第5幕 3日目午後




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「なあ、葉子さん」

「なんです?」

「もしもの話、なんだけど」

「はい」

「葉子さんの好きな人……友達とか、家族とか。もしその人たちが、さ」

「はい」

「……いや、やっぱりいい」

 相沢祐一は言葉を切った。目の前には名雪の寝顔。そのベッド脇の丸椅子に腰かけ、ぼんやりとただうつむいている。

 もう昼食の時間だというのに、名雪はまだ目を覚まさない。

「途中でやめないでください。気になるでしょう」

 祐一とはベッドを挟んで反対側、同じく丸椅子に座った葉子が非難がましく言った。

「まあ祐一さんが考えていることは予想できますが」

 祐一はなにも答えなかった。すうすうと、以前よりもいくぶん落ち着いた名雪の寝息だけが耳に入ってくる。

 そのうちに葉子が続けた。

「復讐なんてばかげた行為ですよ」

 悟ったようなその言葉に祐一は顔を上げた。

「そうかな」

「そうです」

 あいかわらずはっきりとした口調、葉子さんは自分に自信を持っているんだろうなと苦笑いしてしまう。

 それは、自分が絶対的に正しいと信じている証拠。

 それは『強い』ってことなんだろうなと羨ましくも感じて、でもそれは同時に、なにか不安を誘うような要素も含まれている気がした。

「復讐なんて、自分が絶対的に正しいとおごっている輩がする行為です」

 また、葉子がはっきりと言った。

「それ葉子さんのことだろ」

「……なぜですか」

「いつも偉そうだし」

「誰が偉そうですか」

 自覚なかったらしい。

「だいいち私は、正しい行為を行う、なんてことは考えたこともありませんよ」

「そうなのか?」

「祐一さんは考えたことがあるんですか?」

 逆に聞き返された。

「俺はいつでも清く正しく生きてるけど」

「冗談はいいですから」

 あっさり流された。

「祐一さんはいつも『自分が正しい』と考えながら行動しているんですか?」

 言われてみると、いちいちそんなことを考えながら行動したことなんてない気がする。想像するとそれは、いやに疲れる生き方に感じられる。

「そういうものです。本当に正しい行為をしたいなら、自分が正しいなんて考えないことですよ」

 そうかもしれない。でもそれだと、たとえばボランティア活動の意義そのものが失われるような? 世の中みんな偽善者……なんていう、みもふたもない言葉が浮かんだ。眉間にしわが寄っていくのがわかる。

「ていうか、なんでこんなことで考え込まなきゃいけないんだ」

「祐一さんがそういう話題を提供したせいでしょう」

「葉子さんがそういう返答したせいだろ」

「気分晴らしなるかと思いまして」

 逆に憂鬱になったんだが。

「なんにしても、あまり思いつめないでください。ずっと名雪さんのそばについていたい祐一さんの気持ちもわかりますが、睡眠の邪魔をするのもどうかと思いますよ」

 たしかに病人のベッドのそばで会話しているなんて、病院だったら婦長さんにつまみ出されているところだ。

「一緒に昼食でも作りませんか」

 葉子がそう口にした。

 祐一は驚いてしまった。葉子のこの表情、こちらから視線を外してぶすっとした顔と、そして、こんなふうに誘ってくるなんて初めてのことだった。

 祐一がなにか応じようとする、それよりも先に、葉子はさっさとキッチンのほうへひっこんでいった。しばしあっけに取られる。

 否応なしに初対面のときの葉子と比較してしまう。あの、ぶすっとした表情と。

 それと、さっきのぶすっとした表情。微妙な違い。

 葉子さん、機嫌でもいいんだろうか。

「……フライドチキンか」

 たしかニワトリを素手でさばけると言っていた。それをこれから行うためだろうか。血沸き肉踊る、というやつだろうか……。

 見かけによらず葉子さんって好戦的だしなあ。そんなことを考えながら祐一が椅子から立ち上がりかけたとき、その思考を吹っ飛ばす勢いで陽気な声が聞こえてきた。

『みなさんこんにちはー。正午になりましたー。みんな元気にやってますかあ? 食事中の人は手を休めてくださーい。お昼寝してる人はさっさと起きてくださーい。いつまでもぐうたらしてるとキノコ生えてきちゃいますよー。

