名雪が寝入ってから二時間ほどが経っていた。チッチッと響く時計の音を耳にしながら、相沢祐一はただぼんやりと椅子に腰かけている。
「……ふあぁ」
あくびが出た。ついでに腹の虫も鳴る。いったいいつから寝ていなかったか、そして食事を取っていなかったか。そんなことを考えながら、名雪の額に乗せられたタオルを代えようとして、そういえばさっき代えたばかりだったなと思い返して手をひっこめる。
また、あくびが出る。手持ち無沙汰だった。
「祐一さん」
奥のほうから葉子がやって来た。
「朝食ができましたが、食べますか?」
「……朝食?」
「はい。ありあわせもので作った簡単なものですが」
言いながら名雪の寝顔をちらと見て、ふたたび奥にひっこんでいった。そこからおいしそうな匂いが漂っていたことに今さらながら気づき、祐一もあとに続いた。
ダイニングにはこぢんまりしたテーブルが据え置かれていた。コーヒーとロールパン、皿に盛られた目玉焼きが二人分乗っている。
「夕べごちそうになったラーメンセットには及ばないと思いますが」
「……いや」
及ばないどころか超えている。というか、これは本当にありあわせなのか? 診療所には米と即席麺しかなかったはずなのに。
「材料なんてどこにあったんだ?」
「昨夜、この診療所に向かう途中に集落から拝借しました」
当然のように言った。抜け目がないな、葉子さん。
「ちなみに玉子はニワトリ小屋から拝借しました」
「そっか」
小屋からこっそり盗み出す葉子の姿が脳裏に浮かぶ。なんだかおかしい。
「この次はフライドチキンに挑戦してみるつもりです」
「……そっか」
逃げるニワトリを嬉々として追いかける葉子の姿が脳裏に浮かぶ。おかしいを通り越して怖い。
「私にかかればニワトリなど素手でさばけます」
「頼むからやめてくれ」
血で染まった両手に舌を這わす葉子の姿が脳裏に浮かぶ。夢に出てきそうだった。
「冷めないうちにいただきましょう」
葉子がしずしずとテーブルの席につく。
「……俺、食欲ないからいい」
「祐一さん。すこしでいいから食べてください。名雪さんが心配なのはわかりますが」
理由はそれだけじゃないんだけどな……。とりあえず席には着く。
「どうせなら三人で食べたかったな」
名雪の姿がここにないのがやりきれない。
「名雪さんが起きたら、すぐにもうひとりぶん作りますよ」
「フライドチキンはやめてくれよ」
言って、ため息をついた。
「……どうなんだろうな、名雪は」
熱が下がったわけでもなく、呼吸が落ち着いたわけでもなく、ただベッドで寝ているだけ。葉子の打った注射は効果があったのか、今はまだわからない。
「すぐによくなりますよ」
それは気休めだろうが、葉子が言うと説得力がある。
パンを一口かじる。パサパサしていて飲み込むのに時間がかかった。
「祐一さん。今日はこれからどうします?」
コーヒーをすすりながら改まって訊いてきた。
「どこか違うところに向かいますか?」
「そんなこと考えてる余裕なんかないだろ」
まさかあの状態の名雪を置いて外に出るわけにもいかない。
「名雪さんは回復します。それからどうするか訊いているんですよ」
「……強気だな」
「病は気からと言います。なにもそれは病気にかかった本人だけに当てはまるわけじゃありませんよ」
優しくほほえんだ。葉子らしくない温かみがそこにあった。
「なんで私がこんなこと言わなきゃならないんですか、まったく」
途端に不機嫌になる。やっぱりいつもの葉子だった。
「それで、どうしますか? 私としては、下手に動くよりはこのまま診療所に留まっていたほうが安全だと思いますが」
「そうだな。どうせ行く当ても……」
と、ふと思い出した。
「灯台に行ってみるかな」
「なにか用があるんですか?」
「ああ。昨日、集落で葉子さんが助けた女の子がいただろ?」
「あの、やけに奇声を発する子ですか」
たしかに「にょわ」とか「んに」とか謎の言語を操っていた。
「そうそう。それでな、その子、灯台に向かったんだよ」
集落の住居に立てこもっていた女の子、みちると、そしてもうひとり、美凪。無事を確認したかった。
「で、俺たちも誘われたんだよ。灯台に来ないかって」
「奇声っ子に誘われたんですか?」
