険しい森の中、一時の休憩を終え、ふたたび集落に向かって相沢祐一たち三人は歩を進めていた。頭上から降りてくる陽光は、前に認めたときよりも傾いている。といっても、身体じゅうにまとわりつく汗が引くことはなかった。

 そんな不快な環境を忘れたいかのように、祐一は葉子から聞かされた『FARGO』についての説明を反芻していた。

 宗教団体FARGO。その信者は隔離施設で『不可視の力』の習得のため修練を積むらしい。FARGOの幹部たちは、そんな人外の力を会得させてなにを企てているのか、その目的は、今はもう宗団から脱退した葉子(そこには理由があるのだろうが、なにか大きな事件に巻き込まれたから、としか教えてもらえなかった)にも知らされなかったらしい。世界征服でもしたいのではないですか、と葉子は冗談交じり(本気かもしれないが)で話していた。

 けっきょくのところ祐一が得た情報は、このゲームがFARGO主催であること。倉田コーポレーションが資金面でバックアップしていること。このゲームの舞台、そして参加者は倉田コーポレーションのトップが選んだこと。唯一、FARGOの信者である天沢郁未だけは強制参加ではないらしいこと。それくらいだった。

 祐一は肩を落とした。この殺しあいという名のふざけたゲームから抜け出す手立ては、その情報からは得られなかったから。

「集落まであとどのくらいだ、葉子さん?」

「もう、ほんの目と鼻の先です」

 先を歩く葉子がふり向きもせず答えた。祐一は隣の名雪に目をやった。はあはあと名雪の呼吸は荒く、その面持ちは肩を貸している祐一よりも格段に疲労の色が濃く出ている。

「名雪。ふぁいとっ、だぞ」

「だから、それ、わたしの台詞……」

 名雪が弱々しく笑みを浮かべた。無理をしているのがありありとうかがえる。しかし、これまで森を突き進んでいて、名雪は弱音ひとつ吐かずに祐一たちについてきていた。

「休憩するか?」

「ううん。もうすぐだって葉子さんも言ってるし」

 名雪が葉子の後ろ姿に目をやった。祐一もつられて見る。葉子は、嘘は言わない。たとえ集落までの道のりがまだまだ遠く、しかし名雪を元気付けるために「もうすぐですよ」なんて、そんな気遣いなど葉子は一度だって口にしたことはなかった。だから葉子が答えた通り、集落はほんの目と鼻の先なのだ。

「名雪さん、よくがんばりましたね。ここを抜ければ――」

 獣道から外れ、腰まである藪の中に身を投じながら言った葉子の言葉は、最後のほうでかき消された。

 あたりの空気が震えた。爆発音のような轟音が、藪の向こうから響いてきたのだ。

「……なんだ?」

 祐一は言って、口にする必要のない言葉だったとすぐに悟った。わかりきっていることじゃないか。誰かが、戦っているんだ。殺しあっているんだ。

「予想していたことではありますが……」

 その場で足を止めたまま葉子がつぶやいた。

「どういう意味だ?」

 訊くと、葉子はちらと横目でこちらに「なにを今更」みたいな視線をよこした。

「ゲームが始まって、プレハブ小屋を抜け出て、地図を見て、まず初めに向かうとしたらどの場所を考えますか?」

 唐突に尋ねてくる。

「俺たちは森に入ったけど」

「あなた方は例外です」

 言ってから、葉子は「いえ」と訂正して、

「あなた方よりも前に小屋を出た生徒は例外、です。いきなり誰かが倒れていたら、正常な判断ができなくなるでしょうから」

 北川のことを言っているのだろう。北川、お前けっこう重要な役割を担ってたんだな。

「加えて、あなた方は郁未に襲われたようですし」

 そこで、祐一ははてと首をひねった。

「でも、俺たちより遅くに出たやつで森に入ったやつも、二人知ってるけど」

 長身の男と、金髪の女の子。名をなんと言ったか。とにかくその二人とは森の中で出会っていた。いや、正確には三人か。バイクに乗ったセクシーな女性も、いきなり登場してきたから。

