第3幕 2日目午後




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 集落に向かうためふたたび森に入って、どれくらいの時間が経過しただろう。相沢祐一は額の汗をぬぐって頭上を仰いだ。

 梢の隙間からのぞける空は澄んでいて、雲ひとつ見当たらない。頭のてっぺんから降り注ぐ直射日光が両目に痛い。時刻はおそらく昼だろう。気温もだいぶ上がってきていて、冬用の制服を着た自分にはちと辛い。

「鹿沼さん」

 ペースをまったく崩さず先を歩く鹿沼葉子の背中に、祐一は声をかけた。

「ちょっと休憩しないか」

 葉子は立ち止まって首だけこちらに回した。顔は無表情、けれど視線がなにかを訴えている。もう疲れたんですか男のくせにだらしないですね、といったところか。

「悪かったな」

「……なにがです?」

「いや。なんで鹿沼さんはいつも敬語で話すのかな、と思って」

「いきなりなんですか」

「休憩がてらに聞こうと思っただけ」

 ちら、と隣で歩いている水瀬名雪の横顔を見る。それから周囲を見まわす。クッション代わりになりそうな青々と茂った雑草を見つけ、その一画を指さした。

「そこ、座るか?」

 名雪の表情は曇っていて、いくぶん汗をかいているようだった。冬服で歩き通したせいもあるだろうが、理由はそれだけじゃない。

「ううん。はやく集落に着かないと」

 名雪がよわよわしく首を振った。

「べつに急ぐ必要ないだろ」

「でも、もうお昼の時間だし」

「飯なんてあとでいい」

「祐一、おなか空いてないの?」

「空いてるけど、空いてない。名雪は?」

「……あんまり食欲ない」

「だったら」

 言って、強引に名雪の背中を押した。抵抗せずに名雪は従った。

「……ごめんね、祐一」

「なんで謝る」

「……うん。ごめん」

 だから謝るなって。名雪はのろのろと腰を落とした。小さく息を漏らし、ニーソックスを包帯代わりに巻いている右足のふくらはぎを軽く指でなぞった。

「足、平気か?」

 訊くと、名雪は力こぶでも作るように右腕を上げて、

「うん。ぜんぜん平気」

「じゃあ休憩終わるか」

「……祐一、いじわる」

 名雪の右腕がだらんと下がった。

「ふぁいとっ、だぞ。名雪」

「それ、わたしの決め台詞……」

 祐一は名雪の前に屈みこみ、ふくらはぎに手を伸ばした。

「わ。なにするの」

 名雪は瞬時に足をひっこめた。

「包帯代えるだけだって」

「……いいよそんなの」

「よくない。夕べからそのまんまだろ。風呂も入ってないし、せめて傷口だけでも洗わないと」

 デイパックから水の入ったペットボトルを一本、取り出した。

「でも、代わりの包帯なんてないよ」

「制服のリボンでいいだろ。おまえがつけてるやつ」

「……でも、これ気に入ってるし」

「なら俺のYシャツをちぎって使う」

「わ。だめだよそんなの」

 名雪がなおも言い募る。嫌がっているのがありありとうかがえる。祐一はため息をついた。なに遠慮してるんだ?

「あのさ。ひょっとして、恥ずかしいのか?」

「……? なんで?」

 名雪が首をかしげてこちらの瞳をのぞきこんだ。至近距離から、鼻先と鼻先がくっつきそうな距離で。逆にこっちが恥ずかしい。

「……恥ずかしいんじゃないなら、なんなんだよ。なんで遠慮してるんだ」

 名雪から身を離しながら訊いてみた。そうだよな、名雪がケガの治療なんかで恥ずかしがるわけないよな。教科書を忘れたら机を隣にくっつけて見せてくれたり、教室で弁当を広げたり(二人きりで)するやつだからな、名雪は。

