ぴちゃぴちゃと、頬に湿った感触。なんだろう、眠いのに。もっと寝かせてよ。

 展望台の建つ山頂からちょうど東、低くなだらかな丘の上で、沢渡真琴は重いまぶたをこじ開けた。

「にゃーん」

 顔の前に、全体的に三角っぽいネコの顔のドアップがあった。ぺろぺろと、こちらの額、頬、指先を順番になめあげる。

「ぴろ……」

 ピロシキが、にゃーんと元気よく返事した。

 さわさわと風で波打つ草の葉が、鼻の先に当たってこそばゆい。柔らかい草原を絨毯代わりに、つい居眠りをしていたようだ。

 真琴は、うーん、と伸びをしようとして、しかしそれはかなわなかった。左腕だけがわずかに動いただけ。その手首に巻かれたゴムの髪留め、そこに付いた小さな鈴が、ちりんと音を奏でる。

「……あぅー」

 頭痛がする。身体の芯が熱くて、同時に寒気がおそってくる。手の平にじっとり汗が滲んでいるのがわかる。どうしたんだろう、あたし。風邪ひいたのかな。

 それは今に始まったことではなかった。プレハブ小屋の教室で席に着いていたときから、体調がおもわしくない。時が経つに連れ、侵食されるかのようにすこしずつ全身の熱が増しているようだった。この丘に登ったのだって、涼しそうだったからという理由。熱っぽい身体をすこしでも冷ましたかった。

 清涼な風が真琴の前髪を揺らせる。瞳を閉じてその風に身をゆだねる。気持ちいい。この丘に登ったのは正解だった。ほんとうに、ここはいい場所。お母さんのお腹の中にいるような、心温まる、そんな懐かしい場所。

 ただ、昨夜に降った小雨だけはかんべんして欲しかった。

「あぅー。ムカつく……」

 真琴は、全力を持って上体をあげた。それもこれも、みんな祐一のせいなんだから。一晩中雨にさらされてびしょびしょになってたくさんくしゃみして風邪が悪化したのも、みんな祐一のせいなんだから。

 だって、祐一の顔を思い出すと、なんか腹立つ。あいつは、あたしの敵。理由はわからないけど、敵なんだ。だから、悪いことはみんな祐一のせい。

 真琴は自分の手首に巻かれた鈴を見た。これが、あたしの武器。気に入ってる。手首を振って、ちりんちりん、と鳴らしてみる。野原を駆け回りたい気分になる。祐一のせいでむかむかした気持ちも、だんだんとしぼんでいく。

 見た目は単なる安っぽい鈴、しかし武器というからにはなにかしら効能があるのかもしれない。現に説明書らしきものは同封されていたのだが、真琴は読むことをしなかった。いや、正確には読めなかった。文字が、読めない。以前は読めたのに、今は読めない、読む気力もない。

 武器だったら、どうせなら花火がよかったな。ネズミ花火、祐一が眠りこけている隙に投げつけたい。それか、コンニャクとか。顔面に投げつけたら楽しそう。

 真琴は、背中をどさりと草原にあずけた。両手両腕を投げ出し、深呼吸した。

「にゃーん」

 ピロシキが鳴いた。そんな声も耳に入らないほど、真琴は自分が考えたいたずらを何度もトレースしていた。祐一の驚く顔が見たい、怒った顔が見たい、あきれてため息をつく顔が見たい。

「……祐一の、ばか」

 会いたい。祐一の顔が見たかった。

「にゃーんにゃーんにゃーん」

 ピロシキのしきりに鳴く声が耳を打った。

「なによ、ぴろ。うるさいわよ」

 それでもピロシキは鳴きやまなかった。真琴のジャンパーの袖をひっかき、口にくわえ、後ろ足で踏ん張ってひっぱってくる。

「? ぴろ?」

 ピロシキの細い瞳から伸びる視線は、真琴の顔にまっすぐに注がれている。なにか言いたいの、ぴろ? あたしネコ語なんてわかんないわよ。キツネ語だったらわかりそうだけど。なんとなく。

