ひやりとした空気が流れている。空調から吐き出されるわずかな風が、佐祐理の大きな緑色のリボンを揺らしている。
そんな光景を眺めながら、川澄舞はここ、プレハブ小屋のはるか地下に広がる大きな一室に立っていた。
舞は佐祐理のななめ後ろに控えている。その佐祐理のまん前には、高くそびえ立つガラス張りの容器。羽リュックを背負った女の子が一人、その容器の中で眠っている。
それを佐祐理は、ずっと前から眺めていた。
舞には理解できなかった。この薄暗い部屋のそこかしこに陳列された機材、中央に鎮座する青白いポットのような容器。これらがなんのためにここにあって、いったいなにをしているのか、自分にはわからない。
そして、容器の中の女の子……たしか名前を、月宮あゆ。
私の知らない子。佐祐理は知ってる子なんだろうか。わからない。それを尋ねても、佐祐理は「あははーっ」と笑うだけで教えてくれない。
だから佐祐理の考えはわからない。佐祐理の表情、笑顔という名の無表情に隠された本当の気持ちを知ることはできない。
――でも。
私は、ただ、佐祐理のそばにいる。佐祐理を守るため、島の生徒から守るために。
佐祐理に危害を加えるやつは許さない。
佐祐理を泣かせるやつはたとえ人だろうとネコだろうとカエルだろうとピコピコ鳴く犬だろうとアークデーモンだろうとぶった斬る。
今やもう、魔物を意のままに、完全にコントロールできる舞にはそれが可能だった。
「舞。戻ろっか」
気がついたとき、佐祐理はきびすを返していた。舞の横を素通りして、奥にあるエレベーターのところへと歩いていく。
「もう行くのかい?」
白衣の男――氷上シュンがタッチパネルから視線を外さず声をかけてきた。
「あははーっ。そろそろ放送の時間ですので」
佐祐理が歩みを止めずに答えた。
もうそんな時間……。どうやら正午近くらしい。この部屋に長居をしすぎたようだ。
そしてその長居は、舞にとっては苦痛だった。この得体の知れない部屋は、好きじゃなかった。それはなにも佐祐理が黙々と容器を眺めているだけで自分としては暇だから、というわけではなく、シュンが馴れ馴れしく自分たちに話しかけてくるのがうざいから、というわけでもなく。
この部屋に訪れているときの佐祐理は……なんだか怖いから。
だから今はホッとしていた。いつもの佐祐理に会えるから。
舞はいつもそうするように、佐祐理のななめ後ろに控えながらそのあとを追った。佐祐理がエレベーターのボタンを押そうとすると、ずいっと佐祐理の前に身体を割りこませる。
もしもエレベータの扉が急に開き、中に誰かがいて、あまつさえ襲ってきたとしても自分が佐祐理の盾となれるように。このプレハブ小屋には簡単に侵入はされないだろうが、用心に越したことはない。
「あははーっ。ほんと舞って心配性」
「……佐祐理がのん気だけ」
「はぇー。そんなことないよ」
「……そんなことある」
「でも佐祐理はこう見えても運動神経いいんだよ」
「……それは前にも聞いた」
「でも佐祐理はこう見えても魔女っ娘だから魔法使えるんだよ」
「…………」
知らなかった。
「あははーっ。舞の魔物なんか二秒で殲滅できるよ」
「…………」
知らなかった。
「今度見せてあげるね」
「……うん」
見てみたかった。
舞は気を取り直してエレベータの「上」のボタンを押した。
「…………」
が、このとき、せっかく取り直した気持ちはふたたび乱れていた。
扉が開かない。ハッとしてすぐさま階数を確認、エレベーターはこの階には止まっておらず、ひとつ上の階に止まっていた。
なぜ……? 自分たちが地下一階である島の管理室からこの地下三階に降りてきて、それからはエレベーターを使った者はいない。佐祐理もシュンも、もちろん自分だってずっとこの部屋にいた。そしてプレハブ小屋には、自分たち三人しかいない。
そのはずなのに、エレベーターは地下二階に止まっている。
と、いうことは。
「……侵入者」
「シュンさん」
舞がぽつりと呟くのと佐祐理が声を発したのは同時だった。
