第61話




「佐祐理は、ですね。あなた方の力を試したいんです。これはゲームです。もしあなた方が勝ったら、同好会を正式に部として認可してあげてもいいです」

 一ヶ月前、佐祐理が祐一に告げた言葉だ。

「でも負けたら、同好会は完膚なきまでにつぶします」

 佐祐理は野球同好会をつぶしたかった。

 それは舞のためだった。

 舞の野球への未練を断ち切りたかった。

 毎夜、この河川敷のグラウンドで詩子や茜相手にその未練をぶつける舞の姿が痛々しくてたまらなかった。

 佐祐理と舞が華音高校に入学した年は、野球同好会はまだ部として普通に活動していた。

 舞は野球部に入部した。同じく入部した佐祐理とはそのときに知りあった。

 だが舞は夜の校舎で魔物と戦う最中に窓を割り、それが生徒会にバレてしまい、問題行為として野球部の公式大会出場を禁止された。

 野球部はその年の甲子園を諦めるしかなくなった。

 ほかの部員は舞を責め、ひとりふたりと部を去った。

 舞は責任を感じていた。

 部員数は徐々に減り、その果てに廃部になってしまってからも、ずっと責任を感じ続けていた。

 だから香里が野球同好会を立ち上げても、そこに入ることはせず、たったひとりで野球を続けていた。

 そんな舞を野球同好会に入れたのは、祐一だ。

 佐祐理は寂しかったのかもしれない。

 舞の傷を埋めたのが自分ではない誰かだったことが悔しかったのかもしれない。

 佐祐理は、祐一を試すことにした。

 絵亜高校との試合を組んで、祐一が率いる野球同好会の力量を計る。

 力量だけじゃない、舞の傷を癒すに値する同好会なのかを計りたかった。

 だからこそ。

「佐祐理は勝ちにいくんです……!」

 佐祐理の狙いはたったひとつ。

 栞の決め球、ライズボール。

 カットを多用しフルカウントに持っていけば、必ず投げると踏んでいた。

 だが、勝負の場面で投げた栞のボールは、平凡な変化球だった。

 コースはきわどい、だが最終回の今、栞のボールに慣れた佐祐理にとっては打てないボールではない。

「あははーっ、あまり佐祐理をなめると痛い目にあいますよーっ」

 顔は笑っていても心は笑っていない、佐由理はライトの舞を目がけて振り抜いた。

「佐祐理は、舞のために全力で勝ちにいくんですから……!」

 渾身のフルスイング。

 この期に及んでタイミングは外さない、栞の球速は一定なのだ。

 おかげで嫌でも身体に染みついている────!

「誰もなめていないぞ、佐祐理さん」

 違和感があった。

 佐祐理の体勢がぐらついた。

 目測どおりに球が来ない。

 瞠目する。

 タイミング、コース共に合っているのに、なぜ……?

「俺たちだって、全力で勝ちにいってるんだからな」

 佐祐理は中途半端にスイングし、打ち損なった。

 ぼてぼてのゴロは目標のライトまでは届かない。

 セカンドの真琴が難なくさばき、佐祐理は簡単に討ち取られていた。

「どうして……」

 佐祐理は呆然と立ち尽くす。

「どうして……!」

 ラストかもしれないこの打席を、こんなふがいない結果で終えた自分を許せない。

 悔しくてたまらない。

 その気持ちはライトに立つ舞にもわかる。

 その気持ちがあったから、舞だって野球をやめることができなかったのだから。

「……試合が終わったら、佐祐理と一緒に、キャッチボールしたい」

 舞と佐祐理、ふたりにとってのこの試合の意義が、その言葉にすべて集約されていた。








 ……さて、と。

 祐一はワンアウトの号令を発し、マスクをかぶり直すとミットを構えて思案する。

 次が、最大の難関だろうな。

 南の怪物、往人が打席にゆらりと立つ。

 来た球を打つ。それだけに徹する広角打法の使い手。

 栞にとっては最凶最悪の相性のバッターだ。

 なぜなら栞は、球速が遅い。

 球威がない。

 変化球のキレもない。

 力で投げ勝つことができない。

 唯一勝負できるボールは、ライズボールくらいなものだ。

 そのボールも読まれてしまえば、五回に食らったようにスタンドまで持っていかれるだろう。

 では、どのように対処すれば勝てるのか?

