時は、ほんの少しさかのぼる。
祐一よりも先、転校生二人に続いて三番目に名前を呼ばれ、プレハブ小屋から出た折原浩平は、うっそうと茂る森を一目散に駆け抜けていた。
ほんの五メートル先を走る、七瀬留美に追いつくために。
七瀬は、浩平のちょうどひとつあとに名前を呼ばれたのだろう。誰かと合流しようと出口で待っていたら、浩平は七瀬とばったりと出くわしたのだ。
けれど七瀬は声をかけてくるどころか、いきなり身を返して駆け出した。浩平はあっけに取られながらも、しかしその理由をすぐに悟った。足元に、見知らぬ顔の男子生徒が横たわっていたから。
もしかして、オレがやったと思われた?
あいかわらず早とちりなヤツだな。誤解だというのに。犯人はほかにいるというのに。いや、名前や顔を知っているのではなく、犯人の所在を知っているという意味で。
それは、なんとなくだ。気のせいだと断言されれば肯定しそうなほどになんとなくだが、小屋の天井に人の気配を感じたからだ。
誰かが、もう、やる気になっているんだ。
七瀬を追いかけなくては。男勝りの七瀬なら凶悪な殺人鬼だって「なめないでよ、七瀬なのよ、あたしはっ!」とか叫んで逆に撲殺しそうなものだが、あいつはたしか足首に古傷があったはず。うちの高校に転入してくる前、剣道の練習中に痛めたと以前に聞いたことがある。
あんな猛スピードで森なんか走って、傷が悪化したらどうすんだよ。
「たく、世話が焼けるな」
大声で七瀬を呼び止めることはできない。やる気になっている誰かに、自分の居場所を知らせるようなものだ。さすがに殺しあいなどやりたくはない。
逃げる七瀬のスピードは落ちない。部活も何もやっていない浩平にとっては、このスピードはちと辛い。普段の七瀬なら「キャー虫に刺された、キャー服が引っかかった」などと狂喜乱舞しながら立ち止まりそうなものだが、今回は違うようだ。
はあ。こんな苦労してまで、いったいなにやってんだろうな、オレは。
心で愚痴りつつ、浩平は草木を踏み分けて森の奥へと消えていった。
その浩平よりも少しあと。
里村茜は、プレハブ小屋を抜けて倒れ伏した男子生徒をちょっと見ただけで素通りし広い森を迂回しながら、ホイポイカプセルを投げた。ぼわんと煙が立ち、飛び出たデイパックから地図を取り出し、広げる。ざっと目を通してみる。
地図は、まさしく孤島の地図だった。卵形をしているこの島には、海岸線、灯台、集落、教会、診療所などが記されてある。島の面積は十キロ平方メートルといったところか。
次に、今現在の自分の位置を確認する。プレハブ小屋は、ほぼ島の中央。東から南西にかけて森に囲まれている。かなりの広さの森、南のほうに長く伸びている。森を迂回している自分は最初に西、それから南東のほうに歩を進めているようだ。
「……このままいけば、砂浜に着きますね」
デイパックを背中に担ぎ、方位磁石を見ながら茜はマイペースに歩き進む。
べつにこの状況に慣れ親しんでいるのではない。ただ、茜には冷静にならねばならない理由があったから。
だって、ここは、永遠の世界なんだから……。
永遠の世界という言葉を聞いたとき、茜の心臓は早鐘を打った。遠い昔の、気を抜けば風化しそうな、でも今も鮮明に残っている記憶が脳裏に貼りついた。
幼なじみの、城島司。私を捨てた人。
その司に会えるかもしれない。そう考えたとき、教室で佐祐理の説明が続く中、茜は必死に自分を落ち着かせようとしていた。涙が溢れ出しそうなのを必死に堪えた。
私は、どうすればいいですか、司? わたしは、どうすれば――
拳をぎゅっと固く握る。
司に会おう。司を探し出して、そしてこの世界から連れ出そう。私はそんなに優秀な頭をしてないけど、でも、考えて考えて、冷静に行動して、司を捜して、司に会って、連れ帰って、そして。
その先は、茜にもわからなかった。でも。
それでも。
「今度は、見てるだけなんて、嫌ですから……」
あのときみたいに、なにもできなかった自分を責めて、来るはずのない人を待ち続けるのは、もう嫌だから。
「……ふう」
