森沿いの平原を南の方角へと、神奈はとぼとぼと歩いていた。
ふと後ろに目をやれば、山頂の展望台が見える場所。距離にして百メートルくらいだろうか。しかし神奈はその方向をもはや見向きもせず、それどころか少しずつ遠ざかっていた。
間に合わなかったから。そう。余は、間に合わなかったのだ……。
仕方なかったのかもしれない。山頂までは距離がだいぶあったから。急いで向かったつもりだったが、到着する前に謎の霧が立ち込めた。誰かが襲撃したのだ。
防ぎようのない結果。そう神奈は頭の中で反芻していた。
だけど……。なぜだろう、完全には納得できない部分がたしかにある。胸の底、一番深くて、でもすぐに這い上がってきそうなところで。
それは恐怖の潜む場所だと、神奈自身、もう気づいていた。
余は、なんと卑怯で臆病な心をしているのだろう……。
もっと急げば間に合ったのではないか。急いだつもりで、それは、つもりでしかなかったのではないか。
余は、怖かったのだ。山頂に着けば、あの娘らとともに、自分も襲われる危険がある。その考えが、脳にこびりついて離れなかった。事実、爆発音のような音が空気を震わせたとき、神奈の足取りは鈍ったのだ。
神奈は元いた場所に戻ろうと、肩を落として歩き続ける。
展望台から誰のものとも知れない声が聞こえてきたとき、プレハブ小屋からほんのすこし南東の方向に進んだ、森と平原の境らへんで神奈は座りこんでいた。ずっと、昨晩からずっと、神奈はこの場所で座っていた。着用していた十二単を毛布代わりに、睡眠もここで取った。
だから神奈は、ハンドマイクで増幅された声を耳にするまで、その場所に居続けたということになる。
なぜかと理由を問われれば、答えは二つ。ひとつ目は、疲労のためだ。プレハブ小屋からほとんど離れていないこの場所まで辿り着くのに、神奈はすべての体力を使い果たした。それはひとえに、十二単が重かったから(なんと二十キロもある!)。今はさすがに脱ぎ捨て、長袴に単衣だけという身軽な格好をしていた。
そして二つ目の理由、それはいつだったかの柳也の言葉を思い出したから。
――この場所を、動くんじゃないぞ。
はぐれたら、下手に動かぬほうが得策だ。そう神奈は判断したのだ。とはいうものの納得いかない部分も多々あったが。
なぜ、余は、柳也と裏葉の二人とはぐれてしまったのだ? 神奈が佐祐理から名を呼ばれたのは、最後から二番目。柳也の次で、裏葉の前。ちょうど二人の真ん中だった。だというのに神奈はひとりきりだった。
はぐれなければ待つ必要だってなかったはずなのに。納得いかない。
それはひとえに神奈自身のせい(自分勝手に行動したせい)なのだが、そんな事情は神奈の頭にはつゆほども浮かびはしなかった。
心細い。この状況下、自分一人だけで自分の身を守ることができるだろうか。支給された武器もあるにはあったが、それは三個のお手玉だった(余をなめているのか!)。
そのお手玉はしかし、ずっしりとした感触を手の平に伝えていた。石のように重い。中身になにか仕込まれているのだろうか。
握りしめていたひとつのお手玉を、顔の前までもってくる。
布を破いて中身を確認する気にはなれなかった。なにか得体の知れないものが飛び出してきそうで、気味が悪かったから。
こんなときに裏葉がいてくれれば。見聞の広い裏葉ならば、なにが飛び出してこようとまったく動じずに解決してくれるのに。いつもの調子で、いつもの微笑で、余に語りかけてくれるのに。
そして、柳也が。いつも、隣にいてくれたのに。
空を見上げる。時間帯は昼だろうか、垂直の陽光が目に痛い。真っ青な晴天。しかしこれは、本当に青空なのか? 自分のいた時代に比べ、なにか濁って見える空。
それは神奈には、青い雲が空を覆っているようにしか見えなかった。だいいち、陽光は降り注いでいるというのに、肝心の太陽が見当たらない。雲の一部がたいまつのように燃え上がり、白い光を放っている。そんなふうに見える。
ここはいったい、どのような場所なのだ。もののけでも出るのではないのか。不安になる。ひとりきりは、不安だ。
「……余も、弱くなったものだ」
ひとりきりには慣れているはずだった。母とは離れ離れ、ほかの人間は自分を忌み嫌う。そんな生活がずっと続いていた。
翼人とは、そういう存在だから。
けれど神奈は知ってしまった。それは人のぬくもり? 幼少から縁のなかったぬくもりに、神奈にはそれがどんなものか想像できなかった。だから、今、欲しているものが人のぬくもりなのかどうか、判断はできない。
ただ、単純に神奈は会いたかった。柳也と裏葉に。
以前なら、人が恋しいと感じたことなどなかったはずなのに。
それは柳也と裏葉のせい。二人が余に近づき、怖がりもせず、普通に接してくれたから。
だから余は、こんなに弱くなってしまった。
余は、余は、ここにいるぞ。なぜ誰も助けに来ない? 柳也、裏葉、どこにいるのだ? どこに行ってしまったのだ? かよわい姫を守るのが従者の務めであろうが!