「結界の制御装置はどうなっていますか?」
「異常なし。今もこの小屋を守っているはずだよ」
シュンは即答した。が、その声は特に急いでいる様子もなかった。
「ではエレベーターの故障でしょうか」
「そうとも思えないけどね」
と、やはり焦ったふうもなくシュンは答えた。
「侵入者かもしれないね」
「あははーっ。だとしたらいったいどんな魔法を使ったんでしょうね」
言って、佐祐理はようやく降りてきたエレベーターに乗り込んだ。
「……どこいくの」
「ちょっと様子見てくるだけだよ」
「だめ」
舞は閉まるエレベーターの扉を押さえつけ、佐祐理を外に追いやろうとした。
「私が見てくる」
「いいよ。佐祐理にまかせて」
「だめ。私が見てくる。佐祐理はここにいて」
「はぇー。じゃあ一緒に行こ」
「だめ」
ぽかんとする佐祐理の腕をつかみ、強引に引き寄せた。顔と顔が今にもくっつきそうな距離で、目と目をあわす。
「佐祐理は、ここで待ってて」
「……あははー」
その佐祐理の笑い声はいつもの調子とは違ってどこか落ち込んでいた。
「ごめんね……舞」
「気にしないでいい」
パッと佐祐理の腕を離す。
もう佐祐理は、なにも言ってこなかった。ただ静かにエレベーターの外に出て、さびしそうな顔で舞を見つめていた。
……こっちのほうが、いい。笑顔よりも、こっちの顔のほうが。
ちゃんと、素直に自分の気持ちを表しているこの佐祐理の顔のほうが、私は好き。
「僕がお供してあげようか?」
「……いらない」
シュンの申し出をそっけなく断って、舞はエレベーターの扉を閉めた。
音もなく階上へとあがっていく。舞は黙って瞳を閉じた。けっこうな時間、そうしていた。目的地はほんのひとつ上の階といっても、その間隔は十メートル単位で離れているのだ。
地下二階に到着した。この階には舞は初めて来た。天井には薄暗い蛍光灯、長い廊下が奥のほうまで続いていて、ほかは何も見当たらない。扉も窓もない。
この階はいったいなんのためにあるんだろう? 舞は知らなかった。佐祐理もシュンも何も話していないし、自分から聞き出したこともない。
とりあえず先に進んでみる。かつかつとリノリウムの床が足音を奏ではじめる。明かりを鈍く反射する白い壁が、夜の学校を連想させた。
とても静かだった。
そんな静寂に、舞は慣れていた。学校――通っていた高校を守るため、幼いころに出会った男の子についた嘘を現実にするため、自分は怖いくらいの静寂が住む場所に身をおいてきた。
それももう、今となっては懐かしい記憶。私は夜の学校から開放された。魔物を手なずけることができた。
二人のおかげだった。私の嫌いじゃない人……。佐祐理と、祐一。よく三人で昼ごはんを食べた。三人で登校した。三人一緒が楽しかった。
でも、今は三人一緒じゃなかった。私のそばに、祐一はいない。
選択しなきゃいけなかったから。
佐祐理か祐一、どちらかを選ばなきゃいけなかったから。
そして私は、祐一じゃなくて、佐祐理を選んだ。
「……だって」
しかたなかった。しかたなかったんだ。
だって、祐一、私のルートに入ってこなかったから。
そうして歩いていくうちに廊下が途切れた。目の前に重厚そうな両開きの扉が立ちはだかっていた。ぐっと力をこめて押すと、扉からぎしぎしと軋んだ音が鳴った。
なんなく開いた。奥には、これまでの無味乾燥な風景とは違った光景が広がっていた。
「…………」
絶句。
扉の奥は、洞窟だった。先のほうは暗くてよくは確認できないが、廊下の蛍光灯の明かりに照らされた周辺にはごつごつした岩が並んでいる。
その岩に四辺を囲まれ、しかし道はまだまだ続いていた。
侵入者はこの奥だろうか。この階ではもう見るべきところがない。やっぱり、この洞窟を進むしかないのだろうか。
それに、なんで、こんな洞窟がここにあるんだろうか。
一度、舞は後ろをふり向いた。いったん佐祐理のところに戻ろうか、と考え、悠長なことをしていると侵入者を逃してしまうかもしれない、と思い直す。
舞は正面を見すえた。