いつの間にかみちるのあだ名が決定していた。
「いや、ほかの子。葉子さんが森に入ってる間に会ったんだけど。その子、灯台に島のみんなを集めるって言ってたんだ」
名雪が倒れる前に出会った女の子二人、名前は聞かなかったが……。とにかく、その子たちが灯台で待ってくれているはずだ。
「もちろん葉子さんも来るんだからな」
釘を刺しておいた。じゃないと変に遠慮されそうだ、これまでの葉子さんの言動からすると。
「賛成できかねますね」
刺した釘は効果がなかったようだ。
「いまさら遠慮するなって。俺たち三人、もう一蓮托生だろ」
「ならばなおさらです」
葉子のまなじりが鋭くなった。
「ほかに仲間など必要ありません。私たち三人だけでじゅうぶんです」
その言葉には、他人すべてを拒絶した感があった。
「信用できないのか? あの子のこと」
自分たちを誘ったときのあの子の表情、寂しそうな笑顔が思い返される。
「信用以前に、その子がどういう人なのかがわかりません。祐一さんは信用に足る人物だと思っているんですか?」
「ああ。誘われたとき、嬉しかったからな」
素直な感想だ。
「では、ほかのメンバーは?」
葉子が追及してくる。みちるの凶悪キックが思い返された。
「微妙かも」
「ならばやめておきましょう」
あっけなく拒否された。
「心配しすぎじゃないか?」
「あなたが楽観すぎるんです」
葉子の顔に呆れの色が混じった。
「集団行動はなるべく避けたほうが無難です。悪意を持つ者が一人でもいればすぐに私たちの身が危うくなります。ろくに抵抗もできないまま」
「そうか?」
「そうです。食事に毒でも盛られたらひとたまりもありません」
言われて祐一は目の前に並ぶ料理を見た。
「これにだって毒が混入されているかもしれませんよ?」
ロールパンを手にとって、葉子がにやりと笑う。
「上等だ」
そのパンをふんだくって、祐一は一息に口の中に詰め込んだ。
「……あなたは本当にお人好しですね」
「はんほへほひっへふへ」
「……ちゃんと飲み込んでからしゃべってください」
呆れ最高潮といった感じの葉子の表情だ。
「とにかく私は反対ですから」
「だったら多数決でも取るか。名雪を入れて三人で」
「……それは卑怯です」
「なんで。名雪も反対するかもだろ」
「そう言いながら顔がにやけてますよ」
「生まれつきこういう顔なんだ」
はあ、と葉子がため息をつく。
「どうせ私には味方なんていませんよ……」
いじけてしまった。
「俺はいつでも葉子さんの味方だけど」
「取ってつけたようなフォローなんていりま――」
と、葉子の顔色が変わった。
「祐一さん。身を低くして」
言いながら葉子はもう席を外して腰を屈ませていた。つられて祐一も身を低くする。
「どうしたんだ?」
「外に誰かいます」
葉子はキッチンの覗き窓に視線をやっていた。けれどその窓は小さく、外の様子はほとんど窺えない。わずかに曇り空が覗けるだけ。
「どうやら玄関のほうに回ったみたいですね」
ひょっとしたら葉子は誰かの足音かなにかを聞き咎めたのかもしれない。いったい誰だろう? この診療所を襲撃するつもりだろうか。
「いったん名雪さんのところに戻りましょう」
中腰のまま葉子は廊下に出た。すぐに祐一もあとを追った。
名雪は依然、寝息を立てたままだった。その顔はまだほんのり朱色に染まっている。
「祐一さん、名雪さんを頼みます」
葉子は三人分のデイパックをかき集めていた。数本のペットボトル、食料を詰め込んで一緒くたに肩に担ぐ。
それを横目に、祐一はベッドの毛布を横にやって、名雪の上体を慎重に起こした。
「……名雪」
呼びかけるが、反応しない。
「祐一さん、急いで」
葉子が玄関のほうを注意深く観察しながら小声で言った。
「どうするんだ?」
「もしここに入ってきたら、裏口から外に出ます。相手が誰かわからない以上、むやみに接触はしたくありません」
たしかにやる気なっている人物なら争いになるのは必然だ。ましてやその相手が郁未だったら目も当てられない。
意識のない名雪の腕を自分の首に回す。背中で名雪の身体を支えると、熱っぽい感触が伝わってくる。首筋に当たる名雪の息づかいがこそばゆかった。
「行きますよ」
移動を始める葉子に続いて、名雪をおんぶしたままこの部屋を出た。