ざわり、と葉が揺れた。ビクッとしてその方向、すぐ横手の森に顔を向ける。誰かが来た? あの二人を襲ったやからか? この場所は展望台からほとんど離れていない。次は余を襲おうというのか?
「…………」
誰の姿もない。と、そのとき緩やかな風が吹いているのに気づく。
なんだ、風のいたずらか。驚かせおって……。
ホッと吐息を漏らそうとして。
「……!」
今度こそ神奈は飛び上がった。視界が突然薄暗くなったのだ。視線を下にずらせば、自分の影と、そしてもうひとつの影が重なっていた。
背後に人の気配がする。誰かが余を殺そうとしている! そう思ってからの神奈の行動は素早かった。ずっしりと重いお手玉を手の中に、固く握り締め、ふり向きざまに背後にむかって拳を突き出した。
その拳は、あえなく空を切った。反動で神奈の身体が前方にかたむく。
避けられた? 反撃がくる……! ぎゅっと目を閉じる。
しかしよろけた神奈の身体を、その誰かが受け止めた。
「よお。おてんば姫さん」
心臓が跳ねた。
肩に、大きな手の平の、暖かいぬくもり。
「すまんな。遅くなって」
その声は、もうずっと昔から聞いていないような、そんなふうに聞こえて。
不覚にも涙が出そうになって。
「今まで……今までどこほっつき歩いていたのだ、柳也っ!」
下を向いたまま、神奈は叫んでいた。
神奈と出会ったところから南へ向かい、横手の森に入ってそのまま直進、大きな木の幹に付けておいた傷を確認してから、右に五十歩、歩き進む。
空き地のようにわずかばかり開けたその場所に、神奈を連れて柳也は到達した。
「あら、柳也さま。おはやいお着きでございますね」
驚きの言葉とは裏腹に、単衣姿の裏葉(十二単は隅のほうに綺麗に折り畳まれてある)が微笑の表情をまったく崩さずに出迎えてくれた。
「ああ。拾い物もあったんでな」
言って、背後の神奈を前に出させる。
「あらあらまあまあ。これはこれは美味しそうな獲物がかかったようでございますね」
「……余は食料ではないぞ」
「食べてしまいたいほどかわいらしいという意味ですわ、神奈さま」
裏葉は立ち上がって、神奈のもとへとゆるゆると近づき、
「ご無事でなによりです、神奈さま」
ふわりと包み込むように神奈を抱きしめた。神奈の体温をしっかりとその身に刻み込むようにして。
「それで、どうでございました?」
裏葉はその体勢のまま神妙な顔になり、柳也を真正面から見つめて尋ねた。裏葉が言いたいのは、山頂の様子はどうだったか、という意味だろう。
「もう襲われたあとだった」
素っ気無い答えだったろうか。裏葉はしばらく黙していたが、
「ですが、神奈さまにこうして会えた。お気にやむことはありません」
穏やかな口調で言った。
「……ところで裏葉」
「はい。なんでございましょう」
「神奈に会えたのはいいが、このままだとまたお別れになるぞ」
裏葉の衣の袖に口をふさがれ、神奈が顔を青くしていた。
「あら。気づきませんでしたわ、おほほ」
こうは言っているが、裏葉はまったく慌てていない。というか、笑っている(いつも笑っていると言えばそれまでだが)。緩慢に身を離すと、神奈がごほごほと咳をしつつ恨みがましく裏葉を睨んだ。
「前々から思っていたのだが、裏葉、実はお主は余が嫌いなのか」
「あらそんな、滅相もございません。裏葉はいつでも神奈さまの身を案じておりますわ」
「まったくもって説得力がないぞ……」
俺もそう思う。柳也がひとり納得していると、
「それは神奈さまの肺活量の問題です。だから好き嫌いはせず民に感謝しなんでもお口にしろといつも申し上げているではありませんか」
裏葉はぺらぺらとたしなめた。なるほど説得力があるような気はするが、微妙に論点がずれている気もする。というより肺活量と食べ物の好き嫌いは関係ない。
神奈はなおも言い募ろうとして、しかしため息をつくに留まった。
「どうした、神奈? おまえらしくもない」
柳也が言うと、どういう意味だそれは、という目で神奈が睨んでくる。
「普段のおまえなら、とことんまでわがまま言って、しまいには裏葉が泣き出して、それを見たおまえは後悔しておろおろして、でもそれは嘘泣きでしためでたしめでたし、という展開になるのが落ちなのに」
