「……なんだ?」

 折原浩平はそうつぶやいて立ち止まった。

 すぐ横手には暗闇に佇む教会が見える。みさきと別れてから当てもなくぶらついて、気づけばこんな時間、こんな場所にたどり着いてしまっていた。

「……なんなんだ?」

 もう一度、浩平はつぶやいた。浩平の制服のズボン、その右のポケットから淡い光が漏れ出しはじめたのだ。ちょうどこの教会を横切ろうとしたときのことだった。

 浩平はおそるおそるズボンのポケットに手を突っ込んだ。そこには鈴がひとつ入っている。丘の草原で七瀬が消えたとき、その手から落としたものだった。それを浩平は拾っていたのだ。

 思った通り、その鈴が光を発しているようだった。顔の近くまで持ってきても、眩しいとは程遠い小さな光。じっと観察してみる。

 表面か内部か、そのどちらが光源なのかさっぱりわからない。浩平は顔を離し、今度は教会のほうへと向けた。

 まばらに立つ針葉樹に囲まれたその教会は、時間帯が夜であることも含め、お化け屋敷と言われたら納得できるほどに薄気味悪い雰囲気を醸していた。浩平は教会の入り口へと足を進め、やっぱりやめようかと思い直し、でもけっきょくお邪魔することにした。

 木造の扉はいやな軋み音を立てて開いた。ごめんくださーい、と声をかけようと思って、中は真っ暗だったのでやめておいた。どうせ無人だろう。

 鈴の光を頼りに浩平は礼拝堂を突っ切っていく。きちんと並んだ長机や椅子、しかし十字架とか彫像とか、教会に付き物だと思われる飾りは見当たらなかった。唯一の飾りといえば、天井近くに張られたステンドグラス。月明かりを気味悪く通り抜けさせていた。

 奥には小部屋があった。どうやらダイニングキッチンらしい。隅っこに毛布がふたつ丸められていて、板張りの床にはなぜか落書きがされてあった。ナベとか電子ジャーとかが書いてある。

 ひょっとしたら島の生徒の誰かがここにいたのかもな……。浩平はこの部屋をあとにした。礼拝堂に出て、するともうひとつ扉を発見した。さっきの部屋の隣部屋らしい。

 興味津々、とはいかないまでもドアノブに手をやった。そのとき浩平は気づいた。鈴が、また変化していた。光量がだんだんと増していた。

 なんだってんだいったい……?

 不気味なことこの上なかった。見た目はなんの変哲もない鈴、けど、もしかしたらこれは何かの武器なんじゃないか? 七瀬に支給された武器か、それとも七瀬が誰かからもらった武器なのか。

 そしてどうやらこの鈴は、この教会に関係しているようだった。鈴の異様な反応がそれを実証している。まさかこの光、人体に有害なんじゃないだろうな……。

 左手でぎゅっと鈴を握り締める。しかし光の放出は止まるわけもなく、指の隙間から漏れ出ていた。

 まあ、なんにせよこんな場所に長居は無用だろう。なら最初から来なきゃよかっただろうにと思いながらも、浩平はこれが最後だと決めて目の前のドアノブをひねった。

 なんなく開いた。室内に身体をすべりこませる。

 意外にも中は暗闇ではなかった。奥のほうでかすかな光が灯っていた。

 すこし足を進ませると、じゃり、と足裏が鳴った。床は地肌になっていた。最初から土足だったので汚れなんかは気にならないが、屋内に砂利の地面とはこれいかに?