「その人たちもなにか事情があったのでしょう。もしくは単になにも考えていないか」

 葉子さんって丁寧な口調のわりに言うことがきついよな、となんとなく感心しながら、祐一は次の葉子の説明に耳をそばだてた。

「とにかく、普通ならばまず集落に向かうでしょうね。この島に住人はいるのか、その確認。食料と飲料の補給。寝床の確保。敵から身を守るため、立てこもる。理由はそんなところでしょうか」

「それで、こうなってしまったわけか」

 さきほどから爆発音が断続的に耳を打っている。そこには、わずかだが声のような音も混じっていた。かけ声のような、悲鳴のような音が。

「住宅の数がどれほどかは知りませんが、家の中に入った途端に他の誰かと鉢合わせてしまうことはじゅうぶんに考えられます」

 祐一はやりきれない気持ちで、淡々とした葉子の説明を聞いていた。肩を貸していた名雪から、そっと離れる。近くの木の根っこに座らせる。

「葉子さん。名雪を頼む」

「……訊くまでもないことかもしれませんが、いちおう訊いてあげます。どうするおつもりですか」

「様子を見てくる」

「やめてください」

 きっぱりと断られてしまった。

「でも、止めても無駄なのも知ってるだろ」

 ふふん、と調子よく言ってみる。

「そんなことで勝ち誇らないでください」

「自信なさげに言うよりはマシだろ」

「そういう問題ではありません」

「じゃあどういう問題なんだよ」

 葉子と真正面から向かいあった。どうしてこう、葉子さんは頑固なんだ。自分のことを棚に上げて祐一は首をすぼめた。

「……祐一。わたしも行く」

 ぽつりと、体育座りをしていた名雪が言った。よろよろと立ち上がろうとする名雪の身体を、祐一はあわてて押さえつけた。

「なに考えてんだ。だめに決まってるだろ」

「なんで決まってるの?」

 なんでって……。反論しようとして、それよりも先に名雪の鋭い眼光が祐一の瞳を突き刺した。

「祐一も、葉子さんと同じこと言ってるよ」

「…………」

 祐一は言葉を詰まらせた。たしかにそうだが、それは名雪の足のケガが心配だからで……いや、待てよ。それもけっきょくは葉子さんと同じ意見になってしまうのか?

「葉子さんも、一緒に行こ」

 思案していると、名雪が今度は葉子のほうに顔を向けた。葉子は無表情のままなにも応じず、代わりに何事かを悩むふうにあごに手をやった。

 その体勢のまま十秒ほど時が経ち、

「……最初からそう言ってくれれば、私も止めませんでしたのに」

「ウソをつくな、ウソを」

 葉子は不機嫌にあさってのほうを向いてしまった。おおかた、名雪を説き伏せるための言葉を探していて、けっきょく何も思い浮かばなかったのだろう。葉子さんを打ち負かすには、ぐうの音も出ないような台詞が有効らしい。覚えておこう。

「二人とも喧嘩したらだめだよ。みんな仲良く、ね」

 名雪がとどめの一発を放った。祐一と葉子は二人して顔を見合わせ、すぐに目をそらした。たく、子供か俺たちは。

「……とりあえず、のんきにしてる場合じゃないぞ」

 再度、名雪に肩を貸して立たせてから、葉子の脇を素通りし、祐一は藪に入った。

「言われるまでもありません」

 あとから葉子がしぶしぶ続いた。そんな祐一と葉子の様子を見て、名雪が不満そうな顔をするが、けっきょく何も言わなかった。

 短い藪を抜けると、急に視界が開けた。すると陽光が顔面を直射し、とっさに手の平を前に掲げた。ずっと森の中にいたせいだろう、あまりの明るさに立ちくらみがした。

 目が慣れるまでの時間ももったいなく、祐一は正面に瞳を凝らした。

 眼前に広がる景色は、予想とは違って寂しかった。奥のほうには海の代わりに霧が漂い、その手前に古めかしい日本家屋がまばらに点在している。一軒、二軒、三軒……それぞれの家屋の互いの距離は、都会とは比べ物にならないほどに離れていて、これではご近所づきあいの心配はなさそうだと要らぬ感想が祐一の頭をよぎる。

