表面に細かな模様をほどこした不透明の窓ガラスの向こうから、陽の光がななめに入りこんでいる。深山雪見はその直射日光に瞳を細め、逃げるように横を向いた。

 隅っこのほうに毛布が投げられてある。その横、友人の川名みさきが、マジックペンを手に板張りの床に落書きしていた。

 そのペンは昨晩、砂浜を通りかかったときにみさきが見つけたものだった。暗闇の中、先から先まで黒色のそのペンを見つけられたのは奇跡に近い。雪見はふくろうのように夜目が利くわけではないし、みさきは盲目。小学校時代、事故で視力を失ったのだ。そのみさきが、たまたまこのペンを踏んづけて手に取ったとき、雪見は思った。

 あの子は今頃どうしているだろう。どこかで震えているのかな。はやく見つけてあげないと。私の所属する部活、演劇部の後輩。

 上月澪は、もういない。

 澪をオーバーラップさせるそのペンは、今はみさきの手にある。

 みさきを連れ、島の南端である砂浜からいくぶん西に歩き、海岸線に沿って北へ進んでこの場所、さびれた教会に辿り着いたのは、ゲーム開始からおそらく三時間も経っていなかったはずだ。島を探索しようとも考えていたのだが、盲目のみさきには酷だろうと考えなおし、たまたま最寄りの建物だったこの教会で休むことにした。

 なにより、みさきが「雪ちゃん、おなか減ったよー、もう一歩も歩けない」などと繰り返し言うものだから、こっちまでお腹の虫が騒ぎはじめたのだ。幸いにもこの教会には誰の姿もなく、入り口から祈り部屋を突っ切った奥、その小部屋に埃かぶったキッチンが備え付けられていた。なんと、電気もガスも通っていた。以前まで神父が住んでいたのかもしれない。

「ね、みさき。なにしてるの?」

「落書き」

「それは見ればわかる。なんでかって訊いてるんだけど」

 みさきの落書きには、お皿、スプーン、湯気が立っているなべ、電子ジャーなんかが見て取れた。お腹がすいているのだろうか。大食いのみさきなら、昨晩、そして今朝食べたご飯一膳だけでは足りないのもうなずけるけれど(おかわりをねだるみさきを制するのには苦労した)。

 ひとり納得していると、床に四つん這いになっていたみさきが、手探りでデイパックを見つけ出し、中身をあさり始めた(ちょっと、人のじゃなくて自分のあさりなさいよね)。メガホン型のハンドマイクを取り出し、そこに三本、黒の棒線を引いた。

「ね、みさき。なにしてるの?」

「雪ちゃん。ちょびひげはわざとじゃないよ」

「おもいっきりわざとでしょーが」

 ネズミの顔みたいになったハンドマイクを、雪見は取り上げようとして。

 やめた。

「ね、みさき」

 みさきは、また板張りの床に向きなおって落書きを始めていた。

「ひょっとして、澪のこと考えてる?」

 すべるように動かしていた右手を、みさきはぴたと止めた。横目で雪見の顔を見、ニッと笑って、隣に置かれてあった自分のデイパックをあさった。

 楕円形の缶を取り出し、カパッとふたを開けた。

「雪ちゃんも食べる?」

 その缶から、みさきはキノコ(少なくとも形は)をひとつ摘んで、雪見の眼前に差し出してきた。

「……それ、いつのまに食べたの?」

 みさきは中身が半分にまで減ったその缶と怒った形相の雪見を、光のともらない瞳で交互に見て、

「雪ちゃんが横になってる間に。だいじょうぶ、雪ちゃんの分もちゃんと取ってあるから」

 悪びれもなく言って、つまんでいたキノコをぱくっと口に含んだ。

 キノコの詰め合わせ。これはみさきのデイパックに入っていた武器だ。全長三、四センチ、赤やら緑やらの斑点がついた色とりどりのキノコが、区分けもされず乱雑に缶に収納されている。