 浩平は細かな石を踏みしめながら小さな光に近寄った。途中、なにかをくぐったなと思ったら、それは鳥居のようだった。

 教会の中に鳥居……。この建物を建築した人はかなりの酔狂らしい。しかも光は、こぢんまりした社から漏れ出ていた。

 教会の一部分を切り取ったような場所。まさしくここは神社だった。石段を登って、すると木造の大きな柱に文字が連なっていた。

『司記の杜』

 黒々とした文字で、そう書いてあった。

「しきのもり……」

 たぶんこの神社の名前なのだろう。それとも教会のほうの名前だろうか。浩平はその名前を頭の中で反芻しながら、古ぼけた社に設けられた両開きの扉を押した。

 木造特有の軋み音が響いたあと、その扉は浩平の前に道をつくった。

 そんなに中は広くない。すぐそこに神棚があった。光はそこから届いていた。この神社のご神体だろうか……浩平は誘われるようにして右手を伸ばした。

 そのときはもう、左手に握った鈴が、指を吹き飛ばさんばかりに多量の明かりを放出していた。

 浩平は目の前の光に触れた。光の源は意外にも小さな固体だった。丸くて金属特有の冷たさを伝えるそれは、鈴だった。

 すでに持っていた鈴と、うりふたつの鈴。

 鈴がちりんと音色を奏でた。それは右手のものと左手のもの、いったいどちらの鈴だったのだろう。一瞬、放たれていた光が急激に膨らみ、しかし浩平がまぶしさに顔を背けるよりも早くその光は途絶えた。

 完全な闇があたりを支配した。鈴はもう、明かりの役目を果たしていなかった。振れば音の鳴る、ただそれだけの鈴に戻っていた。

 何度も振ってみるが、やはりちりんちりんと鳴る以外、対になったようなふたつの鈴はなにも反応を示さない。

「まいったな……」

 こんなに真っ暗では帰り道も判別できない。浩平はどうしようかとしばし悩んで、周囲を見回して、幽霊でも出るんじゃないかと身震いして、そのときいきなり地響きがしたもんで飛び上がりそうになった。

 地面が揺れていた。地震だろうか? 規模はそれほどでもない。そして地震はそんなに長く続かなかった。

 浩平は吐息をついて、すぐに知った。あたりはいつのまにか暗闇ではなくなっていた。向こうのほう、ちょうど社の裏手側から、青白い明かりが湧き上がっているのを見た。

 迷うことなく浩平はそこに向かった。なにか危険な香りがしたが、暗闇の真っ只中に突っ立っているよりはマシだろう……そう判断したから。

「……いや」

 それともオレは、誘われているんだろうか?

 ふたつの鈴がオレにそうさせている……そんなことを考えてしまった。そしてその考えは合っているのかもな、と痛感させる光景が社の裏には広がっていた。

 浩平にはそれは洞窟に見えた。それから、岩肌にびっしり付着した苔みたいなものが青白い光の源だとわかった。

 地面にはなにかをひきずったような跡があった。岩戸を開いたような感じだ。ぽっかりと大口を開けて誰かの侵入を待っているようだった。

 もういいかげんにしてくれ、と思った。いいかげん、勘弁して欲しい。さっきから何が起こっているのか。この神社を前にしてから、なにか大がかりな仕掛けでも働いているかのようだった。

 たかが神社で、なんでこんな……。

 普通じゃない。それはここが永遠の世界だからなのだろうか。この奇妙な孤島――永遠の世界、それは浩平にとっては馴染み深い存在だった。それと同時にかすむほどに遠い存在でもあった。

 あのとき、『少女』が言った言葉。永遠。

 たまに見る夢の世界、不思議なところ。

 幻想的でいて、残酷なほどに現実的だった場所。

 オレがこれから先、訪れると考えていた場所。

 そこにはいつでも少女がいる。側に寄り添って、オレにささやきかけている。

 オレはそのとき、なにを思っていたのか……。夢で見た未来の自分、記憶はおぼろではっきりとは思い出せないが、ただ、一心になにかを想っていたことだけはたしか。

 恋焦がれるほどの想いを持って訪れるだろう、そこが、永遠の世界。

 そんな世界が、今、まさしくオレの立っている世界らしい。

 なのに……なのにここは、あまり、そんな世界ではありえないと思っていた。

 だって、ここにはあの少女はいない。切望しているはずの少女にオレは出会っていない。

 だから、ここは、違う。

 なにかが違っている。

 浩平は洞窟の入り口でしばらく棒立ちしていた。中に入る気にはなれなかった。興ざめというか、そんな気持ちがあったから。

 だから――浩平は、無事に済んだのかもしれない。もしこの洞窟の中にすこしでも入っていたなら、浩平はこの世界から消えてしまっていたのかもしれない。

 青白い光に照らされながら、誰かがやって来た。

 それは少女だった。けれど浩平がたったさっき考えていた少女ではなく、その少女より段違いに背が高くて凛々しくて、闇に同化するような黒髪を後ろに垂らしていて、腰に両刃の剣を刺している少女だった。