 名雪は返事を返してこない。言いにくそうに顔をかげらせていた。沈黙が場に垂れ込めた。

「私が診ましょうか?」

 と、今まで口をつぐんでいた葉子が、すっと名雪の前に出た。

「薬なら多少ありますので」

 背負っていたデイパックから、小さな紙箱をひとつ取り出した。ふたを開け、人差し指くらいの長さのチューブを手に持った。

「それ、なんだ?」

 やけに用意周到な葉子に、すくなからず驚きを込めて訊いた。

「傷薬です。簡単なものですが」

「じゃなくて、なんでそんなの持ってんだ? 鹿沼さんの武器か?」

「いえ」

 葉子はきっぱりと首を振って、

「診療所から調達してきたものです。昨夜に」

 常識でしょう、と言わんばかりの語調で葉子が言った。そういえば、地図には診療所の場所が記されてあった気がする。

「だいいち、私たちに武器は支給されていませんから」

 葉子の付け足したその言葉に、祐一は首をひねった。どういう意味だろう? 問うよりも先に、葉子はその場にかがんで名雪を上目遣いに見た。

「足を出してください」

 詰問口調で言った。だが名雪は答えを返してこない。代わりに、所在なさげに祐一と葉子の顔を交互に見た。

「それ、鹿沼さんのだし。わたしはいいですから」

 申し訳なさそうに言った。その言葉で、祐一はぴんときた。

「あのさ、名雪。迷惑とか考えてるなら俺だって怒るぞ」

 名雪がぴくりと肩を震わせた。

「もし俺が足ケガしてさ、『足手まといになるから、みんなに迷惑かかるから、だから自分のことは放っておいてくれ』って言ったら、おまえそうするか?」

 言い終えてたっぷり十秒は静寂が流れ過ぎてから、

「私なら涙を飲んでそうします」

 なぜか葉子が答えた。

「愛する者のために私は生き残ります」

「……鹿沼さんはちょっと黙っててくれ」

「この場合、愛する者が水瀬さんで、私というのが相沢――」

「黙れっつーに」

 つまらなそうにして葉子は場をしりぞいた。この人は冷たいんだか暖かいんだかよくわからん。というか初対面の時とキャラ変わってないか?