 といっても形状がキノコなだけで、その実それはキノコではないのかもしれない。触った感触はかちかちに固く、自分は口にしていないからなんとも言えないけれど、

「どう、味は?」

「うーん。ちょっと甘みが足りないかも」

 たぶん、クッキーか何かなのだろう。上下に動くみさきの口からぽりぽりと音がする。

「そのへんにしときなさいよ。それ、大事な食料なんだから」

「わかってるよ雪ちゃん」

 ぜんぜんわかってないじゃない……。みさきはキノコを一個、凝りもせず雪見の顔まで持ってきた。雪見は手を振ってやんわり断った。

「私はいいから。さっさとしまいなさいよ」

「でも、腹が減っては戦はできぬって言うよ」

「言うけど、今はいいから」

「よくないよ」

 ずいっ、とみさきがお互いの額がくっつきそうなほど前に出た。勢いに押され、雪見はお尻を床につけたままあとずさった。

 どうしたんだろう? みさきがここまで意固地になるなんて、意外だ。

「雪ちゃんの考えてること、わたし、知ってるよ」

 みさきは光を宿さない両の目で、雪見の瞳を見すえた。

「夜中、ずっと悩んでたでしょ。寝てないの、知ってるんだから」

 ハッとする。次に、今はもう隅っこに転がっている、ちょびひげ付きのハンドマイクを凝視した。

 これが私に与えられた武器だった。これを使って、私はなにができるだろう? 夜中じゅうずっと考えあぐねていた。

 殺しあいなんてやりたくない。みさきだって、澪だってそう思っていたはず。もちろん私も。だったら、ほかのみんなだってそう思ってるよね?

 ずっとずっと、このハンドマイクの使用法を考えあぐねていた。

「雪ちゃん。雪ちゃんがだめって言っても、わたしはついていくから」

 それで雪見は、痛いとこつくなあ、と思った。

 このハンドマイクを使えば、戦っている誰かを、殺しあいなんかしたくなかったのにせざるを得ない状況に落とされたみんなを、一箇所に集められる。

 説得できる。

 そうだ。みさきの言葉は的を射ていた。考えあぐねていたわけではなく、私は迷っていたんだ。なら、考えあぐねていたのは、実際にはどれくらいの時間だったのだろう? 実は、ほんの一瞬。ともすれば一瞬すら満たない時間? この武器を一目見たときにはもう、答えは見つかっていたのかもしれないから。

 理由が欲しかったのかな、私。勇気を出すための理由が。

 ただ、みさきが。このお人好しのみさきが、これから起こす自分の行動で、もしかすれば巻き添えになって、危険にさらされて、そう説得しても無駄なのがわかって――

 ――それも、また、迷い。理由を見つけるための無駄な迷いなのかもしれない。

 それが、私の弱さだから。

「澪ちゃんのためにも、ね」

 みさきの言葉に、雪見はうなずいた。しっかりとうなずいたつもりだったけれど、うまくできなかったかもしれない。怖いから、そう、本当に、これ以上ないくらい、怖い。

 肩が震える。涙がこぼれそうになる。

「……はあっ」

 吹っ切るように、これ見よがしに嘆息してみる。けれど身が切れるような恐怖はなくならない。みさきも真似するように嘆息した。

 私は、澪の先輩だから。

 こんなんじゃ澪に笑われちゃうから。

 それが、弱さゆえの理由。

 ついこの間の出来事が脳裏に流れた。この世界に呼ばれる前、もうずっと前みたいに感じる。口がきけないのに、そんな障害をものともせず、澪は演劇の舞台に立った。

 私は、先輩なんだから。

 今度は、私が舞台に立たなくちゃ。

 演劇部で鍛えた美声……みんなに聞かせてあげるわ。

「だから、はい」

 ニッと笑って、みさきがキノコを差し出してくる。

 雪見も、みさきを真似してニッと笑った。

「ううん。やっぱりいい」

 それはみんなで食べたいから。

 それが私の、せいいっぱいの強がり。強がりゆえの理由だから。

 ……て、さっきからカッコつけすぎかな、私。

 でも理にかなってるでしょ。

 だって、私って演劇部部長だからね。








 葉子に先導されてようやく森を抜け出ても、視界が完全に開けたというわけではなかった。なだらかな坂道がくねくねと先のほうまで続いていて、種類の知れないひょろ長い樹がまばらに立っている。小高い丘、そのふもとのようだった。