 祐一は、サインを出す。

「ゆ、祐一さん……」

 栞はあっけに取られたあと、唇をきゅっと引き締める。

 首を、縦に振らない。

 ……ありがとうな、栞。

 成長してくれてありがとう。

 敬遠のサインに、栞はうなずかなかった。

 この打者と勝負するとみずから言ったのだ。

 ……勝ちにこだわるなら、これは愚策なんだろうけどな。

 危険な橋を渡らなくても、五番と六番の打者を抑えれば試合に勝てるのだ。

 だが、そうやって勝っても栞にとって得るものは少ない。また自信をなくしてうじうじしそうだ。

 真っ向勝負で勝てるのなら、それに越したことはない。

「……おい。敬遠か?」

 往人がつまらなそうにつぶやいた。

「しても責めないけどな。疲れないですむから逆にありがたい」

「なら、悪かったな」

 祐一もまたぶっきらぼうに言う。

「うちのエースが、勝負したいそうだ」

 往人は舌打ちする。

「いいのか?」

 顔は無表情だが、グリップを握る手に力がこもる。

「おまえたち、負けるぞ」

 祐一は笑った。

「手加減でもしてくれるのか?」

「手加減もなにも、俺がすることはひとつだけだ」

 往人の両目がきゅぴーんと光る。

「俺はただ、来た球を振るだけだ」

 初球は、きわどいコース。外角低めに外れるカーブ。

 往人は派手に空振った。

「ちっ。ボール球か」

 往人は初球のボール球を豪快に空振るケースが多い。準備運動代わりなのだろう。

 二球目、内角低めを突くスライダーを、往人は強引にひっぱって特大ファールを打った。

 ボール球は空振っても、わずかでもストライクに入ったら今のように持っていかれる。

 しかも厄介なことに、カウントが整ってくるとボール球は見逃すようになる。

 ストライクかボールかきわどいボールはバットを出し、あわよくば長打コースのファールになる。

 たとえきわどくコースを突いても、往人は球筋を見極める。それに労した時間で振り遅れることもない。

 超微動かつ超高速の体重移動によって生まれるスイングが、振り遅れを補正して、どんなコースのボールもはじき返すのだ。

 ボールに緩急をつけても打たれることは、北川の投球で経験済み。

 速球を投げようが変化球を投げようがスローボールを投げようが、往人は野生のパワーで打ち返してくるのだ。

 ……まったく、難敵にもほどがあるな。

 詩子や柳也のように力勝負に持ち込めない栞は、これまでの打者を緻密なコントロールで投げ抜けてきた。

 だから、コースがきわどくても打ち返せる打者を相手にすると途端に辛くなる。

 これで栞の速球や変化球にキレがあれば、力押しの勝負ができるのだが、それは今さらの話だ。

 栞の武器は、あくまでコントロールなのだ。

「祐一さん……」

 これまで負けん気を見せていたマウンドの栞もちょっぴり青くなっている。

 だが祐一はマウンドに駆け寄ることはしない。

 この距離で、充分に通じあえる。

『祐一さんっ、き、キスの約束忘れないでくださいねっ』

『その代わり負けたらおまえはゴミ箱にポイだ』

『約束を守ってくれるなら私は必ず勝ってみせます……!』

 注)すべてサインです。

 続く投球、内角低めを突くスライダーを、往人は特大ファールにする。

 カウントは2−2となっている。

「ライズボールは投げないのか?」

 往人が不機嫌そうに言う。

「おまえには必要ない」

「一度ホームランを打たれたからか」

「そんなわけあるか」

 ライズボールには欠点がある。

 栞のコントロールが及ばなくなるという致命的な欠点だ。

 並の打者ならライズボールの威力で抑えられるだろうが、強打者相手には甘いコースに放ってしまったら最後。

 ホームランでも打たれて追いつかれたら、華音高校の勝ちはなくなるかもしれない。

 栞のスタミナはすでに限界。

 それに、なによりも。

「おまえには、コントロールで投げ勝たないと意味がないんだよ」

 そして栞の投球は、またしても内角低めを突くスライダーだった。

 この打席だけで三度目の配球。

 球筋を見極めた往人は舌打ちする。

「……じゃあな、華音高校」

 往人の両目がきゅぴーんと光るとこれまで同様、鋭すぎるスイングがそのボールを捕捉する。

 栞のコントロールでは、往人には打つ手なし?

