侵入者の姿はいまだ見えない。本当はそんなやついないんじゃないかと疑問が首をもたげてくる。

 それほどに長い時間、川澄舞は延々と続く洞窟を歩いていた。

 欲を言えば走りたかったのだが、ごつごつと尖った岩肌はぬるりと湿っていて慎重にならざるを得なかった。転んだりしたらむちゃくちゃ痛いのは目に見えている。

 ……でも、私はそんなにドンくさくないけど。

 それでも走ることをしなかったのは、侵入者なんてやっぱりいないのだろうと思っているわけではなく、ほかに気になる点があったから。

 自分は今、島の地下にいると、舞は知っていた。

 この長い洞窟は島の真下を通っている。地図上から考えればそれは当然で、方向的にプレハブ小屋から北へ向かっていることも舞は知っていた。

 そしてこの道がすこしずつ上向いていることも。

 おそらく、もう島のどこかに出る頃合だ。

 具体的にどこらへんに出るのかまでは知らないが、海ではないことを舞は確信していた。自分が島すらも越えて北上しているとは考えにくい。この洞窟は長い道程とは裏腹にくねくねと曲がっていて、距離的にはほとんど進んでいなかったのだ。

「…………」

 舞は立ち止まった。考え事をしていたせいであやうく見落とすところだった。

 かすかではあるが、前方に人の気配を察した。

 薄ぼんやりとした明かりだけで、相手の顔は見えない。

 けれど侵入者はたしかにいた。

 舞は臨戦態勢に入った。腰に下げていた両刃の剣に右手を添え、いつでも魔物を呼び出せるよう気を集中させる。

 侵入者は動く気配を見せない。

 けっきょく……舞が気になっていた点とは、なんでこんな洞窟が存在しているのかということ。この洞窟は、島とプレハブ小屋をつないでいるのだ。それはつまり、小屋に結界を張ったとしても、この道を使われて侵入を許してしまうということ。

 侵入者は、ここから侵入を果たした可能性が高い。

 舞にはわからなかった。なぜこんな道を、佐祐理は放っておくの……?