「なんだそれはっ!」
神奈が頬を赤くしてつっかかる。
「なんだと言われてもな」
「ふふ。神奈さま、柳也さまはお気遣いなされているのですわ」
裏葉が見透かしたような視線を送ってきた。柳也は横を向いて後ろ頭をぽりぽり掻いた。
「まことか、柳也?」
神奈が直球に聞いてくる。
「はい」
柳也の代わりになぜか裏葉が答えた。
「いとしの神奈さまの元気のない様子に、心のうちでは泣いているのですわ」
「そこまでは思ってない」
「あらあら。照れる柳也さまもかわいらしゅうございます」
裏葉がくすくすと笑い声を漏らす。こうなった裏葉は誰にも止められない。お手上げだ。神奈のほうはといえば、ちらちらとこちらを見、目が合ったら合ったで急に下を向いてしまった。
「……なんにしても、だ。あまり気にするな、神奈」
その柳也の声に、神奈はゆっくりと顔を持ち上げた。表情を曇らせて。
「俺だって、あの娘たちの声に応えてあげられなかったんだ」
しかし神奈の表情は変わらなかった。自分を責めているのがありありとうかがえる。
そのとき、場の重い空気を取り払うかのように、裏葉が両手を打った。
「三人そろったことですし、お食事といたしましょうか」
裏葉が、最初に座っていた草の上に戻り、しずしずと腰を落とした。柳也も頷き、その隣に座った。
ちょうど、焚き火を囲むようにして。
「焚き火などして、誰かに気づかれぬのか?」
神奈が二人を交互に見て、声を落として尋ねた。
「ここいら一帯にワナを仕掛けておいた。誰かが近づけば、その音でわかる」
だからはやく、と柳也は手招きした。
「そんなところに突っ立ってないで、おまえも座れ」
ぴょんと跳ねるように神奈は二人の正面に座った。
焚き火の上には、細く長い枝にはんごうがぶらさがっている。昨夜のうちに柳也が頑丈な枝を組み立てて作っておいたものだ。柳也が山頂に向かったときはまだ焚き火だけだったので、裏葉が昼食の準備をしておいたのだろう。
「ふふふ……」
裏葉が急に含み笑いをした。
「こうして三人で焚き火を囲んでいますと、まるで」
「まるで、始まったばかりの合戦のど真ん中でのんきに食事を進めている世間知らずな姫とその従者みたいだな」
「なかなかに雅な比喩でございますね、柳也さま」
雅どころかひねりもなにもない例えなのだが、裏葉は嬉しそうだ。
「川でもあれば魚でも獲るんだがな」
米一品だけでなかったら雅にもなるのだろうが。
「とってないのか?」
神奈が意外な顔をする。
「獲りたくても獲れないんだよ」
ため息交じりに柳也は言った。川らしきものは地図には記されていなかった。といっても川が流れていたとして、魚が泳いでいるとも思えなかった。
なぜなら、この森の中には獣一匹、虫一匹、存在しないのだから。
「さびしいのう……」
神奈の漏らした言葉に、裏葉が「めっ」する。
「飢えないだけまだありがたいというものです」
裏葉のしれっとした口振り。柳也は素直には喜べなかった。この食料は、言わば敵から塩を送られたようなもの。お情けで生き長らえているようなものなのだ。
「米だけでもちゃんとお食べになり、これからのため精をつけなければいけません」
「そうだな。どうにかして……」
どうにかして、自分たち三人をこの辺境の地に連行したあいつらを、倒す。
これは障害だ。あの夜、裏葉と一緒に決断したことを実行するために打ち破らなければならない壁なのだ。
神奈を、母のもとに連れて行く。
そのために俺たち三人は、この地から抜け出す。
殺しあいなど関係ない。
俺たち三人は、ぜったいに三人一緒で、神奈の母に会いに行かねばならないのだ。
「柳也さま」
裏葉のひきしまった声が、ふいに頭に差しこんだ。
「申しあげたいことがございます。本来ならばもっとはやくにお話すべきだったのですが……」
神奈のきょとんとした顔を横目に、裏葉は言葉尻を濁した。
「わかっている。神奈と合流するのが先決、そのあとに言うべきことだった。そういうことだろう?」
裏葉は神妙にうなずいた。つまりこれから裏葉が話す事柄は、この地から脱出する、そのことに関係する話なのだ。
「はい。では、失礼して」
裏葉はほほえみを浮かべ、いきなりこちらにしなだれかかってきた。……話ではないのか?