「で、名雪。どうなんだ?」

「え……わたしは祐一のこと好きだよ」

 いつの間にか質問の趣旨まで変わっていた。

「……そうじゃなくてだな」

「祐一はどうなの?」

「俺は今回栞ルート(バッドエンド直行)だから……じゃなくて、とにかく変な気つかうな。あまり駄々こねると、おぶって診療所まで連れてくぞ」

「祐一、恥ずかしいこと言ってる」

「……誰のせいだ、誰の」

「自分のせいでしょう、相沢さん」

 あんたのせいだ、鹿沼さん。

「では、よろしいですか?」

 再度葉子が名雪の前にしゃがみ込んだ。名雪は諦めてうなずいた。

「……じゃあ、お願いします」

「水瀬さん。敬語でなくてよろしいですよ。普通で」

 丁寧な口調で言っても説得力ないけどな、と苦笑ながら祐一はおやと思った。葉子が、ほほえんでいる。ほんのすこしだが笑っている。

 はじめのころは鉄仮面をかぶっているかのようだったのに、ここにきて感情が表に出るようになった(といってもほんのちょっぴりだが)葉子を見て、祐一ははたと気づいた。

 性格が変わったのではなく、自分が誤認していただけなのかもしれない。要らぬ先入観で、葉子の性格を勝手に決めつけていたのかもしれない。

「終わりました」

 葉子がすっくと立ち上がる。治療を終えたのだろう、見れば、名雪のふくらはぎには黒色のハンカチが結ばれていた。葉子の持ちあわせだろうか。

 手際のよさに感心しつつ祐一は名雪の隣に座った。

「鹿沼さんも座らないか」

 立ったままの葉子に声をかけた。

「まだ休憩するんですか? 相沢さんの目的は達しましたのに」

「ちょっと訊きたいことがあるんだ」

 すこしためらってから、葉子はうなずいた。誰かの襲来を警戒してか周囲に気を配るように首を回し、それから祐一と名雪の前にゆっくりと正座する。

 そんな葉子の仕草につられて、声を落として祐一は言った。

「さっきの話なんだけど」

「敬語についてならお断りします」

「……は? なんだそれ」

 葉子があきれた顔で嘆息した。

「いえ。忘れたのならいいですが」

「鹿沼さんって何歳だ? 同じくらいに見えるし、敬語じゃなくていいから」

「……覚えてるじゃないですか」

「いま思い出したんだ」

 葉子がますますあきれ顔をつくった。

「だからさ、俺たちのこと呼び捨てでいいから」

「遠慮します」

 そっこー拒否された。が、一呼吸おいて。

「ですが、私のことは名前でいいですよ。苗字は嫌いですので」

「へえ。なんで嫌いなんだ?」

 言った途端、葉子の表情がまた元の鉄仮面に逆戻りした。祐一は顔をしかめた。失言だったと後悔する。プレイベートな事情に踏み入るつもりじゃなかったのに。

 葉子は、そんな祐一の気持ちを見透かしたように、ふっと笑んだ。

「母親を思い出してしまうからです。殺してしまった、母親を」

 一瞬、言葉の意味がつかめなかった。

「あ、あの……」

 名雪がうろたえた声で話しかけると、

「冗談ですよ」

 もう一度、葉子は笑った。

「話を戻しましょう。相沢さん、私に訊きたいことがあるのでしょう?」

 何事もなかったのように口を開く葉子に、祐一はさらに後悔を募らせた。まったく、なにやってんだよ俺は。

「……ああ。えっと、鹿沼さん」

「葉子でいいですよ」

「わかった。じゃあ葉子」

「……呼び捨てはやめてください。これでもあなた方より年上ですので」

「葉子さん、いくつなの?」

 名雪が興味津々で尋ねた。

「二十歳は超えました」

「……ほんと?」

「ほんとです」

 名雪が意外そうな顔をする。たしかに葉子さんは二十代にしては童顔だと思うが、しかしあゆほどじゃないだろう。

「じゃあわたしのことは『なゆちゃん』でいいよ」

「遠慮します」

 名雪はとっても悲しそうだ。

「いいかげん話が脱線したままなので、本題に入りましょう」

 葉子が疲れた表情で大きくため息をついた。

「俺のことは『ゆうちゃん』と呼んでくれ」

「言ったそばから脱線させないでください、祐一さん」

「…………」

 あれ、今俺のことを名前で呼んだような。すると葉子は顔を背けた。とっつきにくいところのある葉子が、ようやく自分のことを名前で呼んでくれたことになんとなく心が弾む。

「で、本題だけど」

「わたしも名前……」

 名雪が口をとがらせる。葉子に名前で呼んでもらいたいらしい。

「さっきさ、武器のことで」

 かまわずに続ける。

「名前……」

「なんだ次郎、うるさいぞ」

「わたし、女の子……」

「七年ぶりの再会が缶コーヒー一本か」

 雪が舞い降り、駅前の湿った木のベンチで待ち続ける情景が脳裏に映し出された。

「……いったいなんの話ですか」

「いや、こっちの世界の話」

 こほんと咳をして気を取り直す。

「さっきさ、『私たちに武器は支給されてない』って言ってたよな」

「はい」

「私たちって、郁未もってことか」

「はい。そのはずです」

「葉子さんたちって、何者なんだ?」

 なぜ、俺たちと待遇が違うのか。じっと葉子の瞳を見つめる。

「抽象的な質問ですね。答え辛いです」

「なら具体的に訊く。このゲームが始まる前、佐祐理さんは、自分たちには目的があると言っていた。この殺しあいで、佐祐理さんはなにをしようとしているんだ?」

「知りません。皆に恨みでもあるのではないですか」

「とぼけないでくれ」

「とぼけてなどいません。本当に知らないんです」

 葉子の表情を探る。わずかな動きも見逃さないよう、微妙な変化も見逃さないよう、片時も目を離さずに。

「葉子さんも、わたしたちと一緒で無理やり参加させられたの? このゲームには無関係なの?」

 名雪の投げかけた質問に、葉子の無表情にあきらめの色が混じった。

「関係、あるのか?」

 祐一が念を押すと、

「あるといえばあるような、です」

 観念したように言った。

「どっちなんだ」

「郁未はどうか知りませんが、名雪さんが言った通り、私も強制参加させられました。ですが、無関係というよりは、どちらかといえばこのゲームに関係あるのでしょうね。私も、元は『FARGO』に所属していた人間ですので」

 葉子は正座をくずして座りなおし、

「このゲームを主催した宗教団体FARGOについて、知りたいですか?」

 その問いに、祐一と名雪は神妙にうなずいた。








 祐一たち一行が向かっている、大小の住宅が立ち並んだ集落。そのうちの一軒にすでに昨夜から居続けている姉妹がいた。美坂栞と、その姉の香里。

「お姉ちゃん、遅いなあ……」

 ダイニングキッチンのテーブルにあごを乗せ、栞は大きく息を吐き出した。どこか遠くのほうから聞こえてきた電気的な大声で、香里が様子を見に行くと言ってから、だいぶ時間が経っている。