「……誰、ですか」

 声が届いた。相手はゆっくりとこちらに近寄ってきた。お互い、顔が確認できるくらいの距離になって、相手は立ち止まった。

 自分と同じ制服を着ていて、赤紫の髪をした女子生徒だった。

「あなた、ゲームの管理者ですね」

 その声は平淡としていて、特にこちらに対して驚くとか恐怖するとかいった様子はなかった。意外に思ってしまう。

「……そう。だから、あなたを討つ」

 舞は剣を抜いた。そのまま剣先を相手に突き出す。

「なぜ、でしょうか」

 その声はやはり平淡としていて、やや拍子抜けしてしまう。舞はすこし迷って、剣を下に降ろした。

「……佐祐理に危害を加えるやつは許さない。だから、討つ」

「私は、そんなつもりは毛頭ありませんよ」

「……うそ。なら、どうして侵入したの」

「侵入などしていません」

「……じゃあ、なんでここにいるの」

「私のほうこそ聞きたいくらいです」

 誤魔化そうとしているのだろうか。それにしては焦った感じもなにも見受けられない。

「……もう一度訊く。どうやって侵入したの。外からは入れないはずなのに」

 これは確認でもあった。この道がどこに通じているのかを確かめるための。

「そうなのですか?」

 このとき、相手の無表情に初めて感情が表れた。驚きの表情だった。

「あの小屋に外からは入れないのですか?」

「……答える義理はない」

 もう答えてしまったあとのようにも感じたが、舞は気にしないでおいた。

 不意に彼女が、思案げにうつむいた。指先であごをなぞったりして、そのままずっと黙している。

「……あなた、この洞窟から侵入したんじゃないの」

 訊くが、相手は反応を示さない。舞は再び剣の柄を固く握り締めた。

「待ってください」

 こちらの剣呑な雰囲気に気づいたのか、ようやく彼女は顔を上げた。

「あなたはゲームの管理者でしょう? 公平な立場に立つべき役割でしょう? ならばゲームの参加者を倒すのは、問題があると思いますが」

「……勘違いしないで」

 ひゅん、と相手の首筋に剣を当てた。

「……私は、ただ、佐祐理を守りたいだけ。そのためだけに働いてる」

 彼女の顔が、いくぶん蒼白になった。

「……佐祐理に仇なすものは、誰であろうと、斬る」

「ひとつ質問があります」

 こちらの気勢を削ぐようにして彼女が言った。

「この道はなんのためにあるのですか?」

「……知らない」

「では私の話をすこし聞いてもらえますか」

 彼女は数歩後ろに下がった。首筋に当てられた剣をよけるようにして。だが、舞は彼女を追わなかった。そんな必要もない。

 この距離なら、いつでも殺れる。

「おそらくこの場所は島のどこかです。つまり、この洞窟は地下からプレハブ小屋と島をつないでいることになります」

 彼女が語りはじめていた。

「最初、私はこの洞窟を非常路だと考えていました。もし小屋が襲撃にあったとき、外へと逃げ出せるように。けれど、理由は知りませんが、外からの侵入が不可能なのだとすると、この道は非常路ではあり得ない」

 その口調は慇懃で、いやに説得力があるふうに聞こえる。

「それに、もうひとつ腑に落ちない点があります。小屋と洞窟の境目に設けられた扉。そこが、なぜ開いていたのか。いとも簡単に開いてしまったのか」

 それは舞も疑問だった。鍵くらいつけておくのが普通だろうに。

「単に無用心なのか、それとも最初から鍵など必要なかったのか」

 無用心だとしたら、佐祐理の呑気さも度が過ぎる。侵入者に襲撃してくださいと言わんばかりだ。

「……あなたはどっちだと思うの」

 つい訊いてしまった。不覚にも気になってしまったから。

「私は、どちらとも取れると考えています」

 彼女が、すっと瞳を細くして、言った。

「この道はあなた方のために設けられたものではなく、私たちのために設けられたものなのではないでしょうか?」

「…………」

「この道を設けた人は、あなた方、つまりゲームの主催者側のうちの誰か。その誰かは、私たちの侵入を拒んでおきながら、同時に許している」

 そして彼女は細い瞳で舞を射る。

「その方は、このゲームに対し大きな迷いを持っている」

「…………」

「あなたの無表情に、ようやく感情が出ましたね」

 くすりと笑って、続けた。

「あなたの顔、ホッとしたように私には見えましたよ」

「…………」

 舞は剣を振るった。

 音のない斬撃――その軌道は正確に相手の急所を貫いていた。彼女は、一度両目を見開いてからゆっくりと前かがみに倒れた。

「……不意打ちとは、卑怯ですね」

 舞は答えなかった。ただ彼女を見下ろしている。

 地に顔をつけたまま、彼女が言った。

「……でも、許してあげます。その代わり、もうすこし、私の話を聞いてくれませんか」

 その顔は苦しげだったが、穏やかなようにも舞には見えた。

「私は……すこしは、変えることができたでしょうか。私は、すこしは、このどうしようもない状況を、変えることができたのでしょうか……」

 その言葉の意味が舞にはわからなくて、だからなにも答えなかった。

「すこしは……みなさんの……お役に」

 そこで彼女は口を閉ざした。

「……私は、佐祐理を泣かすやつは許さない」

 舞は答えた。

 その答えは、もう微動だにしない彼女に対して言った言葉というよりも、自分自身に対して言った言葉のようだった。

 ……私は、誰であろうと、どんな事情を持つ者だろうと、最初から許すつもりなんてなかった。

 言い訳だろうか。でも私は、簡単に自分の意志を曲げられるほど器用じゃない。

 そんな性格だったら、私は、何年も夜の学校で魔物と戦ってたりなんかしなかった。

「…………」

 舞は剣を納めた。倒れ伏す彼女を素通りしようとして、そのとき気づいた。

 なにかが落ちている。拾ってみると、それは指輪だった。

 薔薇の刻印が施された指輪。彼女の武器だろうか?

 それを制服のポケットにしまってから、舞は洞窟の奥へと足を踏み出した。佐祐理のもとに帰る前に、この洞窟がどこに続いているのかを確かめておきたかった。

「…………」

 その考えはあっさりと否定された。十歩も進まないうちに舞の足は止まっていた。

 そして振り向く。透明色に侵されていく彼女を見る。

 あの子は、侵入者じゃなかったの……?