 ぴろはジャンパーの袖を離さない。と、今度は肩に下げたバッグをひっかき始めた。

 なんだというのだろう。普通じゃないぴろの行動に、なぜとない不安にかられる。まるで、あたしをこの場所から移動させようとしているような……

 そこまで考え、真琴は飛び起きた。飛び起きたつもりだったが、重力が倍加したような身体は思うように動いてくれなかった。

 ぜえぜえと荒い息をはきだし、そして真琴が上体を起こしたとき。

「悪い子は居ねがああああああ!」

 唐突に大声が聞こえてきた。

「わあ! ごめんなさい秋子さん!」

 反射的に真琴は謝っていた。それから、はっと気づく。

 え、え、え? あたし、まだ祐一にいたずらしてないよ。まだなんにも悪いことしてないよ。真琴はめいっぱい見開いた瞳を、横手に、声の聞こえてきた方向に押しやった。

 反動で、鈴がちりんと鳴った。

 そこで真琴の意識は途切れた。








 はあ、はあ、はあ……。

 呼吸が荒い。唇から肺へ、気管を突き破らんばかりに酸素が巡回し、胸骨から飛び出さんばかりに心臓が暴れている。

 七瀬留美は、足先から徐々に消えてゆく名も知らない少女を、うつろな瞳で見下ろしていた。なにも考えられない、まっ白な思考。それは、呼吸の沈静とともにすこしずつ色みが増していき、そして形となって言葉を作り出す。

 あたしが、やったの?

 自問自答しても、ただひとつの答えは変わらない。

 そう。あたしが、やったの。

「なんだってのよ、いったい……」

 七瀬はその場にくずおれた。右手に携えていた鉄製の槍を、地に両膝をつけたまま力いっぱい投げ放った。

 軽い音をさせて草の絨毯の上を転がるヤリに、七瀬は目を向けなかった。

 あたしが、この子を殺した。よくは覚えていないけど、あのヤリで、この子を殺した。殺したらしい。よく覚えていない、覚えていないんだ。だから、あたしのせいじゃない!

 だけど。

 ずぶり、と。この子の肉を引き裂いた瞬間の感触は、手の平にはっきりと残っていた。

 違う。違うんだ。七瀬は何度も頭を振る。首が壊れるくらい、何度も。

 あたしのせいじゃないんだよ。デイパックに入っていたあのヤリを手に、この丘に登って、そしたらネコと一緒にこの子がいて。この子の後ろ姿を見て。そしたら、聞こえたんだ。突然、前触れもなく、声が。聞き覚えのない野太い声が。

 ――憎い憎い憎い。殺せ殺せ殺せ。にくいにくいにくいころせころせころせニクイニクイコロセコロセニクイコロセニクイコロセニクイ――

「にゃーん」

 ネコが、七瀬の前に座っていた。じっと、みじろぎせずにただ七瀬の顔に視線を送っていた。なによ、なんの用よ、なにか言いたいの? 言いたいことがあるんならはっきり言いなさいよ!

 七瀬は腕をやみくもに振り回した。ちょうどネコの胴をなぎ払う格好になった。その三角っぽいネコは、鳴き声をあげてきびすをかえし、駆け出し、それから一度だけふり向いた。

 名も知らなかった少女が寝転んでいた草原をしばらく見、ネコは逃げ去った。

 そのネコが視線を向けていたところ。鈴が落ちていた。七瀬はそれを固く握りしめて、

「最低だ、あたし……」

 地に顔を突っ伏した。草木の匂いが鼻の奥底を突く。髪が、寸分の隙間もなく全身を覆った。尋常でない量の髪、いつの間にか伸びていた自分の髪。おかげでリボンはほどかれ、ツインにまとめていたおさげは無造作に垂れ流してある。

 ぱさりと音を立てて、よぶんだった髪が剥がれ落ちた。けれどおさげが元通りになることはない。

「うぅ……ぐすっ。もう、いやだあ……」

 なんで、なんであたしがこんな目に遭わなきゃなんないのよ。あたしの身体、どうしちゃったのよ。殺しあいなんて、いったいなんの冗談よ。かよわい乙女のあたしにそんなことできるわけないでしょ!

