第2幕 2日目午前




 身体じゅうに広がる、軋むような痛みとともに相沢祐一はまぶたを開けた。

 視界内に木漏れ日のようなうっすらとした白色光が横切る。この島での最初の夜が明けはじめていた。天気は、たぶん快晴。網目のように頭上に広がる木立の隙間から、白々とした空がのぞける。

 祐一たちはまだ森にいた。地図を広げ、方位磁石を握りしめ、さてこれからどこへ向かおう、とりあえず島全体を散策してみようかと考え森から抜け出ようとしたのだが、それはかなわなかった。思ったよりも森の面積が広かったこと、名雪の歩調が遅いこと、方位磁石の針がなぜかぐるぐる回っていたことも要因のひとつではあったが、それ以上に二人の方向感覚が問題だった。

 そう。簡単に言えば、二人は迷っていた(この森は迷いの森と命名しよう)。この森の内部までは、地図には明細に記されていなかったのだ。

 歩き続けるうちに体力の限界が訪れ、小雨まで降りはじめたもんで、けっきょく一夜を森で過ごすはめになった。雨露をしのげそうな大木、柔らかそうな草木を選び、それをベッド代わりにして、いったいどれくらいの時間を睡眠に費やしたのだろう。時間感覚があいまいになっている。時計のない生活に慣れていないせいだろう、不安になる。

「……おっす。めずらしく早いな」

 というか初めて見たぞ、名雪が俺より早く起きてるのを。名雪は、あいさつを返してこなかった。視線さえこちらに向けようとしない。近くの切り株に体育座りで腰を落とし、顔を曇らせたまま黙している。その横顔はすこしやつれたように感じられた。

「腹、減ったな」

 名雪に言ったつもりなのだが、それは独り言となった。なんとなく気まずい空気の中、祐一はデイパックをあさった。ペットボトルとはんごう、米袋を取り出して土の地面に並べていく。

「ええと、まずは」

 まずははんごうに米を入れればいいんだよな。訴えるような目線を名雪に送るが、反応なし。

 しょーがない、次はペットボトルの水を入れて……いや、その前に米の量を測らないと。二合分でいいよな……って、どうやって測ればいいんだ。計量コップなんか手元にない。しょーがない、やかんのフタで米をすくおう。この武器(?)も初めて役に立つ時が来たようだ。

 と、そこまで黙考して、祐一は頭を抱えた。肝心なことを忘れていた。

 調理では必須と言っても過言ではない、火がなかった。米のまま食したという往人の気持ちが痛いほど理解できた。

「自分で起こすしかないのか……」

 独り言。たしか映画かなにかでは、枯葉を木の棒でこすって火を起こしていたはず。やってみるか。

 手頃の木の棒、枯葉は探すまでもなく周囲に散らばっていた。さっそくやってみよう。じゅうぶんな広さの木の根に枯葉を集め、山を作ってその中に棒切れを刺しこみ、その先っぽを手の平で挟みこむ。くるくる回す。

 しかしそれら火を起こすための道具すべてが、夜に降った小雨のため濡れていた。

「だああ! やってられっか!」

 一分も経たないうちに祐一は棒切れを放り捨てた。両腕を投げ出し、仰向けに倒れこむ。サバイバルムービーなんてもう信じない。そのままじっとする。

 やりきれない静寂だけが祐一の耳に触れていた。

「……なあ、名雪」

 やっぱり返事はない。

「あのさ、変なこと聞くけど……」

 前置きして、地面にあずけた背中の冷たさを感じながら、訊いた。

「秋子さんの後を追おうなんて、考えてないよな?」

 沈黙。

 じくじくとした痛みをともなう沈黙が、二人の間を支配した。

 こらえきれず、祐一は上体を跳ね起こした。

「くー」

 名雪の瞳は糸目になっていた。

「……おい名雪」

「……うにゅ。祐一?」

「ああ。祐一だ」

「あれ……ケロピーは?」

「ケロピーはさっき食べたじゃないか」

「……そういえば食べたような」

 言ってから、名雪は頭をぶんぶん振った。そんなわけないよー、と口をとがらせる。

 祐一は脱力した。安堵の表情を浮かべ、はあっと大きくため息をついた。

「なあ。さっきからどうしたんだよ、ぼーっとして。眠いんだったら寝ててもいいぞ」

 名雪は、上目遣いで白みを帯びた空に視線を送った。

 ややあって、うっすらと笑みを貼りつけた顔で祐一を見た。

「お母さんの言葉、思い出してたの」

「……そっか」

 祐一にはそれしか答えられなかった。秋子の最後の言葉……生き残りなさい。戦って、強くなって、生き残って。そして、あゆちゃんを――

 月宮あゆ。あゆは、このゲームに参加していない。単に運よくこの世界に呼ばれなかっただけなのか、それとも北川のように呼ばれはしたが、ゲーム参加ではなく皆とは違った役目を負っているのか。