 ただその顔、冷たくてさびしげな光を灯らせた瞳が、ほんのすこしあの少女に似てるな、と感じた。

「……はやくここから立ち去って」

 彼女がぶっきらぼうに言った。その声で浩平は思い出した、この子、プレハブ小屋の教室でいきなり黒板を真っ二つにした子じゃないか。

「……さっさと立ち去って」

 彼女が剣の柄に手を添えた。浩平は反射的にスタンガン(みさき先輩が落としてったやつ)を手にとろうとして、しかし半ばでやめた。

「わかったって。だから剣、抜くなよ。こっちは戦う気なんかないんだ」

 本心からだ。だいいち、この洞窟がなんなのか彼女に聞きたかったのだ。相手はこの島の管理者、だったら知っているはずだろう。

 が、問いただす雰囲気でもなかった。聞いた途端にぶった斬られそうな雰囲気だ。

「じゃ、そういうことで」

 教会のほうに戻ろう。暗くて進み辛いだろうが、まあ、なんとかなるだろう。

 いいかげん、この薄気味悪い場所にも飽きていた。

「……待って」

 きびすを返そうとしたら、彼女が呼びかけてきた。

「……ここの扉、閉めていって」

「はあ?」

 すっとんきょうな言葉に、つい彼女をまじまじと見てしまう。

「……開けっ放しはよくない」

 彼女は非難の視線をこちらに突き刺していた。開けっ放しって、洞窟の岩戸のことだろうか。それしか考えられないが。

「ていうか、なんでオレが開けたことになってるんだよ」

「……違うの?」

「違う。勝手に開いたんだ」

「…………」

 彼女の視線に鋭さが増した。どうやら信じていないらしい。

「とにかく、オレ行くから」

 浩平は今度こそきびすを返した。制止されると思いきや、彼女のほうも呼びかけてはこなかった。よもや背後から襲いかかってはこないだろうな、とも考え及んだが、背後で足音が遠ざかっていくのを聞いてホッとする。

 振り向くと、もう彼女の姿はなかった。洞窟の奥に戻ったらしい。

 はあ、と一息ついて、その青白い光に照らされた道に瞳を凝らしてみる。

 この洞窟、いったいどこに続いてるんだろうな……。

 ぱっと見てあまり広くはない道がかなりの長さで続いている。そして彼女はその奥に消えていった。

 とすれば、おそらくこの道はプレハブ小屋に続いている。

 覚えておくか。そのうちまた、この場所を訪れるときのために。

 浩平は社を後にした。いまだ握っていた対の鈴を、ズボンのポケットに放りながら。








 大きな三つ編みが左右に揺れている。風が強くなってきたようだ。

 しかしそんなことには頓着せず、里村茜は広い切り株に腰を落としていた。

 ここは森の中。頭上では茂った枝が夜空の明かりを覆い隠している。正面にはたくさんの木々が所狭しと立ち並んでいる。そのはずだけれど、澄み渡った暗闇が茜の瞳になんの存在をも映すことを許さない。

 なにもない空間を、茜はぼんやりと眺め続けていた。詩子と別れてから森をやみくもに走って、疲労で足が鈍って、倒れこむようにこの切り株にすがりついて、それからずっと。

 ずっとこうして座っていた。

 なにもやる気が起きなかった。そう、ちょうど学校のテストの前夜みたいな心境だった。やらなきゃならないことは何であるかわかっているのに、どうしてもそれができない。焦れば焦るほど、反比例するようにやる気が削がれていく。

