もうすぐ陽が落ちる。空と同様にして紫紺に侵食されつつある周辺を見やりながら、柳也は壁にあずけていた背中を離し、ふり返った。

 夕陽の赤黒い明かりに照らされたその空間は、入り口の看板に漁業組合と書かれてあった建物の中だった。そこは、柳也が以前、神奈の警護にあたっていた社にしつらえてあったどの部屋よりも広く、漁網や釣竿、ほかにも車輪のついた見たこともない巨大な機具が鎮座している。隅のほうには何製かよくわからない白い箱、そして餌や肥料が入った袋がどっさりと積み上げられていた。

 しかし、漁業にはつきものの船が一隻も見当たらなかった。この島からの脱出を阻むため佐祐理が撤去したのか、はたまたこの世界では船などなくとも漁業が成り立つのか。

 どちらにしろ、柳也は海に出ての逃亡は半ば諦めていた。この場所からでもじゅうぶん見渡せる海上には、今もなお尋常でない濃さの霧が立ち込めているのだ。この霧が晴れぬ限りは、船を用意してもたちまち遭難するのが目に見えている。

 柳也は、この空間の片隅に仕切り壁によってつくられた、事務所のような部屋に視線を転じた。出入り口の扉が開け放たれており、その奥には机や椅子が並んでいる。机上には四角い形の不可解なものが数種、乗せられてあった。

 そしてひときわ目を惹くものも、ひとつ、乗っている。

 裏葉のまとっていた十二単を毛布代わりに包まっている神奈だった。すぴーすぴーと断続的に立てる寝息は、すでにけっこうな時間、続いていた。起きる様子はない。

 森の中、国崎往人と神尾観鈴の二人を捜し歩き、けっきょく見つからず、そのあと森から出てこの横長に広い建物に入ってから、神奈は倒れこむように寝入ってしまったのだ。

「疲れてたんだな……」

 張りつめていた気持ちがようやく解かれたのだろう、殺しあいの場に投じられてから、ずいぶんな時間を神奈はひとりきりで過ごしていたのだ。佐祐理たち打倒の協力を往人と観鈴に仰ぐため、この建物を出てはやく二人を見つけ出したい衝動には駆られるが、気持ち良さそうに寝入る神奈をわざわざ起こすつもりもなかった。

 それに、この建物に居続けるだけでもいくぶん収穫はあったのだ。今現在、この島の状況がどうなっているのか、それが知れた。

 柳也が立っているこの場所は漁業組合のすぐ入り口。ここで、柳也はこの建物の警護をしていた。自分の存在が外からは悟られぬよう、しかしこちらからは外の様子が知れるよう、慎重に、壁に身を隠しながら。

 そうやって警護しているうち、この場所からちょうど南、集落のほうから轟音が響いてきた。誰かが争いを始めたのだろう、警戒態勢をとっていると、そのうちに音は途絶えた。しばらくして、その集落のほうからやって来た人物が四人、この建物の前を通りかかった。

 すべて見覚えのない娘だった。が、殺しあいの場に投じられてから初めて出会った他人(神奈と裏葉を除いて)に、柳也は気を高ぶらせた。往人や観鈴の所在を聞けるかもしれないと思ったのだ。

 けっきょくは、思っただけだったのだが。

 声をかけるのはためらわれた。むやみに他人に接触しては、自分らの目的を佐祐理たちに感づかれる恐れがある。自分らの目的を佐祐理たちに告げ口されるかもしれないのだ。それに、なにより問答無用で襲いかかってくる危険性だって否定できない。争い事はなるたけ避けるのが無難だ。

 それからは周囲に何の変化もなく、平穏な時間が流れていた。

 と、まあ。そんなこんなで観鈴たちの所在はいまだつかめず、もう殺されてしまったのではないかと不安にも駆られ、殺されていないにしろ今この瞬間にも襲われているのかも知れず、そう思うといてもたってもいられず、やっぱり神奈を起こして探しに行こうかと思案し、こうなったら一人で出発するかとも考え及び、そうなったら神奈は誰が守るのだと自分を叱責し、最後にはまあ急ぐこともないかと結論を下す。

 あまりに暇な警護役に、思考がくるくる回っていた。

「ふふ。さきほどから百面相のようでございますね、柳也さま」

 背後に裏葉が立っていた。いつもながら気配を悟らせてくれない。これでは武士の名折れだ。

「なんだ、そっちはもういいのか?」

「はい。おおかたは」

 裏葉が微笑しながら答えた。この建物にたどり着き神奈が眠ってから、裏葉は事務所のほうで何事か作業していた。神奈さまがお目覚めになられるまでにお手玉の解析を済ませておきます、と言っていたと思う。ちなみにお手玉とは、神奈に支給された武器のことらしい。