玄関からはなにも物音は聞こえない。呼び鈴も、扉を開ける音も響いてこない。ホッとしながらも、身は低くしたまま忍び足で裏口へと向かう。
「……止まってください」
葉子がこちらに振り返り、顔をしかめた。
「どうした?」
「裏口のほうに回られました」
葉子の耳には相手の足音が聞こえているのか、それとも気配でわかるのか。とにかく自分らは相手に先回りされたらしい。
「戻りましょう」
葉子が手を後ろに振る。Uターンし、足を今度は玄関へと向けた。
「……おかしいですね」
玄関にたどり着く前に葉子は立ち止まった。
「また、ですか」
恨めしくつぶやいた。どうやらまた相手に先回りされたようだ。
「まるで私たちの行く方向が筒抜けになっているような……」
思案げにうつむいている。
「気配を悟られてるんじゃないか? 葉子さんみたいに」
「そんなことできるわけないでしょう。仙人じゃあるまいし」
非難がましく言った。
「でも葉子さんはじゅうぶん頑固で姑息な仙人っぽい……というのは冗談で」
殺されそうなのでやめておく。
「葉子さんだってさ、相手の行き先がわかってるみたいだったから」
「さっきから足音が聞こえていたでしょう」
「そうなのか?」
「そうです。祐一さんは注意が散漫なんです」
葉子は回れ右した。裏口へと戻るために。
今度は祐一の耳にもはっきり聞こえた。たしかに、壁を隔てたすぐ外から足音が聞こえていた。自分たちを追うように、裏口へとその足音は向かっている。
葉子が横合いをにらみつけた。腕を突き出し、その手の平を壁に向かわせる。息を殺し、その体勢のまま動かない。相手の足音も止まっていた。
このまましばらく沈黙が続くと思いきや、それはあっさりと破られた。
「戦う気なんかない」
男の声が壁越しに聞こえてきた。
「三人とも返事してくれ。誰なんだ、いったい」
聞き覚えのないその声の主は、どうやら襲いに来たというわけじゃないらしい。祐一は応じようかどうしようかと腰を上げかけて、
「待って」
葉子が手振りで制した。まだ警戒を解いていないようだ。しばらく待っていると、
「オレは折原浩平だ。危害を加えるつもりなんかない。ちょっと訊きたいことがあるんだ。……そっちに行っていいか?」
どうする? と葉子に目配せする。葉子はいまだ手の平を、その先に相手がいるだろう壁に向けたままだった。
「なぜ私たちが三人だとわかったんですか?」
そう尋ねた。言われてみればと祐一もようやく疑問に感じた。
「ああ。それなら簡単だ。教えるから、いいかげん逃げないでくれ」
「玄関に回ってください」
ここでやっと葉子と二人、立ち上がった。その浩平という男も玄関へと歩いていったようだ。祐一はいったんベッドの置いてある部屋に戻った。
「くー」
「……ぜんぜん起きる気配なかったな」
さすがは名雪。感心しながら糸目のままの名雪をベッドに寝かせつけ、廊下へと舞い戻る。背中を向けた葉子さんの頭越しに、両手を挙げた見知らぬ男が玄関に見えた。
「これは、レーダーですね」
「らしいな。デイパックに入ってたんだ」
「もらっていいですかこれ?」
「……それは非常に困る」
「私たちの武器と交換、というのはどうでしょう」
「どういう武器だ?」
「やかんのフタと望遠鏡です」
「……いるかそんなの」
「残念です」
「それよりオレはいつまで両手を挙げてなきゃなんだ」
「できればずっとそのままでいて欲しいんですけど」
「……かんべんしてくれ」
「仕方ないですね」
葉子がうなずき、浩平は疲れた顔で腕を下げた。
「偉そうなやつ……」
ぶつぶつ言っている。その気持ちわかるぞ、同志。
「でさ、訊きたいことがあるって言ってたよな」
祐一が歩み寄ると、浩平の視線はこちらに向いた。服は見たことのない制服、だけどなんだか他人の気がしない顔立ちの男子生徒だ。
「その前に名前を教えてくれ」
「相沢祐一だ。で、こっちは鹿沼葉子。向こうに水瀬名雪って子が寝てる」
聞き終えてから、しばらく浩平は顔を伏せて、
「いきなりだけど。あんたら、誰か殺したか?」
「……ほんとにいきなりだな」
閉口してしまう。見ると、葉子の顔に緊張が走っていた。右の手の平を広げたり握ったりしている。
「私たちは争いを好みません。あなたはどうか知りませんが」
