちるがここに居ることで、私はひとりじゃなかったのに。
母親からも忘れられ、美凪という存在を消すことで、自分自身の存在を消すことで、私は今まで生きてきた。そうすることで私はどうにか生きてこられた。
そうしないと私は生きていけなかった。
「……みちるね、美凪のこと、ずっとお姉ちゃんだって思ってたから」
「やだ……やだよ……」
ひとりぼっち――それはとても寂しくて、辛くて。そんな感情すらもだんだんと薄らいでいくようで。自分の存在すらもあやふやになるようで。
「やだよ……ひとりはやだよ……」
そして周りを取り巻くすべての存在があやふやになっていく。
それが、ひとりということ。
だからみちるがここに居ることで、ちゃんと存在してくれることで、私はひとりじゃなかったのに。
「だいじょーぶだよ。みちるがいなくなっても、美凪はひとりぼっちなんかじゃないんだから」
美凪は首を振り続ける。
寂しくて……悲しくて。私は泣きじゃくるしかなくて。
でも、みちるは、泣いてなんかいなくて。
「ばいばい……美凪」
そして、最初から。
みちると出会ったその瞬間からこうなることがわかっていたような、そんな気がした。
部屋が淡い光に包み込まれてゆく。その中心、二人の女の子がお互いの存在を確かめあうようにして抱きあっていた。
そんな光景を、扉の隙間から天沢郁未は静かに見つめていた。
あの子……みちるといったかしら。
翼人の羽から作られた存在である、みちる。これから翼人にその仮初めの身体を返すのだろう。それであの翼人、神奈の傷が癒えるのかは、私にはわからないけど。
それにしても……と、郁未は白色の光でいっぱいになった部屋の奥、ベッドに横たわる神奈の顔を観察する。
その顔はばんそうこうや包帯で半分隠されている。痛々しい姿。いったい誰がやったのだろう、自分以外のやる気になっている誰かがやったのだろうか。
まあ、それは当然の成り行きではあった。このゲームは、互いが争い、戦うように仕組まれていたから。そしてそれは、なにも佐祐理や舞が生徒たちに働きかけたのが唯一の理由というわけじゃない。
この島では、人それぞれの意志がぶつかり合うことで、ゲームを成り立たせているのだ。
この永遠の世界で、皆は、自分自身のエゴとも呼べる想いをぶつけあい、そして散ってゆく。
他人の意志に自分の意志が潰され、散ってゆく。
自分の意志が他人の意志に塗り替えられ、散ってゆく。
他人と争うだけではない。自分自身の中に根付いたエゴと反発し、争うことによって、自ら散ってゆく者もいる。
そういう者たちを、佐祐理は、このゲームの参加者として選んだのだ。
――光が、徐々に消えていく。
またひとり、自分の意志を散らせてゆく者がいる。
それはゲームの脱落、敗者の末路なのか……それとも。
「…………」
郁未は寝室をあとにした。かつかつと、廊下を歩く。
そしてふいに立ち止まる。
……私の意志は、なんだろう。
瑞佳と戦うこと? そうすることによって、不可視の力を行使することによって、名も知らぬあいつ――『少年』の存在を確かめる、それが私の意志?
……なにを今さら。
それ以外に、あるはずない。
「そうよね……私」
もうひとりの、私。
ぶつぶつとつぶやきながら、郁未は廊下から姿を消す。
そして光も、徐々に、消えていく。
ふわふわと浮いたような感覚。
熱でもあるのかな、わたし。
神尾観鈴は夢心地にいた。
ふわふわと、ふわふわと浮いているわたし……。
そんな感覚がずっと続いていた。いつまでもいつまでも、この感覚に終わりなんかないんじゃないかと思えていた。永遠とも取れる時間、きっとわたしはこれからもこの感覚を感じていくのだろう、それは楽しみなようでいて、ちょっと怖かった。
わたしは、この感覚と一緒にこれからを生きていくんだ……。
そう思っていた頃に、突然なにかが差し込まれた。
鋭く、引き裂くような感覚。なにか、弾け飛ぶ意志のようなものを感じた。
そしてなにかが見えた。
女の子が、三人いる。
そのうちのひとり、小さな女の子が、ふたり目の、やっぱり小さな女の子、背中に翼を持った女の子の中に溶け込んでゆく。
たくさんだった光は、もう今は小さくて、弱々しい。
すぐ側に、泣きじゃくる最後の一人の女の子。あれは……遠野さん?