 道は、岩によって完全に閉ざされていた。








 ……也! ……柳也!

「……ん」

「柳也っ!」

 重いまぶたをこじ開けると、神奈の顔のドアップがあった。

「死んだら許さぬぞ柳也!」

「……いきなり不吉なことを言うな」

 どうやら気づかぬうちに眠っていたらしい。柳也は焦点の合わない瞳で眼前の神奈を見た。涙ぐんでいて、今にもせきを切って泣き出しそうだ。

 柳也は神奈の頭をぽんぽんと叩きながら、さっとあたりを見回した。

 場所は……見覚えのある広い部屋、漁業組合の建物。そうだった、自分は神奈を連れて森を抜け、ほうほうのていでこの建物に辿り着いたのだった。

 ここまでは厳しい道のりだった。それもそのはず、あの広い森を横断したことになるのだから。それもすべては、あの黒髪の少女からできうる限り離れるため。神奈を安全な場所まで連れて行こうとした結果だった。

 柳也は壁に背をあずけてあぐらをかいている。入り口のほうを見ると、海の風景は紫紺の色で覆われていた。もう陽が落ちている。

 けっこうな時間、こうしていたようだ。

 柳也は立ち上がろうと腰を浮かせて、そのとき全身に鋭い痛みが駆け巡った。顔をしかめてまた腰を壁につけた。

「重症なのだから、動くでない」

 神奈が心配そうに言った。その姿はもう半裸ではなく、ところどころほつれた衣を一枚、羽織っていた。柳也が着ていたものだ。代わりに柳也の上半身は包帯でぐるぐる巻きだ。

 この建物には救急箱が置いてあったが、全身に浮かぶ切り傷や擦り傷は数えきれぬほどあって、とてもじゃないが治療しきれなかった。それでも治療をやめようとしない神奈を制するのには苦労したなと、柳也は苦笑した。