「オレはただ探しものをしてただけだ」
「なにを探してるんです?」
「ドラゴンボール……じゃなくて、人なんだけど」
「誰ですか?」
葉子が遠慮なく尋ねると、浩平はすこし躊躇してから、祐一と葉子の顔を代わる代わる見た。
「澪……上月澪を殺したやつと」
その名前には聞き覚えがあった。一番初めの佐祐理の放送に挙がった名だ。
「それと、川名みさきっていう生徒。その二人だ。知らないか?」
「悪いけど」
どちらも見当もつかない。葉子のほうも同様らしく、首を横に振っていた。
「そうか……」
眉間にしわを寄せている。何事か考えているようだ。
「復讐、ですか?」
葉子が訊くと、数秒、浩平は迷ったような素振りを見せた。
「そうかもな」
その声はゾッとするほど無感情だった。
「……あのさ。その二人、もしかしてやる気になってるのか?」
澪を殺したという人、そして川名みさきという生徒。郁未以外にもゲームに乗ったやつがいるなんて、とても信じられない。自分たちは強制でこの得体の知れない島に連れられて来たのだ。
だというのに、なんで人を殺すのか。どういう理由で殺しているのか。
とてもじゃないが信じられなかった。
「どうだろうな」
浩平はそっけなく答えた。
「それは、本当に二人でしょうか」
今度は葉子が口を挟んだ。あごに人差し指を押し当て何か考えこんでいた。
「折原さん。あなたが探している二人は、同一人物かもしれません」
「……どういう意味だ」
「あなたがさきほど言った川名みさき。私は面識がありませんが、その生徒が上月澪を殺した生徒でもある。その可能性が高い。そういう意味です」
浩平の顔に、あきらかに嫌悪の色が浮き出た。
「どうしてそう思うんだ」
そしてその声はやはり無感情だった。
「単に確率の問題です。今現在、この島にはやる気になっている人物がいるとはいえ、それは少数でしょう。祐一さんや名雪さんを見ていると、そんな気がしてなりません」
一度こちらをちらと見て、続ける。
「そして、その少数のやる気になっている人物の中で、人を殺せる有効な武器を手にしているのはさらに少数でしょう。祐一さんや名雪さんの武器を思うと、そんな気がしてなりません」
大きなお世話だ。
「となれば、やはり――」
「もういい」
浩平が低い声で葉子の言葉をさえぎった。
「じゃあ、オレ行くから」
身をひるがえす。もう用はない、といった感じで。
「折原さん。もしカタキに出会ったとして、どうするおつもりですか」
浩平の足が止まった。そして――沈黙が落ちた。
こちらに背を向けたまま、浩平はぽつりと言う。
「さあな」
「迷いは捨てるべきです。あいまいなままでは、即、死につながりますよ」
浩平は答えなかった。玄関から外に出ていった。
「折原さん」
遠ざかるその姿に、葉子がもう一度声をかけた。
「この武器、いらないんならもらいますけど」
「…………」
葉子の手にはいまだ丸っこいレーダーが乗せられていた。
「そんなことでは、即、死につながりますよ」
慌てて戻ってきて、ふんだくって、今度こそ浩平は立ち去った。その背中はどこか寂しげだった。
「……あのなあ葉子さん」
なんでしょう、と葉子がこちらに目をよこす。
「なんていうかさ、もっと言い方があるだろ?」
しかも最後のはかなり余計だったし。
「これが私ですから」
くるりと回って廊下を歩いていく。
「朝食、きっと冷めてしまいましたね」
「だろうな」
祐一もあとを追った。その歩調は限りなく遅かった。
「どうしました?」
「……いや」
かぶりを振って、ゆっくりと、葉子と肩を並べた。
――――復讐、か。
その言葉が、頭にこびりついて離れなかった。
折原浩平は憔悴していた。
それはゲーム開始からずっと歩き詰めだった浩平にとっては当然のことだったし、いちおう睡眠も取るには取ったが、あまりよく眠れなかったのだ。
ある女の子の顔が頭から離れなかった。そしてそれは消えてしまった七瀬が残した言葉のせいだった。
川名みさき。
あのみさき先輩が、七瀬を殺したって?
そんなバカな。温厚で、人と会話するのが好きで、大食らいで、年上のクセに子供っぽくて、加えていたずらっ子のようなあの先輩が、人を殺した?
七瀬を、殺したっていうのか?