 そんなさびれた村の風景にそぐわない騒音が、ひときわ大きく祐一の鼓膜を揺らした。

「あれは……」

 その自分の声は葉子の声と綺麗にハモっていた。そんな二人の声はすぐに轟音に消し去られ、するともう一度、今度は葉子ひとりが強く口にした。

「郁未……」

 自分らから三十メートルほど離れた距離、舗装もなにもされていない土の地面に立ったその後ろ姿は、見紛うはずもなく問題の転校生、天沢郁未だった。その郁未の正面には、十メートルの距離を置いてちんまりした一軒家が立っている。

 その一軒家の周りを囲んだレンガ製の垣根の向こうから、なにかが飛んでいた。卓球ボールくらいの大きさの透明な球体……シャボン玉だろうか? シャボン玉はいくつも浮遊していて、風に流され宙を舞い、そして。

 弾けた。

 爆発音が鳴った。びりびりと空気が震動する。なんだ、どういう仕組みだあれは? 石鹸水に火薬でも混ぜているのか? そんな簡単にシャボン玉が爆弾に変わるわけはないと思うが。

 そのシャボン玉爆弾の量が増していく。それらは上手い具合に微風に乗り、列をなして郁未のほうへと群がっていく。

「……ふん」

 郁未は右腕を上向けた。それら大小のシャボン玉は、郁未の元にたどり着く前に四散した。ぼぼぼぼぼん、と爆発は連鎖し、直後、中空に浮かんでいたシャボン玉の群はきれいさっぱり失せていた。

 郁未が右腕を水平に下げる。手の平の照準は家屋の垣根……と祐一が認識したと同時に、垣根の一部分が砕けた。がらがらと、庭のほうへとレンガが崩れ落ちる。

「にょわ――――っ!」

 庭先から叫び声が聞こえた。

「にゅう……頭ぶつけた……」

 子供の声、小学生か、それより下か。確実に俺たちよりも年下だろう、その女の子の涙交じりの声が風に乗って聞こえてきた。

 おい……そんな子までこのゲームに参加してるのかよ。佐祐理の「あははーっ」と大笑いする顔が思い浮かび、あんた鬼かと祐一は舌打ちした。

「葉子さん。さすがにこれは」

「わかっています」

 初めて意見が合ったかもしれない葉子の言葉にうなずいて、祐一は喉の限りに叫んだ。

「郁未いっ!」

 すると郁未は、ゆっくりと振り返った。その動きは実に緩慢で、郁未の顔があらわになったとき、祐一の心に疑問が膨らんだ。

 これが、あの郁未か? その表情は青ざめ、視線は宙を泳ぎ、だらりと肩を落としている体勢は精彩を欠き、初めて対峙したときの自信に溢れかえっていた様子とは別人のようにかけ離れていた。

