葉子と郁未、二人の姿は森の奥へと消えていった。鼓膜を揺るがす大砲のような音も、今は拭い去られている。あたりにはようやく静寂が戻っていた。

 葉子の作戦はとりあえず第一段階を突破したようだ。相沢祐一はホッと吐息を漏らし、

「……葉子さんって怒ると怖いんだな」

 ひとり納得した。郁未を森の奥に誘導したというよりは、郁未にノセられて追いかけていったという感じだったし。

 にしても、なんとも実況しづらい戦闘だった。背後に広がる森を遠目で見、あらためて思う。さすがは不可視の力、言葉通りまったく見えん。

「とりあえず、今のうちに離れるか」

 隣の名雪に言った。いつまた郁未が舞い戻ってくるか知れないのだ。一刻もはやくこの集落から逃げ出さなければならない。郁未に襲われていた二人の少女を連れて。

「この家、くずれそうだしね……」

 名雪がなんとも言えない表情でつぶやいた。まったくだ。葉子の放った流れ弾のおかげで今にも潰れそうな状態になった一軒家を前に、強く思う。

「あの……ありがとうございました」

 かくん、と目の前の女の子が首が折れたのではないかと危惧してしまうような礼をした。流れるような長髪に青のリボン、とろんとした目元、歳は自分と同じくらいだろうか。

「いや。お礼なら葉子さん……さっき戦ってた金髪の人に言ってくれ。それより」

 ここから連れ出そうと女の子に近づこうとして、しかし祐一は足を止めた。女の子のななめ後ろからこちらをうかがっていた、赤色の髪を尻尾のようにふたつにまとめた小学生くらいの女の子が、

「こっち来るな――――っ!」

 と大声を上げて青リボンの女の子の前に立ちはだかった。こちらを警戒しているらしい。おたがい初対面だし、当然といえば当然だが。

「……これ、お礼です」

 と思っていたら、しっぽ頭の女の子の警戒をマイペースに無視して、青リボンの女の子がぺこりとまたお辞儀した。どこから取り出したのか、白地の封筒をひらひら振っている。

「進呈……。ぱちぱちぱちぱち」

 拍手する。なぜか口で。なんだろう、金一封だろうか? お言葉に甘え祐一はそれを受け取ろうと足を踏み出し、

「近づくな――――っ!」

 さっきと同じような台詞でしっぽ頭の女の子が声を荒げた。かまわずに青リボンの女の子がなにかを手渡してくる。どないせいちゅうんじゃ。

「えっと。わたしたち、あやしいものじゃないよ」

 名雪が優しく言い諭した。しっぽ頭の子がぽかんとした顔で、ほほえむ名雪に見入る。よし、あと一息で警戒が解けそうだ。祐一は念を押そうとして、

「そうだ。俺たちは善良な――」

 市民、と二人に近づこうとし、その前にいきなりしっぽ頭の子から飛び蹴りを食らい、祐一は腹部を抑えてその場にひざまずいた。

「美凪はみちるが守るんだから――――っ!」

 しっぽ頭の子(みちるという名前らしい)が、青リボンの子(で、こっちは美凪)の前に立ちはだかり、ふんぞり返って見下ろしてきた。

「こ、こいつ……」

 善良な市民の俺を文字通り足蹴にするとは。

「切れ味抜群……」

 美凪がのんびりと感想を述べた。ひょっとしてこの切れ味抜群の蹴りがさっき言ってたお礼じゃないだろうな。

「ゆ、祐一。だいじょうぶ?」

 寄りそってくる名雪を手振りで制し、ゆらりと立ち上がる。いまだ臨戦体勢を取っているみちるをどうしてやろうかと考え、でも相手は子供なんだからと思いなおし、むりやり笑みを作った。