神奈が目を丸くする。おそらく自分も。
「裏葉! なにを――」
「お静かに」
神奈が言い終えるよりも先に、裏葉がキッと睨めあげた。圧倒されて神奈は口をつぐんだ。
「柳也さまも、お静かにねがいます……」
裏葉の吐息が首筋をくすぐる。熱い息づかいが耳に触れる。ちょっと横を向けば、裏葉の顔がすぐ目の前。そんな距離。
なんだ、何なのだ、いきなり濡れ場に突入か、伏線も何もないこんな唐突な展開で許されるのか(誰にだ)、と頭を悩ませていると。
「終わりました」
すっ、と裏葉が身を引いた。拍子抜けするほど、あっさりと。
「……なんだったんだ、いったい」
「これです」
見れば、裏葉の手の平には虫のように小さな固形の物体が乗せられていた。
「なんなのだ、それは」
神奈も覗きこんでくる。裏葉は答える代わりに、同じようにして自分のもの、神奈のものを除去した。
それら三つの謎の固形物を、裏葉は焚き火の中に放り捨てた。
「皆の首筋についておりました。おそらく倉田さまの仕掛けたカラクリでしょう。現代風でいえば盗聴器、もしくは発信機」
現代風って……。盗聴器や発信機がどういうものか柳也には見当もつかなかったが、裏葉の見聞がとんでもなく広いことだけは窺い知れた。
「あまり早くに取り除くと、倉田さまに怪しまれるやもしれませんので」
……なるほど。そういうわけか。
「ということは、もう怪しまれても問題ないわけか」
「はい。これからお話することを盗聴されたら、本も子もありませんので」
言いつつ、裏葉はにやにや笑っていた。
「……なに笑ってる」
「ふふ。柳也さま、お顔が赤くなってございますよ」
「な……!」
「冗談でございます」
神奈さまの嫉妬がおそろしゅうございますので、と付け足した。神奈はぶすっとしてあさってのほうを見ていた。
「そろそろ本題に入りましょうか」
「……それはいいが、やけに疲れたぞ」
「気のせいでございましょう」
さらっと言い捨て、裏葉が続ける。
「わたくしが、人と比べてある異質な『力』を持っているのはご存知でしょうか」
「ああ」
裏葉は、俺に気配を悟らせないで近づいたり(さっきもそうだった)、人の気配を敏感に悟ったり、前々からそんな不思議なところがあった。おそらくそれが『力』なのだろう。
「文献で読んだのですが、この力は『法力』と呼ぶそうです。……神奈さま」
裏葉が今度は神奈のほうに注意を向けた。だが、神奈は裏葉を見ようともしない。
「神奈さま。いつまでもそんな不機嫌なお顔をなされますな。お美しいお顔が台無しですよ」
「誰のせいじゃ、誰の」
「柳也さまのせいでしょう」
待て。たしかに一因はあるかもしれんが。
「……そうじゃな」
肯定するな、神奈。
「それでですね、神奈さま。あの小屋から外に出たとき、なにか感じませんでしたでしょうか?」
気を取り直して裏葉が訊いた。小屋とは、気づかぬ間に眠らされていた、あのみすぼらしい小屋のことだろう。神奈はきょとんとして答えない。
「たとえば……そうですね。極度の疲労におそわれた、など」
それで神奈はハッとした。思い当たるところがあるらしい。
「わたくしにも感じることができました。柳也さまがいなければ、あのまま倒れ伏していたことでしょう」
柳也はプレハブ小屋を出、すぐに小屋の周辺を見回った。それは近いうちにこの小屋に踏み込むための事前調査だったのだが、そのため神奈を見失った。代わりに、膝を折って苦しげにしている裏葉を見つけたのだ。
そして収穫もあった。もはやあの小屋への接近は望めない。ある一定の範囲から小屋のほうへは近づけなかった。小屋から出ることはできたのに、小屋へ入ることはできなかったのだ。透明の壁で囲まれているような印象を受けた。
「おそらくあれは結界でございましょう。侵入者を防ぐための」
外に出るとき、裏葉はその影響を受けたということか。ならば神奈もあの場で倒れておかしくないはずだが……さすがは翼人、といったところか。