 そんな郁未めがけて、祐一の隣で葉子がすっと右腕を上げた。

「……あら。葉子じゃない」

 と、郁未の瞳に光が戻った。そう感じたときには郁未とこちらとの距離は半分にまで縮んでいた。郁未の、たったワンステップで。

「葉子と、それと……誰だったかしら」

 郁未が祐一の顔を見て首をひねった。記憶の彼方かい、俺の存在は。肩を貸している名雪のほうもなんだか悲しそうな顔をしていた。

「まあいいわ。あなたならすこしは楽しませてくれそうだし」

 葉子にウインクして、くすくすと郁未は笑う。もう郁未は普段どおり(さきほどの様子とどちらが普段なのかはわからないが)の挑戦的な態度に戻っていた。

 祐一はかばうように名雪の前に出た。そのさらに前へと、葉子が進み出る。

「私は戦う気など毛頭ありませんよ」

 言いながら、それでも葉子は手の平を郁未に向けていた。

「特に、今の状態のあなたとでは」

「へえ」

 郁未は挑戦的な態度を崩さない。

「どういう意味かしらね、それは」

「ドッペルゲンガーのあなたには、用はないという意味です」

「あはは。あいかわらずつれないなあ」

 どん、と。郁未がせせら笑いながら手の平から咆哮を放った。

 祐一は名雪を抱きしめた。条件反射、プレハブ小屋の前でふっ飛ばされた記憶が蘇ったから。

 が、予想していた衝撃は襲ってこない。自分の肩越しに見やれば、葉子のほうもさきほどとまったく同じ体勢のまま、郁未に視線をやっていた。たぶん、葉子が郁未の放った不可視の力を相殺してくれたのだろう。

「そっちに用はなくても、こっちにはあるのよ」

 にやけた笑みをそのままに郁未がじりじりとにじり寄ってくる。

「そんなことは知りません」

 同じだけ後ずさりながら、葉子がこちらに視線をよこす。それから、くいっと一軒家のほうへとあごを向けた。あの家の子を連れて逃げろ、と言いたいらしい。

「……祐一。苦しい」

 名雪の声がすぐ真下、自分の胸あたりから聞こえた。そういえば抱きしめたままだった。祐一は名雪から飛びのいた。

「……で、葉子さんはどうすんだ」

 すぐに取り繕って(名雪の顔は赤いままだが……)、郁未に聞こえないようひそひそ声で尋ねた。

「郁未を森に誘導します。……ぐずぐずしている暇はありませんよ」

 同じようにひそひそ声で葉子はうながした。見ると、郁未との距離はだいぶ縮まってきていた。いや、郁未からすれば縮まっているとの認識など皆無だろう。いつでも、こちらに飛びかかれる。いまだ離れている互いの距離も、ゼロに等しい。さっきのワンステップを見る限りでは。

「……葉子さん。すぐ戻ってきてね」

 名雪が心配げに言った。うなずくと思いきや、葉子はまごまごと言い辛そうに、

「ですが……」

「葉子さんが戻ったら、みんなで昼飯食べるか」

 葉子の反論を先回りして防いでおいた。どうせ、集落までの道案内が終わったので私たちが一緒に行動する理由はなくなりました、とでも考えていたのだろう。葉子らしいと苦笑いを浮かべてしまう。