佐祐理に危害を加えようとするやつは、泣かそうとするやつは、誰であろうと許さない。たとえそれが祐一だとしても……。
逃すつもりは、ない。
舞は洞窟の中に一歩を踏み出した。
時はほんのすこしさかのぼる。
天沢郁未は、柳也と別れてからすぐ長森瑞佳との接触を果たしていた。
灯台のてっぺんに侵入し、適当に降りていったら瑞佳とばったり出くわしたのだ。こんなところにいやがったの、どうりで島じゅうを駆け回っても見つからないはずね、最初から灯台に向かっとけばよかったなあ、そんなことを思い巡らせながら喝采をあげはじめる血潮をそのままに、とにかく郁未は瑞佳を見つけたのだ。
瑞佳は目をぱちくりさせていた。まさか人に出会うとは思っていなかったんだろう。どうやら瑞佳は灯台の頂上に向かおうとしていたらしい。
なんのためかは、まあ、単なる散歩か、上から島の景色でも観賞しようとしていたのか。それとも、誰がいつここを訪れても対処できるよう見張りでもしようとしていたのか。
もしそうだったら残念、私、もう侵入しちゃったし。
瑞佳の驚いたこの表情を前にすると郁未はどうにも思い返してしまう。
ゲーム開始直後、私はプレハブ小屋の屋根から瑞佳を見下ろした。そのとき幻滅したのを覚えている。
そして今回、二度目。ふたたび出会えたんだ、瑞佳に。私の、この、抑えられない焦心をぶつけられる相手に。
ようやく叶うんだ、私の目的が。そう一瞬でも期待を膨らませて。
だけどやっぱり、それは叶えられない目的かもしれない。瑞佳はあの時となんら変わらずおどおどとして……。
と、郁未はおやと首をかしげた。
瑞佳の表情に笑みが浮かでいた。
どうしたんだろう? 私を警戒していない? 私が襲ってこないとでも考えているの? そこまで平和ボケしてるの? と疑問に感じていると瑞佳が言った。
自分と行動を共にしないか、と。下にみんながいるから一緒に来ないか、と。
どうやら瑞佳はこの灯台に仲間を集めているらしい。
郁未はちょっと悩んでOKした。しばらく瑞佳のそばにいよう、この子が本当に永遠の世界を作った『創造主』なのか見極めよう。
そう思ったから、郁未は瑞佳のパーティに加わった。
瑞佳のパーティ――灯台チームはこれで六人に増えたことになる。長森瑞佳、椎名繭、遠野美凪、みちる、美坂栞、そして天沢郁未。
今現在、生き残っているほかのパーティは、というと。
祐一、名雪、葉子の診療所チーム。全部で三人。
往人、観鈴、晴子、みさきの砂浜チーム。四人。
柳也、神奈、裏葉の尋ね人チーム。三人。
茜、詩子の迷いの森チーム。二人。
浩平と美汐は単独行動。
だから郁未の加わった灯台チームはほかと比べてダントツで人数が多い。その事情を郁未は知る由もないが、パーティの人数を増やすという瑞佳の考えに郁未は感心していた。
仮に、ほかのチームがこの灯台を襲ってきたとしても、人数にものを言わせて撃退できる。しかも灯台は堅牢なつくりをしているので、ちょっとやそっとじゃ陥落しない。
客観的に見れば、このサバイバルゲームにおいて瑞佳たちは有利な立場にあるといえる。最後まで生き残る確率がほかの生徒たちよりも高いといえる。
なかなか賢明じゃない、この子。瑞佳に対し一度は失った興味が、ふたたび盛り上がってくるのを郁未は感じた。
瑞佳はゲームに勝利するため、自分が生き残るため、そのために自分の盾となってくれる戦闘員を増やすために、仲間と称して手下を集めているのだ。そう郁未は勝手に解釈したのだった。
そして、現在に至り――
灯台の敷地内に並ぶ住居のひとつに郁未はお邪魔していた。
場所はリビング。テーブルにはティーカップやらお茶請けやらが用意されている。それらを囲むようにして、五人の女の子がソファに座っていた。自分を入れれば六人。
つまり灯台の生徒すべてがこのリビングに集まっていることになる。それは、ダイニングで昼食を取ったあとに瑞佳が皆を呼んだためだ。
「あの……みんなにお話があるの」