一度ため息をついて、夜空を見上げる。星は瞬いていない。雲が隠してしまったのだろうか。それとも、この世界には最初から星など存在しないのだろうか。空を覆っている雲のような物体が、うすぼんやりと光って見えた。
そうやってしばらく進んでいると、だんだんと地面が柔らかくなっていくのに気づいた。砂浜に着いたようだ。しかし海は見えなかった。砂浜の途中から、カーテンでも引いたかのように濃い霧に覆われていた。奥のほうまで見通せない。
立ち止まる。目を閉じる。茜はこれからの行動を反芻した。
司に会うためには、とにかく捜し出すしかない。とにかく島じゅうを捜し歩くしかない。それ以外、方法が思いつかない。
そして、司を見つけたとして、連れ帰るには二つの選択肢がある。
このゲームの勝者となるか、佐祐理と舞から強引に帰還の方法を聞き出すか。
どちらにしろ佐祐理と舞の二人は、現実の世界へと帰還する方法を知っている。それだけは確実だ。でなければ、自分たちも帰れないのだから。
ならば、どちらの方法がより帰還できる可能性が高いか。
ほかの皆と協力して佐祐理と舞を襲撃、のち拷問して口を割らせる手もあるが、全員を団結させるのは難しい。裏切られる恐れがある。
信用できる人といえば……幼なじみの柚木詩子。後輩の上月澪。そして、折原浩平。そのくらいだろうか。四人でなら、あの二人を倒せるかもしれない。
だったら、二つの選択肢は、後者を取るべきだろうか。
だいいち仮にゲームに参加し、運よく自分が生き残ったとして、佐祐理と舞が約束を反古にする可能性だって否定できないのだ。とすれば、けっきょくは口を割らせて聞き出すしかない。二人と戦うしかない。
なにより、律儀にこのふざけたゲームに参加するということは、自分勝手な想いのために他人を犠牲にするということなのだ。
だったらやっぱり、浩平たちと合流して――
「……でも」
しかし。
茜は、胸をつかんだ。
――不安が胸中をかすめる。
あの秋子までも倒してしまった佐祐理と舞、二人の力量を考えるのならば。
――嫌な思いが胸に満ちる。
信用できると思っていたはずの詩子、澪、浩平にまで裏切られたりしたら。
あのときのように、裏切られたりしたら。
司のように、自分を裏切ったら。
――嫌だ、いやだ、イヤダ。
「…………」
閉じていた目を、開ける。
茜は履いていた靴を片方だけ半脱ぎにして、足を振って放り投げた。
軽い音をさせて砂浜に落ちた靴のところに、靴下が汚れるのもいとわずに近寄った。
人が、いた。
「……誰ですか」
茜の声に、暗闇にまぎれて顔の確認できないその相手は、びくっと肩を震わせてから、ぱたぱたと足音を響かせて駆け寄ってきた。
スケッチブックを胸に抱いた、上月澪が走ってきていた。
澪は、茜を見上げて、ひまわりが咲いたような笑みを浮かべた。それから、おもむろにマジックペンを取り出し、スケッチブックになにか書き始めた。パッと顔を上げて、それを茜に見せる。ぼんやりと光る雲のおかげで、どうにか文字は判別できた。
『こんばんは』
そう読めた。
「うん。こんばんは」
澪がさらさらとスケッチブックにペンを走らせていく。
『適当に歩いてたら、ここに着いたの』
「そう。私も同じ」
『怖かったの。一人きりで』
「うん。私も同じ」
『外に出たら男の人が倒れてたの。びっくりしたの』
「うん。私も同じ」
『殺しあいなんかしたくないの』
「うん。私も同じ」
『入ってた武器も、このスケッチブックとペンだったの。武器っぽくないの』
「そう。私も同じ」
『これからどうするの?』
そこで、茜は口を閉ざした。
『? どうしたの?』
首をかしげる澪の顔を、茜はまっすぐに見つめていた。
時が止まったと錯覚するほどの長い時間の中で、茜はそうしていた。
待ちくたびれたのか、澪がスケッチブックにペンを突き立てたとき、
「……私は、どちらでもよかったんです。倉田さんたちと戦っても」
ぽつり、と茜が言う。澪の顔にハテナマークが浮かんだ。
「そして、澪。あなたたちと戦っても。ただ……」
弁解するように、それでもはっきりと、茜は言った。
「ただ、『あした天気になーれ』をやったら、雨だったから」