「ありがとな、鹿沼さん」

 葉子の背中に向かって、相沢祐一は礼を言った。葉子に対し警戒を解いたわけではないが、いちおうそれは心からの礼のつもりだった。

「……相沢さん。これからどうするおつもりですか?」

 役目を負えた葉子が、自分の肩越しに祐一のほうを見た。

「とりあえず腹減ったな。集落にでも行ってみようかと思ってる」

 その意見に、隣の名雪もうなずいた。住宅の建ち並ぶ集落だったら、食事のための火も手に入るだろう。森の中よりは確実に。

「この場所、どのあたりかわかりますか?」

 名雪が地図を広げながら葉子に尋ねた。

「島の西端です。もう少し西に進めば、海岸に出ます」

 即答した。頭の中に地図が完全にインプットされているのだろう。

「ですが、集落は島の東端ですよ。ちょうど逆側です」

 ぽつりと付け加えた。

「……マジ?」

「マジです」

 祐一は後悔した。森の道案内を頼むとき、どうせなら集落の方向へと抜け出る道を教わればよかった。

「てことは、また森を横断しなきゃなのか」

 はっきり言って気が滅入る。

「迂回していけばいいよ。この森、北のほうまでは続いてないみたいだから。島全体もそんなに広くないから時間もかからないと思うし」

 あ、そうか。名雪の意見にうなずこうとして、それよりも早く葉子が割りこんできた。

「それはやめるべきです。どうしてもと言うのなら、夜を待ったほうが賢明です」

「なんで?」

 名雪と二人、そろって首をひねった。

「障害物が何もない平原を進むのは危険だという意味です」

 自分らのそんな様子を見て、葉子が呆れた顔で説明した。

 祐一は、はたと気づいた。なぜ自分がこの森に入ったのか、その理由をつい忘れていたようだ。あの天沢郁未から身を守るためだったというのに。

「じゃあ、また森の道案内よろしくな」

 当然のように言った祐一の言葉に、ますます呆れた顔をして葉子が口を開きかける。

 文句が飛んでくる前に、その声は聞こえてきた。

『みんな――っ聞いて――っ』

 電気的にひずんでいる声だった。遠くのほう、どこから聞こえたのか判断できないほどの遠方からだ。

『戦うのはやめて――っここまで来て――っ』

 佐祐理の報告に似ている、と感じた。誰かが拡声器かなにかを使っているのだろう。森の奥底ですらよく通りそうな声量、だが聞き覚えのない女の子の声だった。

「愚かなことを……」

 葉子は瞳を細め、あごを上向けながら正面を見すえていた。

「どこからか、わかるのか?」

「うっすらとですが……あそこ、山頂の展望台に人影が見えます」

 葉子が指さした。正面のなだらかな坂、小高い丘を越え、その向こうの丘よりいくぶん高い山。そのてっぺんに展望台らしき建物は見えた。しかし、そこまでだった。人影までは判別できない。

「ちょっと待ってて」

 名雪が背負っていたデイパックを肩から外した。それは名雪自身のものだろう、名雪のカプセルがデイパックに変わっていたことに、今さらながら祐一は気づいた。いったいいつの間に? たぶん、自分が寝ている間に。

 デイパックの中から、名雪はけっこうな大きさの紙箱を取り出し、ふたを開けた。名雪の頭越しから覗いてみると、発泡スチロールにくるまった三脚と、筒状のものがひとつ見て取れた。名雪がそれらを急いで組み立てる。