意を決した顔で、瑞佳は自分らをぐるりと見回した。ほかの四人がそれぞれきょとんとしたりぽけっとしたり「んに」とか「みゅー」とか言ったりして注目する。
「今朝の放送で、また三人が脱落したって言ってた。これでもう……七人が死んじゃったことになる」
誰かが息を呑むのがわかった。場がしんとなる。
「信じたくないけど……たぶん、誰かがやる気になってるんだと思う」
この子はそう言って、自分だけはさも、やる気になっていないとみんなに信じ込ませるわけね、と郁未は感心した。勝手な解釈はまだ続いていた。
「だから、まだこれからも、死んじゃう人が出るかもしれない。だからね、わたしたちも自分たちの身を守ることを考えなきゃって思うの」
この子はそう言って自分の盾代わりにみんなをこき使うわけね、とやっぱり郁未は勝手に解釈した。
「そのためにね、まず、みんなの武器をみんなで使おうと思うの」
もう一度、瑞佳は一同をぐるりと見回した。この子はそう言ってみんなの武器を独り占めにしようとしているわけね、と郁未は勝手に解釈し、しかし今回ばかりは感心するわけにもいかなかった。
郁未の身体に緊張が走る。
私は武器なんかなにも持っていない。支給されていないのだから当然だ。
もしや、それを見越してのこと……?
周りからとくに反対意見は出なかった。それぞれ、リビングに置いてあったデイパックを持ってくる。何人かが武器を取り出しはじめた。
「テーブルの上に置いてね」
瑞佳がうながした。みんなの武器がどういったものか確認するためだろう。これでもし武器を提出しなければ、その人は皆から不審の目で見られることになる。仲間を信用できないのかと、言及されることになる。
そしてその役が武器を持たない郁未に回ってくるのは必然だった。そうなれば、瑞佳は私を責めるだろう。ほかの四人もいっせいに責めてくるだろう。
ついでに武器片手に一斉攻撃を仕掛けてきてもなんら不思議じゃない。
ふふ。策士じゃない、瑞佳。
「それじゃ言い出しっぺの私から」
瑞佳が制服の内ポケットから紙箱をひっぱり出した。テーブルの上に置く。
キャラメル(おまけ付き)だった。
これが瑞佳の武器? このちんけなキャラメルが?
こんなもの、倉田コーポレーションからFARGO施設に送られてきた試作品の中には入っていなかった。とすれば、おそらくこれは、瑞佳のウソ。本当の武器はどこかに隠し持っているんだろう。
狡猾じゃない、瑞佳。
「じゃ、次は繭ね」
「……みゅー」
繭はいやいやをした。頭にかぶっているフェレット型帽子を両手で押さえていた。
「ちょっとだけだから。ね、繭?」
繭はしばらく恨めしげな瞳をしていたが、名残惜しそうにして帽子を脱いだ(これはボウグね。いい武器じゃない)。テーブルの上にちょこんと乗せる。
こんな具合に美凪の武器である薔薇の花嫁の冠(強力だけど、使い勝手が悪いのが難点ね)、みちるの武器であるシャボン玉爆弾(ま、そこそこかしら)もテーブルに並んだ。
「次は天沢さんにお願いしていいかな?」
瑞佳が尋ねてきた。あっさりと来るべき時が来てしまった。
郁未はどうしようかしばし悩んだ。たとえ自分に武器が支給されていない事情をつぶさに説明したとしても、誰も信じはしないだろう。隠し持っていると疑われるのがオチだ。
だから私がみんなから不審がられるのは、避けようがない。
「残念だけど、私、武器もらってないの」
郁未は心で身構えた。いつ瑞佳が私を責め、ついには襲いかかってきても対処できるよう――
「そうなんだ。じゃ、最後に美坂さん」
「…………」
まったく平和に何事もなく流されてしまった。
「ち、ちょ、待ちなさいよっ!」
「? どうしたの?」
瑞佳がゆったりと首をかしげた。
「……きっと、自分だけ武器がないのが寂しいんじゃないでしょうか」
美凪がかわいそうな人を見る目でこちらを見ていた。
「だいじょうぶだよ。みんなの武器はこれからみんなのものになるんだから」
瑞佳がにっこり笑って言った。
「……残念賞」
そして美凪からお米券をもらった。開いた口が塞がらなかった。