 はい、みなさん。起きましたかあ? 起きましたねー。それではこれから、ゲームの脱落者の追加を発表しまーす。耳かっぽじってよく聞いてくださいねー。まずは、

 二十番、神尾晴子さん。

 以上でーす。脱落のペースがちょっと落ちてきましたねー。みなさん遠慮せずもっとがんばってくださーい。戦わなければ生き残れないんですよー。戦わざるもの食うべからずですよー。それではみなさん、今日も一日はりきっていきましょー』 

 そんな放送を耳にしながらキッチンに入ると、こちらに背中を向けたまま葉子が声をかけてきた。

「もし名雪さんが死んでしまったら、あなたは復讐するんですか?」

 急な質問に、どきっとする。

「佐祐理たちに復讐するんですか?」

 葉子が振り返った。

「人を殺すということは、人に殺される覚悟を持つということです。その覚悟があるのなら、私は止めません」

 そうはっきり口にする葉子の表情からは、なにも感情が読み取れなかった。

 佐祐理さんの放送。

 そうだ。

 また、誰かが死んだんだ。

 今も、誰かが戦っているんだ。

 この島のどこかで、誰かが、誰かと、殺しあっているんだ――








 鈍く光る刃が一直線に柳也の顔めがけて突き出されていた。

 寸前で首をひねってやりすごすと、その切っ先が返す手で横なぎに襲いかかってくる。腰から抜いた刀で受け止めた。体勢がぐらつく。今度は切っ先が真上から飛んでくる。そのまま地を転がって相手との距離をとる。

 一秒にも満たない攻防。相手の初手をかわせたのは、ほとんど運。

 運がよかったといっても過言ではない。

 柳也は立ち上がり、はあっ、と息をついた。

 今、目の前に立つ相手――とんでもない長さの黒髪をした娘は、いきなり、前触れもなく、尋常でない速さで襲いかかってきたのだ。

 往人を観鈴を捜し歩き、森を迂回して丘から南へ下っていって、そうすると砂浜が見えてきて、そのとき遠くから誰かやってきたと認識したときにはもう、彼女は眼前に迫っていたのだ。

 逆刃刀を握る掌が汗ばんでくる。

「楽しいなあ……なんでだろう……血沸き肉踊るっていうのかなこれが……」

 くつくつと笑っている。瞳はうつろ、というよりなにも映していないかのような純粋な『黒』だけが、そこにはあった。

 視線はこちらに向いていない。

 しかし、たしかな意思のようなものが、確実に柳也を貫いている。

 年端もいかない少女が持つには不釣合いな鉄製の槍が、舌なめずりしているように柳也には見えた。

 柳也は叫んだ。

「裏葉! 神奈を連れて逃げろ!」

「させないよ」

 彼女の声と、彼女の手から繰り出される斬撃はほぼ同時だった。がぎん、と刃と刃が衝突する。続けざまに二撃目、三撃目――とても目では負えない太刀筋。勘だけでどうにかやりすごす。

「ふうん。キミ、強いね。サムライのコスプレしてるだけあるね」

 話しながら彼女は槍を振り下ろした。刀を水平に掲げて受け止める。柳也の膝が、がくんと折れた。強烈な一撃、信じられない重さ――あんな細腕で、なぜこれほどの力が出せるんだ?