 見事、小学生用雑誌の付録にでも付いてきそうな、しかしガタイだけは無駄にでかい望遠鏡ができあがった。

 携帯し辛そうな望遠鏡。これが名雪の武器か。せめて双眼鏡にしてくれよ、佐祐理さん。

「あ……ほんと。展望台のところに人が立ってる。二人いるみたい」

 レンズをのぞきながら名雪が説明してくれた。

「メガホンみたいなの持ってるよ」

 なら間違いない。今もなお続いているこの声の正体は、その二人だ。

「誰かわかるか?」

「ううん。知らない人たち。うちの学校の生徒じゃないみたい」

「……それどころではありませんよ」

 葉子が苦い表情でつぶやいた。

「丸見えです、あれでは。殺してくださいと言わんばかりです」

「……ああ」

 葉子の言う通り、このままだと彼女たちが危ない。もし郁未がこの声に気づき、発生源を突き止めたら、彼女たちはかっこうの餌食になってしまう。

 だが……。祐一は逡巡した。そのことを告げに彼女たちのもとへおもむくとして、足の怪我が癒えていない名雪を連れて行くのはやめたほうが得策だ。事は一刻を争うから。自分だけのほうが身軽。そしてそれは、名雪と葉子を二人きりにするということでもある。

 葉子は、信頼に足る人物だろうか。森の中、葉子のあとをついていて、悪意らしきものは読み取れなかったが。

『みんな戦いたくなんかないはずよ――っここまで来て――っ』

 必死な声が伝わってくる。迷っている時間はない。

「ちょっと行ってくる」

「……バカですか、あなたは」

 間髪いれずに葉子が返した。

「なっ、どういう意味だよ!」

「言葉通りの意味です。いいですか、あの展望台まで行くのにどれだけ距離があると思っているんです? 途中で誰に会うかわかったものではありませんよ」

「んなことはわかってる」

「いいえ、あなたはわかっていません」

 葉子の目つきが鋭くなった。

「おそらくこの声は島全土に届いています。ほとんどの人が、あの二人に気づいているんですよ。ならば、待ち伏せている人が必ずいるはずです。声につられてのこのこ顔を出す人を狙って。あなたのように」