「餅は餅屋。結界には法術。ですが、わたくしの法力だけでは打ち破るのは困難かと思われます」
裏葉のその言葉の意味するところを、柳也は察することができた。
「あの二人、か」
「はい。神奈さまの転生されたお姿である観鈴さまと、柳也さまのご子孫である往人さまに、協力を仰ぎましょう」
神奈の転生した姿、か。信じがたいが、あのみすぼらしい小屋の一室で、神奈が耳打ちしてきたのだ。あの者から母上の匂いがする、と。それは神奈自身、とも言い換えられるだろう。翼人の血がそう感じさせるのか、神奈の言葉には確信めいたものがあった。
そして、俺の子孫。同じく小屋で、ある長身の男を見たとき、柳也には感じ取れた。この男は、俺の血を継ぐもの。未来での自分。
それは同時に、裏葉の子孫ということでもあった。往人には裏葉と同類の雰囲気、法力の存在を感じとれたから。
遠い未来、あるいは近い将来、自分と裏葉は子をもうけるのだろう(神奈はそのときどうしているのだろう?)。自分は法術など扱えないので、往人に法力の素質があるのならば、それはやはり裏葉の血筋がなせるわざなのだ。
俺の、子孫。柳也は苦虫を噛み潰した顔で思う。
自分の血の影響など、なきに等しい。
「柳也さま。せんなきことを考えませぬように」
裏葉の目元がきつくなっていた。
「……なぜ俺の考えていることがわかった」
「お顔に書いてございました」
瞳を閉じて、しれっと言った。まったく、裏葉の洞察力にはおそれいる。
「そろそろ炊けたのではないか?」
これまで退屈そうに二人の会話を聞いていた神奈が、はんごうに注目して言った。
「……そうだな。飯にするか」
「はい」
裏葉がうなずくと、神奈が満開の笑顔を見せる。すると裏葉がやさしげに瞳を細める。そんな母子のような二人を前に、思う。
俺が二人を守らなければ。殺しあいに参加せず、守らなければ。
ただひとつ、この地を抜け出すために、守りきる。
あのとき交わした、神奈との約束。
コロサズの誓い。
だから俺たち三人は、最初からこの殺しあいに参加する気など毛頭なかったのだ。
俺たちには、その誓いがあるから。
「佐祐理」
横長のデスクに座り、その上のデスクトップ型パソコンのモニタを凝視しながら川澄舞が呼びかけてきた。
「モニタの映像がおかしい。三人分、映ってない」
「画像、正面に」
「わかった」
広々としたデスクに座る倉田佐祐理の短い命令にやはり短く答えてから、舞がコンソールパネルを操作する。
佐祐理たち二人のいるこの部屋は、祐一たち二十七人が眠っていた教室の真下、五メートルほど地下に位置する。広さは二十畳、たった二人きりではさびしい感じ。天井に弱々しい照明、ずらりと並んだコンピュータ、そして諸々の機材を動かすための大型の発電機が壁際に据え置かれており、防音機構が吸収しきれない低いうなりで、部屋の空気を満たしている。
佐祐理の正面、大型のスクリーンに舞から送られてきた画像が表示された。島の地図上に、皆に付けた発信機をもとにして、それぞれの居場所がプロットされている。
その点の数は、現在二十三のはずだ。が、たしかに二十しか表示されていない。
「声はどう?」
「聞こえない」
舞がヘッドフォンを装着している耳に手をあてながら答えた。発信機(兼盗聴器)の故障だろうか。
「何番が映ってないの?」
「二十五、二十六、二十七番。最初に二十五番が消えて、そのあと二つ立て続けに消えた」
柳也、神奈、裏葉。あの三人か。
「盗聴の記録、ちょうだい」
舞は短くうなずき、佐祐理のデスクに設置されているコンピュータにデータを送った。佐祐理がヘッドフォンを着用し、ここ十分の記録の確認する。
佐祐理は、感嘆の息を漏らした。
「はえー。さすがは裏葉さん、天然ボケの多いkey・タクティクス作品の中では貴重な知性派キャラなだけはありますね。まさかこんなにはやく気づくなんて」
にこにこ顔で佐祐理は続けて、