「やだよ……。もう、だめだよあたし……」

 あの学校に転校してから、いいことなんてひとつもない。がさつだった中学時代の自分とおさらばしようと思って、乙女志望して、でも後ろの席の男子に邪魔されて、いたずらされて、からかわれて――

 その折原浩平も、殺しあいに参加した。プレハブ小屋の前で、人をひとり、殺していた。

「家に、帰りたいよ……ぐすっ」

 泣いていたって状況が好転しないのはわかっている。でも、今はどうしようもなかった。もう誰も信じられない、誰とも会いたくない。他人が、怖い。事実、七瀬はプレハブ小屋を出てからずっと一人だったのだ。

 あたしはこの島でひとりぼっち。孤独。ずっと続く孤独。耐えられない。耐えられる自信がなかった。

 ひとりになりたくて。でも、ひとりは寂しくて。

「誰か……。だれか、助けてよ……」

「助けてあげましょうか?」

 七瀬はガバッと顔をあげた。涙で腫れた両の眼を、正面に凝らした。

「このヤリ、あなたのでしょ」

 すぐ真正面に、人が立っていた。丘の上を流れる風に長い青髪をなびかせ、赤を基調とした制服とのコントラストを強調させる、そんな女の子。

 転校生、天沢郁未。

「ほら」

 鉄製の槍を肩の上でトントンと叩き、器用にくるっと半回転させ、持ち手の部分を向けてくる。七瀬は微動だにしない。

「ちゃんと手にとりなさい」

 ぽい、とゴミでも捨てるように投げつけてきた。七瀬は反射的に受け取った。ふん、と郁未が鼻で笑う。

「あなた、おもしろいもの持ってるわね。ほんと、おもしろいわよ、それは。そのヤリはね、ある特定の状況に置いてなら最強なの」

 楽しげな口調で続けて、

「だから、単純に、ある特定の存在を殺すことに関してだけなら、そのヤリにかなう武器はほかにない。あなた、説明書はちゃんと読んだ?」

 七瀬は首を横に振った。同封されていたのは知っていたが、ゲームに参加する気のなかった自分にとってはどうでもいい事柄だった。

 事柄だった、けど。でも自分の身を守るためなら。

 七瀬は、立ち上がった。鉄製の槍を正眼に構える。

「無駄よ」

 郁未が蔑むような視線をこちらによこした。

「その武器は人外のものにしか効果がないの。さっき殺した沢渡真琴のように」

 七瀬はぽかんとした。言葉の意味がつかめない。

「まったく、これだからお子様は」

 やれやれと郁未は肩をすくめた。なに、この人。なんか態度でかくない?

「あんたもお子様でしょ。あたしと同じくらいに見えるし」

「精神年齢って意味よ」

「……な、なんですってぇー!」

「ほら。そんなところが」

 郁未がいやらしい笑みを浮かべる。う、乙女志望のあたしとしたことが、はしたない。

「せっかく私が教えてあげようって言ってるのに。気まぐれの私が」

 偉そうに言った。やっぱりこの人、感じ悪い。

「いい? もう一度言うわよ」

 郁未が念を押す。

「……話すんならさっさと話して」

「ふふ。そうそう、その調子。気の強い人って、好きよ」

 にやりと口元を歪ませて、

「そのヤリはね、人間に対しては単なるヤリでしかない。それだけじゃ、普通に刺すくらいが関の山。その『獣の槍』は、人間以外と対峙してはじめて発動するのだから」

「……人間以外って、動物とか?」

 あの三角っぽいネコが思い返される。郁未は、あからさまに呆れた物言いで、

「そんなのに使ってどうするのよ。化け物とか、妖怪とかよ」

「…………」

 当然ではあるが、にわかには信じられない。たちの悪い冗談だろうか。

「信じる信じないは自由だけど」

 郁未は挑戦的に七瀬を見下ろし、

「けど、このゲームには人外の存在が少なからず参加しているわ。あなたが殺した、ものみの丘の妖狐、沢渡真琴。それに、翼人の神奈。翼人の羽から生まれた存在である、みちる。アークデーモンの家系である、水瀬名雪。それに……」