くっ、私としたことが、つい動揺してしまった。これこそが瑞佳の作戦かもしれないのに。やるわね、瑞佳。
郁未は不可視の力をぶっ放したい衝動をどうにか抑え、瑞佳に先をうながした。ここでこの子を殺しても、なんだか負けたような気分で気に入らなかった。
「じゃ、美坂さん。お願い」
「……ごめんなさい。私、武器を預けるわけにはいかないんです」
栞はぺこりとお辞儀してすまなそうな表情をした。その横顔に陰りを帯びたのを郁未は見た。
なにか事情があるようだけど、かわいそうにね。みんなからつまはじきにされるわよ。で、瑞佳のかっこうの餌食になるわよ、あなた。
「そうなんだ。じゃ、これで全部だね」
まったく平和に何事もなく終わってしまった。
「ち、ちょ、待ちなさいって言ってるでしょっ!」
「? どうしたの?」
「……きっと、自分だけ武器がないのが寂しいんじゃないでしょうか」
さっきと同じ展開になっていた。
くっ、いつまでそうやって演技してるつもり、瑞佳? そっちがその気なら……。
郁未はにやりと唇をゆがめた。
私みずから、あなたの化けの皮をはがしてあげるわ。あなたが作った、この、のほほんとした空気を壊してあげるわ。
「ねえ、美坂さん」
挑戦的な目つきで見下ろした。栞が、ぴく、と肩を震わせる。
「あなた、なにかやましい事情でも――」
「天沢さん、プライベートなことに口出ししちゃだめだよ」
そっこーで瑞佳に怒られた。
「……残念賞」
そしてお米券をもらった。のほほんとした空気は壊れなかった。
「ごめんなさい。みなさんのお役に立てなくて」
「ううん。なにか事情があるんだよね。だったらしょうがないよ」
「へっちゃらへー、です」
「そーそー。みちるたちの武器だけでじゅーぶんじゅーぶん」
「みゅーみゅー」
なんだか知らないが、五人、最初よりも結束が強くなっていた。
頭痛くなってきた。
「……なんで」
なんでこんなにのほほんとしてるの。なんでこんなに和気あいあいとしてるの。
いつもいつも、瑞佳の言葉から始まって、場がなごやかに流れ進んでいる。壊そうとしても、流れ進んでしまう。
今この島では殺しあいが行われてるのよ。いつ襲われても仕方ない状況なのよ。それなのに、なんでそんな普通の態度が取れるの、あなた?
これも、瑞佳の演技だというのだろうか。
「どうしたの天沢さん? 難しい顔して」
「……きっとお腹が空いてるんじゃないでしょうか」
「さっき食べたばかりなのに、天沢さんって食いしん坊」
「ほんとですね」
「みちるもお腹減ったー」
「みゅーみゅー」
郁未は、このときになってようやく思い至った。瑞佳のこの態度は、きっと演技なんかじゃないんだと。
だったら……。
だったら、どうして。
なんで、私までこの輪の中に入っているんだろう。私なんて突然やってきた転校生っていう見るからに怪しい立場なのに。武器だって支給されていない危険人物なのに。
なのに、なんで、瑞佳は……。
「天沢さん、あとでわたしがクッキー焼いてあげるね」
瑞佳が、言う。嬉しそうにして。
頼むから、お願いだから、ちょっとは私のこと疑いなさいよ瑞佳っ!
「みんな、お茶しながらでいいから聞いて」
お茶会の様相を呈しはじめたリビングで、瑞佳の口調がふたたび引き締まった。
「今度から見張りをやろうと思うの。さっき灯台登ってきたんだけど、遠くのほうの島まで見渡せたんだ。だから灯台の頂上で、交代で見張りに立って欲しいの。ちゃんと武器を携帯して。あ、でも誰か見つけても攻撃しちゃだめだよ。すぐにわたしに知らせてね」
皆を見回し、瑞佳が言う。
「そしたらわたし、その人に会って一緒に来ないかって誘ってみるから」
それは今日、郁未に対しても言った言葉だった。
信じられない言葉だった。
あなた、そんなことやってたら、死ぬわよ。
確実に死ぬわよ。
それくらいのこと予想できるでしょ? あなたさっき自分で言ってたじゃない。自分たちの身を守らなきゃだって。やる気になっている人から身を守らなきゃだって。
なのに、なんでわざわざそんなことやろうとするの?