 一番の大きな傷、巨大仔猫の牙にえぐられた右肩から右腕にかけては、すでに感覚がない。湯水のように溢れ出る血はまったく止まる気配を見せていない。

 どう治療しようとも、右腕はもう使いものにはならないだろう。

「神奈。頼みがある」

 意を決して柳也は言った。

「今すぐここを離れろ」

「……なにを言っておる」

 理解不能といった感じだ。

「足手まといはいらない、と言っている」

「…………」

「おまえは邪魔だ。だからどこか行ってくれ。どこでもいい、とにかくここを離れろ」

 神奈はぽかんとして、それから沸騰したように顔を赤くした。

「お主のほうがよっぽど足手まといであろうがっ!」

 ぺし! と肩を叩かれた。あまりの痛さに気が飛びそうになった。

「お、おまえ、もっと加減しろよ……」

「お主がふざけたことをぬかすからじゃ」

 そっぽを向いてむくれてしまった。柳也は苦笑して、

「わかった、なら、助けを呼んできてくれ」

「……助け?」

「ああ。そうだな、灯台に行って誰か呼んできてくれ」

「灯台ならお主も余と一緒に行けばよかろう」

「無理だ。もう動けそうにない」

 現に森を横断するのにほとんどの体力を消費していた。神奈はハッとして、また涙ぐんだ。

 いつからだったろうな……と柳也は思った。神奈がこんなに泣き虫になってしまったのは。初対面のときはあんなに偉そうで生意気な子供だったのに。

「とにかく頼む。もう死にそうだ、俺」

「な、なにを弱気になっておるっ!」

「わかったわかった、だから叫ぶな。傷に響く」

 神奈はぐっと上唇を噛み締めて、立ち上がった。もう一刻の猶予もないといった様子できびすを返した。

「……神奈。ちょっと待った」

 言って、柳也は脇に置いてあったお手玉を一個、手に取った。

「これを持っていけ。いちおう護身のためだ」

 お手玉型手榴弾。裏葉はそう呼んでいた。多量の火薬を詰めて改造した、今となっては裏葉の形見のようなもの。

「使い方はわかるか?」

「……裏葉が教えてくれた」

「そうだったな」

 手渡すと、神奈はそれをぎゅっと握って、今度こそ立ち去った。

 裏葉が教えてくれた、か。神奈もようやくお手玉がうまくなったのだろうか。だとしたら、もし神奈の母に出会えたなら、お披露目できるかもしれないな。

 さて、と。柳也は全身を蝕む痛みに耐えながら立ち上がった。三つあったお手玉の残り二つを握り締めながら。

 神奈はこの漁業組合を離れた。なら、俺もそろそろ準備をしよう。柳也は足をひきずるようにして出入り口に向かった。その扉などついていない吹き抜けの出入り口にようやく辿り着き、付近の壁に背中をやって息を潜める。

 いつ誰がこの建物に近づいても、すぐに気づくことができるように。

 柳也は確信していた。この建物には必ずあいつがやって来る。黒髪のあいつ、俺をいとも簡単にあしらってくれたあいつ。槍で俺に傷を負わせたあいつ。

 俺の流した血を辿って、必ずあいつはやって来る。

「……はあっ」

 柳也は大きく息をついた。身体じゅうが焼けるように熱い。あまり長い時間、こうやって立っていられそうもない。気を抜くとすぐにでも意識を失いそうだ。

 ――早く来い、早く来い、早く来い。

 お手玉を握り締める手に力が入る。

 これは障害だ。とてつもなく大きな障害、この島から抜け出すための、そして神奈を母の元に連れて行くための、必ず通らねばならない砦なのだ。

 一度、俺はその砦に屈した。俺は、俺の意志があいつの意志に屈服したと考えた。

 この障害は、乗り越えることがとても難しい。

「……はは」

 まったく。なにを今さら自分は考えているのか。こんなことでは裏葉に笑われる。

 障害は、乗り越えることが難しいからこそ障害。

 そんなことは最初からわかっていたことだった。

 これくらいのことで諦めるのなら、俺は最初から神奈につきあってはいなかった。

 ――早く来い、早く来い、早く来い。

 もう一度、お手玉を力強く握った。

 お手玉は全部で三つあった。そのうちの二つを柳也は持っている。

 俺の分と、裏葉の分。神奈の分は、ちゃんと神奈に託した。

 神奈。おまえはそれを好きなように使え。自分の身を守るためでも、敵の根城を吹っ飛ばすことでも、それ以外でもかまわない。

 でも、俺たち二人のお手玉は、今、この場で使う。

 俺たち二人のお手玉はあいつにくれてやる。

 だから、はやく来い。

 はやく、俺の命が燃え尽きる前に。

「…………」

 柳也の顔が、凄絶な笑みをかたどった。

 その音は本当に小さかった。護衛役に慣れている柳也だからこそ聞き取れた足音、わずかずつこちらに近づいていた。

 ――早く来い、早く来い、早く来い。

 足音は確実にこちらに向かっていた。もうほんのすぐそこ、視界の隅から黒い影が入ってきていた。背丈、肩幅、姿かたちはあの黒髪の少女と完全に一致した。

 その背には鉄製の槍。間違いない、あいつだ。

 彼女は漁業組合の出入り口を通り抜けた。同時に柳也は身を潜めていた壁から外へと飛び出した。彼女と入れ替わるようにして。

 お手玉を握った手を、振りかぶった。

 もちろん、そうだ。このお手玉は望みだった。自分たちが島を抜け出るため、佐祐理という娘を倒すための望みだった。

 だが、俺は傷つき、今さら敵の根城に襲撃をかけることはできない。結界を破るため往人と観鈴を探すことはできない。

 ならば、せめて――――

 一瞬、彼女の視線がこちらに向き、そのときにはもう柳也は駆け、飛んでいた。

「――俺からの贈り物だ!」

 お手玉を投げ放った。

 柳也の背後で漁業組合の壁がぐうっと膨らみ、そして島を覆う夜の空気を轟音が揺るがせた。耳が麻痺し、伏せた身体が爆風で地面をこすり、周りをなにかの破片やら屑やらが吹き過ぎた。