浩平はかぶりを振った。何度も、何度も。けれど焦心のような気持ちはいっこうに晴れず、先輩はそんな人じゃないという確信も一向に持てなかった。
七瀬が嘘をつくとは思えない。
しかし、先輩が七瀬を殺したとも思えない。
だったら、オレが取るべき行動はひとつ。みさき先輩に会って直接聞くことだ。
みさき先輩に会って、事実を聞いて、そして……。
「…………」
そのあと、オレはどうするだろうか。
もし七瀬を殺したのが本当にみさき先輩だったら、オレはいったいどうするんだろうか。
復讐するんだろうか。
オレが、この手で、みさき先輩を殺すんだろうか。
「…………」
診療所を出てからすこし南に下ったところで、浩平は立ち止まった。手にあるレーダーを覗きこむ。
現在、画面に映っている点は四つ。自分の存在を示すものと、そして診療所にいた三人のもの。それ以外は点滅していない。上部のボタンを押して範囲を拡大してみるが、点の数は増えなかった。
浩平はまた、南に向けて歩きはじめた。
どうやらこのレーダーは島全域を網羅できるわけではないらしい。自分の立っているところから一定の範囲しか探索してくれないのだ。
だから浩平はけっきょく島を歩き通すしかない。適当に歩いて、時折レーダーを確認しては、運よく追加された点のところに足を運ぶ。
その過程でオレは七瀬を見つけたわけだが――
遅かった。もし自分がもっと早く七瀬と合流できていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。七瀬は死ななかったかもしれない。
自分が、もし、あのとき。小屋を出てすぐに七瀬を捕まえておけば。
情けない。本当に情けない。やつ当たりで、使い勝手の悪いこのレーダーを叩き壊したい衝動に駆られる。
とはいっても、もし自分の武器がレーダーじゃなかったら、七瀬とは再会できないままだっただろう。その点では、このレーダーを手にしている自分は運がいい。
不幸中の幸い、というやつだろうか。
浩平は足を止めた。レーダーを覗き見る。
点の数はやっぱり四つ。変わっていない。
ふたたび歩き出そうとして、そのとき立ちくらみを覚えた。そろそろ体力も限界のようだ。いったんどこかで休憩をとったほうがいい。
このへんは住宅が点在する集落。休憩場所には困らない。無理は禁物、はやく休もう、なにか視界まで歪んできたみたいだ、ほら、レーダーの一点、オレの居場所を示すマークが実際にブレて見える――
「……!」
浩平は反射的に振り返っていた。担いでいたデイパックを勢いよく振り回しながら。
点の数が、四つだと思っていたマークの数が、本当は五つだったことに気づいたから。
「きゃっ」
振り回したデイパックになにかぶつかる感触、同時に誰かが悲鳴をあげた。その相手は草むらに尻餅をついて、その手に持っていた、なにか、長方形をした機器みたいなものを地面に取り落とした。くるくる回転して浩平の足元までやって来る。
相手はすぐさま起き上がってその機器に手を伸ばした。
その前に浩平はその機器――スタンガンだろうか? を拾い上げた。相手の動きがぴたと止まる。
そして……浩平は見た。
まず、相手の服装を。見慣れた制服、自分と同じ学校の生徒。腰あたりまで伸びた日本人形のような黒髪、見紛えるはずもない顔――そして。
川名みさきが目の前で立ち尽くしていた。
「……先輩」
意識せずつぶやいていた。
「その声、浩平君?」
みさきが光の灯らない黒色の瞳でしばらくこちらを見返してから、その表情を膨れっ面に変えた。
「もう。いきなり浩平君が乱暴するから、びっくりしちゃったよ」
そしてその表情が、笑顔に変化する。
「ひさしぶりだね、浩平君」
「……ああ、そうだな」
浩平は乾く唇を舌で湿らせて、
「本当にひさしぶり、だ」
「うん。元気だったかな?」
「まあ、それなりに。先輩は?」
「わたしは元気じゃなかったよ」
みさきが眉尻を下げる。
「……どこかケガしたのか?」
「ううん。違うの。そうじゃなくて」
ふっと寂しそうな笑みを湛えた。
「じゃあ、どうして?」
「浩平君いじわるだよ」
「……先輩ほどじゃないけど」
「ほんと、いじわる」
と、みさきは、とてとてとこちらに駆け寄ってきて。
「浩平君のことが心配だったから、だから元気じゃなかったんだよ、わたし」
ぽふ、と浩平の胸に顔をうずめてきた。
すぐさま浩平は飛びのいた。心臓がばくばく鳴る。
「あれ。抱きしめてくれないの?」
不満そうな先輩の顔。
「……いや、なんつーか、その」
オレ、いつの間にみさき先輩ルートに突入したんだろう? というか、こんなに積極的だったっけ、先輩って。
それに、今気づいたけど、なんで先輩、背中にヤリなんかしょってんだ?
「浩平君、わたしのこと嫌いなのかな」
「……いや、嫌いっていうか」
「じゃあ好き? 愛してる?」
この人ほんとに先輩か?