 一瞬、郁未の目元がすっと細くなった。が、たちまちにやけた顔に戻り、

「もしかすれば、あの、長森瑞佳も」

 と、そこで口を閉ざした。郁未にしてはめずらしく歯切れが悪い。

 しかし、それよりも言葉の内容のほうに注意が向いた。長森瑞佳? なぜ、あの子の名前が出てくるの?

「瑞佳が、人間じゃないっていうの」

 そんなバカなと思いつつも、つい聞き返してしまった。

「さあね」

 そっけなく郁未は答えて、

「かしこく使いなさい。そのヤリは使用が極端に制限されているけど、あの『魔銃』でさえも太刀打ちできない武器だから」

 とん、と郁未は軽快に地を蹴った。七瀬は目を見張った。それはとんでもない跳躍で、自分との距離は一気に十メートルは離れてしまっていた。

「私からのアドバイスはおしまい。あとは勝手にやって。じゃね」

「ちょ、待ちなさいよ!」

 七瀬はあわてて呼び止めた。

「なんでわざわざそんなことするのよ」

 恩ぎせがましく、敵であるあたしにそんなこと教えないでよ。郁未はくすくすと笑い声を漏らして、

「言ったでしょ。私は強い人が好きなの。だから、あなたも強くなりなさい。強くなって、そしてこの私と戦いなさい」

 もう一度郁未は跳躍した。ダンスでも踊るかのようなバックステップ、そう認識したときには郁未の姿はもう完全に丘の上から消えていた。

「……あの人こそ、人間離れしてるじゃない」

「そうだね」

 いきなり背後から聞こえた相づちに、口から心臓が飛び出るかと思った。はずみで手からヤリを落としてしまう。

 今度は誰よ、いったい……。七瀬は泣いてしまいたい気分で声の方向に顔をやった。

 日本人形のような黒髪をした女の子が、すぐそばに立っていた。

「キミ、教室で竹刀ふりまわしてた子だよね」

 にっこり笑って、その女の子が馴れ馴れしく語り出した。誰、だろう。名前はわからないが、彼女の着ている制服は自分の学校のものと同一(転入前の制服を着ているあたしのとは違うけど)だった。見覚えのない顔、だからおそらく自分と同学年ではない。

「あの剣を持った子に反抗したとき、ちょっと感激しちゃった。勇敢な人って、憧れてたな、わたし」

 こちらの疑問など意にも介さず、彼女は勝手に語り続ける。

「キミ、強いんだね。身体も、心も。わたし、目は見えないけど、人を見る目はあるつもりだよ」

「……目が、見えない?」

 思い出す。たしか、ひとつ上の先輩に盲目の生徒がいると。

「うん。昔、事故でね。あ、先に言っとくけど、だからってわたしのこと特別扱いしないでね。キノコのおかげで感覚が巨大化してるし」

「……は? なにそれ」

「なんでもないよ」

 彼女は愉快そうにほほえんでいる。ほんとうに、盲目の事情など感じさせない自然な笑み。疑問すら浮かんできそうな無邪気さ。

「……ま、あたしは特別扱いなんてしないけど」

「うん、ありがと。やっぱり強いね、キミ。優しくて、強い。自分に自信を持ってる証拠。そういう人って好きだったな、わたし」

 好き、か。郁未にも言われた言葉だ。けど、うれしくない。気が強いやら勇敢やら、そんなことで褒められたって嬉しくないのに。

「? うれしそうじゃないね」

 彼女がななめにこちらを見つめる。

「そりゃ、強いって言われても」

「なんで?」

「どうせなら乙女っぽいとか言われたいし」

「ふーん」

 でも、と彼女は一度、前置きして、

「キミのこと、ちょっとうらやましいって思ってたよ、わたし」

 七瀬はうなずけなかった。それは、嬉しくないという理由だけでは、なかった。

 ここにきてようやく、彼女の語り口にひっかかりを覚えた。

 なんだろう? この人の言葉には、なにか、違和感を感じる。

「だから、キミのこと好きだったよ、わたし」

 その言葉を聞いた瞬間、七瀬は青ざめた。一歩、二歩、あとずさる。

 そうだ。なぜ、この人は、さっきから、過去形で、しゃべっているの?