なんでそこまで他人を信じられるの?
あなた、いったいなに考えてるのよ……。
そんな郁未の心のつぶやきなど聞こえるはずもなく、瑞佳の話は続いていく。
皆の談笑が続いていく。
――わからない。瑞佳の考えが。
郁未の疑問は膨れ上がるばかりだった。
はあーあ。どうやって抜け出そうかな、ここから。
正面では往人が立て木に背を預けてあぐらをかいている。その体勢のままこちらをじっと観察している。逃げられないよう、不穏な動きを見逃さないよう。
川名みさきは、手首を後ろ手に縛られたまま転がっていた。
ちなみに足首を縛っていた魚網は観鈴に泣きついて解いてもらった。往人と晴子は不満そうだったが、誰かが見張りをしていれば問題ないだろうという結論に至っていた。
そしてその役を遂行しているのが往人だった。
「……はあ」
ため息をついて往人が立ち上がった。背伸びして、億劫げに首をコキコキ鳴らしている。その顔には疲労の色が濃く出ている。
往人はずいぶんと長いあいだ見張りを続けていた。朝食を取って(集落から調達してきたらしい。わたしもいちおうパンをもらった。ぜんぜん足りないけど)、それからずっと続けているのだ。精神的に疲れるのも無理はない。
そしてほかの二人、観鈴と晴子は砂浜で遊んでいた。
「……たく、あいつら」
愚痴っている。それでも見張りをやめないところを見ると、なにか弱みでも握られているのか、それとも見た目と違って誠実なのか、はたまたなにも考えていないのか。
「……暇だな」
往人が「よ」とか「は」とか言ってポージングを取りはじめた(うっわー気色悪い)。そのさい、ズボンの後ろポケットに人形が入っているのに気づいた。
なんだろう? 古ぼけた人形、羽がついていて、頭には輪っかもある。こういうのどこかで見たことあるなあ、えっと……そうだ、クレーンゲームの景品であったような?
たしか、天使人形って名前だったはず(そのまんまだけど)。
もしかしてこれがこの人の武器? なんか役に立たなそう。奪う武器のリストからそくざに削除。
往人がまた地面に座った。ポージングに飽きたらしい。こちらを見つめてくる。鋭い視線、寸分の狂いもなくみさきの顔に注がれている。
さて、と。そろそろ潮時かな。
まずは手首を縛っている魚網をなんとかしなきゃならない。これじゃ例えここから逃げ出したとしても、自分の身を守れない。やる気になっている誰かさんのかっこうの餌食になってしまう。
けど、自分の力ではほどけそうもないので、ほかの誰かに取ってもらわなきゃならない。
だったら……。みさきは腹を決めた。
じゃあ、この人に取ってもらおっと。
あまり方法を選んでいる余裕はないみたいだし。ぐずぐずして誰かに襲われでもしたら、目も当てられないんだから。
みさきは上体を起こした(手は使えなくてもこれくらいなら簡単にできる)。片方の足を投げ出し、もう片方はひざを立てて自分のほうにひき寄せる。
するっとスカートが腿をすべり、白い脚があらわになった。
「ねえ……往人さん」
鼻にかかった声で名を呼ぶ。
「おまえに往人さん呼ばわりされる筋合いはない」
「わたしね、すっごく怖いの」
往人の言葉を無視し、続ける。
「だって、この島、今も殺しあいが続いてるんだから……」
目の端にちょっぴり涙を溜めて、往人を見つめる。
「だから……ね?」
「…………」
「お願い、往人さん……」
「なにが言いたいんだおまえ」
「……もう。わかってるくせに」
頬にかかる髪をふわりと後ろに流し、みさきは立ち上がった。つられて往人も立ち上がる。警戒の色を強くして。
かまわず、みさきは言った。
「お願い。わたしを安心させて……」
頬を桜色に染めて、上目遣いで相手を見て、恥じ入るような感じにして、続けた。
「わたしと……しよ?」
「…………」