「で、解析の結果は?」

 すくなからず興味を覚えて訊くと、

「殺傷能力をようした火薬でした。現代風で言えば火炎瓶、もしくは手榴弾」

 しれっと言った。以前にも思ったが、なんで現代風なんかの言葉を知っているんだろう。

「解析ついでに改造も施しておきました」

 しれっと付け足した。なんでそんなことができるんだろう。

「これからのことを考え、敵の根城を一瞬にしてこっぱ微塵にできるよう、より殺傷能力を高めておきました」

「だから、なんでそんなことできるんだよ」

「あれです」

 裏葉は横合いを指差した。そこには山積みになった肥料の袋がある。

「あの肥料の成分、硝酸アンモニウムと、ポリタンクに入っていた灯油を少々いただきまして、あとはお手玉に仕込まれてあった電管を利用すれば、より強力な爆弾のできあがりでございます」

 細かな説明ありがとう。しかしそれは、なんで裏葉がそんな技術を持っているのかという答えにはなっていない。とりあえず裏葉の見聞がとんでもなく広いことだけは知れたが。

 裏葉はそんな柳也のうろんげな顔を見て、

「わかりやすく申しますと、ネズミ花火の火力を核弾頭ミサイルの火力まで向上させたような感じでしょうか」

 微笑を崩さずそう言った。裏葉の見聞は広いどころかすでに常軌を逸している気がしてきた。というか、それは本当にこれからのことを考えたうえでの改造なんだろうか? 核弾頭ミサイルがどういったものか柳也には見当もつかなかったが、神奈に与えるには危険すぎる武器だというのは本能で知れた。

「あとで神奈さまにお手玉の遊び方を教えて差し上げませんと」

「頼むからやめてくれ」

 宙に放り投げた三個のお手玉を誤って地面に落とし、反動で爆発し、三人一緒でこなごなに吹き飛ぶ様子が脳裏をよぎった。

「柳也さま。わたくしたちは死してなお神奈さまと共にありましょう」

「それは嫌味か」

 すくなくともその台詞は感動的な場面で言うべきだと思った。

「では、さっそく神奈さまを起こしに参りましょう」

「……おまえ、遊んでるだろ」

「バレましたか」

 裏葉は小悪魔めいた笑みを浮かべ、

「神奈さまは寝起きが悪うございますからね。けれどこの裏葉めにかかれば一発でございます。ほほほ」

 しずしずと事務所に戻っていった。まあたしかに、神奈は頭を乗せている枕をどけるとすぐ起きるからな。というか、けっきょく起こすのか、おい。

 柳也はため息をついて外を眺めた。夕方から夜へと移行する周辺、しかしその景色以外はなんら代わり映えのしない警護を続ける。まあ、いい気分転換にはなったかな。心の中で裏葉に感謝する。

「……ん」

 そのとき、代わり映えがしないと思いきや、静かな足音が耳に触れた。距離は……かすかな足音ではあるが、遠くはない。ちゃんと警備をしていたならもっとはやくに気づけただろう距離だ。裏葉、おまえが邪魔したせいだぞ。心の中でさっきの感謝を撤回する。

 息を詰めて耳をそばだてる。地面を踏む音の重さ、その間隔、歩幅からして婦女子。だんだんとこちらに近づいてくる。柳也は脇に差してある日本刀の柄に手を添えた。

 その刀は柳也に支給された武器だった。刃と峰が逆さになった『逆刃刀』。その刀と一緒に、飛天御剣流という名の奥義の伝授書も同封されてあったが、どう見ても人間業じゃない奥義だったので早々に会得はあきらめていた。

 とはいうものの、柳也はこの刀を気に入っていた。コロサズの誓いを立てた自分には、まさにうってつけの武器だったから。

 壁を背に、柳也は身をひそめた。もう相手はこの漁業組合を通りかかろうとしている。そのとき、はじめて相手の姿が視界に現れた。貧弱そうな身体つき、髪は肩にかかるかかからないかのところで綺麗に切りそろえられ、茶色の布地を肩にかけた、年端も行かぬ娘だった。

 観鈴ではない、か。もしやとも思ったのだが。その娘はこちらを一瞥しただけで、そのまま通り過ぎようとしている。この建物の中は明かりを消しているし、夕闇のため見通しも悪い。だから人の気配など察せられないはず。

 予想に違わず、その娘は自分らの存在に気づいた様子はなかった。だが、油断は禁物。いつこの建物に踏み入り襲いかかってきても対処できるよう、柳也は物陰に隠れつつ娘の背中を見送る。刀の柄を固く握り締める。