 気持ちと行動、心と身体がうまくかみ合わない……いや。逆に、心と身体が、うまくかみ合っているからこそなのかもしれない。

 私、勉強って嫌いですから。もちろんテストだって嫌い。テストなんてやりたくない。

 だから私はこんな気持ちでいる。テストなんてやりたくないから、勉強をしなきゃいけないってわかっててもできないんだ。

 だったら、私は。たぶんだけど、このゲームに乗ったことを後悔しているんだろう。

 自分の胸に風穴が開いてしまったような感覚だった。

 でも私は、もう後戻りできないんです。あのとき詩子を見捨てた時点で、私の行くべき道は決まってしまったから。

 詩子はみさきさんからちゃんと逃げれたかな。だいじょうぶ、ちゃっかりしてる詩子なら、きっと逃げ出せたはず。

 茜は大きく吐息をついた。詩子の無事を願って、でも、自分は詩子ともう一度出会ったなら、きっと詩子を攻撃する。

 澪にしたのと同じように。

 私は、もう後戻りできないから……。

 茜はまた、大きく息をついた。

 後戻りできない。その確認の言葉さえも空しく脳に響くだけで。

 すべての感覚が、まるで第三者の視点で見ているかのように遠く感じられて。

 すべての風景が、まるで絵空事のようで……。

 もう、私は。なんのために戦っていたのか。

「司……」

 その呟きさえもむなしく、遠い言葉のように感じられた。

 すべての感覚、風景、心が希薄に感じられた。薄くて薄くて、むなしくて、最初からなにも無かったみたいだった。むなしいと感じる心さえも希薄だった。

 これが、『忘れる』っていうことなのかな……。

「司……」

 忘れちゃいけないのに、忘れちゃいけないのに。

 忘れたりなんかしたら、たったひとつの行くべき道さえも、なにもなくなってしまいそうだから。

 道がなくなったら私は立ち止まるしかない。立ち止まったりなんかしたら、私は、また以前と同じようになってしまう。

 私という人間が、また、誰も来ない空き地で延々と待ち続ける私になってしまう。

 そんな私に逆戻りしてしまう。

 そんなのは嫌だった。

 ぜったいに嫌だった。

「……ふふ」

 茜はかすかに笑った。そうすると、なんだかすこし安心できた。

 なんだ、私、まだ忘れてなかったんだ。この『嫌』って気持ちは忘れてなんかいなかった。忘れようとしてもできそうにない、私の身体にしっかりと刻み込まれた気持ちだったんだ。

 茜はゆっくりと立ち上がった。

 私の道はまだ生きていた。

 ――嫌だ、いやだ、イヤダ。

 茜は暗闇に身をゆだねるように森を歩きはじめた。

 私はやっぱり優柔不断で、またそのうちこんなふうに迷ったりするんだろうけど、でも大丈夫。私にはなんの迷いもなくすがりつくことのできる、たしかな意志があったから。

 ――嫌だ、いやだ、イヤダ。

 この気持ちがある限り、私はまだ戦える。

 そして茜の瞳には、ようやく暗闇以外のものが映っていた。どこか遠くで火事みたいな大きな明かりが揺れていたのだ。

 立ち止まり、茜は髪を押さえた。さきほどからの強い風は、その方角から吹いてくるようだった。

「…………」

 スカートがはためき、三つ編みがゆらゆらと揺れる。

 茜の足がまた動き出す。吹き荒ぶ向かい風を、全身で、正面から浴びながら足を前に押し出した。

 後ろに流される三つ編みを結ぶ髪留めが、そのとき、ぷつんと切れた。茜の長髪が流れ、広がり、ふわりと宙を舞う。

 その姿はまるで、一昔前の、三つ編みをしていなかった自分の姿のようだった。

 ちょうど、司と別れた頃のような。








 中天に高く、月がかかっていた。雲がまったくない。

 今日は満月。だからどうしたというわけではないのだが、相沢祐一には印象的だった。それはひさしぶりに外の空気を吸ったから、そういえば今日は初めて外に出たんだな、どうせなら昼のうちに太陽でも拝んでおけばよかったとなんとなく思う。