 しかしそれでも、柳也がそくざに顔を振り向かせたとき、本来漁業組合の建物があった場所は、もうその姿かたちを残していなかった。もうもうと噴き上がる煙、ごうごうと燃え上がる炎。さらさらと、空から細片が降っていた。

 そう、裏葉お手製のお手玉は、実によくできていたのだった。この破壊力なら間違いなく、あのプレハブ小屋を消し去ることもできたに違いなかった。

 だがそれももう、済んだこと。柳也はようやく身体を起こし、すぐに地に膝をついた。全身が鉛のように重かった。それでも柳也はふたたび身体を起こそうとして――

 柳也は見た。

 自分のすぐ横に人影があった。

 そいつはたしかに今、建物と一緒に吹っ飛ばされたはずのあいつ、背中に槍をしょった黒髪の少女だった。

 おい――

 柳也は笑い出したくなった。いや、実際に柳也の唇は笑みのかたちをとっていたのかもしれない。

 ――冗談だろ?

 そのときにはもう、彼女は槍を振りかぶっていた。夜空に浮かぶ月がその刃を妖しく照らし、そして煌いた。

 俺はまた、こいつに負けたのか。俺は、また……。

 しかし槍の切っ先は柳也には届かなかった。

 彼女の頭上でぴたと止まった切っ先を目で追って、すると、なにかが夜空に浮かんでいた。

 月を背にしたそれは、人のように柳也には映った。

 もうなにがなんだかわからない――それは急激に下降して黒髪の少女に襲いかかった。彼女は背後へと槍を横薙ぎにしていた。がぎ、と鈍い音が鳴って、彼女とは別の誰かが弾き飛ばされた。

 横に吹き飛ぶ誰か――月明かりを反射する両の翼を生やした人影、神奈だった。

 神奈は霧がかかった海へと落下した。遠くから水音がいくぶん耳に伝わり、黒髪の少女はそれを追おうと足を踏み出した。

「……待てよ」

 這ったまま、柳也は彼女の足をつかんだ。海の向こうを眺めながら。

 神奈、おまえ、なに戻ってきてるんだよ。ちゃんと灯台行ったのか? 助けを呼びに行ったのか? それにしては早過ぎるだろ。

 おまえは本当に、いつもいつも、自分勝手でわがままで。人の言うことなんかちっとも聞かなくて――

 彼女が槍を突き刺した。柳也の背中に深々と突き立っていた。どう見ても致命傷だった。柳也はにやりと笑って、それはそうしたつもりでしかなかったが、明確に笑みのかたちをつくっていた。

「……贈り物はな、まだ、残ってるんだよ」

 そして最後の一個、お手玉を、柳也は投じた。

 さきほどと同一の轟音が、星々のかなたまで爆ぜた。








 水瀬名雪は目を覚ました。なにか大きな音が聞こえた気がしたのだ。

 まぶたを開けると天井にかかった蛍光灯が視界に入り、まぶしさに目を背けてから自分がベッドに寝ていることに気づいた。どうしてベッドなんかに寝ているのかと疑問に思って、すぐにどうして疑問になんか思ったのかと、ちょっぴり笑った。