「だからね……」

 彼女がくつくつと笑う。

「だから、キミのこと忘れないよ、わたし」

 七瀬は目を見開いた。草の上に転がるヤリを手に取ろうと、ばっと身体をひるがえし、その刹那。

「えいっ」

 彼女のかけ声とともにすさまじい衝撃が背中を襲い、七瀬は前のめりに倒れた。

「う……あ」

 身体の先から先まで痺れ、立ち上がれない。声すらまともにあげられない。

 意識が、徐々に白濁していく。

「これ、射出式スタンガンっていうんだ。先っぽから二本の電極が飛び出して、五メートルまで電撃可能なんだよ」

 びよんびよんと電極を伸ばしたり縮めたりして、彼女がえへんと胸を張る。

「説明書を心眼で読んだんだ。すごいでしょ」

 それから彼女は、デイパックから楕円形の缶を取り出した。中からキノコの形をしたものをひと粒つまんで、

「はい、あーん」

 七瀬の口を強引に押し広げた。抵抗はできない。舌先にざらっとした感触、次いであごを上下に動かされた。香ばしいクッキーの味がした。

 そういえば、いつだったかクマさんクッキーを焼いたことがあったな。取り留めのない思考が、懐かしい風景が頭に描かれる。あのときは焼いたクッキーを教室に持っていって、友達になろうと思ってクラスメイトの広瀬さんにあげようとして、「クマさんだって、ダッサ」とか言われて、キレそうになって、でもキレる前になぜだか折原が先にキレてて――

「うん、見事なコンビネーション。相性いいね、このふたつの武器」

 そんな彼女の楽しげな声もあやふやで、自分がなぜクッキーなんかを食べているのか、その理由さえ七瀬にはもう認識できていなかった。

「えへ。油断しちゃったね」

 ぺろっと舌を出して、彼女は眉尻を下げる。

「わたし、ちょっとがっかり。乙女になりたいなんて、そんなの無いものねだりのわがままだよ。大事なものを何も奪われたことのない人が考える、ひまつぶし」

 彼女が露骨にため息をつく。

「キミ、けっきょくは弱いんだよ」

 彼女がきびすを返す。

「でもね。心配しなくても、キミの代わりにわたしが強くなってあげるから」

 七瀬は反論できなかった。したくても、できなかった。

 しようとすら思わなかった。

 ひどい眠気が、七瀬の身体を絶えず支配していた。

 鉄製の槍を手に、彼女は立ち去った。








 七瀬と別れてから、天沢郁未はだだっ広い野原を疾走していた。

 郁未が通ったあとは、草木の枝葉が弾け飛び、土埃が舞い、さながら除雪車が通過した道路のような様相を呈していた。それほどの速度。

 べつだん行くあてもない。単になまった身体をおもいきり動かしたかっただけ。ああいう挑戦的な子を前にすると、押さえつけようもなく胸が躍り、血が沸き、破壊衝動にかられる。