 すぐ戻るって言ってたのに。武器も持たずに、すぐ戻るって。そのくせ一向に帰ってくる気配がない。このままじゃ昼食が冷めちゃうよ、がんばって作ったのに。

 家は無人だったので、冷蔵庫に入っていた食材を勝手に拝借したのだ。痛んでいたものは多々あったが、米三日分だけよりは食料の心配はなさそうだった。

 テーブル上に目をやる。皿に乗せられた、不恰好な形に切られた生野菜。くずれた卵焼き。そしてコンロの上にはカレーなべ(こんなの人類の敵です。なのにお姉ちゃんに強引に作らされた……)。それら簡単な料理を順々に眺め、栞はふたたびため息をついた。

 私も様子見てこようかな。何度そう思ったか知れない。が、栞はそうしなかった。香里に強く言われたのだ。あんたはここで待ってなさい、無理したら体調悪くするわよ、いい? 外出は禁止、それと、あたしが帰ってくるまで絶対に誰も中に入れちゃだめよ。

 わかってる。お姉ちゃんに心配かけたくないし。でも、私だってお姉ちゃんのこと心配なんだから。

 ――と、聞き覚えのあるひずんだ声が響き渡ったのは、覚悟を決めて栞が席から立ったときだった。

『みなさんこんにちはー。正午になりましたー。みんな元気にやってますかあ? お昼寝してる人はそろそろ起きてくださーい。お食事してる人は手を休めてくださーい。

 それではこれから、ゲームの脱落者の追加を発表しまーす。耳かっぽじってよく聞いてくださいねー。まずは、

 九番、深山雪見さん。

 以上でーす。みなさん、友達が死んでつらいかもしれませんが、元気出さなきゃだめですよー。若い翼がくよくよしてたら大空を飛べませーん。飛べない翼に意味はありませーん。それではみなさん、午後もはりきっていきましょー』

 ぶつっと放送が途切れ、栞はぺたんと椅子に座りなおした。

 名雪さんも祐一さんも、まだ死んでない。そしてお姉ちゃんの名も、あがっていない。

 ホッとすると同時に、胸がじくじくと痛んだ。これまで死んだ人は知らない人たちばかり。だけど、また新たに誰かが死んだんだ。殺しあいは、続いているんだ。

 やっぱり、お姉ちゃんを探しに行こう!

 と、席を立とうとして、ふたたび邪魔が入った。音が、聞こえた。玄関のほうから。

 お姉ちゃん? やっと帰ってきてくれたの? それとも……。玄関のドアが開く音、そして廊下を歩くかすかな足音が響いてくる。

 栞は息をひそめた。ばくばく鳴る心臓を押さえつけ、聞き耳を立てる。ちがう、お姉ちゃんじゃない。お姉ちゃんなら、ただいまも言わずに入ってくるわけがない。

 玄関の鍵は、このこぢんまりした一階建ての家を訪れた当初からついていなかった。それどころか、窓の鍵も部屋の鍵も取り外されていた。誰も入れるなって言われても、これじゃ無理だよ、お姉ちゃん。

 おそらく立てこもりを防ぐため佐祐理が事前に施しておいたのだろうが、そのことに腹を立てている暇はなかった。廊下の足音は途切れ、代わりにどこかの部屋の扉を開ける軋んだ音が耳に触れる。そのまま静寂が落ちる。

 ややあって、今度は扉の閉まる音、廊下を歩いて、また部屋に入ったようだ。たぶん、違う部屋に。

 誰だろう? 誰もいないと思って侵入してきたのかな? それとも私を狙って? 様子を見に行こうか? 体調は……よし、問題ない。武器は……うん、ちゃんとワンピースのポケットにしまってある。

 腹を決め、栞はダイニングキッチンから出た。わずかな音も立てないよう、忍び足で廊下を進んで突き当たりを右、すると半開きになっているドアを発見する。

 あそこの部屋に誰かいる? ドアの隙間にそうっと顔を近づけ、栞は室内をのぞき見た。

「…………」

 まず目を惹かれたもの。それは日本人形のような髪だった。腰あたりまで伸ばした、流れるような黒髪。見知らぬ女の人。

 その彼女は部屋中央に立って、きょろきょろと首をめぐらせている。と思ったら、今度は犬のように鼻をひくつかせはじめた。なにやってるんだろう?