 そんな祐一の心情に気づいているのかいないのか、葉子は返事を返さなかった。どう応じればいいかわからないようだった。

「はいかいいえ、どっちだ」

 訊くが、葉子は返答しない。

「はいだったらはちみつくまさん、いいえだったらぽんぽこたぬきさんだ」

「……なんですかそれは」

 葉子はふう、と一息ついて、

「戦いよりは、食事のほうが好きですから」

 葉子なりの「はい」だろう。祐一はますます苦笑した。

「ごめんな。葉子さんにばかり苦労させて」

 申し訳なく言うと、葉子がふっと笑む。

「そう思うなら、豪華な食事を用意して待っていてください」

「もちろんっ」

 名雪が嬉しそうに返事した。それが合図となって、祐一たちは二手に分かれた。葉子は前進、祐一は郁未を迂回して一軒家に向かおうと、名雪を連れて移動を開始する。

 と、郁未が声を投げかけてきた。

「おしゃべりはおしまい? そろそろいいかしら」

 祐一は足を止めた。葉子が郁未の注意をひきつけようと、さらに一歩を踏み出した。

「なにがいいのかよくわかりませんが」

「心配しなくても、あなたのこと無視しないわ。同じ釜の飯を食べた仲間だもの」

 恍惚な顔をつくり、郁未は含み笑いをする。どうやら郁未はもう一軒家の子など眼中なしらしい。安堵する。

 と同時に、郁未と対峙する葉子の身を案じた。郁未相手に、葉子は逃げ切れるだろうか。ちゃんと自分らのもとに帰って来れるだろうか。不安になる。

 だが、自分たちが葉子にとって足手まといでしかないのは変えようのない事実。

「あの頃は楽しかったよね。二人で食事して。二人きりで生活を共有して」

「気持ち悪いこと言わないでください」

 郁未と葉子の会話が再開される。

「葉子って好き嫌い激しいのよね。嫌いな食べ物、私まだ覚えてるわよ」

「さっさと忘れてください」

 そんな二人の声を耳にしつつ、祐一も再度移動を開始した。

「葉子ってゲーム好きだったよね。携帯ゲーム貸したら電池が切れるまで遊んでくれたし」

「さっさと忘れてください」

「葉子ってかわいいパジャマ着てるよね。リスみたいな動物がプリントされた、ピンク色のやつ」

「さっさと忘れて……」

 と、言葉の途中でぴくりと葉子の顔色が変わったのが、今はもう遠くなった距離からでもよく知れた。

「葉子って純な下着つけてるよね。白で無地のやつ」

「……なぜ、知っているんです?」

 その葉子の声はあきらかに震えていた。

「葉子ってけっこう胸大きいよね。着やせしてて普段は気づきにくいけど」

「……なぜ、知っているんです?」

「でもブラジャーはちゃんとつけなきゃ。ノーブラはだめよ」

「なぜ知っているのかと訊いているんですっ!」

「葉子の着替え覗いたから」

 瞬間、葉子の長髪がいっせいに逆立った。どんどんどんどんどんどん! と手の平の銃口から空気の塊を連続してぶっ放し、しかしそのときにはすでに郁未は空高く跳躍していた。直後に、「にょわ――――――っ!」と女の子の悲鳴がこだました。

 祐一たちが向かおうとしていた家屋が、見るも無残に穴だらけになっていた。

 キッと頭上を睨めつけ、葉子が腕を突き出した。が、力を行使する前に葉子の周囲から土煙が吹き出した。地に落下しながら郁未が気体の弾丸を乱射していた。サイドステップでそれらすべてをかわし、葉子も同じように乱射する。

 森の枝葉が飛び、付近の小石が砕け散った。

「おーい。葉子さーん……」

 戦う気はなかったんじゃないのかーと言おうとして、やめた。これはきっと郁未を森の奥までひきつけるための、葉子さんの作戦だ。そう信じたい。

「祐一。急ご」

 名雪の言葉に目線で答え、人外の戦いを繰り広げる二人を尻目に祐一は足を速めた。








 爆発音が響いている。そう思っていたら、今度は銃撃のような音。なんで、なんでみんな戦うの? 簡単に殺しあうの……?

 郁未と葉子が不可視の銃撃戦を繰り広げている森近くの一軒家から、最も接近している住宅、といっても十メートルは軽く離れた家のリビングで、長森瑞佳は二人の戦いを信じられない気持ちで見つめていた。

 かたわらには、椎名繭がきょとんとして自分と同じように窓から外をのぞいている。その頭にはデイパックに納められていた繭の武器、フェレットの顔をした帽子(共生型フェレット、商品名ボウグと説明書には書かれてあった)が乗っかっている。繭はいたく気に入っているようで、昨夜からずっとその帽子を被ったままだ。

 瑞佳は窓際から顔を離し、繭をそっと抱きしめた。

「みゅー?」

 と繭が瑞佳を見上げるが、そのうちに瑞佳の胸にぽふっと顔をうずめ、ふいーふいーとほお擦りをはじめた。

 瑞佳は、そんな繭を今度はぎゅっと、力を込めて抱きしめた。

 きっちり閉められた窓から射しこむななめの陽光にさらされながら、瑞佳はしばらくそうしていた。

 瑞佳と繭は、この集落には昨夜にたどり着いていた。断崖を離れてすぐのことだ。自分たちより先にこの集落に到着した人がいるのかは判断できないが、今現在で知っている限り、集落には自分らを含め六人のひとが住んでいる。