 といっても、戦火の真っ只中みたいなこの状況、夜だからこそこうして外に出られるとも言えるのだが。

「名雪、大丈夫か?」

「……うん。だいじょうぶ」

 肩を貸している名雪が、にこっとほほえんで答えた。しかし腕から伝わる体温はまだ熱くて、身体もふらついているように見えた。

 先を歩いていた葉子が立ち止まってこちらに振り向いた。視線で何かを訴えてくる。これからどこに向かいますか、と。

 祐一たちは診療所を出て森沿いを南に下っていた。本当ならまだベッドで名雪を休ませておきたかったのだが、それは危険だと葉子が提言し、それに祐一も同意したのだ。

 なぜなら診療所のすぐ近く、漁業組合の建物がいきなり爆発を起こしたのだ。ものすごい爆音、爆風が古ぼけた診療所を激しく揺らせた。天井が落ちてくるんじゃないかと心配するくらいに。

 そして、誰かが戦っていることは明白だった。このまま診療所に留まっていたら巻き添えを食らうかもしれない、そう思い当たるのにさほど時間はかからなかった。

 だから、目を覚ましたばかりの名雪に無理をさせて祐一たちは外に出た。急なことで行き先を決めもせず、いくばくかの食料と飲料を携帯して。

「これからどうしますか?」

 葉子が今度は言葉にして訊いてきた。

「どこかの家にまた落ち着くわけにいかないか?」

 ここらへんは集落なので住宅が数は少ないが建っている。自分らは漁業組合から(そこを襲った誰かから)離れるために移動したわけで、だったらもっと南の砂浜付近の住宅に避難すればいい気がする。

「家ですか……」

 葉子は歯切れ悪く言って、

「あまりよくはありませんね。このゲームが始まって今日で三日目、もうすこしで四日目です。そろそろみなさんの食料が尽きる頃でしょう。補給をしに集落に入ってくる人が多くなるはずです」

 たしかにそれは考えられることだ。祐一はすぐそばにある名雪の顔をちらと見て、

「でもな……」

「わたしなら平気だから」

 祐一の言葉を遮って、名雪は言った。

「外だって、ぜんぜん平気」

 葉子はふっと笑って、手に持っていた地図を広げた。月明かりに透かして見る。それから黙って森沿いを見渡した。どこに向かうのが最善か模索しているんだろう。

「森を迂回して島の西側に出ましょう」

 どうやら決まったようだ。葉子は続けて、

「このゲームでやる気になっている人が普通とる作戦は、なにか騒ぎが起きたのを聞きつけてそこへ顔を出すことです。近い場所ならそこへ行って、もし戦闘が始まっていたら、様子を見て、それから奇襲をかける。だから私たちはあまり誰にも出くわさないところにいたほうが無難です。もし誰かに出くわして揉めたら、次にはやる気になった人が出てきますから」