「ね。どっちかな?」
「……どっちかといえば、好き、か?」
疑問形になってしまった。が、みさきは気にするふうでもなく、
「じゃ、わたしたち相思相愛ってことで、もう一度」
数歩後ろに下がり、スタンディングスタートをきって、
「浩平君!」
とんでもないスピードで突進してきたので浩平は驚いて横に避けた。
そのままちょうどよく背後に立っていた樹にみさきはおでこからぶつかった。
「……ううっ、よけたあ。浩平君がよけたあっ」
額に両手を当てて涙ぐんでいた。
「いや、なんか攻撃してきたから」
「攻撃じゃないよ! 感動の再会場面だよっ!」
そうなのか? ていうか先輩、今思いっきりヤリを突き出しながら突進してきたような……。
「七年振りの再会で木にぶつかったのってわたしくらいだよ……」
「やったな、世界新だ」
「うぐぅ、うれしくない」
先輩、キャラ変わってるって。
みさきは立ち上がって制服のほこりを払い落とすと、くすっとほほえんだ。
「でも、浩平君が元気そうでよかったな」
にっこりした笑みを浩平に投げかける。その笑顔はやっぱり先輩の笑顔で、オレはどうにも混乱してしまう。
訊かなきゃならないことがあるのに、それがはばかられる。先輩の無邪気な笑顔を前にすると、口が思うように動いてくれない。
先輩は、やっぱり先輩なんだなって、そう感じる。
でもそれと同時に七瀬の、あの苦しげな顔が思い出されて。
ぎり、と浩平は歯軋りした。
「浩平君、いま一人?」
不意にみさきが訊いてきた。
「……ああ。まあな」
「じゃあ、わたしと一緒しよ?」
上目遣いで見つめてくる。
「わたし、浩平君のこと好きだよ。ずっとずっと好きだった。屋上で初めて出会ったときから、ずっと」
その声は、やっぱりどう聞いても先輩の声に変わりなくて。
「でもね。でもわたし、この島で、浩平君に会えなくて」
表情も仕草も、やっぱり先輩のものに変わりなくて。
「わたし、ずっと一人で。この島でずっとひとりぽっちで。だから……」
おずおずと右手を差し出してきた。迷子だった子供がようやく安心できる相手と出会えたかのように。その眼差しは、一直線に浩平の瞳へと伸びている。
浩平は、みさきと同じように右手を突き出して、
「……浩平、くん?」
その浩平の右手には、さっき拾ったみさきのスタンガンが握られていた。ジジジジ、と鳴らすと盲目のみさきにも浩平の手にスタンガンがあることに気づいたのだろう、驚いた顔をした。
「だめだよ? それ、危ないんだよ。人に向けちゃいけないんだよ」
「……先輩」
「ね? お願いだから、下に降ろして――」
「先輩。もう、いいから」
みさきが、よくわからないといった感じで小首をかしげた。
「オレ、七瀬に会ったんだ。先輩も会ったことあるはずだ。青い髪に長いおさげの子だよ。その子が言ってたんだ。盲目の人に気をつけろって」
みさきは両目を見開いて浩平を見た。おろおろして、まごまごして、
「ち、違うんだよ。あ、あれね、あれはね、事故だったの……。七瀬さんが急に私のこと襲ってきたから、それで……」
怯えた表情。理解と保護を求めた表情。
みさきの泣きそうな顔。
でもそれが、浩平にはなにか作り物めいた顔に見えた。
「わたし、しかたなく……。ほんとはあんなことしたくなかったのに」
「先輩」
その浩平の声が、冷たくて、荒んでいて、自分でも信じられなかった。
「七瀬は自分から人を襲うようなやつじゃない。オレはそのこと、よく知ってる」
「…………」
と、そのとき、風が吹いた。生暖かくて、どろりと濁ったような潮風。
みさきの長髪が横に流されて、一瞬、その顔を隠した。
「……ふーん。そっか」
そして髪が元通りになったとき、みさきの顔には悪戯めいた微笑がはりついていた。
「七瀬さん、しぶとかったんだね。すぐ死んじゃったかと思ったのに」
くすくすと笑い声を漏らした。
「……なあ。なんでだ」
「? なにが?」
「なんで殺したんだよ……先輩っ!」
叫んだ。破裂しそうなほどに暴れる心臓をそのままに、声を荒げていた。
みさきはすっと瞳を細くして、ほほえんだ。
「浩平君ってさ、なにか大事なもの奪われたこと、ある?」
それは急な質問だったため、浩平にはその言葉の意味内容がなかなか頭に入ってこなかった。ようやく入ってきたときには、もうみさきの話が続いていた。
「わたしはあるよ。事故で目が見えなくなって、ちょっとした不注意で目が見えなくなっちゃって。それなのに、たったそれだけのことなのに、たくさん、たくさん、たくさんたくさんたくさんたくさん――」
みさきの顔に、表情がなくなった。
「――たくさん、大事なものを奪われた。だから今度は奪う側に回るの」
そして気づいたときには、みさきの顔には笑みが戻っていた。
「ねえ。これって、よくないことかな?」
――――。沈黙。
先輩、それは……。