 息を殺して、こちらの気配を察知されぬよう、ほんのわずかな音も発さないように。

 娘はふり返りもせず遠ざかっていく。

 争いは回避したか。柳也はホッと胸をなでおろし、

「うがああああ! なぜできんのだああああっ!」

 突然背後から飛んできた大声にのけぞった。

「ええいっ! 裏葉の教え方が下手すぎるゆえ、余には理解できんのだっ!」

「おいたをするのはこの口でございますか神奈さま。ええ、神奈さま?」

「うぐぐ……。離せ裏葉、ぐるじい……」

 見れば、奥の事務所のほうで、ほほえみながら神奈の首をつかんで吊るし上げている裏葉の姿があった。その足元には、裏葉の手によって改造されたお手玉三個が転がっていた。

「本当に教えてたのか、裏葉……」

 額をおさえ、それから柳也はさっと横に身を引いた。

「誰か、いるんですか?」

 足音がこちらに近づいてきた。それはそうだろう、今まで気配を殺していた自分はなんだったのかと泣きたくなるくらいの大声だったのだから。

「えっと……ごめんくださーい」

 あいさつしてくる。そして、その名も知らぬ娘が首をかしげながら建物に一歩を踏み入れた、その瞬間。

「止まれ」

 物陰から背後に回り、柳也は脇に差していた刀を娘の首筋に押し当てた。びくり、と震えたのが刀越しに伝わる。

「両手を頭に乗せろ」

「……え。あの」

「はやくしろ」

 チャリ、と刀を鳴らすと、娘はおずおずと言う通りにした。一拍おいて、柳也は声色を変えた低い声で尋ねた。

「名前は?」

「……美坂栞、です」

 か細い声で返してきた。怯えているのがはっきりと窺える。

「どこに向かうつもりだった?」

「……灯台、だったんですけど、声が聞こえてきたから」

「ほかに仲間は?」

 娘は答えなかった。じっと押し黙っている。

「答えろ」

「……私一人です」

 ぽつりと言った。柳也は目の前の娘に注意を向けつつ、建物の外に横目をやった。誰の気配も感じられない。

「本当か」

「……さっきまで二人一緒だったんですけど、今は、私だけです」

 答え辛そうに言った。はぐれたのか、もしくは殺されたか。どちらにしろほかの誰かが隠れ潜んでいることはないようだ。

「わかった。最後の質問だ」

「さ、最後って……!」

「動くな」

 ふり向こうとする娘に対し、釘を打った。

「そういう意味じゃない。俺もよけいな殺生はしたくない」

 娘はぴたと動きを止めた。これまでの威圧した口調をいくぶん和らげ、柳也は尋ねた。

「人を捜している。神尾観鈴と国崎往人の名に覚えは?」

「……聞いたことないです」

 記憶の底をさらうようにあごを上向けてから答えを返してきた。その間、これといって不審な態度は見せなかった。嘘をついてはいない、か。

「頭に白地の布を巻いた、ちょうどおまえと同じくらいの歳の娘と、目つきの危ない長身の男だ。見覚えは?」

「……ごめんなさい、知らないです」

「そうか」

 柳也は身を離した。首筋に当てていた刀をそっと引き戻し、腰に下げる。

「すまなかった。もう、いいぞ」

 言うと同時に、娘は脱力して膝を折り、地に両手をつけた。

 途端に地面に向かって咳き込みだした。必死に胸をつかみ、なにか込み上げてくるものに耐えるように、苦しげに呼吸していた。

「……どうした?」

 柳也は娘の前に回りこんだ。その頬には脂汗が滲んでおり、見るからに顔色が悪い。荒い呼吸に熱が帯びているのに気づいた。

「あ、あはは。こ、怖かったんで……それで」

 ひきつった笑みを無理につくりながら娘は頭を持ち上げた。柳也はけげんに思った。怖かったからといって、こんなふうに咳き込むものだろうか。

 発作、のように見えた。なにか病を患っているのだろうか。

 その娘の様子をしばらく観察していた。どうにか発作は治まったのか、しゃがみこんだまま娘がこちらを見上げた。大きな瞳をぱちくりさせ、じっと見つめてくる。

「あの……コスプレ、ですか?」

 不意に訊いてきた。コスプレ? なんだそれは。

「わたくしたちから見れば、あなたの衣装こそコスプレですよ」

 静かな足取りで裏葉がそばに寄り添ってきていた。さきほどの問答を離れて聞いていたのだろう。かたわらには神奈の姿もある。

 裏葉はすっと眼を細め、娘の顔を注視した。娘はきょとんとする。

「栞さん、と言いましたか。あなた、なにか病を――」

「ただの風邪です」

 ぱっと立ち上がって栞は言った。そのあまりにはやい反応に柳也は気圧された。答えた栞のほうも「しまった」という顔をし、所在なさげにうつむいた。

「そうは見えませぬが」

 裏葉は表情から微笑を消していた。と、栞が照れたような笑顔をつくった。

「実は、流行性感冒なんです」

 聞いたことのない病名だ。重い病気なのだろうか。柳也がそんなことを考えていると、なぜか裏葉は大きくため息をついた。

「私的な事情に踏み入るつもりはありませぬが、何事も一人で抱え込むことはないと思いますよ」

「え……あ、はい。そう、ですね」

 栞はしどろもどろに答えてから、

「でも、ほんとに平気なんです。まだまだドーピングできますから」

 肩にかかった布をびろんと得意げに広げた。たくさんの紙袋が貼りつけてあった。

「……なんにしても、すまなかったな。無理をさせたようで」

「いえ。こんな状況ですから、しょうがないです」