 祐一は言い返せなかった。たしかにその可能性は否定できない。

 できない、が。

「あの二人、戦う気なんかないんだよ。みんなに、戦って欲しくなんかないんだよ。わかるだろ? だったら、助ける。助けなきゃいけない。それが常識だろがっ!」

「まず第一に、自分の身の安全を考える。次に、親愛なる者の身を案じる。それが常識でしょう」

 葉子が、名雪の横顔を見つつ反論した。

「あなたが殺されてしまったら、残された水瀬さんはどうするのですか」

 祐一はぐっとうめいた。それはまさしく正論だったから。

『お願い――っここまで来て――っ。私たち二人でいるの――っ戦う気なんてないわ――っ』

 しかし。それでも。

 限界だ。もう、限界。ここで指をくわえているだけじゃ、なんの解決にもならない。

「俺、行くよ」

「同じ事を何度も言わせないでください」

 無感情に言った葉子のそんな言葉に、なんとも表現できそうにない腹立たしさが胸の奥からこみ上げてきた。

「あんた……そんなこと言って、あの二人がゲームから脱落するのを、ほくそ笑んでるんじゃないのか」

「……どういう意味です」

「言葉通りの意味だ。あんた、郁未の仲間なんだろ。だから――」

「やめて祐一!」

 望遠鏡をのぞき込んでいた名雪が、突然声を荒げた。

「そんなことで争ってる場合じゃないでしょ。ですよね、鹿沼さん」

 名雪は祐一をひと睨みし、葉子に目を転じた。名雪にしてはめずらしく眉を吊り上げていた。

「ひとつ聞かせてください。鹿沼さんは、あの人たちを見殺しにしたいわけじゃないですよね」

 葉子は、気圧され気味にうなずいた。

「……ですが、展望台に向かうのは無謀です」

 しっかりとした口調で付け加えた。

「じゃあどうしろってんだよ! なにもしなけりゃ見殺しと同じだろがっ!」

「なにもしないとは言っていません」

 葉子は淡々と返してから、手の平を山頂の展望台に向けた。

「少しだけ。ほんの少しだけ、私たちの生存確率を下げます」

 言って、展望台からわずかに手の平の銃口を左に逸らし、まぶたをゆっくりと閉じた。

「……!」

 気合いでも入れるかのように葉子は目を見開いた。

 どごぉん! と爆発音が遠くで響いた。そう、ちょうど、展望台の方角から。メガホンで増幅されていた声が、ぴたと鳴りやんだ。

「な、なんだ、今の?」

「空気の塊を飛ばして、音速の壁を突き破りました」

 葉子が長い息を吐き出しながら答えた。祐一は思い出した。郁未に、手の平を向けられただけでふっ飛ばされたこと。

 これが、郁未の言っていた『不可視の力』のカラクリか。

「二人とも、びっくりしてるみたい」

 名雪が実況してくれた。そりゃそうだろう。そして、それが葉子の狙いなのだ。今の轟音で身の危険を案じ、二人があそこから離れてくれれば……。

『やめて――っみんな戦いたくないはずよ――っ』

 よく通った大音量の声が再開された。泣いてしまいたい気分で祐一は言った。

「もう一度やってくれ!」

「できません。私たちの居場所まで突き止められてしまいます」

 葉子が無下に断る。

「なんでだよ!」

「私の力は、不可視の力。その不可視の力とは、見えない力。けれどそれは普通人ならばの話です。少なくとも郁未には、私の不可視の力が見えるはずです」

 つまり、と葉子は前置きして、

「さきほど言いましたよね? 私たちの生存確率を下げると。郁未が、いえ、郁未以外の何者かさえ、もう、私たちの居場所に感づいてしまっているかもしれません」

 そうなれば、自分たちの身も危うくなる。そう葉子は言いたいのだろう。

 祐一は展望台を一瞥して、すこし迷って、それから駆け出そうと身を返した。

「やめろと言っているのがわからないのですか!」

 直後に悲痛な声が背中にぶつかった。

 葉子があげた声だった。あまりに意外なその声にふり向けば、息を荒くさせ、肩を上下させている葉子の姿がある。

「私たちにできるのは、もう、幸運を祈るだけ。それだけです」

 葉子はとりつくろうように視線を逸らし、ぼそぼそとした声でそう言った。

「あれ……。ねえ、祐一」

 祐一が駆け出すタイミングを逸しているうち、名雪が名を呼んだ。

「なんか、黒いのが。霧みたいな」

 望遠鏡をのぞきこんだままの名雪にうながされ、祐一は山頂を注視した。たしかにそこには、黒い、不気味な、霧のようなものが漂いはじめていた。

 空は、晴天だというのに。

 気がついたとき、メガホンの声は途絶えていた。霧はものすごい勢いでその質量を増し、十秒もたたずに山頂の展望台をすっぽりと隠してしまった。

 唐突に、光の柱が立った。展望台から右、高い山の麓らへんの森(このあたりも霧に覆われている)からそれは発生し、霧を突き抜け、空に消えていく。雷、だろうか?

 山の気候は変わりやすいというが、これは行きすぎだろう。突然の異常気象にどうすることもできず、祐一たち三人はただその様を静観していた。

 そのうちに霧が晴れていく。そんなに時間は経っていない。通り雨みたいなものか? しかし通り霧なんか見たことも聞いたこともない。

「あっ! ケロピー!」

 名雪がすっとんきょうな声をあげた。すっかり霧が晴れたあと、山頂に姿を現したのは、見間違うはずもない名雪愛用のぬいぐるみ、ケロピーだった。

 だが、その姿は遠方であるにもかかわらず胴体の色を、果ては目、口、指の数を数えられるほどにはっきりしていた。それほどの大きさ。巨大ケロピーだった。

「どこ行っちゃったのかと思ってたら……。なんであんなところに」

 名雪、それはツッコミどころ間違ってるぞ、とは祐一はツッコめなかった。ケロピーは天にでも昇るように宙を浮遊し、雲の奥に消えていった。あまりに予想外な展開に、思考回路がショートしそうだ。

 どこからともなく、ファンファーレの音色がショート寸前の頭に流れ込んできた。








「ごめんね、みさき……」

 どこからだろう、弱々しい声が聞こえる。懐かしいような、寂しいような、そんな声。

「あなたまで巻き込んじゃって、ほんとうにごめん……」

 近くから? それともずっと遠く? 視界が真っ暗で、よくわからない。ぼんやりした頭をたずさえ、川名みさきは重いまぶたをこじ開けた。

 訪れたものは、さっきと変わらぬ暗闇の視界。

 なんでだろう。そう考え、すぐに気づく。そうだ、わたし目が見えないんだった。

 それでも、息遣いというか、自分とはほかのたしかな存在が感じられる。知覚できる。

 人が、倒れている。ほんのすぐそこ。自分の頬と身体の半面にざらっとした感触。地面? わたしも倒れている?