浩平はなにか言おうとして、けれどその前にみさきはくるっと身を返していた。
「わたしね、性格は変わっちゃったけど、でも浩平君のことは嫌いになってなかったよ」
遠ざかるみさきの背中に、浩平は追いすがることができなかった。
「ばいばい、浩平君」
みさきは集落を突っ切って、横に長く広がる森に入っていく。奥へ、奥へ、丈の長い雑草を踏み分けていった。
すぐにその姿は生い茂る木々にさえぎられ、見えなくなった。
でも、それでも浩平は、追いすがることができなかった。
今はもうみさきの姿が消えてしまった森をただ、見つめていた。
あーあ。スタンガン、取り返し損ねちゃったよ。失敗しちゃったな。
川名みさきは薄暗い森の中(て言っても今日は曇りだから森の外も暗かったけど)を、南のほうに向かって歩いていた。
どうにかしてまた武器を調達しなきゃ。誰かに会って、誰かにお願いして、というより背後からいきなり襲うかなんかして武器を奪わなきゃ。
現在、みさきが携帯している武器は、最初に支給されたキノコの詰め合わせ(武器っぽくないけど)、砂浜で拾ったマジックペン(さらに武器っぽくない)、そして背中にしょっている獣の槍。
これだけじゃ心もとなかった。獣の槍は強力らしいけど、普通の人間には単なるヤリでしかないんだから。まあ、単なるヤリでも刺すくらいはできるだろうけど。
とにかく有効な武器が必要だ。ちゃっちゃっと人を殺せそうな、有効な武器が。
じゃないと、自分の身を守れない。自分の身が危険にさらされる。
だって、わたしのほかにも、やる気になっている人はいるんだから。ぜったいに、すくなくともひとりは。
それは山の展望台に登ったときのこと。雪ちゃんと一緒に、わたしは襲われた。なぜか巨大なカエルに襲われていた。直後にファンファーレが鳴った。
で、雪ちゃんは、死んじゃった。
わたしひとりが生き残った。
ふんふーん、と鼻唄を歌いながらみさきは森を突き進む。それから、歌なんか唄ってたらそのファンファーレの誰かさんに気づかれて奇襲でもされそうだと思い直し、いけないいけないと舌を出す。
実は、みさきはご機嫌だった。スタンガンは奪われたけど、なんといってもわたしは出会えたんだ。浩平君に。
大好きだったらしい浩平君に。
軽い足取りで草を踏み分け、みさきは、
「らっきぃ」
今の気持ちを口に出して表現してみた。
そしたら途端に、なんだか、胸のあたりがずきっとした。
「らっきぃー、らっきぃー」
…………。
「らっきぃ……」
なんだろう。胸が痛い。なんだろう。
「ふんふーん、らんらら〜」
また唄ってみる。けれどご機嫌だった気持ちは、なぜだか今は落ち込んでいた。なんという気持ちの切り替えの早さ、ちょっとびっくり。
「…………」
鼻唄にも飽きていた。というより、いいかげんこのままだと誰かに見つかりそうなので、みさきは口にチャックした。
ちらっと首を上向けると、ひしめき合う梢が見事に空を隠していた。昼なんだか夜なんだかわからない。たぶん朝だけど(ちなみにこれらの風景は盲目のわたしにはもちろん見えないから単なる想像だし、これからもわたしの想像だからね)。
とにもかくにも、みさきは歩いていくのだった。適当に。
そのうちに道行く先で森が途切れていた。地図でいうと、その先には砂浜が広がっているはずだ。
期待を胸に、みさきは森の境の木陰に近寄り、そこからぴょこんと顔を出した。
「……らっきぃ」
人が見えた。前方二十メートルほどのところ、土の地面が砂に変わるその場所で、誰か知れない二人がこちらに背を向けて腰かけていた。
「往人さん、遅いね」
「どうせ道草食っとるんやろ」
潮風に乗って、かすかに話し声が聞こえてきた。どちらも女の声だ。
「迷ってるんじゃないかな……」
「まさかタンク片手に森の中には入らんやろ」
そこでみさきは、二人の側にバイクが停まっているのに気づいた。うーん、これを奪うのはちょっときつそう。でも乗ってみたいかも。
「おなか減ったな……」
「ちゃんと食料も調達してくるやろ」
ふふん、そのままそのまま、二人でしっかりおしゃべりしててね、こっち見たらだめだよ。みさきは移動を始めていた。
目標は二人の後ろに置いてあるデイパック三つ。これを奪う。
でもって、ついでにこのヤリでばっさり。
二人の背中をばっさり。
「往人さん、食べ物見つけても全部自分で食べてそう」
「そうやったらお仕置きせなな」
自分と相手との間にはまばらだが高い樹が生えている。それに身を隠しながら、足音を立てないよう、ゆっくりと、確実に二人の背中に忍び寄っていく。獣の槍をぎゅっと固く握りしめる。
「わたし、ちょっと見てこようかな」
「やめとき。ミイラ取りがミイラになるだけや」
「が、がお……」
もう、ほんの目と鼻の先。はっきりと二人の後ろ頭が確認できる。
「観鈴。熱あるんとちゃうか?」
「え、な、なに、いきなり?」