 栞がにっこりと笑って答えた。それからぺこりとお辞儀した。

「それじゃ、私はこれで……あ」

 なにか思いついたように、唇に人差し指をあてがった。

「よかったら、皆さんも一緒に来ませんか」

 そう提案した。そういえば、この娘は灯台に行くと言っていた。理由は知らないが。

「なぜ、そのようなことを?」

 裏葉が、柳也の疑問を代弁した。栞はくすりと笑って、

「私も誘われたんです。一緒に来ないかって。みんなを安全な場所に集めるんだって、その人言ってました」

 栞はすうっと息を大きく吸って、吐いた。それから続けた。

「そのとき私、ちょっと落ち込んでて。それで断ったんですけど、でもこのままじゃいけないなって思って。だから」

 だから、皆を集めているという人のところへ向かう。これから自分がなすべきことを見つけに、か。柳也は感心した。離れ離れになっている皆が一箇所に集合して、それからどう行動に出るべきなのか、その答えはおのずと知れるだろうから。

 山頂の展望台での一件が頭をかすめる。戦いたくないはずの皆を集め、具体的になにをしようとしていたのか。その答えを皆で見つけ出すために、島じゅうに呼びかけたのだろう。

 殺しあいをやめさせるという信念に基づき、行動に出て。

 その結果、殺された。

 争いを拒否していると信じて疑わなかった自分たちの中には、逆に争いを望む者、あるいは争わざるを得ない者も、いた。

 今、ふたたび皆を集めているという『その人』だって、その事情は知っているはずなのに。それでもそいつは、それを遂行しようというのか。

「もう死んでしまった人もいるけど、でもやっぱり、みんな一緒に助かりたいから。この場所から逃げるのなら、やっぱり、みんな一緒に逃げたいから」

 憂いを帯びた表情で栞が語る。

「……誘ってくれたあの人の、受け売りですけど」

 そう、締めくくった。

 裏切られる可能性、殺される可能性を考慮しながらも、あえてその身を危険にさらす。自分の信念を貫くために。

 柳也は笑った。そういうのは悪くない。それどころか、かなり好きだな、俺は。

 そして興味が湧いた。皆を集めているというその人物に会ってみたいと、切に思う。

 思う、が。

「一緒に、来ませんか?」

 もう一度栞は言った。黙ったままの柳也、裏葉の顔を順に見た。

「かわいい……。お人形さんみたいです」

 次に裏葉のかたわらに立つ神奈を認めたときに、栞は頬をほころばせた。もの珍しそうに、単衣に長袴姿の神奈を眺める。

「ね。名前、なんていうの?」

 子供をあやすように聞いてきた。が、その口調が癇に障ったのか、神奈は憮然として口を開かない。

「神奈だ」

 代わりに教えてやる。すると栞は「どうもです」と目礼し、

「神奈ちゃん、お姉ちゃんと一緒に来ない?」

 低い背丈の神奈の頭に手を伸ばした。なでなでする。

「子ども扱いするでない」

 神奈はぶすっとしてその手を払った。びっくりして栞は両手を胸の前で握った。

「え、えと、ごめんね……神奈ちゃん」

「気安く名を呼ぶでない」

 栞は申し訳なさそうに神奈のご機嫌を窺うが、逆効果だったようだ。神奈はあさってのほうを向いて頬を膨らませている。そういうところが子供だというのに。

「あ、あの……ほんとにごめんね」

「気にしないでいい。反抗期なだけだから」

「余を子ども扱いするなと言っておろうがっ!」

 頭を撫でながら言うと、神奈がつっかかってきた。

「すまん、違った。躾がなってないだけだから」

「変わらぬわっ!」

「柳也さま。それは聞き捨てなりませぬ」

 今度は神奈と裏葉、両方に怒られた。

「この裏葉の躾が間違っていたふうにおっしゃらないでくださいまし」

 やっぱりそっちに対して怒るのか、裏葉。

「わたくしは日夜寝る間を惜しみ、全力を持って神奈さまの極悪な素行を更正しようと務めて参りました」

 とんでもない言い草だ。というか、それはお手玉を爆弾に変えて、それを子供にあてがって遊ばせるやつの言う台詞じゃないだろう。

「けれど神奈さまの更正はわたくしには荷が重く……よよよ」

 泣き崩れる裏葉に、躾の間違いはある意味あっているように思えた。

「……裏葉、やはりお主は余がとことん嫌いなのか」

「あらそんな、滅相もございません。裏葉はいつでも神奈さまのためにこの身を捨てる覚悟でおりますわ」

 手慣れた様子で裏葉がなだめた。いつもの展開だった。

「あの。それで……無理にとは言いませんですけど」

 栞が脱線した話を戻してくれた。柳也は、いまだぶうたれる神奈をなだめている裏葉に目配せし、

「そうだな。俺たちも、そろそろ出るか」

「……はい」

 裏葉にしては珍しく歯切れの悪い返事だったが、栞はぱっと顔を輝かせた。それに柳也もうなずいた。

 うなずきながら、胸が痛んだ。

 自分はなにもこの娘とともに灯台に寄り集まるつもりは毛頭なかったから。それは俺だけでなく、裏葉も同様に考えているはずだ。さきほどの歯切れ悪い返事が語っている。

 灯台には、尋ね人の観鈴と往人も集まっているかもしれないから。だからおもむく。それが理由。それ以上でも以下でもない。

 俺たちはこの地を抜け出したいと考えている。この娘らと同様に。しかし、灯台には留まらない。俺たちの考えは灯台に寄り集まった皆の考えと同じようでいて、完全に異なった決意なのだ。