放り投げた靴は、裏を向いていたから。
晴れじゃなかったから。
だから。
茜は担いでいたデイパックから傘を取り出した。またもハテナマークを浮かべる澪。それは、ピンク色に白の斑点模様が施された、どこにでも売っているようなありふれた傘だった。
ただ、市販の傘と違うのは、J字型の柄の部分に透明色の水晶――通称マテリアと呼ばれるもの――が埋め込まれている、その一点。
「……動きなさい」
茜の言葉に呼応するかのように、水晶が輝き始めた。あたりに霧が漂いはじめる。何かの結界のように、これから起こることをほかの誰にも見せないかのように、二人を包み込んでゆく。
そんな霧の中で、水晶の光だけがひときわ輝いていた。だんだんとその光量は増し、そして闇を貫かんばかりの光の柱が、空に向かって一直線に立ち昇った。
傘が、開いた。
「魔銃……解凍」
そうつぶやく茜の指には、三つの小ビンが挟まれていた。
「あなたにふさわしいソイルは決まりました」
小ビンを一本、指で宙に弾いた。
「すべてを飲みこむ獰猛な獣の血、ブラッディ・レッド」
回転して、小ビンが水玉模様のひとつに吸収された。目を見開いた澪がスケッチブックをぎゅっと胸に抱きしめた。
「すべてを射通すつぶらな瞳、アイズ・ブラック」
続けて二つ目の小ビンも吸収させた。
「そして……すべてを包みこむ父性の愛、サークレット・ホワイト」
最後に三つ目の小ビンを吸収させると、ぎゅいいいいいいいいい、と傘が回りはじめた。水玉模様が判別できないほどの速さで。
猛烈に回転する傘の先を、茜は澪へと突き出して、
「むさぼれ……召喚獣、ポ・テ・ト!」
叫んだ。
ちょっぴり照れたように頬を桜色に染める茜の顔に、澪は気づくことができなかった。
まんまるくてまっ白で愛らしい巨大な毛玉が目の前に出現し、そう思ったときには澪はその物体に食べられていた。長い舌で澪の華奢な胴は巻き取られ、あっという間に口に入れられ、もごもごされ、ぺっと吐き出された。
茜の背丈の三倍はあるその白い物体は、ぴこぴこ鳴きながら砂浜を走り回り、そのままいずこかへ去っていった。
そのときには、澪はうつ伏せに倒れ、ぴくりとも動かなくなっていた。
霧が晴れてゆく。ちゃらららーちゃっちゃっちゃっららー、とファンファーレが聞こえた気がした。
茜は傘を閉じ、姿が消えはじめる澪に背を向けた。放り捨てられてあった靴を履いて歩き出す。
「…………」
が、すぐに立ち止まった。
遠くから、「おーい、茜ー!」と呼び声がかかったのだ。聞き間違うはずもない慣れ親しんだ声、詩子の声だった。
それから茜は眉をひそめた。詩子が、真っ赤なマントを羽織っていたから。走る速度に合わせて波のように棚引いている。これが詩子の武器だろうか。
「はあ、はあ……。やっと会えたよ。そこらじゅう走り回ったんだから」
詩子は肩で息をしながら「もう。勝手にどっかいかないでよ」と頬を膨らませた。詩子は茜が外に出たときにはまだ教室にいた。だから、てっきり自分を待っているものだと考えていたのだろう、詩子らしいと茜は苦笑した。
「あ、そうそう。さっきファンファーレみたいなのが聞こえたんだけど、知らない?」
急に話題を転換してくるのも、今となっては慣れっこだ。
「……それでここに来たんですか?」
「うん」
詩子がうなずく。ファンファーレは気のせいじゃなかったらしい。
「なんだろうね。茜、知らない?」
「……知りません。なぜです?」
「だって誰かが武器を使ったときの音かもしれないじゃない。てことはもう誰かが戦ってるってことでしょ。いちおう誰がやる気になってるか確認しとかないとだし。巻き込まれるのはご免したいし。さっきこのあたりから聞こえてきたと思ったんだけど……あ。ねえねえ、茜は誰かに襲われたりとかされなかった?」
マシンガントークに圧倒されながら、茜は首を横に振っておいた。
「ふーん、まあいっか。おかげで茜に会えた……」
と、そこで詩子は言葉を切った。いきなり走り出して茜の脇を抜けた。茜が歩いてきた方向へと、一直線に。
ギョッとして茜は背後に振り返った。もしかして、澪は、まだ消えていなかったの……?