「柳也っ!」

 神奈の叫びが肩越しに飛んできた。まだこの場を離れていないのか。

「なにしてる! はやく行け!」

「よそ見してると危ないよ」

 柳也の肩口から血がはじけ飛んだ。

「くっ……」

 ひるんだ瞬間、彼女は柳也の横を突っ切った。その先は――神奈と裏葉のふたり。

「させるか!」

 がら空きになった彼女の背中めがけ刀を振るった。が、身をひるがえした彼女にあっさりと弾き返された。背中に目でもついているかのような反応の良さだった。

「邪魔しないでよ」

 槍がひらめいた。幾筋もの光の線を形成し、少しずつ、少しずつ、確実に柳也の肉をこそぎ落としていく。

 刀で丈の長い槍を相手にするには、その相手の三倍もの技量を要するというが……。

 その点を差し引いても、彼女の強さは並じゃなかった。

 とてもじゃないが攻撃に出られない。反撃する暇もない。

 それでも致命傷を負わずに済んでいるのは、もう、奇跡としか言いようがなかった。

 それほどに、相手は強い。

「裏葉っ!」

「……わかっております」

 いやがる神奈の手を裏葉が強引にひっぱっていく。ふたりの足音が、だんだんと遠ざかっていった。その間にも相手の攻撃はまったくゆるまない。

 右から左から、地に届くほどの長髪を棚引かせながら、疲労の気配もみせずに打ち込んでくる。

 自分の呼気が荒くなってくるのがわかる。

「柳也!」

 そんな神奈の声と、

「どうかご無事で……!」

 そんな裏葉の声も、もう耳に入れる余裕はない。すこしでも気を抜くと切り裂かれる。あたりには自分の体から飛び散る血で斑点模様が広がっていた。

 じりじりとあとずさる。彼女もまた同じだけ詰め寄ってきた。

「逃さないって言ったでしょ」

 脇下から、一閃。

 刀の峰でその攻撃を上からかぶせるように防いだ。

 柳也の身体が一瞬、浮いた。

「な……」

 続けざま真横から槍の長柄の部分を叩きつけられ、よけることもできず柳也は吹っ飛んだ。後ろ頭から地面に激突、土煙をまきちらして転がった。

 信じられない。どういうばか力だ、あの娘……。

 すぐさま立ち上がろうとして、膝に力が入らなかった。後頭部を強打したためだろう、脳震盪でも起こしたらしい。

 彼女の姿が、ほんのすぐそこにあった。

 やばい、やられる……。ぐっ、と刀の柄を握り締めた。

 彼女は素通りした。こちらなど見向きもせず、今はもう遠くなった神奈たちのほうへと走り出していた。

「…………」

 あっけに取られた。

 なぜだ? 俺にとどめを刺さないで、なぜあいつは神奈たちを追おうとするんだ?

 なぜ、あえて神奈たちを狙っているんだ?

「くっ……させるかよ!」

 理由など知っても知らなくても、神奈たちの身に危険が迫っていることに変わりはない。柳也は駆け出そうとして、そのとき胸のところに痺れたような痛みが走った。

 さっきの一撃で肋骨をやられたようだ。

「く……あ」

 それでも柳也は渾身の力を振り絞って黒髪の彼女を追った。

 間に合ってくれ……たのむ。

 祈るような気持ちで追いすがった。彼女の背中を睨めつけながら。しかし彼女との距離は縮まらない。それどころか遠くなる一方だった。

 俺は守らなければならないんだ。俺は、なにを犠牲にしようとも神奈を――

 そう、誓ったんだよ俺は……!