「舞。映像をサーモグラフィに変換して」
「……いいの?」
「うん」
スクリーンの映像が、島全体を網羅する赤外線センサーから送られてくる画像に切り替わった。位置関係の精度は格段に落ちるが、生体反応を調べるだけなら問題はない。
「盗聴も、もうしなくていいよ」
佐祐理の言葉に、舞はかすかに目を丸くしたが、何も言わずにヘッドフォンを外した。
「盗聴なんて、趣味悪いから」
「……佐祐理。今までしていたやつの言う台詞じゃない、それは」
「あははーっ。舞につっこまれちゃった」
満面に笑顔をちりばめ、佐祐理は席から立った。うん、と伸びをする。背骨をパキパキ鳴らし、首をコキコキ回す。肩凝っちゃったな。
佐祐理はこの薄暗い部屋を出ようと、きびすを返した。それにあわせ、舞も席を立つ。
「……どこ行くの」
「ちょっと気分晴らし」
「私も行く」
「いいよ。すぐ戻ってくるし」
「だめ。佐祐理ひとりだと心配」
舞が表情をひきしめる。その言葉は簡潔だったけれど、佐祐理には舞の気持ちを察せられた。もし誰かがここを急襲してきたら、離れ離れだと佐祐理を守れなくなる。そう、舞は言いたいのだ。
あははーっ、と佐祐理は破顔して、
「結界で守られてるし、平気」
「それでもだめ」
「佐祐理はこう見えても運動神経いいんだよ」
「でもそれは、私ほどじゃない」
舞は有無を言わせず佐祐理のかたわらに駆け寄り、先導するようにエレベーターの『上』のボタンを押した。ほんとに意地っ張りなんだから、舞は。
「舞。ちがうよ。そっちじゃない」
「……? 外の空気を吸うんじゃないの」
「うん。下に行くの」
舞の仏頂面に、わずかだったけれど不快な感情が走った。舞はあの場所が嫌いだから、しかたないのかもしれない。
ううん。違う。佐祐理だって、本当は嫌い。
二人でエレベーターに乗り込む。ドアが閉まり、全身に浮遊感が襲う。この感じ嫌いだな、やっぱり。
長い長い時間、エレベーターは止まらずに急降下していく。不快な浮遊感にようやく慣れてきた頃、わずかな震動とともにエレベーターは停止した。ドアが、重々しく開く。
ひやりとした微風が、佐祐理の大きな緑色のリボンを揺らせた。
さきほどの部屋よりもさらに濃い闇が広がる、ホールのような部屋に佐祐理は足を踏み入れた。ななめ後ろから舞も続いた。リノリウムの床を這う幾本ものコード類をさけつつ、壁際に煩雑に置かれた機材を横目に、中央に鎮座するガラス張りのポットのような筒状の容器に近づいていく。
高さ十メートルはある天井をも突き破らんばかりにそびえ立つその容器からは、青白い光が放出されている。この部屋の照明は、この淡い光、それだけ。
「やあ。どうしたんだい」
こちらの足音に気づいたのか、容器の手前に設置されたコンピュータを操作していた白衣の男が、ふり向いた。白衣の下には制服、切れ長の目、笑うと糸目になるその男の名は、氷上シュン。現役高校生。
にもかかわらず彼は、宗教団体FARGOから送られてきた研究員でもあった。この倉田コーポレーションに派遣されてきたのだ。
「状態は、どうですか」
シュンの質問を質問で返し、佐祐理は巨大ポットを見上げた。近くではまばゆい青白光、その奥に人影が見える。
「心拍数、呼吸回数、ともに異常なし。眠っているだけさ」
シュンがタッチパネルを操作しながら答えた。佐祐理は何も言わず、そのままポットから目を離さない。舞も口を閉ざしたまま、佐祐理のそばを離れない。
佐祐理の視線の先、そこには、ダッフルコート、背中に羽付きリュック、栗色の頭に赤いカチューシャをした少女が浮遊していた。ポット中に満たされた青白い液体に身をゆだね、瞳を閉じたままなにかつぶやく。
「うぐぅ……。祐一君、いじわるだよう……」
寝言だろうか。ポットの両脇に接着するスピーカーから、ごにょごにょと声が届いた。
「……また、来ます」
佐祐理は身をひるがえした。エレベーターへと足を進める。静かに舞もあとに続いた。