 しかし、今はまだ、殺さない。殺してもつまらない。だから、殺さない。

 郁未は両足を急停止させた。空気の摩擦が消失し、重力の存在をようやく思い出したかのように郁未の長髪がぱさりと流れ落ちる。

 両腕でみずからの身体をまさぐり、抱きしめ、肩を震わせ、郁未は思う。

 強くなりなさい。強くなって強くなって、そしてこの私と戦いなさい。

 誰でもいい。ヤリを手にしたあの子でなくとも、誰でもいい。弱肉強食のこの世界で淘汰され、選ばれた者。その者だけが、この私と戦う権利を持つ。

 そう。FARGOの命令など関係ない。殺しあいをさせ、極限の状態に追いこみ、不可視の力の所有させ、そののち信者にしようというFARGOの思惑など、自分には無関係。

 私は、強者と戦うために、このゲームに参加したのだから。

 不可視の力とは、言うなれば『不幸の力』。極度な不幸を経験し、その代償として手に入れられる力。そう、FARGOの幹部は話していた。

 だから不可視の力を他人にふるえば、それは自分の不幸を他人に押しつけることと同義なのだ。

 そこまで思考し、さらに郁未は思う。

 ならばこの力を所有する私は、他人に不幸を振りまく厄介者だ。そんな自分は、この世界に存在する価値などあるのだろうか。生きている価値などあるのだろうか。

「……ふふ」

 だけど。一度だけ、かぶりを振る。だけど私は死ぬわけにはいかなかった。

 だってそんなの、許されないもの。みんなが、許してくれないもの。

 そう。こんなふうに、なにもせずに棒立ちしていると、否応なしに追想してしまう。

 巳間晴香。ごめんね。助けてあげられなくて。

 名倉由依。ごめんね。助けてあげられなくて。

 そして、名前のない、少年。ごめんね。助けて……あげられなくて。

 みんなみんな、助けられなかった。

 そのくせ、自分だけがおめおめと今日まで生き延びてしまった。

 ――それが私なりの、悔恨の情。つぐない。

 不可視の力は、好きじゃない。嫌い。でも私はこの力を否定しない。だって否定なんかしたら、名も知らぬあいつを否定することに繋がるんだから。

 不可視の力の発現は、不幸による。が、それは発現の条件でしかない。不可視の力のおおもと、発生源を手にするためには、あいつと交わらねばならない。

 不可視の力は、あいつの遺伝子がなせる業。

 私は、ただ一回、あいつと交わった。

 だから私は、不可視の力を使う。あいつの存在を感じるため、行使する。

 たくさんたくさん感じるため、たくさんたくさん行使できる相手が欲しい。

 強い者が、欲しい。

「……長森瑞佳」

 気づけば、郁未はその名を呼んでいた。

 あの子なら、私に感じさせてくれるだろうか。この『永遠の世界』を作ったといわれる『創造主』。その力はどれほど強力なものか計り知れない。だったら、あの子と戦えば、あいつの存在をいっぱい感じさせてくれるだろうか。

 ゲームが開始された直後、一番にプレハブ小屋を抜け出た郁未は、すぐに小屋の天井に登った。それはなにも無差別に他のメンバーを襲うためではなかった。長森瑞佳、そのひとりの少女を発見するためだった。

 瑞佳の顔は知らない。けれど出席番号は知っていたので、ここで見張っていれば顔を知ることができる。九人の生徒が小屋を抜け、十番目。ついに郁未は瑞佳の姿を認めた。

 そのとき、郁未は拍子抜けした。この子が、あの、創造主なの?

 外に出た途端、倒れた男を認め、おどろいて、おろおろして、うろうろとそこら辺を歩いて、どうしていいかわからないようで、「浩平ーどこー」と誰とも知れない名を呼び始めた。

 そんな、どこにでも転がっていそうな女の子。

 興味が失せた。氷上シュンの情報が誤っていたのだろう。創造主は、あの子じゃない。

 そのうちに、瑞佳の姿を見失って。

 でも……。ひょっとして早計だったろうか。自分はあの子の一面を知っただけ。ならもう一回、会ってみようか。探してみようか。

「う……くっ」

 肩の震えが激しくなる。がくがくと、首が折れそうなほどに髪を振り乱す。自分の身体を強く抱きしめる。郁未はその場にうずくまった。

 ねえ、どうする? 探してみる? 郁未? 続けざまに脳内に言葉が流れはじめる。

 自問自答――否。それは自問自答というよりは、誰か他人と、友達と会話しているふうな言葉だった。

 え? その前にやらなきゃいけないこと? なにかあったっけ。あ、そっか。この震えをおさめなきゃだね。うん、平気。ひとりふたりくらいで平気。そんなに時間は要らない。弱くても問題ない。