 眼前に横たわる人の顔を注意して見る。そう思いこむ。心で、感じる。

 誰、だろう? 一瞬、疑問に思い、そのときか細い声が耳に入り、ああなんだ雪ちゃんかと自分の度忘れかげんに笑い出しそうになる。だけど、なんだか頭が痛くて、身体がだるくて、そんな気になれなかった。

「みさき……どこ……返事してよ……」

 雪見の目は、うつろだ。目の端にちょっぴり涙のあと、そしてうわ言のように何度も繰り返す言葉。それは、みさきの心象、小学校時代までにつちかった心の風景画。だから雪見の姿も小学生のまま。

 なにも見えてないの、雪ちゃん? わたしはここだよ?

 なにか、普通じゃない。なにが起こったんだっけ? 思い返そうと努める。いきなり真っ黒な霧に覆われたと思ったら、巨大なカエルが現れて(もちろん見えなかったけど雪ちゃんが解説してくれた)、そのままカエルに襲われて、それで――

「……あはは」

 みさきは、今度こそ笑えた。ひきつりもせず、普通に。だって普通におかしかったから。天気は快晴、ピクニック日和、なのにカエルなんて、ほんとにおかしい。

 みさきは起き上がった。普通に、何事もなかったかのように立ち上がった。

 頭痛はもう消え去った。身体のだるさも。肘、膝、手首足首の関節を確かめる。

 ――異常なし。

 気づけば、雪見はもうなにも言葉をつづっていなかった。

「雪ちゃんが悪いんだよ」

 瞳はうつろに、微動だにしない雪見の身体をみさきは見下ろしていた。

「あのときキノコ、食べなかったから。だから、わたしだけ助かっちゃったんだよ」

 笑った。自然な笑顔。

「あのキノコにはね……」

 あの、色とりどりのキノコの詰め合わせにはね。

 たったひとつだけ。

「1upキノコが含まれてたんだよ」

 そう、ひとつだけ。一個だけなのに、わたし、食べちゃったんだよ。

 たくさんのキノコの中で、わたしは当たりを引いちゃったんだよ。

 1upキノコと、そして。

 性格反転タケを。

「でも、あんまり性格変わってないよね、わたし」

 みさきは、光の灯らない瞳で雪見の姿が消えてゆくを見ていた。

 ずっと見ていたかったけど。

 完全に消える前に、雪見の頬にマジックペンでちょびひげを描いておくことは忘れなかった。

 死に行く者のまぶたを閉じるよう。

 そう感じた。








「あ……立ち上がった! 生きてるよっ!」

 名雪の実況解説が再開された。そしてその声は、はっきりと震えていた。

「でも、ひとりだけ……。もうひとりはまだ倒れてる……」

 喜びのためか、悲しみのためか。その両方か。それらの感情が入り混じった名雪の声に、祐一は応じようとして口を開き、そこから出たのは吐息だけ。

 声は出ない。それは名雪と同じ震えた声だろうから。だから声は出さない。

 俺はただ見ていただけだった。無駄な迷いで時間を浪費しただけだった。あまりの情けなさに死にたくなる。

「倒れてる人の側にしゃがんで……なにかやってる」

 と、それから名雪は息を呑んだ。

「消え、ちゃった……」

 死んだ、ということか。倒れている誰かが、死んだ。

「もうひとりの人……動かないよ。じっと立って……もう誰もいないのに……」

 名雪の声が涙混じりになった。祐一は知った。たぶん、いや、絶対、その人は悲しみに暮れている。秋子さんを亡くした今、その気持ちは痛いほど理解できる。だからこそ自分自身に腹が立つ。自分自身を悔やむ。