なんでそんなに泣いてるんだろう。なにか悲しいことがあったのかな。
と、思って。あれ、と首をひねる。
なんでわたしの前に遠野さんがいるんだろう。だってわたし、この島に来てから遠野さんとまだ会ってないし。
ひょっとして、これ、夢? 自分は遠くからその光景を見ている気がしたから。
でもこの光景は、夢だろうなと思うと同時に、夢であるはずがないと確信している自分もいる。
遠野さんの抱え込む小さな光が、消えた。
じゃあ、なんでわたしはこんな光景を見ているんだろう。
遠野さんの抱え込む羽根のかけらが、消えた。
ああ……そっか。
わかった気がした。
そのかけらは、わたしの一部分なんだ。
わたし――神尾観鈴という肉体の一部分なんだなって。
そう思ったら、納得した。
翼の少女が、目を覚ました。
そして私も、目を覚ました。
「気づいたか、観鈴」
閉じられていた観鈴の瞼が、ゆっくりと開かれた。
「……あれ、わたし」
「寝てたんだ」
観鈴がベッドから上体を起こそうとして、しかし身体はうんともすんとも言わないようで、困ったようにこちらを見る。
国崎往人は、はだけた毛布をかけ直してやり、
「無理するな。寝てろ」
ぶっきらぼうに言って、そのまま観鈴の顔を注意深く見た。ぼんやりとして、瞳はふわふわと浮いているようで、まだ夢の中といった感じだ。
「えっと……ここは」
「診療所だ。大変だったぞ、二人も運ぶの」
集落を海岸沿いに歩いて、さっきようやくたどり着いたところだった。
その間、ほかの誰とも出会わなかった。運がよかったのだろう。もしあの槍を持った女(名前はなんて言ったか……)が現れでもしたら、三人一緒に串刺しにされていたかもしれない。こっちは人ふたりも担いでいたのだ、逃げ切れるわけもない。
とにかくあの女とは、もう二度と出会いたくはなかった。恨みはあるが、その恨みを晴らそうなんて気はさらさらない。そこまで俺は律儀じゃあない。
「往人さん……あの人は?」
疲労で凝り固まっている肩を回していると、観鈴が思いついたように訊いてきた。
「外に放り投げといた」
「往人さんっ!」
観鈴は上体を起こそうとして、けっきょく身体はぴくりとも動かず、代わりに「むー」と睨んでくる。
「冗談だ。隣にいるだろ」
観鈴は首だけ動かして、隣のベッドに目をやった。海辺で拾った男が眠っている。その顔は青ざめているが、命に別状はないだろう。着ている制服はところどころ擦り切れてはいたが、目立った傷はなかったのだ。
ちなみにその制服は海水でぐっしょりだったが、着替えさすのもめんどうなのでそのまま寝かせつけている。
「ありがと、往人さん」
「なんでおまえが礼を言うんだ」
「あの人のこと助けてくれたから」
「だから、それでなんでおまえが嬉しそうなんだ」
観鈴はにこにこと上機嫌だ。
「だってわたしも運んでくれたし」
「おまえがあのまま行き倒れて飢え死ににでもなったら後味悪いからな」
「わたし、往人さんのことちゃんとわかってるから」
「……おまえ、もう寝てろ」
「うん」
毛布をすっぽりと頭からかぶった。そんな観鈴を横目に、往人はため息をつきながらズボンの後ろポケットに手をやった。
そこには武器として支給された『天使人形』が入っている。乱暴にひっぱり出して、今度は前のポケットに入っているもうひとつの人形を、見た。
『古ぼけた人形』――これは支給されたものとは違う、母から受け継いだ人形だ。
どうも最近、俺はこのふたつの人形をなにかと手にしている気がする。
こういったとき、手持ち無沙汰になったときに、なんというか、いやに気になるというか。こうやって人形を手に持っていたいという気になるというか。
……別に人形鑑賞が趣味ってわけじゃないぞ、俺は。
ただ、なにかこのふたつの人形に、惹かれでもしているような感じ。
といっても人形を弄んでいるだけじゃ時間の浪費と変わらないので、とりあえずふたつの人形を見比べて、どちらで芸をしたほうが子供たちに受けるか……などと試行錯誤していると、腹の虫が鳴った。
……飯でも作るかな。
キッチンの戸棚を覗くと、まるで泥棒が入った後のように綺麗さっぱりとしていた。
出てくるものは、埃だけ。
「……はあ」
いつになったら俺はまともな飯が食えるんだろうな……。いいかげん、我慢の限界だった。
「あ、往人さん」
ベッドのところに戻ると、観鈴が体を起こしていた。
「て、おい。おまえ、だいじょうぶなのか?」
「うん。だいじょうぶになった。女の子のおかげで」
「……誰だそれ」
「小っちゃな女の子」
「だから誰なんだ、それは」
観鈴は嬉しいような困ったような、そんな笑みを浮かべて、ベッドの上に座りなおした。
「ご飯、わたしが作ってあげる」
唐突に言ってくる。
「いらん」
「え、でも往人さん、このままだと飢え死にしちゃう」
「そんな簡単に飢え死にするか」
「でも往人さん、いつでも飢え死にっぽいし」
どういう表現だ。
「いくら飢え死にっぽくても、俺はセミっぽい目玉焼きなんか食いたくない」
「……そんなの作らないよ」
「前に作ったろ」
「作ってない作ってない。あれは単なる事故」
「作ったってことだろそれは……」
「じゃ、また作ってあげる〜」
観鈴は床に足をつけて立ち上がろうとする。
「いいって。それにどうせ材料がない」
「え、そうなの?」
「ああ」
観鈴の眉尻が下がる。本当に残念そうな顔。
「とにかく、おまえ、寝てろ」
「……うん」
しぶしぶと、観鈴はベッドにもぐった。
それを確認してから、また往人は人形を手の平でもてあそぶ。
そうすることが自分の仕事であるかのように。
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