 郁未は、ゆらりと立ち上がった。

 ――はやく殺さなくちゃ、はやく殺さなくちゃ、はやく殺さなくちゃ。

 郁未は、ふらりと身を反転した。

 そうでしょう、郁未。これでいいんでしょう、郁未。ねえ……もうひとりの、わたし。

 答えは、ない。

 先ほどとは別人のようなたどたどしい足取りで、郁未は歩きはじめていた。

 ぶつぶつと、何事かをつぶやきながら。








 暖かいまどろみが頭の中に充満している。心地よい。このままずっと寝ていたいけど、でもそれは罪悪感をともなって。そんな感じ。

 あたし、死ぬのかな。このまま、ひとりきりで。

 足先から徐々に痺れはおさまり、けれど同時に感覚すら喪失していくなか、七瀬留美はまだ消えずに生きていた。

 映像が流れる。それはいつだったかの光景、現実にあった風景。これが噂の走馬灯ってやつか。ああ、懐かしいなあ、そして無性にムカムカする。

 転校初日。あいつ、折原浩平とぶつかった。みぞおちにエルボーを食らった。痛かった。

 授業中。折原のやつに髪を切られた。怒りたくて、でも怒れなくて、泣きたくなった。

 人気投票。一位になりたくて、教師から英語の問題を当てられたとき、わかんなくて、折原に答えを教えてもらって、発表して、そしたらみんなに笑われた。恥ずかしかった。

 人気投票。漢字テストで満点とりたくて、でもどう見ても高校レベルじゃない問題で、わかんなくて、折原に協力してもらって、そしたら瑞佳と一緒にトップの点数を取れた。うれしかった。

 人気投票。けっきょく、瑞佳に負けちゃったな。せっかく折原とがんばったのに。

 折原浩平。憎らしいやつ。意地悪なやつ。変なやつ。

「…………」

 七瀬は、笑い出そうと思って、感覚のない頬はちゃんと笑みをかたどってくれたのか、もうわからなかった。わからないけど、たしかにあたしは笑ったはず。

 あはは。

 あはは。

 あはは……なによ。あたしの想い出って、あいつのことだけ? 折原のやつだけなの? あんなにいじめられてたのに。たまんないなあ。あたしって、じつはマゾ?

 そこで、頭の奥の奥で、ふたつの人影が浮かび上がった。闇をバックに、折原浩平と、長森瑞佳の姿があった。

 あんたたち、けっきょくどうなのよ。ただの幼なじみ? 浩平の顔がフェードアウトし、瑞佳の顔がクローズアップされた。ねえ瑞佳、どうなのよ。毎朝かいがいしく折原の家に起こしにいって、一緒に登校して。文句言いつつ、あんた楽しそうで。ねえ。どうなのよ、瑞佳。