「これから向かうところって、誰もいないのか?」

「丘しかない集落の反対側なら人気はなさそうです。もちろん絶対とは言い切れませんが、前に私たちが森を抜けて島の西端に着いたときは誰もいなかったですし」

 葉子は歩き出した。森沿いを離れ、集落のほうに広がる平地を進んでいく。祐一は肩をちょっと動かして名雪を支え直した。

「なあ葉子さん。平地を移動して大丈夫か?」

 以前、葉子は遮蔽物のなにもない平地を進むのは危険だと言っていたはずだ。

 葉子はちらっと振り返って首を振った。

「昼間とは違いますからね。いくら月が明るいといっても。いえ、むしろ、今は森の中を進むより安全なくらいです」

「なんでだ?」

 遮蔽物のある森の中のほうが安全だろうに。

「……暗いと、見えないからですよ」

 葉子が顔をしかめて言った。悔しそうに、と表現できそうな顔だ。

「見えないって、なにが?」

 訊くと、葉子はますます顔をしかめて、なにか言おうとしたんだろう、口を開きかけた。

「…………」

 が、言葉の代わりに、葉子はぐっと喉を詰まらせていた。そして搾り出すようにして今度こそ口を開いた。

「噂をすれば……というやつでしょうか」

 自嘲気味に唇をゆがめて、次の瞬間には葉子は叫んでいた。

「走って!」

 どごん、と咆哮が上がった。葉子が不可視の力を放ったのだ。ちょうど祐一たちが歩いてきた先、森沿いのほうへ向けて。

「今のうちにはやく!」

 条件反射で祐一は森の逆方向に駆け出そうとして、すぐに名雪の存在に気づいた。名雪の足取りは鈍く、しかも肩を貸している体勢ではとてもじゃないが走れない。

 どんどんどん! と背後で空気が振動する。祐一はどうしようかと名雪を見て、次に葉子のほうへと振り返った。

 後ろに下がりながら葉子が空気の塊を連射している。森の境目に並ぶ木立が弾け、砕かれ、霧散し、それから……

「……なんだ?」

 それらの光景が妙だった。祐一は目をこすって、じっと瞳を凝らし、それでもやはり森の風景はなにか変だった。

 見えにくい、そう、森がぼやけて見えていた。暗闇のせいか? だが今日は満月、降り注ぐ月明かりは自分たちにじゅうぶんな光源を与えてくれている。

 なのに森周辺がどす黒く、なにかが漂っているような、これは、そうだ、どこかで見た覚えが――

「――霧」

 名雪がつぶやいた。つぶやいたときには、祐一も悟っていた。

「急いで!」

 そして葉子が叫んだときには祐一は名雪の腕を自分の首に回していた。名雪の「わ。なにするの」という非難は無視してその熱っぽい身体を背負い、葉子が空気の弾を乱射するのを背に駆けていた。

 祐一の身体に、まとわりつくように長い霧の手が伸びようとしていた。

「葉子さんもはやく来い!」

「私はここで足止めします!」

「なにバカ言ってんだっ!」

「な、バカとはなんですかバカとはっ!」

「いいからはやく来いよっ!」

 見れば葉子の姿さえもう霞んで見えていた。霧が葉子の身体を中心に囲い込むように、まるで結界でも張るかのように葉子の姿を覆い隠そうとする。

 霧が閉じる――そう思って祐一が来た道を戻ろうとしたとき、葉子は後ろに跳躍した。まさに危機一髪、葉子は地を滑りながら祐一の元にたどり着き、霧がそれを追おうとまたその手を伸ばしてくる。

「まだいたんですか二人とも」

 あきれた声で葉子が言った。

「このままだと三人一緒に閉じ込められますよ……」

 ますます色を濃くした霧が、もう目の前まで迫ってきていた。祐一の背中にもたれかかる名雪が、ぎゅっと肩をつかんできた。

「葉子さん。百メートル走のタイムは?」

 祐一がそう言うと、すこしの沈黙のあと、なに言ってるんですかこんなときに余裕ですね祐一さん、といった目で見返した葉子は、

「四秒です」

 答えた。世界新どころじゃないタイムだった。

「まじめに答えてくれ」

「まじめに四秒です」

 きっぱりと答えられた。

「なら、名雪を頼んだ」

 祐一は背中から名雪を降ろした。心配げな顔をする名雪に、葉子が寄り添いながら「どうするんです?」と訊いてくる。

 霧はもう自分らの周りを取り囲みはじめるところだった。一刻の猶予もない。

「二手に別れるぞ!」

 祐一は漂う霧の隙間を見定めて突っ込んだ。葉子はすこし躊躇してから、合点がいったのだろう、名雪を抱きかかえて(お姫様抱っこだった)、すぐに祐一のあとを追った。

 霧から抜け出て、葉子と顔を見合わせる。

「祐一さん、さっき言った場所です。島の西端の丘」

「ああ」

「そこでまた会いましょう」

 祐一は一瞬の判断で北のほうへと駆けようとして、

「だ、だめだよそんなのっ!」

 名雪の声に足が鈍った。しかし祐一は振り返らずに突き進んだ。

「祐一――――っ!」

 その名雪の呼び声も尻すぼみに消えていった。葉子がこちらとは反対側、南のほうへと走り去ったためだろう。祐一もスピードをゆるめずに走り続ける。

 ――誰だか知らないが、やる気満々みたいだな。

 祐一は走り続ける。

 ――なら、俺を追って来いよ。

 すこしでもあの霧から名雪と葉子を引き離したかった。首だけ回して後ろを見ると、霧はすでに霧散して消えかかっていた。相手は俺たちを追うのを諦めたのか? けれどそれは間違っていたとただちに気づく。