 どちらにしろ、あゆが無事なら、それで――

 祐一は立ち上がった。がさり、と正面の茂みが揺れたのだ。反射的にやかんのフタを手にし、それを構えようとして、どうやって構えようか悩んでいるうちに人の姿を視認する。

 手の平を地に水平に、銃口のように前に突き出しながら現れたその人物は、見覚えのある顔だった。金髪にヘアバンド、突然やってきた転校生。名前を……鹿沼葉子。

 天沢郁未を彷彿とさせる体勢を取る葉子に、祐一は心で舌打ちした。こいつもやる気満々の口か? 最悪だ。

 葉子は無表情だった。感情は読み取れない。すると葉子は瞳だけ動かし、名雪のほうを見た。名雪は張りつめた表情で葉子の一言一挙動を待つようにして動かない。

 祐一と名雪を検分するように見比べ、葉子はゆっくりと手の平の銃口を名雪のほうへと押し向けた。

「やめろっ!」

 祐一は名雪の前へ出ようとし、その瞬間に右手の甲に痺れが走った。やかんのフタが宙に舞う。手の平の銃口は、今は祐一に向けられていた。

「……待ってくれ。俺たちは戦う気なんてない」

 観念して両手を上げた。名雪もならって両手を上げる。そんな二人を葉子はやはり見比べていて、

「……あなたたち、どうして一緒にいるのですか?」

 澄んだソプラノで尋ねられ、祐一はきょとんとした。

「どうして、一緒にいられるのですか?」

 葉子が念を押すようにして言った。

「どうしてって……なんでだ?」

 名雪に訊いてみる。名雪も自分と同じようにきょとんと小首をかしげていた。

「……わかりました」

 葉子は銃口を降ろした。注意はこちらに向けたまま、横移動で来た道を戻ろうとする。

 とりあえずは助かった、のか?

「あの、ちょっといいですか」

 上げていた両腕を慎重に下ろしながら、名雪が口を開いた。

「この森から出る道、知りませんか?」

「…………」

 一瞬、葉子の細めだった瞳が見開かれた。本当にそれは一瞬で、気のせいかと問われれば肯定しそうなほどの間隔だった。今はもう鉄仮面のような表情に戻っている。

 けれどそのあとに、ふっ、と笑みが走ったのは気のせいではなかった。

「おかしな人ですね、あなたがたは」

 祐一と名雪は、その声には応じられなかった。葉子の澄んだ声音は、二人の耳に届く前にかき消されてしまったから。

 突然、あたりに佐祐理の声が響き渡った。








『みなさんおはようございまーす。朝になりましたー。みんな元気にやってますかあ? 寝てる人はそろそろ起きてくださーい。天気は快晴ですよー。爽やかですよー。お出かけ日和ですよー。寝てたらもったいないですよー。

 はい、みなさん。起きましたかあ? 起きましたねー。それではこれから、これまでに確認されているゲームの脱落者を出席番号順に発表しまーす。耳かっぽじってよく聞いてくださいねー。まずは、

 七番、上月澪さん。

 二十一番、霧島佳乃さん。

 二十二番、霧島聖さん。

 以上でーす。それではみなさん、今日も一日はりきっていきましょー』

 ぶつ、という耳障りな音と共にその報告は終了した。声の中には金属的なひずみが別にしてはっきり聞こえていたので、おそらくあのプレハブ小屋、そして島の何ヶ所かに拡声器が備えつけてあるのに違いない。

 折原浩平は、苛立たしげに手近の針葉樹を殴りつけた。

 佐祐理の陽気な放送を、浩平は最初のほうこそ寝ぼけ眼で聞いていたが、ある人物の名前が告げられたところで完全に覚醒した。

 スケッチブックを肌身離さず持ち歩き、コミュニケーション代わりにし、話せないことなど微塵も感じさせないほどに表現豊かで、怖がりで、泣き虫で、でも芯は強くて、ひまわりのようにいつでも笑っていた、