 中学生の繭よりも確実に幼い女の子と、もう一人、ミッション系の制服を着た女の子。今もなお銃撃戦が続く付近の住宅に、手をつなぎながら入っていったのを夕べ見かけた。

 そして、チェック柄のストールを羽織った子と、その姉らしき人。集落の北よりの住宅に入っていったのをやはり夕べ見かけた。

 その姉妹らしき人たちが住む家には、爆発音が響いてくる前に誰かが訪れていた。自分と同じ制服を着た女子生徒だった。しかしすぐに立ち去ったようで、それからは見かけない。おそらく集落を出たのだろう。

 瑞佳は、その五人に声をかけることができなかった。ただ部屋の窓から見送っただけ。それだけだ。

 みんなを集めようと、一致団結しようと考えていたはずなのに、その気持ちはいつの間にか萎えていた。

 いや。いつの間にか、ではない。いつからかは、瑞佳自身よく知っていた。忘れられない記憶として頭に刻み込まれていた。

 答えの見えない苦悩が胸の奥底に浸透している。それは、断崖から名も知らない二人が落ちていくのを見たときに生まれ、山頂の展望台からよく通った声が聞こえてきたときに増幅したもの。

 展望台に立っていた誰かは、まさに自分と同じことを考えていた。ゲームにいやいや参加させられたみんなを団結させようと考えていた。

 そして、殺された。

 それはたまたまその人がハンドマイクを持っていたからで、もし自分のデイパックにその武器が入っていたなら、自分こそが展望台に登っていただろう。そして死んでいただろう。

 運の違い、だろうか。そうなのだろう。わたしは、運がよかっただけ。

 そこまで考え、瑞佳は首を振った。繭が「みゅー?」とけげんな視線を送るが、瑞佳は気づかず首を振り続ける。違う、そうじゃない。そうじゃないんだ。

 たとえわたしがハンドマイクを持っていたからって、展望台に登って声を張り上げる勇気なんてあったのかな。こうして部屋に閉じこもって震えるだけの臆病なわたしに、そんなことできたのかな……。

 自分は生き残った。でも、代わりに誰かが死んだ。

 臆病なわたしは生き残ったのに、勇気ある誰かが死んだ。

 勇気ある誰かが死んだから、殺しあいを止める者はもういない。

 止める者がいないから、このゲームは終わらない。

 このゲームが終わるときは、最後のひとりになったとき。

 最後のひとりになったとき、そのときにはたくさんの人が死んでる。

 瑞佳は自分の胸に顔をうずめる繭を見た。そのときは、繭も死んでるのかな……。

「ね。繭」

 繭の被ったフェレット型帽子を指でなぞりながら、瑞佳はささやいた。

「もしわたしと繭だけが生き残ったとして、ほかの人たちは死んじゃってわたしたち二人きりなったとして、そしたら繭はどうする?」

 繭は、わたしを殺して生き残る? そして、この世界から帰っちゃう?

 繭は瑞佳の胸から顔をあげ、ちょっとだけ身を離し、しばらくきょとんとして、よくわかっていないようで、自分の言い方がちょっと悪かったかなと瑞佳が思いはじめたとき。

「てりやきバーガー」

 繭が答えた。今度は瑞佳がきょとんとする番だった。

「てりやきバーガー、一緒に食べる」

 それは言葉足らずで、その言葉の意味が瑞佳にはよくわからくて、

「いっぱいいっぱい食べる」

 繭が満面の笑みを湛えたときに、瑞佳はその意味をようやく理解した。

「でも、三個までだからね。いっぱい買っても残っちゃうから」

「残ったら、みんなにあげる!」

 繭が勢いつけて抱きついてきた。弾みでフェレット型の帽子が宙を舞う。わっ、と声をあげ、繭とからみあったまま瑞佳は後ろに倒れた。こつん、と後頭部を床にぶつける。

「……うん。そうだね」

 できるなら。できるならあのときみたく、そうしたい。登校拒否児だった繭と出会って、なんとかしたくて、浩平の提案で高校の教室に連れて行ったときみたく、わたしと、繭と、浩平と、七瀬さんと、たくさんのみんなと一緒に、てりやきバーガーを食べたい。食べきれないほどたくさん食べたい。