「なんか文句あるかこのやろ――――っ!」

 途端に大音量の文句が返ってきた。やろう……ムカつく。が、大人の俺はそんなことでいちいち腹を立てていられない。

「あのな。命の恩人に対してその態度はどうかと思う――」

 どがっ! 有無を言わさずふたたび蹴りが飛んできた。

「恩着せがましく言うな――――っ!」

 祐一は再びみぞおちを押さえてひざまずいた

「ゆ、祐一……。だいじょうぶ?」

「だいじょうぶなわけあるか」

 ゆらりと立ち上がる。

「てめえ。一度ならず二度までも……」

 こいつは子供じゃあない。敵だ。そう認識しよう。

「おまえは初対面の人に蹴りであいさつすんのか、おい」

「んに……。自業自得だっ!」

 ふん、と祐一は鼻を鳴らした。

「自業自得って、おまえ意味わかって言ってんのか」

「にゅう……。みちるたちの家こわしたくせに!」

「あれは不可抗力だ。不可抗力って、意味わかるか?」

「バカにするな――――っ!」

「ボクいくつ?」

「にょわ――――――っ!」

 奇声を上げて飛びかかってきた。ふん、三度も食らうほど俺は甘くない! みちるの飛び蹴りを、ひらりと軽快に身を返してよけた。

 つもりだったが、なぜだか身体が思うように動かず、見事に三度目の蹴りをみぞおちに食らっていた。祐一はひざまずいた。

「今のは祐一が悪い」

 名雪が祐一の制服の袖をしっかりと握っていた。

「そうだそうだ! 祐一が悪い!」

 みちるがここぞとばかりに反撃(というより一方的な攻撃)に出た。くそう、いきなり人のこと呼び捨てかい。祐一は口を開こうとして、

「祐一はちょっと黙ってて。ややこしくなるから」

 逆に名雪に怒られてしまった。

 名雪は優しげな口調でみちるに話しかけはじめた。最初、みちるは戸惑いの表情で名雪のにこにこ顔を見上げていたが、そのうちにその表情は笑顔に変わり、素直に何度も頷いた。なんだこの対応の差は。

「……残念賞」

 これまで事態を静観していた美凪がさきほどの封筒を手渡してきた。表には「お米券」と書かれてあった。

「いいのか、これ?」

 かくん、と美凪が首を折る。祐一は素直に受け取った。貴重な食料の引換券だ。どこで引き換えればいいのかは知らないが。

「なあ。それが、キミの武器か?」

 二人のデイパックにはシャボン玉爆弾とこのお米券が入っていたのかもしれない。

「……残念賞」

 お米券を手渡してくる。二枚目ゲットだった。

「これ、です」

 美凪が自分の頭の上を指差した。そこには小さな黄金色の冠が乗せられていた。

「……薔薇の花嫁の冠」

 そう付け足した。

「なんだそれ」

「……対になるもうひとつの武器とあいまって、初めて効果を発揮する。そう、説明書に書いてありました」

「もうひとつの武器って?」

「……さあ」

 スローに首をかしげた。

「祐一。はやくはやく」

 みちると手をつなぎながら、キャッキャと名雪が手招きしていた。どうやらみちるの手なずけに成功したらしい。ようやく円満に事を運べそうだが、素直には喜べなかった。

「あの……私たちをどうするつもりなんでしょう」

 美凪がのんびりと訊いてきた。

「葉子さんと約束したんだ。キミらを安全な場所まで連れていく」

「……誘拐?」

「違う」

 と、ここで祐一ははたと気づいた。安全な場所って、具体的にはどこだろう? この殺しあいが行われている島で、そんな場所が存在するのか?

「名雪。どこ向かったほうがいい……って、勝手に行動すんな!」

 いつの間にやら名雪とみちるの姿は遠くのほうに移動していた。

「……やっぱり誘拐?」

「違う」

「美凪もはやく来――――いっ!」

 遠方からみちるが声をかけてくる。

「祐一は来んな――――っ!」

 そしてわざわざ付け加えた。

「……仲間はずれ?」

「違う。……たぶん」

 くっ、調子が狂う。美凪とみちる、微妙そうで実は絶妙なコンビじゃないか。

「とにかく、おまえら戻って来い!」

 負けじと大声で呼びかけた。ここを離れるのは賛成だが、適当に歩いてはまた迷子になるのが落ちだ(森の中で嫌と言うほど思い知った)。だいいち、頼みの綱の葉子との合流も視野に入れねばならない。自分らと落ちあう場所も決めていなかったのだ。

 祐一はデイパックから地図をひっぱり出した。安全な場所、人から身を隠すならやはり建物だろうか。しかし診療所、漁業組合は却下する。できれば集落から遠く離れたところがいい。とすれば教会あたりがベストだが、あまり歩くようだと名雪のケガの悪化も心配だ。