 彼女は立ち止まっていた。

 どうやら神奈たちは森に入ったらしい。彼女は、森の入り口できょときょとと首をめぐらせていた。

「……はっ!」

 両手で柄を握り締め、柳也は全体重を乗せて袈裟斬りに刀を閃かせた。彼女は振り向きざまその一撃をなんなく払った。柳也の両手首に強烈な痺れが走った。

「……おおおおお!」

 息もつかずに連続で打ち込んだ。彼女もまた槍を突き出す。光と光が幾度も交差した。

 柳也の肩、わき腹、膝から鮮血が弾けた。

「しつこいよ、キミ。しつこい人は嫌われるんだよ」

 彼女はその場から微動だにせずこちらの攻撃すべてを受け流し、なおかつ隙を狙って反撃に転じ、それは寸分たがわずこちらの急所を的にしていた。

 目の前が暗くなる。血を、流しすぎたか……。

「しつこい人は嫌われるの。それでね、嫌われちゃうとね、とっても寂しいんだよ」

 言葉と共に、まるで小規模の竜巻が発生したような斬撃が頭上から襲いかかった。柳也は返す刀でどうにかやりすごし――

 鈍い音が鳴った。

 刀身のなかほど、そこに細いひびが入った。

 彼女は軽く身を反転させ、そのまま勢いつけて槍の柄で柳也の胸を突いた。かは、と肺の中の空気がすべて吐き出された。もんどり打って森の中に突っ込んだ。

「あんまり寂しいとね、ウサギって死んじゃうんだよ」

 草むらを背に、仰向けで倒れ伏す柳也のすぐ横に彼女が立っていた。

「だからね、キミも、これから死んじゃうんだよ」

「……俺はウサギじゃないぞ」

 肺が軋む。言葉にするのも辛い。

「ウサギだよ。わたしに刈られる、ウサギ」

「……なかなか雅なたとえだな」

「でしょ。熊を刈る前の肩慣らしってところ」

 はは。熊、ときたか。

「神奈のことか?」

「ふうん。あの女の子、神奈っていうんだ」

 感心したような返答だ。知らなかったとでも言うのだろうか。俺を歯牙にもかけず神奈を襲おうとしていたというのに。

「おまえ、なんで神奈を狙ってるんだ」

「知らない。それよりあんまり時間ないから」

 見れば、彼女の長髪がはらはらと抜け落ちていた。だが、そんなことには目もくれず彼女は頭上に槍を掲げ、その切っ先を柳也の首元に向けた。

「神奈が翼人だから、か?」

 低い声で尋ねた。

「翼人? なにそれ」

「はは。これは驚いたな。そんなことも知らないで神奈を狙ってたのか」

 柳也は倒れたまま動かない。ただじっと、彼女の漆黒の瞳を見すえていた。

「わたしには関係ないよ」

「そうかな――いや、おまえにはたしかに関係ないのかもしれない。もしかすれば、おまえが手にしているその武器に関係しているのかもしれない」

「ふうん。なんでそう思うの」

「そうでなければやってられないからさ。おまえのような細腕の小娘に手も足も出ないなんて、俺の自負心が許さないんだよ」

 柳也は動かない。じっとじっと、ただひたすらに、待っていた。

「人は見かけによらないっていうよ」

「それにしたって限度がある。だいいち、おまえ、目が見えないだろ」

「あれれ。なんでわかるのかな」

「戦ってる最中、動きが予測できなかったんだよ。視線の向きを見ても」

 柳也は待っていた。この状況を打開できる機会を、それはもうほんの目と鼻の先までやってきていて――

「柳也っ! 無事か!」

 神奈が藪から飛び出した。槍を振りかぶったままの彼女のちょうど真後ろから、彼女の完全な死角から。

 その体勢のまま彼女が、バッと後ろに振り向いた。

 柳也はついに動いた。片時も離していなかった逆刃刀を、上体を起こして彼女の背中めがけ突き出した。

「あれれ。逃げたんじゃなかったんだ」

 彼女は弾き返した。柳也の刀を、こちらを見向きもせずに、いとも簡単に。逆刃刀の刀身がくるくると宙を舞っていた。

 逆刃刀が真っ二つに折れていた。

 柳也は愕然とした。

 もう、打つ手なしか。俺は、どう足掻いてもこの娘には勝てないのか……。

 そう、彼女は持っているのだ、小細工などまるで通用しない強さ。それを彼女はその華奢な身体に抱えているのだ。

 完全な敗北が、重石のように柳也の両肩にのしかかる。

「よかったね。ふたり一緒なら寂しくないよね」

 真横から重圧が加わった。槍をしたたかに打ちつけられていた。右肩が、みしり、と嫌な音を立て、そのまま柳也は吹き飛んだ。

 大木に背中から激突。まぶたの裏に火花が散った。

 そして極度の目眩を感じながら、ふと、思い出した。

 灯台で出会った青髪の少女。今、目の前にいる少女と大差ない歳だったろう。だというのに、二人とも、俺などはるかに超える技量を手にしていた。

 それは本当に彼女らの力なのか。俺は、本当に彼女ら自身の力に屈したのか。

 それは借り物の強さ……いや、仮にそうだとしても、彼女らはその『強さ』を借りるに足りうる資格を持っていたのだ。

 だからこそ、それは彼女らの純粋な『力』、そして『意志』。

 俺は彼女らに負けたのだろう。俺は彼女らの意志に負けたのだろう。俺の――神奈を守るという意志は、彼女らの意志に凌駕されたのだろう。

「神奈さま! お戻りください!」

 裏葉の手を振り切って、神奈は倒れ伏す柳也の上半身に覆い被さった。すぐそばには黒髪の少女、今にも槍を振り下ろさんとする彼女を、神奈はキッと睨みつけた。

「ばいばい」

 彼女が槍を固く握り締めた。

「神奈さま! 柳也さまあっ!」

 駆け寄る裏葉の伸ばした手が、柳也たちの元に届くよりも早く。

 頭上から彼女の槍が振り下ろされ――

「……あなたがたにふさわしいソイルは決まりました」

 光の柱が、立った。

 槍の切っ先が神奈の鼻先で止まった。そして槍を引きざま、茂みの奥から突然聞こえてきた声のほうへと彼女は振り向いた。

「螺旋のもとに集いし濃淡、ファア・ブラウン」

 どす黒い霧が、周囲を囲んでいた。








 桃色と白色の水玉模様、そんなかわいらしい傘には似つかわしくない凶暴な速度で回転が始まっていた。

 そこから生成される霧によってあたりはどんどん暗くなっていく。森の梢から覗けていた曇り空も、霧の屋根によってすっかり遮られ見えなくなった。

 なんなのでしょうかこれは……。柳也ら二人に寄り添いながら、裏葉は異様な速度で変貌するその風景を観察していた。この周辺を包囲するかのような、あたかも自分たちを逃さんとするかのような霧。