だが、その方向には詩子以外誰の姿もなかった。茜はホッとして詩子の側に寄った。
「ねえ。茜」
こちらに背を向けたまま、詩子が口を開いた。
「あなたが、やったの?」
どくん、と心臓が鳴った。
「……なんのことです?」
「あなたが殺ったのかって聞いてるの、茜!」
詩子は振り返った。視線をとがらせ、その手にスケッチブックを携えて。
そこにはたった一文字、『傘』と記されてあった。
「これ、茜のことでしょ」
詩子が茜の手にあるピンクの傘を指差した。
「……違います」
「うそつかないで。あたしが来る前に会ったんでしょ」
「……私は澪に会ってなんかいません」
「あたし、澪ちゃんのことだなんて一言も言ってない」
茜は顔をしかめた。こんな古典的な手に引っかかるなんて。
「ねえ茜。なんでなの。きっちり説明して」
貫くほどの詩子の眼光。詩子は、本気で、私に対して怒っている。
けれど茜はその眼光を真っ向から受け止めた。
「……忘れてしまったから」
「……え? なに?」
「みんな、クラスメイトも、友達も、家族も、詩子だって、みんな忘れてしまったから」
司のことを、忘れてしまったから。
「……だから。ぜったいに。私は」
立ち止まらない。
もう、ぜったいに。
「……動きなさい」
手にある傘に命じ、水晶が輝きはじめる。あたりに霧がかかってゆく。
ごめんなさい、詩子。さよならです、詩子。茜はなにか思いめぐらすように瞳を閉じて、でもそれは一瞬で。
そして水晶から光の柱がほとばしり、傘が開いて――
「…………」
茜は言葉を失った。開いた傘を目標に向けることはできなかった。
詩子の姿は消えていた。
逃げたのだろうか。ちょっと目を離した隙に? 一秒にも満たない時間だったのに? そんなはずはない。足音だって聞こえなかったし、なによりこの霧の結界は誰の侵入も許さず、誰の逃亡も許さないはずなのだ(傘についていた値札の裏に説明が書いてあった)。
周囲を隈なく捜す。誰の姿も認められない。
そのうちに霧が晴れはじめる。
間を置かず足音が聞こえた。ただちにその方向に目をやった。が、やはり誰の姿もない。砂の上には、足跡がちゃんとついているのに。
「これが、あたしの武器」
詩子の声が砂浜を越えた向こうから届いた。足跡を追うことも忘れて惚けていた茜との距離は、もはや逃亡にはじゅんぶんすぎるほどに開いていた。
「説明書にはステルス迷彩って書いてあったけど。なんか透明になるみたい、このマント」
詩子は続けて、
「茜。あたしは、茜を許さないから。でも、茜は親友だから。わかった?」
茜は答えなかった。胸が、うずいた。
じゃあね、と詩子は言って、そのあと沈黙が訪れた。詩子はもう立ち去ったようだ。
茜は重い疲労を肩に乗せ、けれどもう立ち止まることはせずに砂浜を出た。
ゆっくりと。マイペースで。
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