 なら残った建物は、灯台か。

「どしたの祐一? 難しい顔して」

 顔をあげると、ひょこひょこと足をひきずりながら名雪が寄ってきていた。その隣から、名雪の遅い歩調に合わせながらも元気よくみちるがついてきた。

 疲れが押したのか、名雪はぺたんとその場に座りこんだ。

「ケガしてんだからあまりはしゃぐなよ。そっちのお子様につられて」

「誰がお子様だ――――っ!」

「うるさい黙れ耳元で騒ぐなお子様」

「祐一っ!」

 また怒られた。

「……仲良しさん?」

 美凪が頬に手を当ててそんなことを言う。

「違う。ていうか誰と誰に対して言ってるのかわからん」

「……三人?」

「その三人に誰が含まれてるかわからん。ていうか同情っぽい目で俺を見るな」

 話が逸れてきた。悠長にしている場合じゃないのに。

「なあ名雪。おまえ紙とペン持ってるか?」

「持ってないけど……なんで?」

 名雪が小首をかしげる。つられたように美凪も首をかしげた。なんか双子みたいだ。

「葉子さんに書き置きしとこうと思ってさ」

 言ってから、そこらへんの手頃な石を手に取った。しょうがない、これを使って土の地面に文字を彫るか。文面は、灯台で待つ、でいいか。郁未に読まれたら問題だとも思い浮かんだが、葉子が読み終えたあとに消してくれるだろう。

 祐一はさっそく実行しようとして、

「……私たちのことは心配なさらずに」

 美凪がぽつりとつぶやいた。

「あの人のこと、待っててあげてください。離れ離れは、悲しいです」

 美凪が、みちるの顔に視線を移し、付け足した。

「けどな……」

 祐一はなおも言い募ろうとして、

「へっちゃらへー、です」

「そうそう! みちるがついてるんだから、へーきへーき!」

 おまえが付いているからよけい心配なんだ、とは祐一は言えなかった。二人きりで集落から離れてくれるならそれが一番手っ取り早い、一瞬でもそう思ってしまったから。

 自分は、名雪を守ることで手いっぱい。同時にその考えはこの二人の身の保障を完全に無視している。彼女たちは所詮、自分とは関わりのうすい他人。

「名雪、どうする?」

 訊いてみる。途端に祐一は後悔した。表情をまったく変えなかった名雪の顔を見て、思った。そうだな、愚問だったな。

「あのさ、やっぱり俺たちも……って、勝手に行動するなって言ってんだろ!」

 いつの間にやら美凪とみちるの姿は遠くのほうに移動していた。

 祐一は、焦った。跳ねるように立ち上がった。なにもそれは、二人の自分勝手さに腹を立てたから、というわけではなく。

 美凪とみちる、二人のすぐ前方にほかの人影を発見したのだ。

「名雪。ちょっと待ってろ」

 返事も聞かず、祐一は息せき切って駆け出した。いったい誰だ? 郁未か? 近づくに連れ相手の顔があらわになる。違う、見覚えのない顔の女の子。ひとり……いや、ふたりいる。こちらの方向に歩を進めている。

 その二人の女の子が美凪たちの前にたどり着こうとした矢先、祐一はすべりこむように間に立った。相手の女の子がギョッとする。

「……なにか用か」

 威圧するようにギロリと睨んだ。それで、栗色の髪の女の子は小さな口を卵形に開け、次におびえて後ろに下がった。するとその子の制服の袖をつかんで離さないもうひとりの女の子が、