 柳也も神奈も、唐突に訪れた異常気象にきょとんとしていた。ただ、黒髪の少女だけは、傘を持つ少女のほうに目をやって、

「この霧……そっか。キミだったんだ」

 楽しそうに話しかけていた。傘の少女は答える代わりに、

「螺旋のもとに集いし生誕、ライヴリー・ブラック」

 すました顔で回転する傘を相手に向けていた。

「ひさしぶりだね。わたし忘れてないよ、キミがわたしたちにしたこと」

 それは嬉しいような、ようやく出会えた尋ね人を前にしたような、そんな声だった。

 裏葉は立ち上がった。袴の裾を手で持ち上げ、不気味に漂う霧のところへと向かう。おそるおそる指先で触れると、空を切るどころか、逆に硬い感触が返ってきた。

「裏葉」

 柳也が、神奈に肩を貸してもらいながらこちらに寄ってきた。衣服はボロボロ、今もなお傷口から血が滴り落ちている。歩くのも辛そうだ。

「今のうちにここを離れよう。俺ではあの娘の相手をするのはちと荷が重い」

 黒髪の少女は、今は傘の少女のほうに釘付けになっている。

「柳也さま……」

 裏葉は悲痛に顔をゆがませながら首を振った。

「どうした? 俺はこの程度では死なんぞ」

「…………」

「だが、俺が足手まといだと思うなら、おまえたち二人だけでも逃げろ」

「……いくらわたくしでも怒りますよ」

「冗談だ。それより急ごう」

「そうしたいのはやまやまなのですが」

 もう一度、裏葉は首を横に振った。

「この霧は結界です。やすやすとは通り抜けられませぬ」

「結界じゃと……」

 そう呟いた神奈が、ぺたぺたと霧を触りはじめた。どんどん、と叩きはじめる。

「……おさがりください、神奈さま」

 裏葉はすっと神奈の前に身体をすべり込ませ、霧の壁を凝視した。

「柳也さま、神奈さまをお願いいたします。いつまたあの娘が襲ってきても対処できるよう。けれど無理はなさいませぬよう」

 黒髪の少女は傘の少女へと踊りかかっていた。傘の少女はその場を一歩も動かず、ただ回転する傘に身を任せている。

 水玉模様の傘が突き出された槍を弾き返した。

「そして……八と十六のもとに集いし心、スピリット・ホワイト」

「お願いいたします、柳也さま」

 裏葉は念を押すように言った。

「それはいいが……おまえはどうするんだ?」

「この結界を解きます」

 言って、裏葉はデイパックから黒色の棒を取り出した。長さは自分の腕くらい。伸縮自在なのだろう、手に持つと、それは裏葉の背丈ほどにもなった。

 これが裏葉に支給された武器だった。

「神通根……これで、結界を解きます」

 極楽に逝かせてあげるわ! というフレーズがなぜか裏葉の頭に浮かんだが、自分のキャラじゃないなと思って言わないでおいた。

 瞳を閉じて精神統一、ゆっくりと呼吸、ゆるやかな呼気に合わせ、心臓もまたゆるやかに鼓動させる。

 そして――――

「蹂躙せよ……召喚獣、エイト・オブ・キャッツ!」

 裏葉が神通根を霧に突き立てたのと傘の少女が叫んだのは同時だった。

「な、なんじゃあれは……」

 神奈があっけに取られた声をあげた。だが今の裏葉には何が起こったのか確認している余裕はなかった。一刻も早く結界を打ち破らねばならない。一心に、それだけを念じて神通根に法力を込める。

「ぐ……ああああああ!」