「顔赤いで。風邪ひいたんとちゃうか?」
「う、ううん。そんなことないよ、にはは」
こんなに近づいているというのに、二人がこちらに気づいた様子は、ない。
ばいばい、のんきな誰かさん。言っとくけどわたしを恨まないでね。恨むんなら自分の運のなさと、それと。
あのとき、わたしを殺さなかった、浩平君を恨んでね。
――ばいばい。
みさきはヤリを振りかぶって――その後頭部めがけて振り下ろそうとして。
「おまえ。そこでなにしてんだ」
みさきの身体は硬直した。
目の前の二人がすぐにふり返り、その視線が、ちょうどヤリを持ってばんざいのポーズを取る自分に向くのに一秒もかからなかった。
「だ、誰や、あんた」
みさきはぱっとヤリを後ろ手に隠した。ふんふふーん、と鼻唄を歌ってみたり、ひゅ〜ひゅ〜と鳴らない口笛を吹いてみたりする。
「こいつ、おまえらを襲おうとしてたぞ」
すぐ横合いから男の声。一番初めに声をかけてきたその男(うっわー、目つき悪い)が、いぶかしげな顔でこちらを観察していた。かわいい恐竜がプリントされたTシャツ姿(うっわー、似合わない)、両手にはガソリンタンクのような容器を抱えている。
わたしとしたことが、目の前の二人につい注意をやりすぎていたようだ。ほかの誰かの接近に気づかないなんて……しっぱいしっぱい。
「で、あんた何者や」
「怪しい者じゃないよ。てへ」
「ごっつ怪しいわ……」
胡散臭そうな目つきをする桃色の髪の女性に、みさきはうるうるの上目遣いを向けた。
「わ、わたし、ただ、人が見えたから……。それで話しかけようとしただけで」
両手を組んで拝むポーズ。
「嘘つくな。俺には今にもヤリを振りかぶろうとしてたように見えたぞ」
「そ、そんな、ひどいよ……ぐすん」
その場にしゃがんで肩を震わせる。
「ぐっすん、しくしく」
「うそ泣きはやめろ」
「往人さん!」
と、いきなり金髪の女の子が声を高くした。
「むやみに人疑っちゃだめ」
「……疑うもなにも、俺は事実を言ってるだけだ」
男の人の声が聞こえているのかいないのか、その女の子は素知らぬ顔でこちらを見た。
「わたしは観鈴。で、こっちはお母さんの晴子。あっちが往人さん。よろしくね」
頼んでもいないのに自己紹介してきた。
「えっと、みさきだよ」
すると観鈴はニパッと笑って、
「みさきさん、わたしは信じるからね」
この人すっごい良い人。
「うん。ありがと」
「いいよ。わたしたちもう友達。にはは」
「うん。ありがと」
「いいよ。わたしたちもう親友。にはは」
「……観鈴。あんたは向こう行っとき」
隣で晴子があきれていた。
「どないしよか、この子」
仁王立ちして見下ろしてくる。このままではデイパックを奪うどころじゃない。みさきはどうにか友好的な態度を取ろうとして、
「わたし観鈴ちんの友達。にはは」
「……いい度胸やないか、この子」
火に油を注いでいた。
「ほっとけばいいだろ」
往人が面倒くさげに言った。
「できるかいな。さっきヤリで襲われそうだったってゆうたのあんたやろ」
「……たしかに。じゃ、とりあえず縄で縛っとくか」
「えーん、ひどいよう。横暴だよう。目つき悪くて怖いよう」
「……縄で縛ったら海にでも放り込むか」
どんどん火に油を注いでいた。
「みさきさん、かわいそう」
観鈴がふくれていた。
「自業自得だろ」
「往人さん、なんでも勝手に決めつけちゃだめ」
「勝手もなにも俺はこの目で見たんだぞ……」
「きっと幻覚だったんだよ。てへ」
「……こいつ、このヤリで刺していいか」
気づけば獣の槍を奪われていた。ていうか、わたし、もう喋らないでおこう。
「ま、しゃあないな。信用できるかどうか、しばらく様子見てみよか」
晴子が名案とばかりに言った。
「んな悠長なことしててまた襲われても知らんぞ」
「もちろんあんたが監視するんや」
「……なんで俺が」
「うちらみたいなか弱い女じゃ、もしものとき対処できんやろ?」
「誰がか弱い……全力を持って遂行しよう」
晴子の氷の眼差しを、往人は慣れたように受け流した。
「たく、人使い荒すぎだぞ……」
ガソリンも食料も俺一人で取りに行かせるし……と、ぶつぶつ愚痴っている。が、その鋭い視線はこちらから一時も外れなかった。
その間に、晴子は海岸のほうに歩いていって、手に魚網を持って戻ってきた。
「暴れたらケガするでー」
楽しそうに言って、その漁網で出際よくみさきの手首足首を縛り、ぽいっと転がした。
「こんなもんやろ。乱暴もしたないし」
手首に食い込む網がちょっぴり痛い。これ、じゅうぶん乱暴なんですけど。
「みさきさん、わたしは信じてるからね」
だったらこの網なんとかしろやコラと思いながらも、みさきは観鈴に対して感謝感激の意を述べた。
さて、と。
これからどうしようかな。
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