相手は無反応。そこに、どんな感情が渦巻いているのかは窺え知れない。
上着のボタンでも外そうかとみさきは考えたが、手が使えないので断念した。みさきは不安げな顔を作り、すがるような瞳をし、往人のもとへぱたぱた駆け寄った。
相手は無反応。拒む様子は、ない。
そしてもう手の届くところまで近づいたとき。
「……きゃっ」
みさきはつまずいた。なんでもないところで。
作戦だった。
転びそうになる自分を往人がとっさに抱きとめてしばらく見つめあっていい雰囲気を作ってそのままなし崩し的にやっちゃってその過程で手の縄をほどいてもらおうというみさきの作戦だった。
が、往人はサッと身を引いた。
しょうがないのでみさきは往人のみぞおちに膝蹴りを食らわしながら絡み合ったまま一緒に倒れこんだ。
「もう。往人さんたら、だ・い・た・ん(はぁと)」
みさきは強引に作戦を続行した。
「わたしのこといきなり抱きしめてくるなんて……」
青い顔をして呻き声を上げる往人の胸に、顔をうずめてささやいた。
「いいよ、わたし。往人さんなら……」
「てめえ人に膝蹴り食らわしておいて何言う――」
「あんたら、なにしとるん」
突然、頭上から声が降ってきた。いまだ絡みあったままの二人の身体が同時にびくりとする。
晴子が、仁王立ちしてこちらを見下ろしていた。
「えーん晴子さーん」
すぐさまみさきは飛びのいて晴子に涙目ですがりついた。
「この人がいきなりわたしのこと襲ってきて……」
みさきは強引に作戦を変えた。
「わたしが手を使えないのをいいことに抱きしめてきたり頬擦りしてきたり身体じゅうまさぐってきたり……」
「な、ちょ、てめえ!」
「わたしもうお嫁にいけない身体になっちゃった……」
「おい! 違う、違うぞ! こいつがいきなり――」
「居候」
晴子の凍てつく声音が往人の言葉をつぶした。
「あんたがそこまで堕ちとったなんてな」
「違うっつってんだろうが! おまえ、俺よりこいつのこと信用すんのかっ!」
「うーん、どうやろ」
「晴子さん。わたしの目を見て」
みさきが真摯な瞳を晴子に向けた。
「で、次はあの人の目を見て」
晴子が往人の瞳を覗きこむ。
「うわ、めっちゃ目つき悪っ」
「で、どっちを信用する?」
「あんたやな」
あっけなく勝敗が決した。
「ざけんなてめえらっ!」
「往人さん……」
いつの間にやら観鈴が泣きそうな顔で立っていた。
「観鈴ちん、幻滅……」
やっぱり泣きそうな声でつぶやいた。
「つーか俺のほうが泣きたいんだが……」
「往人さん、往生際悪いよ。てへ」
「……刺していいか、こいつ」
往人がどこからか獣の槍を取り出していた。
「えーん怖いよー」
すぐさま晴子の背中に隠れる。
「居候。あんたまだ懲りとらんようやな」
「懲りるもなにも俺は無罪だ」
「犯罪者はみんなそう言うんや。おとなしくお縄になり」
「ざけんなてめえ」
「なんやその反抗的な態度は」
「あいにくこの態度は生まれつきだ」
二人の間に流れる剣呑な雰囲気に、みさきはほくそ笑んだ。
これでわたしの手枷がほどけるのも時間の問題かな。やりっ。
「二人ともケンカしちゃだめ」
よけいなことに観鈴が仲裁に入った。
「みんな仲良く仲良く。にはは」
のんきな声で笑っている。さっきまでの泣きそうな顔はどこいったんだこのアマ、とみさきは心で舌打ちした。
「ま、しゃーない。今度はうちが見張りやろか」
当然のように晴子が言った。
「え、あれ? わたしのこと信用してくれたんじゃないの?」
「それとこれとは話が別や」
だったら紛らわしい言い方するんじゃねえよオバさん、とみさきは心で舌打ちした。
「うう、ぐっすん。しくしく」
「泣き真似しても無駄や」
ちぇっ、いいよーだ。
「居候。うちの代わりにあんたが観鈴のお守りや」
「なんか納得いかんが……わかった」
往人が獣の槍を晴子に手渡そうとする。