「もっとゆっくりしていきなよ」
シュンの声は愉快げだった。佐祐理は「あははーっ」と笑おうとして、けれど笑い声は発さず顔だけほほえんで、
「ここは寒いですから。佐祐理は寒いの、苦手なんです」
それだけ言って、佐祐理はこのホールのような場所――運命改変装置……もとい、奇跡改変装置が佇立する部屋――から、出た。
浮遊感とは逆の、重力が増す感覚を与えるエレベーターの中で、佐祐理の笑顔はもう消えていた。
この感覚は、好き。だって、ちゃんと地に足がついてるって感じがするから。ちゃんと自分が生きてるって、実感できるから。
制服の袖をずらし、自分の左手首をちょっとだけあらわにする。そこに一直線に引かれた、消えることのない古傷を、見た。
「今の佐祐理は、怖い」
舞がぽつりとつぶやいた。首をかしげて舞を見る。
「でも佐祐理は、親友だから。だから、ずっと一緒」
「……うん。ありがと」
佐祐理は、舞を抱きしめた。いっぱいいっぱい抱きしめた。いつしかエレベーターが止まっても、佐祐理は舞の身体を離さなかった。
離さないで、考えた。
奇跡とは、起こらないもの。あり得ないことが起こる、それが奇跡。
その奇跡とは、言い換えれば人間の『運』だと、佐祐理は思う。
人間は、さまざまな不平等を抱えてこの世界に生まれ落ちてくる。美人の者、醜い者。運動のできる者、できない者。勉強のできる者、できない者。お金持ちの者、貧乏の者。五体満足な者、障害を持つ者。
だけど、たったひとつだけ。人が神から平等に与えられたものは、唯一、『運』の絶対量。その絶対量を改変するのが、奇跡なのだ。
なら、具体的に奇跡を起こすには、どうすればよいか。
奇跡を起こすには、それ相応の代償が必要だ。不治の病を治すため、瀕死の者を救うためには、それなりの代償――たとえば誰かの命――を引き換えにしなければならない。誰かの運の絶対量を減らし、そのぶん誰かの運の絶対量を増やす。
唐突な『死』によって使われもせず余った『運』を、誰かに受け渡せばよいのだ。
奇跡改変装置とは、まさにそのための装置だった。
殺しあいという名のゲームを開催し、皆の命を奪う。それはとても理不尽で不条理で、唐突な状況。みんな、佐祐理のこと恨んでるよね。恨んでも恨んでも足りないほど、憎いよね。殺したいほど、憎いよね。
――そんなことは承知の上。
宗教団体FARGO主催の、このデス・ゲームを利用する。
FARGOは『不可視の力』の所有者を増やすため、倉田コーポレーションをスポンサーにこんなゲームを開催したけれど、逆に自分がそれを利用する。
無関係の皆の命、そして運を奪うために。
起こるはずのない奇跡を起こすために。
それは、背徳な行為。神の意思に背く行動。
願ってはいけない想い、だからこそ願ってしまう想いなのだ。
だってそうでしょう? 願いがかなう可能性がすこしでも残っているなら、それを無視することなんてできない。起きる可能性がすこしでもあるから、奇跡っていうんだから。
「……一弥」
あるひとりの男の子の顔が、脳裏に思い描かれた。その顔は色白で、貧弱そうで、ぶすっとしていて、あんまり楽しくなさそうで、今にも死んじゃいそうで、だからなんとかしたくて、なんとかして笑顔に描きなおしたくて、でもできなくて。
そうしたくても、思い出せなくて。
思い出したくて。
それは、希望という名の甘い蜜。
それは、奇跡という名の毒りんご――――
「……佐祐理。泣いてるの?」
涙なんか出ていないのに、舞がそんなことを言う。
佐祐理は、強くならなくちゃなんだから。佐祐理は、良き姉であらねばならないんだから。佐祐理は、良き姉になりたかったんだから。
ねえ。誰か……教えてよ。
佐祐理は、一弥にとって、良き姉でありましたか――
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