 柳也の叫び声だった。裏葉の頬に、なにか冷たい赤いものが降りかかった。がぎん、と鉄と鉄を打ち合わせたような音、直後にあがった神奈の悲鳴。

 背後に振り向きたくなって、だけど裏葉はしなかった。ただひたすらに、念じて、集中して、はやく、はやく、はやく、はやく……!

「……逃げられませんよ。この霧の結界は誰の侵入も許さず、誰の逃亡も許さないんですから」

 遠くから届いた声、傘の少女の声だった。

「傘についていた値札の裏に説明が書いてありましたから……」

 集中する。惑わされることはない。今、自分がやるべきことは、目の前の障害を壊す、ただその一点。

 霧が、弾けた。

「柳也さま!」

 ようやく裏葉は振り向いた。

 異様な光景が広がっていた。たくさんのネコが飛び跳ねたりあくびしたり手首で顔を洗ったりしていた。一、二、三……全部で八匹。毛皮のところに名前らしき文字が彫ってあった。「ムサシ」「うずら」「くるり」「りゅうのすけ」「ごろう」「マーニャ」「ルンナ」「ネネ」、みんながみんな、かわいらしかった。

 とんでもなく巨大であるという点を除けば。

 そのうちの一匹、黒ぶちの巨大ネコ(ムサシ)が、柳也の身体にのしかかって牙を剥き出していた。右肩に食らいつかれ、半分の長さになった逆刃刀でその凶暴な口を押しのけようとする柳也の顔は、蒼白になっていた。

「離れろ、離れぬか、化け物っ!」

 神奈が黒ぶちの毛並みに取りついて、ぎゅうぎゅうと後ろにひっぱっていた。しかし巨大ネコ(ムサシ)のほうは意にも介さず、柳也の肩に深く牙を突き立てる。

「柳也さま……!」

 裏葉にはどうすることもできない。霧の結界に突き立つ神通根から手を離せば、ぽっかりと空いた穴は瞬く間に閉ざされてしまうだろう。

 どうすれば、どうすれば……!

「離れろと言っているのがわからぬのかああああ!」

 神奈が激昂した。

 刹那、まばゆい白色光があたりを照らし上げた。それは神奈の身体から、弾け飛んだ上半身の衣服によってあらわになった背中から放たれる光だった。

 ふわりと神奈の髪が宙を揺らぎ、純白の二枚の翼が解き放たれた。さらに強烈な光がそこかしこに流れ渡った。あまりの眩しさに立ちくらみを覚える。

 巨大ネコ(ムサシ)が一声、鳴いた。光に目を焼かれたのか、顔を地面にこすりつけるように転げ回り、去っていく。

「今のうちにお早く!」

 裏葉の声に柳也はただちに反応した。立ち上がり、しかし地に膝をついた。がは、と吐血する。神奈が驚いた顔で口に手をあてた。

「さすがに今のはまいったな……」

 そう苦笑する柳也に、神奈はすがりついた。半裸の神奈に柳也はギョッとしたが、

「助かったよ、ありがとうな」

 ふらつきながらも今度こそ立ち上がった。

「柳也さま、動けますか?」

「ああ。どうってことない」

 それはあきらかに強がりだろうが、かまわず裏葉は言った。

「ならばここからお逃げください」

「結界、解けたのか?」

「はい。完全にとは申し上げられませぬが。それよりお早く……」

 脂汗がぽつぽつと浮かんでくる。あまり長くはこの状態を保っていられそうにない。

 柳也が神奈の背を押し、ちょうど人一人分が通れる大きさの霧の穴に突っ込ませた。大きな翼でつっかえたが、柳也は強引に押し込んだ。神奈が額からすべり込んで向こう側に到達する。