 俺たちは、三人だけで、この地を脱する。

 それは同時に、この娘らを見捨てるということでもある。

 ほかの者にかまっている余裕などない。俺たち三人が三人とも無事に、この地から離れられること。何にかえても大事な存在を守り通すこと。それがすべて。今の俺の信念。

 この娘が話した『その子』と同じように、俺は俺の信念を貫く。

 それだけだ。

「じゃあ、行こうか」

「はい!」

 栞の元気よい返事を聞きながら、柳也は迷いのない足取りで歩きはじめた。








 は――――っ、と疲労の息をしたたかについて、国崎往人は背中から倒れこんだ。

 ざらりとした砂の冷たい感触が火照った身体をささやかながら癒してくれる。時間は夜更け、昼間のかんかん照りが嘘のように今は穏やかな空気が流れている。

 心地よい。だだっ広い砂浜に背をつけて、往人は腕枕をしたまま正面に広がる紫紺の空を眺めた。満天の星空、今まで気づかなかった。こんなに美麗な夜空が頭上に広がっていたなんて。

 出発の地であるプレハブ小屋を出て、それからずっと森をさまよっていたもんで、空を見上げる余裕すらなかったのだ。

 考えなしになんとなく森に入って(強いて言えば放浪者としての性癖か)、一体どれくらいの時間を費やしたのだろう。やっと、そう、やっとだ。ようやく抜け出せたのだ、店も人も動物も虫も食料も飲料も草木以外なんにも見当たらなかった、あの忌まわしい迷いの森から……! 心の中でガッツポーズをとる。

「寝転びながらガッツポーズとって、器用なやっちゃな」

 神尾晴子が言った。実際にポーズをとっていたようだ。ついでに腹の虫も鳴る。

 往人はかまわず夜空を見つめた。吸い込まれそうなほどに深く、遠く、どこまでも高く。どこまでも高みへ。カッコいい決め台詞でもそらんじてみたい気分になってくる。

「ただ……もうひとりの俺が、そこにいる。そんな気がして」

「うわっ。なんやそれ、気色悪っ」

 晴子は心底気色悪そうにしていた。言うんじゃなかった。

「なあ、居候」

 晴子が隣に腰かけ、呼びかけた。

「ちょい頼みがあるんやけど」

「断る」

「集落のほう見て――」

「いやだ」

「……むっちゃはやいな、返答」

 晴子の言いたいことは予想できる。森の中での苦労がよみがえってくる。これ以上こき使われてたまるか。

「ガソリン調達しにいくだけやって」

「断る」

「……あいかわらずいけずやなあ、あんた」

 晴子はアンニュイな表情で往人とは逆の方向に流し目を送った。その視線の先、森の手前の開けた空き地に、殺風景な砂浜には似つかわしくないごつい単車が停まっている。

 このバイクは晴子に支給された武器(どのようにしてデイパックに入っていたのか疑問だが)だったが、昨夜の時点ですでにガス欠になっていたりする。調子に乗って獣道をかっ飛ばしていた結果だった。おかげで、晴子の命により昨夜からずっと、この砂浜にたどり着くまで、重量級のバイクを往人は手で押し進めるはめになっていた。

 森から脱するまで丸一日もかかったのは、晴子の武器のせいであるといっても過言ではない。というか、まんま晴子のせいだった。武器は役に立つどころか自分らの足をひっぱっていた。