「みゅー?」

 と、おびえもせずに首をひねった。一緒に、頭に乗せられたネズミのような動物の顔をした帽子も横にかたむく。

「おまえになんか用はない――――っ!」

「お子様は黙ってろ」

 途端、背中に激痛が走った。ぱたりと祐一は顔から地に突っ伏した。みちるに蹴られていた。このやろう……三度ならず四度までも。いいかげんこの展開にも飽きてきたぞ。

「……だ、だいじょうぶ?」

 おびえていたほうの女の子がすぐさま寄り添ってきた。制服のポケットからハンカチを取り出し、差し出してくる。

 敵意はない、か。この子らは、集落を襲いに来たのではない。差し出されたハンカチを丁重に断って、立ち上がりざま制服についたほこりを手で払う。

「早とちりしてたみたいだ。ごめん」

 すると、あ、と目の前の女の子が何かに気づいたように声をあげた。

「あんなことがあったあとだもん……。しょうがないよ」

 顔を曇らせて女の子はうつむいた。なにか思い悩むところがあるのか、目に見えてヘコんでいる。

 それから、意を決したようにパッと顔をあげた。

「だから、その。わたしたち、みんなを集めようと思って。安全なところで、みんな一緒で、あの……」

 もごもごと恥ずかしそうに、けれどその言葉ははっきりと祐一の耳に届いた。山頂での一件が思い出される。そうか、そういう考えを持ってる子も、たくさんいるんだよな。

 心が弾む。できれば、郁未のような子が例外であればよいと、そう信じたかった。

「それで、どこにみんな集めるんだ?」

「えっと。灯台……かな。広いと思うし、頑丈そうだし」

 女の子のその答えにうなずいて、

「じゃあさ、さっそくだけどお言葉に甘えていいか?」

 言うと、さっきまでヘコんでいたのが嘘のように女の子の顔が輝いた。

「うん! もちろん!」

「みゅー!」

 栗色の髪の女の子の横で、帽子を被った女の子もガッツポーズをとった。幼い仕草、しかし見た目は自分と歳がそれほど離れていない、中学生くらいに見える。

「だ、そうだ。よかったな」

 美凪とみちる、背後の二人に顔を向けた。美凪がにこっ、と笑い、みちるがべーっと舌を出した。あいもかわらず幼い仕草。帽子の子とみちる、皆を一致団結というより、子守りが増えただけのような気がしてきた。

「え……。あの、キミは?」

 その声にふり向けば、女の子が意外そうな表情でこちらを見つめていた。

「ちょっと人を待ってるんだ。でも遅くでよければ、俺たちも灯台にお邪魔していいかな」

「……うん。ありがと」

 女の子が笑って答えてくれた。寂しそうな笑みだった。

「ありがとうって、それは俺の台詞だと思うけど」

 女の子は、今度は照れ笑いを浮かべて、

「そうだね。でも、ありがとう」

 満面の笑みに変わった。その変化の理由は自分には知る由もなかったが、祐一はうなずいた。ありがとうを受け取っておいた。

「それじゃ、わたしについてきて。こっちだよ」

 帽子の子の手を握りながら美凪たちに声をかけた。

「これはこれはご丁寧に……」

 美凪もみちるの手をつなぐ。道端で子供を連れて談笑する若奥さん同士のようだった。

「またあとで、な」

 一声かけて祐一はきびすを返した。

「うん。また、あとで」

「もう来んな――――っ!」

 背を向けたまま手を振って別れた。やって来た方向へと足を進ませる。四人のそろった足取りを背中で聞きながら、ゆっくりと、だんだんと歩調をはやめ――

「……!」

 祐一は全力で走った。名雪のもとへと、息もつかずに。

 名雪が、地面に倒れこんでいた。瞳を閉じ、半開きの唇から苦しげに呼吸して。そばに寄り、祐一は慎重に名雪の肩を持ち上げた。

 息を呑んだ。冬用の制服、肩にかかるケープ越しに伝わってくる名雪の体温が、なにか小鳥を抱えているように高かった。祐一は手を伸ばし、名雪の前髪をすくい上げて、そっと額に押し当てた。

 むちゃくちゃに熱かった。名雪の額に浮かんでいた汗が、じっとりと祐一の手の平を濡らした。

 なんでだ。いきなりどうしたっていうんだ。あんなに元気だったのに。みちると手をつないで、あんなにはしゃいでたってのに。混乱する思考を押しとどめようとして、しかしこみあげる焦りが荒波となって理性をさらっていく。

「祐一……」

 と、名雪のまぶたが細く開いた。

「ごめん、ちょっと疲れちゃって。心配しないで……」

 その弱々しい言葉にはうなずけなかったが、いくぶん祐一は冷静さを取り戻した。意識は、ある。風邪だろうか? それとも足のケガがたたって?

 とにかく……。とにかく今、俺がやらなきゃいけないことは。

 祐一は、開かれたままだった地図を見た。診療所の位置を確認するために。








 足取りが、重い甲羅を背負ったカメのように鈍い。わずらわしい倦怠感が全身を包み込んでいる。

 すこしでも気を抜けばたちまちちぎれ飛びそうになる意識を必死につなぎとめながら、鹿沼葉子は森深くの草木を踏み分けていた。

 といっても、べつだん重傷を負っているわけではない。郁未との死闘は、それどころか逆にお互いかすり傷ひとつ負わせられなかった。勝負はゼロ対ゼロの引き分け、といったところか。