それを、みさきは口先をとがらせて、もの欲しげに眺めていた。
ひどいよ。それ、わたしの武器なのに。七瀬って子から奪ったわたしの武器なのに。
わたしの力でわたしのものにした武器なのに。
なのに、今はわたしの手にない。奪われちゃったから、手元にない。
奪え返したくてもできない。手がふさがれていては奪え返せない。
このままじゃ、取り返せない。
このままじゃ、わたし、取り戻すことができない……。
「やだ……」
みさきはつぶやいた。
もう奪われたままなのは、いや。いやだ。
「やだよ……」
もう、わたし、いやなんだよ。
もう、なにも、奪われたくないんだよ……。
「……なんや?」
晴子は首をかしげた。それから往人から手渡された獣の槍をぐっと両手で握りしめた。その顔には驚きが混じっていた。
獣の槍がぶるぶると振動を始めていた。ひとりでに動いていた。
それに呼応するかのように、ざわり、と。
みさきの漆黒の髪が急激に伸びた。
往人と観鈴が目をむいた。
「……らっきぃ」
みさきは笑んだ。そしてみさきの目、光の灯らない漆黒の瞳には、しっかりと遠くの人影が映っていた。
長い前髪から覗ける、点のような三つの人影。遠方、砂浜の向こう、けれど確実にこちらに近づいているのを感じる。
人外の存在が近づいているのを感じる。
「……!」
晴子が声にならない声をあげた。獣の槍が晴子の手から飛び出していた。それは空中で一回転し、ぴたりと停止し、みさきのもとへと一直線に突き進む。
目にもとまらぬ速さであっという間にみさきのもとに辿り着く、その前に、ちょうど進行上に立っていた往人が槍の切っ先を胸に受け、もんどり打ち、倒れた。
観鈴の悲鳴が響いた。
国崎往人には、なにがなんだかさっぱりだった。
ただ、自分が砂浜に倒れこんでいることはわかる。そして胸がこの上なく痛むことがわかる。ずきずきと、ずきずきと鳴り止まない痛み。徐々に意識が混濁していく。
胸に手を当てながら、往人は、かすむ視界の中で見ていた。
目の前に広がる光景を見ていた。
獣の槍がみさきの手枷を両断していた。嬉々としてみさきは槍を手に持ち、瞳を遠方にやり、地を蹴った。
「……邪魔だよ」
足を止め、槍をふりかぶった。
観鈴の顔に細長い影が落ちた。観鈴は目を真ん丸くしたまま、倒れ付す往人のほうを見たままで、避けようともしない。
横から晴子が飛び出した。観鈴に覆い被さった。観鈴が尻餅をついた。無防備の晴子の背中に、槍の切っ先が重なった。
晴子が、スローモーションのように倒れた。
観鈴のすぐ横で、そのままぴくりとも動かない。
晴子の身体が、足先からすこしずつ消えてゆく。
呆然とした顔の観鈴の脇を、みさきは凄まじい速度で駆けていく。その姿はすぐに小さくなり、点になり、見えなくなる。
そんな光景を、往人は傍観しているしかできなかった。
晴子の姿はもう完全に消えてなくなった。
なのに、往人も、観鈴も、なにも口にすることができなかった。
――俺も、死ぬのか。
胸に置いていた手の平からは、しっかりと心臓の鼓動が響いてくる。
――なぜ、俺は死なないんだ。
たしかに自分は、槍で刺されたはずなのに。なのに、往人の着ているステゴザウルスのTシャツには、傷ひとつ付いていなかった。
往人は声をかけようとした。観鈴に。観鈴はその顔を晴子の血のりで半分濡らしたまま、今はもう真っ赤に染まった後ろ頭の白いリボンをほつれさせたまま、呆然としていて、はあ、はあ、と呼吸していて、その瞳はうつろで、視線は絶えず晴子の消えた場所をうろついていた。
往人の視界が白濁する。
自分の着ているTシャツを、もし、晴子が着ていたら、と。
そんな思考とともに、往人の意識は闇に落ちた。
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