「そんな不機嫌な顔せんといてや」

「誰のせいだコラ」

「悪かったって。あやまる。このとおりや。だから」

「断る」

「そんな無下にせんと、うちら三人きりの家族やないか」

 海近くの砂浜を独り歩いている神尾観鈴を見て、晴子はそう柔らかく口にした。なにが嬉しいのか、観鈴の歩調はスキップでもするように軽やかだ。

「観鈴のお守りは街を出るための路銀を稼ぐまでだ。勝手に家族にするな」

「はいはい。ほんま冷たいやっちゃな、あんた」

 晴子がいやらしい流し目をよこしてくる。

「集落やったら食料も調達できるかもしれへんのに」

 ぼそっとつぶやいた。

「よし行くか」

 きゅぴーん! と瞳を耀かせながら立ち上がった。

「……ほんま現金なやっちゃな、あんた」

 晴子があきれた顔をした。往人はさっそうと歩き出そうとして、しかし三歩進んだところで地に膝をつけた。すでに歩ける体力もなかった。

「くっ。よみがえれ、俺の両足……!」

 膝を眼力で叱咤するが、空腹のせいか逆に目が回ってきた。

「無理。降参」

 両手両足を投げ出してふたたび倒れこむ。

「むっちゃあきらめ早いな、あんた」

 膝を立てて座っていた晴子は、こちらを真似るようにごろんと横になった。

「ま、しゃあない。もう夜更けやし、女の一人歩きは危険やし、明日まで待とか」

「あんたなら夜も昼もとくに関係ないだろ……と、観鈴が言ってたぞ、さっき」

 晴子から送られてきた凍てつく眼光をやりすごして、遠くの観鈴に振った。

「言ってない言ってない」

 観鈴が顔の前で手をひらひらさせながら駆け寄ってきた。地獄耳なやつめ。

 それから、

「じゃ、往人さん。わたしと遊ぼ」

「なんでそうなる」

「往人さん、暇そうだから」

「おまえの目は節穴か」

 腹が減り過ぎて動けなかった。

「海っていったら、スイカ割りかな。ビーチバレーかな」

「だから遊ばねえって」

「往人さん、なにしたい?」

 聞いちゃいないよ、この子は。

「それー」

 いきなり観鈴が砂浜の砂を両手いっぱいにすくって、こちらに投げ放った。寝転がっていたため、よけることもできずに頭からかぶってしまった。

「……なんの真似だキサマ」

 上体を起こし、砂のしたたり落ちる前髪を払った。

「水のかけあいっこ。海で定番の遊び」

「おまえが今かけたのは水じゃなくて砂だ」

「同じ同じ。それー」

 またも大量の砂を正面から浴びせられた。おもいっきり目に入った。

「ぐおおおおおおお!」

 強烈な痛みにその場で転げ回る。

「失明さす気かっ!」

 口にまで入った砂をぺっぺと吐き出しながら怒鳴った。

「平気平気。往人さん、鍛えてるし。じょーぶだし」

「目は丈夫もくそもないだろ……」

「平気平気。それー」

「やめろ」

 砂をかき集める観鈴の頭をぽかっと殴った。

「が、がお……。なんでそんなことするかなぁ」

 ぽかっ、と今度は晴子に殴られていた。

「その口癖、治せゆーとるやろ」

 観鈴が涙ぐんだ。親子にしては冷たく映る関係だが、今となってはもう見慣れた風景だ。

「……たく。どうしてくれるんだ、これ」

 自分の着ていたお気に入りの黒地のTシャツを見下ろす。見事なまでに砂まみれだ。

「にはは。往人さん、はい」

 観鈴が、デイパックからほかのTシャツを取り出した。

「それ脱いで、これ着ていいよ」

「断る」

「ステゴTも往人さんに着て欲しいって言ってる」

「言うか」

 観鈴はまた涙ぐんだ。またあの口癖が飛び出てきそうだ。

 晴子が、観鈴のななめ後ろで目元をきつくしてこちらを見すえていた。

「……あー。なんだ、その」

 なんだかよくわからない言葉をはいて、往人は観鈴の手からステゴTを奪った。

「あ……」

 観鈴が目をまん丸くして見上げ、それからにぱっと笑みを浮かべた。その後ろで晴子も瞳を閉じてうなずいた。

 まったく、いいかげん素直になってくれ。素直に母親らしくふるまえよ。頭の中で晴子に愚痴る。じゃないと、こっちにもとばっちりがくるんだよ。

「この島から出たら、すぐ洗濯してもらうからな」

 黒地のTシャツを脱いで、ぽいっと観鈴に投げつけた。観鈴はあたふたと身体全体で受け取った。

 上半身がさえぎるものもなく潮風にさらされ、身震いする。

「わあ……往人さん、カッコいい」

 観鈴が上半身裸の往人を眺めて吐息を漏らした。この身体つきは自分でもけっこう自信があったりする。ふん、とポージングしてみる。

「気色悪いからやめれ」

 晴子にツッコまれた。やるんじゃなかった。沈んだ気持ちで往人はステゴTの胸にプリントされた愛くるしいステゴザウルスを見、ますます泣きたい気分になってそのTシャツを頭からかぶった。

「……Tシャツ、か」

 そしてふと、考えた。

 通天閣の文字がプリントされた妙なTシャツを着た女医と、その妹。

 霧島聖と、佳乃のこと。

 あいつら、なんで死んだんだろな。殺されたのか? 誰かに襲われて? とてもじゃないが想像できない。聖なら、襲いかかってくる敵なんぞ得意のメスさばきで八つ裂きにするだろうに。妹の佳乃を守るため、身をていして戦うだろうに。