 とそのとき、一瞬だが目と目が合った。栞はさっと身を引いた。気づかれた? 息を殺してその場にしゃがみこむ。

 が、こちらに近づいてくる気配はなかった。もう一度中をのぞくと、彼女は首を回しながら、おろおろと辺りを歩きはじめていた。途端、壁にごつんと額を打ちつけた。

「ふえ……。痛いよ……」

 涙目になって両手をおでこに当てる彼女を前に、栞は思った。なんか、いい人そう。

「あの。だいじょうぶですか?」

 意識せずに声をかけていた。そんな自分に驚く。お姉ちゃんがいたら、お人好しって言われるんだろうな。でもほっとけなかったから。

 彼女の様子を注意深く観察する。肩にかかるチェック柄のストールをぎゅっと握りしめる。不思議そうにこちらに目をやる彼女。

「あ、ごめんね。勝手に入っちゃって」

 ニッと笑う彼女の顔を見て、栞は胸をなでおろした。襲っては来ない。

「お邪魔だったかな?」

「……いえ。そんな」

「なんかいい匂いにつられて。カレーのような」

「カレーなら、キッチンにありますよ」

 言った途端、彼女はぱあっと花が咲いたような笑顔をたたえた。いいなーいいなー、と身体をくねくねさせる。そんな子供みたいな態度に、栞も笑みをこぼした。

「よかったら、食べていきますか?」

「え。いいの?」

「はい。なんでしたら全部食べちゃってください」

 わあーい、と彼女は両手を挙げて歓喜した。栞はくすくす笑いながら、

「こっちですよ」

 先導するように部屋から出た。

「あ、ごめん。待って」

 彼女は頼りない足取りでこちらに寄ってきたかと思うと、半開きのままだったドアの角におもいきり額を打ちつけた。

「ふえ……痛いよ……。目がちかちかするよ……」

 彼女は真っ赤になったおでこに両手を当てながら涙目になっていた。

「あ、あの。だいじょうぶ、じゃないですよね……」

「ぜんぜん大丈夫じゃないよう」

 うーうー唸る彼女に、栞は首をひねった。なんでわざわざドアの角にぶつかってるんだろ。

「あ。気にしないで。いつものことだから」

 こちらの雰囲気を察したのか、ぱたぱたと彼女が手を振った。

「わたし目が見えないんだ。だから」

 人事のようにさらっと言った。そのため、その言葉の内容を理解するのにけっこうな時間を要した。

 理解した途端、栞は狼狽した。目が、見えないんだ、この人。

「? どうしたの?」

 小首をかしげて、彼女が漆黒の瞳を向けてくる。

「えと、その。私、盲目の人と話したことないから、その……」

 どう接すればいいのか、どう行動すればいいのか、わからない。

「普通でいいと思うよ」

 彼女はやわらかくほほえんだ。そんなあっさりとした口調に、栞はぽかんとして、

「そう……ですよね。ごめんなさい。私、無神経で」

 ぺこぺこ頭を下げる。恥ずかしさで、まともに彼女の顔を見られなかった。

「ね。名前、なんていうのかな」

 ふいに彼女が訊いてきた。頭を下げたまま、栞はとっさに反応できなかった。

「わたしは、川名みさき」

 そこで、あ、自己紹介か、と気づいた。

「えと。美坂栞です」

「よろしく、栞ちゃん」

 右手を差し出してくる。握手、かな。なんだか照れくさい。栞はみさきの右手をとった。握手なんて何年ぶりだろ、と思いながら。

 みさきが、互いに繋がった右手を上下にぶんぶん振って、パッと離したかと思うと、いきなり背負っていたデイパックを床に下ろした。落ち着きがないというか、いそがしい人だ。

「お近づきの印と、あと、ごちそうになるカレーのお礼に、栞ちゃんにプレゼントあげる」

 しゃがんでデイパックの口を開け、中から楕円形の缶をひっぱり出した。

「……なんですか、それ」

「わたしの武器だよ」

 カパッとふたを開け、上目遣いで中身を見せてくる。色とりどりの小さなキノコ(?)が、乱雑にたくさん詰め込まれてあった。

「みんなの食料は限られてるからね。集落とか、キッチンの冷蔵庫の中身だって、やっぱり限られてるから。だから、これは武器になるよ」

 えっへん、と胸を張る勢いでみさきが語り出す。いったいなんの話だろう?