 瑞佳は繭の体重を全身で感じながら、ちいさな決意を胸に秘めた。

 それはほんとうに小さくて、ふっと息を吹きかければたちまち消えてしまいそうなほどにもろくて儚い灯火で。

 わたしは展望台に登ったあの人みたいな勇気は持っていないけど、でも、みんなのためにてりやきバーガーを買ってあげるくらいはできそうだと。

 そのとき瑞佳は思った。








 うっそうと茂る森に光を落としていた太陽は、梢の隙間からのぞけるわずかな範囲の空からは、もう隠れてしまった。夕方が近いのだろう、薄暗くなりはじめた辺りに首を巡らせ、音を立てないよう柚木詩子は移動をはじめた。

 視界が悪くなると、これまでずっと見張っていた幼なじみの里村茜を、見失ってしまうかもしれないから。

 茜との距離をいくぶん縮め、詩子は近くの切り株に腰をあずけた。茜のほうはといえば、樹の幹を背もたれ代わりに、ぼんやりと瞳をなにもない宙に向けている。自分の存在に気づいた様子はない。ホッとする。

 ステルス迷彩である赤マントを身につけていれば気づかれる心配など皆無だろうが、今は違った。赤マントは肩にかかってはいるが、電源を落としている。だから自分の身体は透明ではない。いつまでも透明だと落ち着かないのだ。自分がどこにいってしまったのか、ちゃんと存在しているのか、不安になる。

 詩子は茜のすました顔に視線を固定させたまま、やりきれないため息をついた。はっきり言って、今のこの状況は苦痛だ。なぜ苦痛なのかといえば、単に暇だから(でもこれは神出鬼没がウリのあたしにとって死活問題なんだけど)。

 茜は、この場から動く気配をまったく見せない。ぼんやりと、ときおり何か思いめぐらすふうに瞳を閉じ、開けてまたぼーっとする。その繰り返し。

 茜、どうしたのよ。昨夜はあんなに島じゅうを歩き回ってたのに。

 砂浜から始まり、集落、灯台、なだらかな丘、険しい山。地図に記されたすべての場所を見て回ったはずだ。休憩も挟まず、一睡もせずに歩き通していたのだから。

 必死に。まるで、迷子の誰かを探すかのように。

 それが誰なのかは知る由もないが、夜通し歩いた結果、人っ子一人発見できなかった。誰とも出会わなかったのだ。それは偶然というよりは、時間帯が夜だったためだろう。完全な暗闇ではなかったにしろ、ある程度は接近しなければ相手の存在に気づけない闇。加えて、よい子は寝る時間。集落に並ぶ住宅は、どれも明かりが灯っていなかった。

 そして茜は、住宅に不法侵入はしなかった。入った途端、暗闇にまぎれて攻撃でもされたら目も当てられないから。

 茜はけっきょく、このゲームに乗ったのだ。だとするなら、今のこの状況にも説明がつく。茜がこの森から動かないのも、なにも疲れたからそうしているのではないと、詩子はすでに気づいていたりする。

 ひとつの場所から動かない。それはこのゲームでは、常套と言っていい手段だ。仮に茜が行動を起こせば、そこにはなにかしら『音』が生じる。歩けば足音、話せば声、戦えば悲鳴。その音こそ、この殺しあいという名のゲームでは命取りになる。