 後輩の上月澪。

 その澪が、死んだ。

「……誰だ。殺したやつは」

 その言葉は、自分の口から飛び出したとは思えないほど冷たい声色をしていた。そしてそれは、自分以外の誰の耳にも届くことはない。

 七瀬を追っていた浩平は、けっきょくその後ろ姿を見失っていた。単純に体力の差だろう、女の子に負けたことでそれなりにショックだったが、もっともショックだったのは(澪の死を除いて)、一晩中、一睡もしないでうろついていたのに他の誰とも出会っていないことだった。

 といっても、いまだ森から抜け出ていないのだが。

 実は迷ってるんじゃ? そんな不吉な考えは置いといて、この世界に独りきりになってしまったんじゃないかと不安が胸中をかすめる。自分の息づかい、どこからともなく吹きつける風(すこしべたつく風、潮風か?)、そよぐ葉、そのこすれる音、それだけ。動物や虫の鳴き声(この場所が海に近いのなら波の音)すら聞こえない。

 いや違うか。それは正確じゃないな――ほかにひとつだけ、七瀬を見失った直後あたりで、遠方からかすかに楽器の音が耳に入ったのだ。そう、ちょうどラッパを吹くような感じで、戦闘に勝利したかようなファンファーレ。

「戦闘、か」

 誰かが戦っている。死合している。それは確実だ。なぜなら、澪が自殺したとは考えにくいから。澪のあの性格では。

「…………」

 いや。それは単なる自分の思いこみだろうか……もしくは希望、か。

 とにかくそろそろ覚悟を決めねばいけないらしい。よし! と覚悟を決めた瞬間に立ちくらみがした。

 眠気が襲ってくる。一睡もしていないのだから当然だ。それにもし眠ったりなんかしたら、長森が起こしに来てくれるまで延々と寝こけていそうだ。自慢じゃないが、オレは寝起きが悪い。

 腹の虫が鳴る。夕べから何も食べていないのだから当然だ。それにもし食事を作ったとしても、疲労のせいか山葉堂のワッフルくらいしか胃が受けつけそうにない。自慢じゃないが、オレは甘党だ。

 このゲーム、自分にとって限りなく分が悪いと見た。

「と、バカな考えは置いといて」

 浩平はポケットからカプセルを探り、スイッチを押してぶん投げた。それは木の幹に跳ね返って、煙をまきながらデイパックを放出した。

 殺しあいなんて勘弁だと思っていたが。

 今は、やる気があった。

 澪。おまえのせいか。

 浩平はデイパックの口を開け、逆さにして持ち上げた。ペットボトルなどの飲料、食料のための道具が湿った草の上にばらまかれる。それらを、なぜとない期待を胸に秘めながらかき分ける。

 ひときわ目を惹くその機器が浩平の目の前に現れるまでに、さほど時間はかからなかった。

 なんだろう? ストップウォッチのような丸っこい形状をしている。しかし数字が表示されるはずの場所には、方眼紙のような緑色の網目が引いてあった。

 その中に、一点、二点……いくつか明滅する光がある。

 これは、もしや。この機器に、浩平は見覚えがあった。

 レーダー。そうだ、レーダーだ。

 かの有名な、ドラゴンレーダーじゃないかっ!

「ギ……ギャルのパンティおくれっ!」

 ひとり叫んでみたが、むなしいだけだった。

「と、バカな言動は置いといて」

 表示されている画面を食い入るように見る。中央に赤色の三角、これが本当にレーダーだったら、このマークが自分の現在位置だろう。上部のボタンをカチ、カチ、と押すと、そのたびマス目が拡大する。何度か押したら、それ以上表示は変化しなくなった。

 現在、明滅している光は、二点。

 そのうち一方の光が動いている。徐々に中央の三角マークに近づいていく。

 かなり、近い。至近距離。

 そしてその光と三角マークがまさに重なろうとした矢先。

「どわっ!」

 背中からとんでもない衝撃が加わった。幅跳び選手のようにえびぞりになり、着地失敗、ズシャ―――っゴロゴロゴロ……と浩平は転がった。

 な、なにが起こったんだ……? 誰かの、攻撃、か?