 自分は死んでも、佳乃だけは生き延びさせようとするだろうに。

「…………」

 腹の虫が鳴る。

 考えてもしょうがないか。

 とにかく、今は。

「……はあ」

 ラーメンセット、食いてえ。








 生温かくなったタオルを洗面器に張った水に浸し、ぎゅっと固くしぼる。相沢祐一は暗鬱な面持ちでそのタオルを、眼前のベッドに横たわる名雪の額に乗せた。

 名雪の苦しげだった呼吸は、今はいくらか穏やかになっていた。この平屋建ての小さな診療所、その部屋の一室には木造の薬棚がいくつか陳列していて、中身は埃くらいしか収納されていなかったのだが、薄汚れたキャビネットからは解熱剤らしき薬が発見できたのだ。

 名雪は、ペットボトルの水でその錠剤を飲むとすぐに眠りについた。疲れていたのだろう。それから祐一はずっと看病していたが、その名雪の寝顔はあいかわらず熱に侵されているようだった。

 ただの風邪ならそれほど心配はいらないのかもしれない。だが、もし早急に医者に診てもらわないと手遅れになるような重い症状だったら……と思うと、いても立ってもいられない。額のタオルを代えるくらいしかできない自分自身に腹が立つ。医療の知識がない自分では、現在の名雪がどんな状態なのかまったくわからないのだから。

 こんなとき、葉子がいてくれたら。森の中で名雪の足の怪我を治療したその手際を見る限りでは、病人に対しすくなくとも自分よりは的確に処置できるだろうに。

「くそ……」

 つぶやいて、壁にかかった時計を見た。時刻は午後十一時を回っている。もうすぐ、日が変わる。

 もうこんな時間か。この時刻が正確かどうかはわからないが、秒針は動いているので電池が切れて止まっているということはない。カーテンの隙間から覗ける窓の外は、だいぶ前から夜の帳が降りている。時計がそんなに狂っているとは思えない。

 だから、名雪をおぶってこの診療所に到着してから、もう六時間以上は経過している計算になる。ベッドの脇に置かれたビニール張りの丸椅子に座って、名雪の熱っぽい寝顔を見下ろして、気づかないうちに長い時間が流れすぎていた。

 なのに……。なのに、葉子さんは帰ってこない。

 集落には書き置きを残しておいた。それを読めば、葉子は診療所を訪ねるはず。だが葉子は一向に姿を現さない。もしかしたら風か何かで文字が消えてしまったんじゃないか。だから葉子は集落で待ちぼうけを食っているんじゃないか。

 郁未に、やられてしまったんじゃないか。

 そう、何度も考えた。集落に戻ろうかと、何度思ったか知れない。

 だけど名雪を一人にはできなかった。危険なゲームが続くこの環境、熱にうなされた名雪のそばを離れるなんて、そんなの許されないだろ? そんなことしたら葉子さんに不可視の銃で蜂の巣にされそうだ。

「くそ……」

 苛立ちが治まらない。落ち着きなく、膝の上でトントンと指をたたく。袋小路に入ったような焦りは押さえつけようもなく、ただ膨れ上がるばかりだった。

 どうしたんだよ、なにがあったんだよ、葉子さん。不吉な予感ばかりが脳を支配する。

「いくらなんでも遅すぎだろ、葉子さん……!」

「……うん」

 相づちが返ってきた。名雪のまぶたが、うっすらと開いていた。

「葉子さん、まだ帰ってないんだ」

「……ああ。すまん、起こしちまったか」

 言いながら、祐一は安堵していた。このまま永遠に眠り続けるのではないかと不安だった名雪が、目を覚ましたから。

「腹、減ってるか? なにか食うか?」

「……ううん」

 名雪は辛そうに答えて、わずかに開いた唇から小さく吐息を漏らした。意識が定まらないのか、名雪の瞳はとろんとしていて、すこし潤んで見えた。

 と、名雪がゆっくりと上体を持ち上げた。額に乗せられていたタオルが枕元に落ちる。

「なにやってんだ。まだ寝てろ」

 強引に寝かせつけようと、丸椅子から立ち上がる。

「ありがと、祐一」

 唐突に名雪は言った。

「なにが」

「看病してくれて」

 名雪がほほえむ。

「それはいいから、無理するな。寝てろって」

「……ううん」

 名雪はゆるゆると首を振って、ベッドから床に足をつけた。ふう、と細い息をはき出し、立ち上がろうとして、途端にふらっとよろけた。あわてて祐一は抱きとめた。危なっかしいったらない。

「どうしたんだよ。トイレか?」

「ううん。……それもあるけど」

「じゃあ俺が連れてってやる」

「いい。祐一、中までついてきそうだし」

 変態か、俺は。

「その代わり、キッチンまで連れてって欲しいな」

 名雪が笑顔を作って言う。

「でもさっき、腹減ってないって」

「約束したから。葉子さんと」

 名雪はうつむいて、それから祐一の胸に手の平を当てて身を離した。

「ごちそう作らなきゃ」

 そこでようやく、祐一は名雪の言いたいことを汲み取れた。名雪は、いまだ帰ってこない葉子のために昼食(この時間だと夜食か)を作ろうと考えている。

「そうしたいのはやまやまだけどな……」

 この部屋の間仕切りの奥には、いちおう流し台とコンロは備えつけられてあった。食器棚や、冷蔵庫も。そして祐一はそれらの物色をすでに済ませていた。ベッドに名雪を寝かせつけてから、すぐのことだ。