 いや────

「……なんだ、これは」

 超微動かつ超高速の往人の体重移動。

 これがあるから往人は球筋を見極めてからでもスイングに入ることが可能になる。

 どんなボールだろうとタイミングを外すことがなくなる。

 そのはずだった。

「なんだこの、違和感は────」

 タイミングにズレが生じる。

 往人の体勢がこの試合、初めてくずれる。

「くっ……!」

 往人は無理な体勢でも強引にフルスイングするが、平凡なゴロを打つのが精一杯だった。

 ファーストの天野が危なげなくさばき、これで2アウト。

「それでいいんだ、栞」

 力で勝てないのなら、技術で投げ勝てばいいのだから。








「が、がお……。なんで往人さん、討ち取られたの……?」

「……タイミングを外されたからやろうな。居候がそんなヘマするの、初めて見たけどな」

 往人がアウトになったことで、絵亜ベンチが騒然となる。

「裏葉。なぜ往人は討ち取られたと思う?」

「……緩急しかないでしょう」

「だが、おまえは違うと言っていなかったか?」

「はい。わたくしたちが抑えられてしまったのは、おそらく緩急だけではないのです」

「……緩急と、もうひとつか」

「そのもうひとつの武器が、往人様が討ち取られた理由ではないかと思います」

 だとしたら、もうひとつの武器とはなんなのか。

 絵亜高校は嫌というほど知っているはずなのに、そこに到達できないでいた。








「……緩急だけわかっていれば、見極めることは可能」

 次打者の美凪はそう信じて疑わなかった。

 相手はここに来て緩急をつけた。実に、この試合初めての投球だ。

 緩急をつけずともこれまで栞は抑えることができた。

 制球力だけで絵亜高校打線を凌いでいた。

「……特筆に値します」

 美凪はぺこりと礼をして、ぼんやりと打席に立つ。

「あんた、俺を覚えてるか?」

「……誰でしょう」

「去年の夏の甲子園、逆転ホームランであんたに引導を渡されたチームのひとりだ」

「……ご愁傷様です」

「今度は逆に、あんたに引導を渡してやる」

「……それはどうでしょう」

 美凪はとろんとした瞳をマウンドの栞に向ける。

「……タネがわかっていれば、へっちゃらへーです」

 栞の上体が潜水する。

「上空には、いい風が吹いています……」

 美凪は腕を引いてタイミングを計る。

「シャボン玉は、きっとふわふわ浮かびます────」

 栞のストールが蝶のようになびき、地面すれすれに伸びた腕から針の目を通すボールが放たれる。

 要求どおりの、抜群のコントロール。

 祐一は思う。

 このボールに出会ったから、俺は、もう一度甲子園を目指せると確信した────

「────え?」

 美凪の体勢がくずれていく。

 わかっていても、騙される。

 なぜ栞は、往人を討ち取ることができたのか。

 答えはひとつ。

 往人は見極めに失敗した。

 緩急だけじゃない。

 栞のコントロールが、球筋を見誤らせたのだ。

「どうして……」

「慣れすぎたんだよ、あんたたちは。栞の114キロの球速に」

 美凪は危機を抱いてスイングを中止する、だが確信を持って振ったバットは簡単には止まらない。

「だから、頭ではわかっていても、身体が追いついてこないんだ」

 中途半端なバッティング。

 美凪のバットは申し訳程度にボールをたたく。

 勢いのないゴロが、香里が守るショートに転がった。

「……やったわね、栞」

 祐一だけじゃなく香里も知っている。

 この最終回、栞は投球に緩急を加わえただけじゃない。

 緩急をつけたことに気づかれないよう、緩急を加えたのだ。

 これまで執拗に投げてきた114キロの球速に、相手打者は慣れきっていた。

 そんな打者の目には、わずかな速度の差は見えにくい。

 とはいえ違和感を持つ程度の緩急だけでは、打者は抑えられない。

 コースがきわどいからこそ、この違和感が生きてくる。

 難しいコースのボールを打つには、打者の体勢はどうしても無理が生じる。

 その維持しづらい体勢をくずすには、気づかれない程度の緩急があれば、充分効果を発揮する。

「栞は、コースだけじゃない、球速もコントロールすることができたのね」

 香里の返球がファーストに送られる。

 ファーストの天野は一瞬、ここでベースに正座しながらお茶でも飲んで返球をスルーしたらウケるかもと思ったが、ウケるどころかフルボッコの気がしたのでちゃんと捕球した。

 3アウト、試合終了。

 華音高校は、一点差で辛くも絵亜高校を破ったのだった。











●スコア


◇試合終了

1 2 3 4 5 6 7 8 9
絵  亜
華  音 ×

【投手】
 佳乃 → 柳也
 北川 → 栞 → 詩子 → 栞

【本塁打】
 往人 美凪

【勝ち投手】
 詩子

【負け投手】

 佳乃




  絵亜高校
   華音高校


(右) みちる  (中) 水瀬名雪
(二) 裏葉  (一) 天野美汐
(遊) 倉田佐祐理  (遊) 美坂香里
(三) 国崎往人  (右) 川澄舞
(左) 遠野美凪  (二) 沢渡真琴
(捕) 霧島聖  (捕) 相沢祐一
(投) 柳也  (三) 里村茜
(中) 神奈備命  (左) 月宮あゆ
(一) 神尾観鈴  (投) 美坂栞




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