「腹が減っては戦はできぬって言うよね。みんながはらぺこになっても、これがあるからわたしは平気。持久戦になれば、なおさら」

 だから、はい、とみさきがキノコをひとつ摘んで、こちらに持ってきた。

「でもね、わたしは殺しあいなんかのためにこの武器を使いたくないの。これは、みんなの気持ちをちょっとでもやわらげるために使いたい。この、今行われている理不尽なゲームのせいで溜まったストレスをなくしてあげたい」

 きょとんとして聞いていた栞の手の平に、みさきがひとかけらのキノコを強引に握らせた。

「ほら、よく言うでしょ。ストレスは美容の天敵って。あと、女の子はいっぱい食べてストレスを解消するって」

 それで太るのが定番なんだけどね、とみさきは照れ笑いした。

「そう……ですね」

 笑った。栞もつられて笑っていた。なんとなくだけど、みさきの言いたかったことを汲み取れたような気がした。

「キノコ、ですよね。クッキーですか?」

「うん。シリーズで一度しか登場してない珍品だよ」

「……? なんですかシリーズって」

「なんでもないよ」

 手の上のクッキーを見つめ、ぱくっと一口食べてみる。ほどよい甘さ。おいしいかも。

「いっぱいあるから、はい」

 今度は両の手の平にいっぱいのクッキーを乗せ、こちらに手渡してきた。

「いいんですか? こんなにもらっちゃって」

「うん。心配しなくても、巨大化はしないから平気」

「……? なんですか巨大化って」

「なんでもないよ」

 首をひねりながらもとりあえず「ありがとうございます」と一礼して、栞は肩にかけていたストールを脱いだ。そのストールで、山のクッキーを包む。あとでお姉ちゃんと一緒に食べよう。

「そろそろお昼にしませんか。カレー冷めちゃう」

「うん」

 みさきはすっくと立ち上がった。デイパックの口を閉じ、よいしょと肩に下げなおす。そんなみさきの制服の袖をそっとつかみ、栞は先導するようにキッチンに向かおうとして。

 二人の足が止まった。

「栞。誰も入れちゃだめって言ったでしょ」

 あきらかに不機嫌なその声は、背後から飛んできた。ふり向くと、すたすたと早歩きで寄ってくるぶすっとした顔つきの人影があった。

「お姉ちゃん……」

「栞。離れなさい」

 美坂香里が強引にみさきと栞の間に割り込んだ。背後に栞を隠すように腕を横に伸ばし、みさきに敵意の眼差しを突き刺した。

「やっぱり、お邪魔かな」

 みさきが寂しそうに笑って言った。

「ええ、邪魔よ。帰って」

「お姉ちゃんっ!」

 香里の突き放した言葉に、みさきは「カレー食べたかったな……二十杯くらい」とつぶやくと、回れ右をしてとぼとぼと廊下を歩いて壁に激突しそうになって、クッキー入りストールを床に置きなんとか香里の腕を振りほどいた栞が、壁の一歩手前でみさきを押し留めた。それから、言った。