 非難轟々の神奈の声を無視して、柳也が言う。

「次はおまえだ」

「いえ、柳也さまがお先に」

「俺はここで化け猫を牽制する。だからおまえが行け」

「わたくしがここを離れたら結界が閉じてしまいます。ですから柳也さま、お先にお願いいたします」

「……わかった。俺が出たらすぐに来いよ」

 しぶしぶといった感じで、柳也もまた神奈のあとを追った。

 霧の外に出たところで目配せしてくる。次はおまえの番だ、と。

 が、裏葉は荒い息をつくだけでなにも応えない。

「なにをしておる! 裏葉、お主もはやく!」

 神奈が焦った顔で手招きしてきた。そんな神奈に、裏葉は寂しげな笑みで答えた。

「それは叶いませぬ」

 神奈は、なにを言っているのかわからないといった様子でぽかんとした。

「……どういうことだ、裏葉」

 柳也が訊いた。やはり焦ったふうな様子で。

「わたくしは一緒には行けませぬ、と申し上げました」

「冗談はいいから、さっさと来い」

「…………」

 冗談ならよかったのに。いつものように、私のお遊びならよかったでしょうに。

「この結界、本当によくできてございますね。誰の逃亡も許さない……まさしくその通りでございますよ」

 ふふ、とかすかに笑って。

「わたくしが一瞬でも気を抜けば、たちまち結界は閉ざされてしまう。結界は解けても、解いた本人はこの場から動けない。本当に、よくできてございますね……」

 もしかしたら倉田さまの根城に張られた結界も、こんな具合なのでしょうか……。

 それももう、今となっては考えても詮無きこと。往人さまと観鈴さまのお二人に託すしかないこと。

「なにを……なにを感心してるんだよ裏葉!」

「柳也さま」

 裏葉の凛とした声に、柳也はたじろいだ。

 柳也さま。できれば私も、いつまでも柳也さまのお側にいたかった。神奈さまのお側から離れたくなかった。いまさら申し上げるまでもないことでしょう? 私たちは、あのとき、そう誓ったのですから。

 だから悲しむべきではない。

 私の役割は、神奈さまのお付きというこの役割は、そう、この時をもって終わるのだろう。

 私の物語はここをもって終幕を迎える。

 しかしそれは終幕であって、終幕ではない。

 三人で紡いできた物語はまだ終わらない。それは私の物語でもある。神奈さまと柳也さまの物語の中には、たしかに、私の姿がある。

「裏葉が来ぬのなら、余も……!」

「神奈さま。こんなときまでわがままをおっしゃるものではありませんよ」

 私の意志はいつでも神奈さまと共にある。

「いつも申し上げておりますでしょう。殿方の気を引くためには淑やかに儚げに振る舞いその上で涙ぐんだり頬を膨らませたりして甘えるようにせよと」

 私の意志はきっと語り継がれる。神奈さまと、柳也さまの手によって。

 世代を超え、時を越え、ずっと、ずっと……。

 それで充分ではないでしょうか。

「初耳じゃぞ、余は……」

「あらあらまあまあ。そうでございましたか」

 それは、私にはもったいないほどの幸福ではないでしょうか。

 ねえ、神奈さま。ねえ……柳也さま。

 限界が訪れていた。裏葉は片膝をついてうな垂れた。

 同時に霧の結界が閉じた。柳也の声も神奈の声も、もうこちら側には届かない。

 どうにか首だけを動かし、かすむ視界で裏葉は見た。黒髪の少女が巨大ネコを切り刻んでいた。一匹、二匹、三匹……どんどん切り刻む。楽しそうに切り刻む。傘の少女が瞠目してそのさまを眺めている。

 難を逃れた一匹のネコが、こちらに飛びかってきた。

 裏葉は、ゆっくりと瞳を閉じた。

 裏葉の思考が止まるのは、それからすぐのことだった。




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