 これは夢。二人を前にして、距離を置いて自分が立っている。そんな夢。

 あんたたち、たち悪いわよ。つきあっているよりも、よっぽど。

 今度は、浩平の顔だけが闇に浮かび上がる。

「……折原」

 声が出せた。驚きだ。手を伸ばそうと思って、できなかった。なによ、夢なんだからちょっとくらい融通利かせてよ。あたしの身体、動いてよ。

「……ねえ、折原」

 浩平の顔が近くなる。ひとをおちょくったような目つき、愛嬌のある無表情。

 あんた、いつもいったいなに考えてるの。わかんない。あんたの突飛な行動、ふざけた思考、わけわかんない。あんたいったい、なんなのよ。なんだってのよ、いったい。

「……教えてよ、折原」

「なにをだ」

 七瀬は覚醒した。うつろだった瞳の焦点が、確実に合致していた。そんな力がまだ自分に残されていたのか不思議で、おぼろだった視界が完全に開けたとき。

「どうして……」

 なぜ、折原浩平が自分を見下ろしているのか、かたわらで屈んで自分の顔をのぞき込んでいるのか、それが不思議で。

「……ここにいるのよ、あんた」

「ちょっとな」

 今となっては聞き慣れた、ぶっきらぼうな声で浩平は答えた。

「知識と経験に裏打ちされたオレのたぐい稀なる勘のおかげ……と言いたいとこだが、武器のおかげだ。適当に点を追ってきたら、ここに着いた」

 七瀬の首の後ろに腕をすべり込ませ、上体を起こした。

「……あんたも、あたしを殺そうとするの?」

 静かに切り出した言葉に、浩平は動揺もせずに七瀬の腕を自分の首に回した。

 と、浩平の顔色が変わった。その視線の先は、七瀬の足先。だんだんと、その透明色の触手が七瀬の胴を這い上がってくる。

「すぐ診療所に連れてってやる」

 よっ、とかけ声をかけて、浩平は七瀬の軽い体を背中で持ち上げた。

「ち、ちょっと……」

 やめてよ、この歳にもなっておんぶなんて。

「しゃべるな」

 静かに、震動を与えないよう、それでも急ぎ足で丘を下ろうとする浩平を見て、七瀬はその背中に顔をうずめ、大きく息をついた。

「そうだったわね。あんたって、いつも自分勝手で、わがままで。人の言うことなんか一言も聞かないで」

「しゃべるな」

「あーあ。ほんと、あんたにはいろいろ苦労させられたわよ。転校しなきゃよかったって、何度も思ったわよ」

「やめろ。よけいな体力使うな」

 浩平の声には、わずかだが焦りの色が帯びていた。急に七瀬は納得できた。そっか、本当にあたしは甘ちゃんだった。剣道で鍛えた身体は強くても、心が弱かった。

 わかっていたはずだったんだ。プレハブ小屋で倒れていた男は、浩平の仕業ではないと。浩平が、人を殺めるような人間ではないと。

 だけど自分は浩平を信じ切れなかった。信じることができずに、浩平から、すべての他人から逃げ出してしまった。それこそが、自分の弱さ。

 たまんない。こんなときに、ようやく理解できたなんて。ほんと、たまんない。

「折原、気をつけてね」

 浩平の首に回していた自分の腕が、だらんと垂れ下がっているのがわかる。もう、自分が、ぴくりとも動けないのがよくわかる。声を出すことも、辛い。

 背中に顔をうずめたまま、ぽつりと言う。

「盲目の女の人に気をつけて。あたし、その人に、やられたの」

 ぴく、と浩平が反応したのが、背中から、自分のひたい越しに伝わった。

 浩平の息が上がってきていた。が、そのことに七瀬は気づけなかった。耳が、遠い。ひゅーひゅーと、なんだか自分の呼吸が変。浩平におんぶされている感触も、宙に浮いているような感覚にとって代わる。

「ねえ……。ちょっと、聞いていい?」

 浩平は、もうしゃべるなとは言わなかった。大きく息を吸って、震える口をどうにか押さえつけ、七瀬は言葉をつむぎ出す。

「あんた、瑞佳のこと、どう思ってるの」

 うまく言えた。

 浩平は答えなかった。うんともすんとも、なにも言わない。なによ、答えなさいよ、がんばって声にしたのに、もうほとんど聞こえない耳を、聴力をがんばって総動員したっていうのに。

 あたしの最後の言葉だったのに。

 でも、ちょっとしまらなかったかな。後悔。

 後悔。

 いやだ。

 死にたく、ない。

 ――もう一度、あたしの口、動いてよ。

「……生き残りなさいよね、あんた」

 七瀬の意識は闇に落ちた。

 その手から、誰のものとも知れない鈴が、ちりんと落ちた。

 ふっと消失した重みに、浩平はたたらを踏んだ。

「……ちくしょう」

 浩平は、うつむいたまま、だだっ広い草原を転がる鈴の音だけを聞いていた。




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