「あの。人類の敵……じゃなくて、カレーの処理してってください」

 みさきはゆるゆると首を振って、

「ううん。言ったでしょ、食料は限られてるって。わたしがいると、食料なんかあっという間になくなっちゃうから」

 それじゃ栞ちゃん、と一度だけ手を振り、みさきは玄関を抜け、外に足を踏み出した。栞は追いすがろうとして、後ろから肩をつかまれた。

「離してよお姉ちゃん!」

 香里は黙ったまま、みさきの後ろ姿を目で追っていた。肩をつかむ香里の両手は固くてはぎとれなかった。そんな香里の顔を睨んでいた栞もまた、みさきのほうに目を戻した。

 そのときにはもう、みさきの姿は見えなくなっていた。

「もうっ! お姉ちゃんのバカ!」

 香里のぶすっとした顔を見上げて力の限り叫んだ。

「なにも、あんな言い方しなくたって……」

「さっきの人、展望台にいた人ね」

 ぽつりと香里がつぶやいた。

「聞いてるのお姉ちゃん!」

「あーはいはい」

 面倒くさそうに香里は答えた。ますます怒りが込み上げてくる。栞は乱暴な足取りで廊下を歩き、丸まったストールが置かれている場所まで戻り、

「お姉ちゃん。これ、あの人がくれたの」

 香里の胸に叩きつけるように渡した。気圧されながら香里は受け取った。反動でストールがはらりとほどけ、キノコ型クッキーの山があらわになった。

「でも、お姉ちゃんは食べる資格ないね」

 香里の胸の前のクッキーをひとつぶ栞がつまんだとき、

「……待って栞」

 香里が、栞の唇に手を伸ばした。だが時はすでに遅く、栞の口の中にクッキーは放り込まれていた。さくさくとクッキーの砕ける音が鳴る。

 また栞がストールに指を突っ込もうとすると、香里はさっとストールを後ろ手に隠した。

「……栞。平気なの?」

「なにが?」

 言うと、はあっと香里があからさまにため息を吐き出した。

「あいかわらずのほほんとしてるわよね、あんたは」

「ふんだ。どうせ私はお姉ちゃんと違って優秀じゃないですよーだ」

「……なに怒ってるのよ」

「怒ってなんかない。お姉ちゃんの疑い深さにあきれてるだけ」

 はあっ、とまた香里は嘆息した。

「……悪かったわよ」

 香里は、観念したようにストールからクッキーをひとつ、手にとった。

「あたしも、食べていいかな」

 優しく諭すように、けれど視線は外したまま香里が訊いてくる。

 栞は答えなかった。

 答えなかったけど、うなずいた。

 このときのお姉ちゃんの表情はやっぱりぶすっとしていたけれど。

 これから先、栞はこの表情を繰り返し思い浮かべることになる。

 本当に、何度も。

 何度も。

 香里は、キノコ型クッキーをかじった。








 ――甲高い悲鳴が耳を突く。

 誰の悲鳴だろう。栞ちゃん? それとも、栞ちゃんが「お姉ちゃん」と呼んでいた、あの人のほう?

 川名みさきは玄関の前に立っていた。栞たち姉妹が居座っていたこぢんまりした家屋の周囲をぐるっと一周して、玄関前に戻ってきていた。

 どきどきする。わくわくする。武者震いのような期待を胸に秘め、みさきは身じろぎひとつせずこの場を離れない。

 姉と、妹。たくさんのキノコから当たりを引いたのは、果たしてどちらだろうか。

 ――悲鳴がやみ、呼び声にとって変わる。

「……あはは」

 そっか。おめでとう。

 ――姉を呼ぶ妹の声に、嗚咽が混じる。

 おめでとう、栞ちゃんのお姉ちゃん。『毒キノコ』を引いた人は、もれなくゲーム脱落の権利をプレゼントするよ。

 みさきは、ゆっくりとこの建物から離れた。ふらつきもせず、しっかりとした足取りで。

 五感が鋭くなっていた。前よりも、そう、以前とは比較にならないくらいすべての事象を実感できる。風の音、草木の香り、湿った空気を感じ取れる。とはいっても視覚はゼロなので、第六感がその代わり。すべての感覚を数えて、ちょうど五感。

 この島の景色が、手にとるように感じとれた。想像でしかなかった風景が、白黒の、けれど鮮明な映像となって脳内に上映される。もちろん観客は、わたしひとり。

 なぜだろう。キノコのせい? 1upキノコ、性格反転タケの副作用? それとも、まったく別のキノコの作用?

 理由なんかどうでもいい。今この瞬間、このわたしが、この盲目のわたしが、こうして不安なく歩けること、堂々と行動できること、その一点だけが、大事。

 集落の中を散策しつつ、みさきは制服の内ポケットに手をつっこんだ。その中のものを取り出し、顔の前に掲げる。

 栞に気づかれる前に部屋をいくつか探索したとき、タンスの中にしまってあったデイパックを発見した。ふたつ、置いてあった。迷いもせずさっそく中身を確認、そしてこの武器を拝借したのだ。

 スイッチを押す。途端、ババババッとなにかが弾けるような音が鳴った。

「スタンガンかあ……」

 発見できた武器は、これひとつだった。ひとり分だけ。もうひとり分の武器は、見当たらなかった。おそらく二人のうち、どちらかが身に付けていたのだろう。

 この武器は、あの姉妹のうちのどちらのものだろうか。

「地味な武器だね、これ」

 電源を落とし、みさきはスタンガンをしまった。

 地味でけっこう。だからこそ役に立つ。派手である必要はない。

 逆にそれは、命取りにすらなり得る。

「あははは……」

 そう。

 たとえば、あの、ファンファーレみたいにね。




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