 霧は森付近、祐一の左側に漂っていた。祐一は海沿いをダッシュする。霧がすべるように自分を追走してくる。

 ――そうだ、それでいい。俺を追って来いよ。

 でも、できれば、最後までは追ってきて欲しくないなと思いながら、そのとき祐一の視界に燃え盛る建物がひっかかった。漁業組合だ。

 霧が炎にあおられて右往左往し出した。祐一はかまわず漁業組合を左に見ながら直進した。逃げ切れる、このまま行けば!

 祐一は急停止した。はっはっ、と荒く呼吸して、前方を見すえた。

 行く道に人影があった。炎から巻き上がる強風に棚引く長髪、綺麗な金色、手には、かわいらしいピンクの傘。

「……あなたにふさわしいソイルは決まりました」

 祐一は身をひるがえした。

「紡がれるにつれ遠ざかる言葉、イヤーズ・ホワイト」

 来た道を一目散に駆ける。やる気になっている誰か、あの子がそうなのか? 浩平という男が探しているという、その片方の子か?

 彼女から発せられるどす黒い霧はうねりながら炎を避け、海上から追走してきた。その逆側、森からも迫ってきていた。

 祐一は走った。走って走って、どれだけ走ったかわからない。誰か闇に息を潜めている別のやつに狙われるかもしれないなんてことは、もはや考慮していなかった。とにかく、どこでもいい、ここじゃない場所、霧から距離をとるしかない。

 なのに霧は遠ざかるばかりか、いたるところから追ってきていて、もう、どう逃げればいいかわからない。右に行ったり、左に行ったり、また戻ったり、霧が視界を悪くし、ここがどこかもわからなくなっていた。

「結ばれるにつれ手放す絆、ストリング・レッド」

 気づけば、祐一は完全に霧に囲まれていた。そびえ立つ霧はバリケードのように固く、いくら叩いても道は開きそうにない。

「そして……たゆたうにつれさかのぼる時間、フェザーズ・ピンク」

 髪をゆらゆらと揺らす彼女が、遠くのほうからやって来ていて、回転する傘をこちらに突き出していた。

 なんなんだあれは。武器、なのか? なんか凄そうだぞ? 俺の武器はやかんのフタなんだぞ? 祐一はあとずさった。じりじりと、わずかでも彼女から距離を離す。

 すると、右の足先がじっとりと濡れた。凍るような冷たさが踵から昇ってくる。

 背後には霧の壁と、その下に海が広がっていた。

「忘却せよ……召喚獣、ラ・ビット・鈴木!」

 彼女が叫んだ。うつむいてちょっと照れた感じで。直後にふさふさしてそうな強大なウサギのぬいぐるみが現れ、それを目の端に捕らえながら祐一は飛んでいた。

 海に向かって、頭から突入した。

 祐一はがむしゃらに水を掻いた。口がしょっぱかった。たしかにこの水は海水だった。島はたしかに海に囲まれていた。

 酸素を求めて口が開閉する。だが今はまだ顔を出すわけにはいかなかった。霧の壁を水中から潜り抜け、それでもまだ祐一は泳ぎ続けた。

 俺は名雪と葉子さんのところに戻らなきゃいけないんだ、俺は名雪を守らなきゃいけないんだ、俺はさっきの子みたいに強い武器もないし葉子さんみたいに超能力が使えるわけじゃない、でも俺は――――

 繰り返しながら、祐一はひたすらに泳ぎ続けていった。いったいどこに向かっているのか、そんなことは誰も知らない。

 傘を持った彼女にもウサギのぬいぐるみにも。

 もちろん、祐一自身さえも。




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