 音がすれば、ほかの誰かに自分の居場所を知られてしまう。急襲される危険が増す。ただでさえ偶然に誰かと出くわし、その誰かがやる気になっている人物なら襲われる危険をはらんでいるのに、わざわざ自分からその危険を増加させることはない。

 自分が急襲する側に回るのならば、なおさら。

 もしなんらかの音、たとえば浩平が「ギャルのパンティおくれ!」と叫んだ声を聞いたのなら、そくざにその場所へ向かう。不意をついて効率よく倒すために。茜は、それを狙っているのだ。

 実際、ハンドマイクで増幅された声が森を震わせたとき、茜はすぐさま山頂に向かった。片時も手放さないピンクの傘(とんでもなく物騒な傘)で襲撃した。そしてこの場所に戻ってきた。

 詩子は今更ながらがっくりと肩を落とした。あたしは展望台の人たちを助けられなかった。山頂まではけっこうな距離があり、茜の先回りができなかったのだ。なにが赤マントよ。正義の味方よ。笑っちゃう。

 でも、こうやってくよくよしてても始まんないよね。重要なのはこれから! 今を生きること、それが大事! 誰だったか偉い人がたしかそんなこと言ってたし。ともすればトラウマになりそうな苦悩を、詩子はあっさりと切り捨てた。

 気分転換に、詩子は自分のデイパックからスケッチブックを取り出した。あの砂浜で、消えてしまった上月澪が残したスケッチブック。

 一枚めくってみる。最初に書かれた文字は『こんばんは』。それから何気ない会話文が続く。誰と会話してたのかな、澪ちゃん。やっぱり茜とかな。そして、『傘』の一文字で会話は締めくくられている。

 残りの空白のページをぱらぱらとめくっていく。ぱたんと閉じる。くるんとひっくり返し、誌子は裏表紙に目線を落とした。

 そこにはでかでかと、商品名『ラクガキ王国』と記されてある。その下には、宣伝文句だろうか――このスケッチブックに書かれたラクガキは立体となって動き出し、あなたを助けるでしょう――との文字が躍っていた。

 さらにその下、『注意書き』と銘打った文が長々と続いている。もう何度も読んだその文章を、なんの気なしにふたたび読み進める。

 注意点。その一、付属のペンで描かないと効果はありません。

 その二、落書きは絵でないといけません。

 その三、危険物、たとえば核兵器などを描いても爆発しません。動くだけです。

 その四、幼児の手の届かないところに保管してください。

 落書きなんだからこれは幼児のための商品なんじゃないの? と首をかしげながらも詩子は考えた。

 これってほんとに描いたものが現実になるのかな? それはつまり、自分が欲しいと思ったもの(限定はされてるけど)が手に入るってこと?

 そんな便利なものがこの世にあってたまるかと肩をすくめながらも、誌子はしばらくバラ色の妄想にふけっていた。そして、ふと、ひっかかりを覚えた。

 付属のペン。そんなのあたしは持っていない。とすれば、あの砂浜に落ちたまま? しまった、一緒に拾っておくんだった。あれから半日ほど経っているけど、まだ残っているだろうか。

 探しに行こうかな。うーん、でもなあ……。あたしには果たさねばならない使命があるんだ。茜を、更正(?)させること。

 付属のペンを取りに砂浜へおもむくか、茜を見張り続けるか。

「…………」

 なに迷ってんのよ、あたし。ペンを探して、このスケッチブック使って、今、なにしようと考えてた、あたし?

 戦う気なんて、ないはずなのに。

 と、そのとき。どんどんどんどんどん! と銃撃のような音が耳に触れた。それはかすかな音で、かなり遠方から、けれどその音は徐々にこの場所、森の奥へと入ってきて――

 誌子は立ち上がった。ステルス迷彩の電源を入れる。自分の手元を確認、よし、なにも見えない。透明人間状態。

 茜が、腰をあげ、ゆっくりと動きはじめていた。

 足音を殺し、同じ速度で誌子も尾行を開始した。




                 【残り20人】




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