 思考が深淵の底に沈んでいく。

 ひとりだけでも助かってよかったと考えるべきか。それとも悔やむべきか。どちらにしろ俺のやるべきことはすでに終わった。

 助けられずに終わった。

「相沢さん。後悔は迷いにも劣る行為だと私は思います」

 祐一の表情を読み取ってか、葉子がそんなことを言った。カッコいい台詞だな、と思った。

「……うん。祐一はがんばったよ。せいいっぱいやったと思うよ」

 その名雪の台詞も照れくさい気休めだと、祐一は思う(当たり前だ、けっきょく俺はなんにもしちゃいない)。名雪はいつも堂々とストレートに激励の言葉を言ってのける。恥ずかしさ無限大だ。

 しかしこのときばかりは、その言葉はいやに馴染んでいるふうに感じた。この異常な状況がそうさせるのか、すでに自分の精神が麻痺しているのか。

 死が、だんだんと自分の内に入り込んでくる。慣れ親しんだ衣服のように自分にまとわりついてくる。

 それらを振りほどくように、祐一は前進した。山頂に向かって。

「相沢さん!」

 葉子の制止に、だが祐一は声を高くはしなかった。

「鹿沼さんの言いたいことはよくわかる。でも、まだひとり残ってる。また襲われるかもしれない。だから助ける。助かる可能性がすこしでも残ってるなら、それを無視することなんかできないだろ」

 祐一の強い口調に、葉子は諦め顔をつくった。

「……わかりました。でも、本当にこれが最後ですから」

 葉子が右腕を上げた。手の平の銃口で狙いを定める。今度は展望台の右、森と山のちょうど狭間、その場所はたしか……そうだ。ファンファーレが聞こえてきた場所だ。

 轟音が鳴り響いた。森の木々の枝葉が弾け飛ぶ様が、遠目からでもよく見て取れた。

「これで、運がよければ展望台を襲った誰かは怪我くらい負うでしょう。そうでなくても、警戒して場所を移動するはずです。その間に、あの人が逃げてくれれば」

 けっきょく最後には鹿沼さんの力に頼ってしまうんだな……。俺はただ駄々をこねて、鹿沼さんがなんとかしてくれるのを待つだけか。

 強くならなければ、と痛感する。秋子の遺言(?)を思い出す。

 強くなって、そして、守る。生き残るため、守り抜く。

 せめて一人くらいは。

「きょろきょろして……あ! はしごを降りたよ」

 名雪の解説に、葉子がこちらと森を交互に見、視線で訴えてくる。私たちも移動しますよ、といった感じで。

 だがその前に大事な確認が残っている。

「名雪、どうだ?」

「もう見えなくなっちゃった。下山したんだと思う」

「そうか」

 うなずき、あごに手をやって迷う素振りを見せる祐一に、葉子が揶揄するような半眼を送ってきた。

「相沢さん。おせっかいは度が過ぎると八方美人に受け取られますよ。特に」

 言って、名雪をちらと見る。はいはいわかったわかりました、だから勘弁してくれ。

 最後まで面倒は見切れない。できれば見たいが、自分の能力にも限界がある。その見切りが必要なのだ。それが、最初から言いたかった葉子の考え。だぶんだけど。

 しかし、少なくともこの異常な環境、ふざけたゲームでは、それは必要なことなのだろう。でなければ、たったひとりの友達でさえも救えない。そんな気がする。

 いつだったか葉子の言ったとおり、あとは幸運を祈るのみ。無事に逃げてくれることを祈るだけだ。

「……うーん」

 なんか言い訳がましいが、それもまた必要なことだろうと決めこんだ。

 強くなりたい。自分の能力の限界を広げるため、強く。

 とりあえずは、武器であるやかんのフタをなんとかしたかった。

「なに? 鹿沼さん」

 名雪が首をななめに葉子を見た。レスポンスの遅い名雪の応えに、

「俺たちの居場所も気づかれたかな」

 この話題を打ち切ろうと、唐突に言った。

「わかりません。ですが用心に越したことはありません」

「これからどこ向かうんだ?」

「集落ではないのですか?」

 葉子は当たり前のように返事して、「しまった」という顔をした。

「じゃ、案内よろしくな」

 葉子は照れたようにそっぽを向いて、早々と歩を進めていった。




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