 その郁未の姿は、今はない。どこかで身を潜め、休んでいるのだろう。あれだけ不可視の力を応酬しあっていたのだ、その事情は葉子自身の体が物語っていた。

「はやく、集落に戻らないと……」

 祐一たちのもとへ、帰還しなければ。震える膝を叱咤し、自分に言い聞かせる。わずかでも前進する。けれど、この場所は森のどこらへんに位置するのだろう? 郁未に気をとられていたため、完全に迷ってしまっていた。

「私としたことが、情けないですね……」

 不可視の力は、あとどれくらい撃てるだろうか。こんな状態でもし誰かに襲われでもしたら、いかに運動能力にひいでた自分でもひとたまりもないだろう。

 はやく、身を休めたい。一刻もはやく。

 祐一さん、名雪さんのもとで、眠りたい……。

 そこまで考えて葉子は自嘲した。二人のもとで休んだとして、無防備の自分の身が外敵から保障されるわけでもないのに。もし回復した郁未が襲ってきたとして、普通人の二人ではたいした抵抗もできまい。あっさりと殺られるのが落ち。

 なにより、祐一と名雪が自分の身を守ってくれるという保障だってないのだ。

「ふふ……」

 けれど葉子は集落へと向かっていた。使命感のようなものが胸の奥底から突き上げてきていた。それはきっと二人が用意してくれているはずのご馳走が楽しみだから、と葉子は解釈していた。

 今の、このわくわくした気持ちだって、そうに違いない。

「意外と意地汚かったんですね、私は……」

 途切れかける意識を独り言で繋ぎなおしながら、葉子は歩き続ける。

 ――と、視界の隅に人影が入りこんだのは、葉子がまた独り言を言いかけたときだった。

 誰、だろう? 郁未……? わからない。その相手とはけっこうな距離がある。加えて生い茂る梢のため視界が開けず、相手の顔がこちらに向いているのかも判断できない。

 葉子は息を詰めた。身を隠そうとして、その前に相手の足音が耳を打った。一直線に自分のほうへ近づいてくる。

 くっ……気づかれた? 反射的に右の手の平を人影へと向ける。その相手はびくっとなって両足を急停止させた。見知らぬ顔の女の子、郁未ではない。

 彼女はその場で足を止めたまま、ぱたぱたと顔の前で手を振りはじめた。襲う気はない、という意味? それから身振り手振り、口をパクパクさせて何事かを訴えてくる。なぜ、声を発さない? 誰かに自分の存在を悟られたくないから?

 が、それ以上、何を言いたいのか皆目見当がつかなかった。朦朧とする頭のためか、いやにせわしない子ですね、と場違いな感想が浮かんだだけだった。

 と、彼女の顔色が変わった。刹那、彼女の姿は無くなっていた。

「消え、た……?」

 まったく、なんだっていうんです? つぶやいてから、そういえば他人の眼をくらませる武器がありましたね、と思い出す。

 商品名、ステルス迷彩。その名の通りステルス機能をようした迷彩服だが、おそらく今回はレーダーの探知をあざむく機能は外されているだろう。でなければ、佐祐理たちの眼までもあざむくことになるから。あの計算高い佐祐理のこと、自分たち全員が監視下に置かれていると考えるのが自然だ。

 葉子は、目元を袖でごしごしとこすった。やはり、あのせわしない子の姿は見えない。そして自分の視界に霧がかかっているのに気づく。極度の疲労のため、視力にも影響が出たのかもしれない。

 これでは、ステルス機能がなくとも人が消えたと勘違いしてしまいそうだ。それに、時間的にもそろそろ夕暮れ。あたりはだんだんと影を落として薄暗くなりはじめ――

「……!」

 葉子は周囲を見渡した。薄暗い、どころではなかった。闇だ。深夜のような漆黒の暗闇が広がっていた。いったいいつの間に? 疑問が浮かび、次いで自分の視界に文字通り霧がかかっていたのを知る。

 辺りには、どす黒い霧が漂っていた。覚えのある、異常気象。

 不覚……あのせわしない子に気をとられ、周囲の異常に気づくのが遅くなった。これはもしや、おとり作戦?