 そっか、わたし、熱で倒れたんだっけ……。

 ということは、ここは診療所のはずだ。祐一がわたしを背負って運んでくれたんだ。横になったまま目だけで祐一の姿を探すが、見つからなかった。

 わたし、どれくらいの時間寝てたんだろう……。

 首を回すが時計は見つからない。寝汗で背中が冷たくて、それから逃れようと上体を起こそうとするが、うまくいかなかった。

 身体が自分のものじゃないみたいに重い。ずきっ、と頭痛がした。でもこの診療所に来た当初と比べれば、それほどでもない痛みだった。

 名雪は慎重に身体を起こした。

 時計よりもまず、祐一の姿が目に映った。隣には葉子もいた。二人ともこちらに背を向けて、カーテンが開きっぱなしの窓ガラス越しから外に見入っていた。

 どうしたんだろう、二人とも。なに見てるんだろ。名雪は二人に声をかけようとして、喉がからからに乾いていてすこし苦しかったので、やめておいた。

 ベッドから離れて二人の側に寄るのも辛かったので、代わりに名雪は瞳を凝らした。

 二人の正面の窓ガラスが、てらてらと赤みがかっていた。

 そして名雪は知った――きっとわたしが聞いた音は、あれだったんだなって。

 頭が朦朧としているせいか、驚きのほうが遅くにやってきて、ようやく名雪は口に手を当て、喉の痛みも忘れて声を上げた。

「あれ、なに……」

 窓ガラスの向こうには、大きな炎が立ち昇っていた。








 その大きく立ち昇る炎を、国崎往人は遠くから眺めていた。

 砂浜に座って、赤黒く染まった夜空をぼんやりと見上げ、なんか綺麗だな、と感じる。

 まるで夜空に上がった花火、キャンプファイヤー、祭りのような風景だった。そういえばいつだったか、美凪が、近くの神社でもうすぐ夏祭りがあるんですよと言っていたのを往人は思い出した。

 こんな殺風景な島でも、祭りなんかあるんだろうか……。

 実際にはなにが起こっているのか、往人には見当もつかない。いきなり集落のほうから轟音が響いてきたかと思うと、天に突き刺さらんばかりに炎が上がったのだ。

 火事でも起こったのかもな……。隣で同じように座る観鈴の横顔が、揺れる炎に合わせてちかちかと明滅していた。

「なあ……観鈴」

 呼びかけるが、観鈴は顔を向けてこなかった。

 それでも往人は言った。

「おまえ、顔、洗えよ」

 観鈴の横顔には、まだ晴子の血の名残があった。乾いた血糊が、赤と黄に明滅する光をより鮮やかにしていた。

「……往人さん」

 観鈴がぽつりと言った。

「わたし、もう、お母さんに会えないのかな……」

 そして観鈴は泣いた。

 往人が何度か目にしたことのある泣き方とは違った泣き方だった。とても静かに、癇癪を起こすときとは正反対な感じで、観鈴は泣いていた。

 往人は観鈴から視線を外した。するとその先、もう乗り手のいなくなったバイクが、やっぱり赤と黄でちかちかとしていた。

 往人はそして、バイクってどうやって乗るんだっけか、と思った。

 続いて、観鈴ってバイク乗るの好きなのか? と思った。

 こいつ、ジェットコースターとか苦手そうだしな……と悩んだ。

 往人はいつの間にか考えるようになっていた。

 また、観鈴の笑顔を見たいな、と。








 目の前の炎はまだ消えない。

 これ、いつまで燃えてるんだろうなあ。森にまで火がついて火事になったらおおごとだよ。森火事って消えにくいんだから。あれ、山火事だったっけ。

 川名みさきは森の木陰で燃え盛る炎を見上げていた。

 けっこうな至近距離のため、むわっとした熱気で額に汗が浮かんでくる。スケッチブックを持つ手の平もじっとりと汗ばんでいた。

 みさきはスケッチブックをうちわ代わりにぱたぱたと扇いでから、制服のポケットを探った。そこにはマジックペンが入っている。

 みさきには予想がついていた。これはきっと澪ちゃんのもの。このスケッチブックとマジックペンはぜったいに澪ちゃんのものだ。

 それらは澪ちゃんのものだけど、わたしが使った。さっき、わたしはこのスケッチブックとマジックペンを使った。

 澪ちゃんに無断でわたしはこの『ラクガキ王国』を使った。

 ラクガキ王国で落書きして、わたしはわたしを生み出した。

 偽者のわたしはもう消えちゃったけど、本物のわたしはちゃんとここにいる。

 ありがとうね、澪ちゃん。

 澪ちゃんの武器、無断で使っちゃったけど、でも、澪ちゃんはわたしのこと許してくれるよね。

 だって、澪ちゃんのものはわたしのもの。

 なんてったって、わたしは、澪ちゃんの友達なんだから。

 ぜったいぜったい、わたしは、澪ちゃんの友達なんだから。

 みさきは、スケッチブックを胸にぎゅっと抱きしめた。

 ――ずきずきと痛む胸をその大きなスケッチブックで隠すかのように。

 そしてみさきは身を返して森の奥へと入っていく。

 背後の炎は、まだ、消えない。




                 【残り15人】




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