「やっほ。元気してた、折原君?」

 すぐ背後から軽い調子の声。力任せに起き上がり、浩平は勢い込んでふり返った。

 が、その勢いは空回った。浩平の視線の先、そこには誰の姿も確認できなかった。

「あいかわらず恥ずかしいこと口走ってるね」

 声だけが、その何もない空間から聞こえていた。

 なんだってんだ、いったい? レーダーには、一点の光と三角マークが完全に重なっている。この光はほかのメンバーの現在位置だと推測していたのだが。それが正しいとしたら、今目の前にいる(たぶんだけど)やつは透明人間か?

 と思った瞬間、そこには人が立っていた。

 柚木詩子が、前触れもなく出現していた。あっけに取られる。

 いつもながら神出鬼没なヤツだな……というか、いくらなんでもほどがあるぞ、これは。

 見れば、詩子は真っ赤なマントを羽織っていた。なにかのコスプレだろうか。なんにしても、さっきの衝撃は詩子の仕業らしい。

「こんちわ。折原君」

 詩子がにやにや笑いながらあいさつしてくる。

「……おまえ、オレを突き飛ばしておいて言うことはそれだけか」

「突き飛ばしたんじゃなくて、飛び蹴り食らわせたの」

「なお悪いわ」

 と、詩子はいやらしい含み笑いをした。

「あは。ギャルのパンティだっけ? あたしのあげよっか」

 どうやらさっきの叫び声が聞こえていたらしい。

「いらん」

「んじゃ誰のが欲しいの? 長森さんとか?」

「誰のもいらん」

「あ……まさか茜のじゃないよね?」

「誰のもいらんっつーに」

「茜を襲ったりしたら許さないからね」

「人の話少しは聞けよおまえ」

「ま、それはともかく」

 そっちから話題を振っておいて、ともかくとは。

「はやくここから離れたほうがいいよ」

 詩子は神妙な顔になり、内緒話でもするようなひそひそ声で言った。

「なんでだよ」

「死にたくないんならね。あたしはどっちでもいいけど」

「だからなんで」

「折原君を恨みに思ってる人が近づいてきてるから」

 恨みだと? 視線をレーダーに落とすと、詩子のものとは別の、もう一点の光がゆっくりとではあるが確実に近づいてきていた。

「誰なんだ、そいつ」

「ふふん。自分の胸に聞いてみれば?」

 聞いてみたが、候補がたくさんありすぎて特定できなかった。

「じゃあね。忠告はしたからね」

 詩子はマントをひるがえし、その姿をふたたびかき消した。どういう仕掛けなんだ?

 タタタ、と小気味よい足音が遠ざかったかと思うと、五秒にも満たないうちに完全に途絶えた。レーダーの表示では詩子のものらしい光はもうひとつの光を迂回し、距離を置いて後ろについた。そのまま動かない。

 どうする? 誰のものか知れない光が近づくにつれ、焦りが滲み沸いてくる。ここで待ってみるか? 詩子は恨みを持つ人物と言っていた。誤解かもしれないし、とりあえず話しあってみるか? けどいきなり攻撃されたらどうしよう? そのときは戦うか? 相手の武器はなんだろう?

 オレは、オレの武器である、レーダーのみで戦えるだろうか。

「…………」

 くそ! 心の中で悪態をつき、近づく謎の人物に悟られないよう、浩平は足音を殺してこの場から離れた。








「このあたりから浩平の声がしたような気がしましたが……」

 きょろきょろ首をめぐらせながら、里村茜は茂みを抜けて獣道に出た。

 その手にしっかりと、水晶の埋め込まれたピンクの傘を握りしめながら。いつでも目標を捕らえられるよう、傘先を前方に向けながら。

 しばらくあたりを見渡して、ふう、と一息ついてから、茜は来た道を引き返した。

 そんな茜の行動を、詩子は十メートルほどの距離を置いて見守っていた。

 茜は、誰彼かまわず、手当たりしだいに襲撃しようとしているのだろうか。浩平でさえも殺そうとしているのだろうか。

 どうしたのよ、茜。いったいなにがあったのよ、茜。

 詩子は音を立てずにため息を漏らした。

 もしも……。もしも茜が、やる気になっているのなら。

 詩子は、かすかに口元をゆがめた。

 まったく。損な役回りよね、あたし。

 なんであたしなんだろ? このマントのせい? なんであたしがみんなのために奔走しなきゃなんないの。あたしには無関係な人だっているのに。

 解答その一。さっき折原君にしたように、皆を茜から守ることができるのは、このあたしだけだから。

 解答その二。この赤マントが正義のミカタっぽいから。

 あはは……。もう一度、詩子は無音のため息を吐き出した。




                 【残り24人】




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