 思うと同時に、どこからか、唐突に光の柱が、立った。

「……あなたにふさわしいソイルは決まりました」

 ささやくような声だった。葉子はバッと背後に振り返った。右腕を上げ、途端に立ちくらみを覚えた。ひざまずきそうになるのをどうにかこらえ、正面を凝視する。

 巨大な三つ編みを垂らした女の子が、ピンクの傘先をこちらに向けていた。

「紡がれるにつれ遠ざかる言葉、イヤーズ・ホワイト」

 言って、その彼女の指に挟まれていた三つの小ビン、そのうちのひとつが宙を舞い、傘の水玉模様に吸い込まれた。

 葉子は手の平から気体の弾丸を放った。連続して三発。途端に生気が吸い取られたような凄まじい脱力感が襲った。

 だが、それら弾丸すべてがピンクの傘によって弾かれた。女の子の華奢な身体は、開かれた傘によってすっぽりと覆われていた。

 そして、そのどこにでも売っていそうな傘の表面には、傷ひとつ付いていなかった。葉子は愕然とした。

 あの傘はもしや……召喚銃。記憶の糸を手繰り寄せる。たしか、魔銃、という商品名だった。それを操っているというの? あの女の子が? 意のままに?

 FARGOに所属していた頃、倉田コーポレーションから試作品の武器がいくつか支給されてきたことがあった。獣の槍やステルス迷彩、召喚銃もそのうちのひとつだった。

 間違いない。この異様な霧は、あの召喚銃が生成したものだ。

 ちら、とそのとき、女の子の顔が開かれた傘からすこしだけあらわになった。すました顔、こちらの状態を見定めるような、これから殺す相手の顔を最後に見ておこうかというような、そんな気まぐれな行為。そしてそれは、不可視の力を行使する間もないほどに短い時間だった。

 ピンクの傘が、回転をはじめていた。

 葉子は夢でも見ている気持ちになった。FARGOには、召喚銃を扱える者などいなかったのだ。FARGOの戦闘員から幹部、不可視の力を所有する郁未や、この私だって例外ではなかった。その武器を手にとっても動きもせず、運よく動いたとしても暴走させるのが関の山だった。

 だというのに、あの子は、そんな事情など我関せずの様子で、すました顔で猛回転する傘先をこちらに向けている。

 信じられない。なんて強大な精神力をしているの、この子は……!

「結ばれるにつれ手放す絆、ストリング・レッド」

 彼女の声と同時に葉子は身をひるがえして駆け出した。が、すぐに固い感触、壁のようなものにぶつかった。霧の結界が逃亡を阻んでいた。

 その黒色の霧に向かい、至近距離で空気の弾を乱射する。しかし穴ひとつ開けられない。

 葉子は、その場にくずれ落ちた。もう、意識を保てない……。

 祐一さん、名雪さん。私のこと心配しているでしょうか。ふと、考える。それとも、私のことなんて気にもしていない? もしすこしでも気に病んでいるのなら、すみません。

 すくなくとも、私は、昼食、楽しみにしていました。いえ、この時間だと晩ご飯でしょうか。どちらにしろ、すみません。

 団らん。郁未との思い出。郁未の笑顔。厳かだったFARGO施設の中、唯一気を許せた、郁未との二人きりの食卓の場。

 ふふ……。二人きりでも、団らんというのでしょうか。

「…………」

 くやしい。無性に悔しかった。

 私は、もう一度、あの頃のような団らんを――――

「そして……たゆたうにつれさかのぼる時間、フェザーズ・ピン――」

 それは無意識だった。すくなくとも葉子にはなにが起こったのかすら認識できていなかった。女の子の指から離れた最後の小ビンが傘の水玉模様に吸収される直前、小ビンが強固な傘の盾からわずかに外れた瞬間、宙で爆ぜたのだ。

 小ビンに納まっていた桃色の液体が地にまき散らされる。ガラスの割れる音、その甲高い音が葉子の耳を打ち、時間をかけて脳にたどり着いたとき、ようやく知った。

 もうぴくりとも動かないと思っていた自分の右腕が上がっていたこと、そして手の平を彼女に向けていたこと。

 葉子は不可視の力を行使し、彼女の小ビンを砕いていた。

 頭上を覆っていた霧が晴れてゆく。

 葉子は跳躍した。無意識、自分のどこにそんな力が残っていたのか、そんな疑問を思い浮かべる気力も今の葉子には残っていない。幹から幹、枝から枝、徐々にその高度を上げ、天を突き刺さんばかりに伸びた梢を、葉子は飛んだ。やみくもに跳ねた。

 三つ編みの彼女が瞠目しながら葉子の動きを追い、すぐに見失ってしまったことも、もちろん知らず。

 幾本かの大木を飛び渡り、身を置けそうな広い枝に着地し――そこで葉子の身体は、樹の幹にすがりつくようにずるずると倒れていった。




                 【残り20人】




Next