「材料、なかったの?」

 名雪が残念そうに訊いた。

「あるにはあったけどな」

「賞味期限切れてたとか?」

「いや。インスタントラーメンしかなかった」

 物色の結果はかんばしくなかった。冷蔵庫の中身は空っぽ、戸棚を探してみても乾燥麺くらいしか食材がなかったのだ。それと手持ちの米をあわせてラーメンとライスのセットでも作ろうかと祐一も考えたが、葉子の帰還がいつになるのかわからない。伸びた麺なんかごちそうには程遠い。

「葉子さん、がっかりするね……」

 まさしくがっかりした顔で名雪は言った。ぽてん、とベッドに腰を落とした。

「それに、好き嫌い激しいらしいからなあ」

 たしか郁未がそう言っていた。納得はできた。葉子はいつでも慇懃な口調で、どこかお嬢様のような風情を醸しているし、森の中での口論で嫌と言うほど思い知ったのだ。むちゃくちゃ頑固で、信念を曲げない性格。

 加えて不器用で、人と接するのに慣れていないような、そんな印象を受けた。

「……やっぱり、なにか作るか」

 祐一はベッドから離れ、冷蔵庫の上の戸棚に手を伸ばした。乾燥麺と、それと一緒に入れておいた米袋を手に持った。

「ラーメンセット?」

 名雪が訊いてきた。

「ああ。ラーメンとおかゆのセットだ」

 言って、名雪のほうを向いた。

「食欲なくても、すこしくらい食べといたほうがいいぞ」

「……うん。じゃあわたしも作る」

 祐一は、断らなかった。無理しないで寝ていろ、とは言わなかった。

 今もなお残る押さえつけようのない焦り、暗鬱な気持ちを、なくしたかった。お湯を沸かして、はんごうに米を入れて、それは料理とは呼べないほどの至極簡単な作業だろうが、いい気分晴らしにはなるだろうと考えたのだ。

 とろんとした瞳をする名雪の手つきはやっぱり危なっかしかったが、べつに包丁を使うわけでもない。それに、名雪は料理が得意。クッキーを碁石みたく黒焦げにするわけでもない。安心感が、ある。

 それはゲンかつぎみたいなものだろう。縁起、祈り、ちっぽけな願い……いや。もっとはっきりしたもの。予感、だろうか。

 不吉な予感とは、逆の予感。

 すがれるもの、不安など入りこむ余地のない確かな予感が、今は欲しかった。

 そのとき、チャイムが鳴った。

 ぴんぽーん、と玄関のほうから陽気なチャイムが鳴り響いた。

 それ以降、なんの音もなく、コンロから発する炎のたち昇る音だけが漂った。

「……ちょっと見てくる」

 言うと、すぐさま名雪は祐一の袖をつかんだ。

「わたしも行く」

「ここで待ってろ。いいって言うまでぜったい顔出すな」

「わたしも行く」

 名雪は祐一の袖を離すどころか、逆に握りしめてくる。

「……はあ。わかった」

 名雪に肩を貸す。高い体温が制服越しに伝わってくる。部屋から廊下に出、慎重に、ゆっくりと、おぼつかない足取りの名雪を連れて歩く。かつかつと響く足音が耳を打つ。

 二人は、鍵の壊れた玄関の扉の前に立った。

 息を吸って、吐く。

「……誰だ?」

「私です」

 扉越しから澄んだ声音が届いた。どくん、と心臓が跳ねた。

「葉子さんか?」

「はい」

「本物の葉子さんか?」

「……はい」

「なら質問に答えろ。本物の葉子さんだったら答えられるはずだ」

 数秒、場に沈黙が落ち、それから疲れた感じの肯定の言葉が返ってきた。

「じゃあ質問だ。葉子さんはなぜブラジャーをつけ――」

「死にたいんですか?」

「おかえり葉子さん」

 祐一は扉を開けた。

 ふわり、と金色の髪が揺れた。

 とっぷりと暮れた、点々とちらばる星の瞬く夜空を背に、鹿沼葉子が立っていた。

 その葉子の表情はあいもかわらず鉄仮面のようでいて、ちょっとだけ頬を桜色に染めていて、こめかみがぴくぴくしていて。

「……すみません。すこし寝坊してしまいました」

「ぜんぜんすこしじゃない。大遅刻だ」

 祐一は苦笑する。

「でも、間にあったよ」

 名雪が、ドアが開け放したままの部屋、その奥、コンロにかけっぱなしのやかんに目をやって、にっこり笑った。

 そんな二人に応えるようにして。

「……ただいま。祐一さん、名雪さん」

 ちょっぴりと、葉子も笑った。




                 【残り20人】




Next