エピローグ
「ねえ、祐一さん」
「なんだ?」
「今日の試合で、ボールの緩急って大切なんだなってわかったんですけど……」
試合を終え、学校に戻って後片付けも終わると、祐一と栞は部室でふたりきりになっていた。
「祐一さん、どうして最初から緩急を使った投球をさせてくれなかったんですか?」
「おまえのボールは総じて遅いからもともと緩急なんか役に立たないんだよ」
「……そんなこと言う人、嫌いです」
「でも、ここぞというときには少しは役立つ。今回はそれが最終回だったってことだ」
祐一はにやりと笑う。
「今日の仕掛けはな、試合に勝つための大仕掛けだ。終盤に回るクリーンナップを確実に仕留めるためのトラップだったんだよ」
そしてそれは、それだけが理由ではないのだった。
なによりも重要だったのは、栞に制球力の自信をつけさせるためだった。
栞の制球力は甲子園で通じるという、自信。
そこに緩急を加えれば、優勝も夢じゃないという道しるべ。
だから、祐一はいつでもチームのことを考えてくれていた。
自分のことを想っていてくれたのだと、栞は漠然と感じていた。
……それが、女の子としてじゃなくて、エースとしてというのが祐一さんらしいですけど。
だけど、それだったら。
栞が振り向かせればいい。
自分の力で振り向かせればいい。
「祐一さん……」
夕焼けの光が差し込む橙色の部室。
うつむいた栞の前髪が、その真っ赤な表情を隠している。
栞は勇気を持って切り出した。
「あ、あ、あの、ごほうび……」
「ごほうび?」
「は、はい。試合に勝ったら……してくれるっていう……」
「……なんだっけ」
「わ、忘れたんですか!?」
「忘れた」
「ひどいです……。そんなこと言う人、嫌いです……」
しょんぼりする。
「……い、いや、やっぱり覚えているような気がしないわけでもない気もする」
「ど、どっちなんですかぁ……」
「ちなみにおまえは逆転されてから一度降板してるから勝ち投手じゃないんだぞ」
「……そんなこと言う人、だいっ嫌いです」
祐一はため息をついた。
「以前も、こんな感じのやり取りだったな」
「……はい」
「最後に栞が逃げたんだよな」
「勝手に改ざんしないでくださいっ、あのときは祐一さんが逃げたんです! 祐一さんはヘタレです!!」
グサッときた。
「どうせ俺は主人公にあるまじきヘタレさ……。甲子園なんて夢のまた夢の男さ……」
床に『の』の字を書いている。
「ゆ、祐一さん……私、がんばりますから。ヘタレの祐一さんのためにがんばりますから。だから甲子園、連れていってください……」
「栞……」
見つめ合う。図らずもいいムードができあがっていた。
栞はゆっくりと瞼を閉じて、ちょっぴり顎を上向けた。
ドキドキ鳴る心臓を必死で静めようと、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
逃げ出したいくらい恥ずかしくて、もう、涙まで出てきそうなほどで。
でも、栞は逃げなかった。
栞は待っていた。
祐一のその行為をずっと待っていた。
────ううん、ちがう。
もう、待つだけなんて、やめよう。
待ってるだけじゃ、ダメなんだ。
野球だけじゃない。
恋愛にだって、勝てないんだ。
栞は閉じていた瞼を開ける。
そこに、どうしていいかわからないのか、バツが悪そうに立っている祐一がいる。
「祐一さん────」
栞は、手を伸ばす。
祐一の胸にそっと手を当てる。
そこに、心臓の鼓動を感じる。
自分と同じくらい高鳴っている、緊張の早鐘。
祐一は逃げなかった。
栞は、背伸びをし、今度こそ目を閉じた。
「────大好きです」
ちょこんと唇を重ねた。
ふたりの影が、ひとつになった。
「あ、まだ開いてる。よかったわー」
タイミングよく部室の扉が開け放たれた。
「忘れ物しちゃって。あたしの後生大事なバット……」
目前の光景に香里の言葉が止まる。
「お、お姉ちゃん!?」
光の素早さで離れた祐一と栞だったが、時はすでに遅かった。
香里が、忘れ物だったバット──『祝・阪神優勝夜露死苦ごっつぁんです』バットをゆらりと持った。
「ま、待て。これは事故だ。なにかの間違いだ」
「事故、ですって?」
香里はにこにこと笑っていた。
般若よりも恐ろしい笑みだと祐一も笑った。冷や汗をかきながら。
「大切な妹の純情をよりにもよって間違いですって? そんなんだからヘタレ主人公って言われるのよこの変態セクハラ野球バカ!!」
ぱっこーんっ!!!
血生臭くも清々しい快音が響いた。
遠のく意識の中、祐一は思うのだった。
……甲子園もいいが、それより早く、俺の選手生命が終わるんじゃないか?
六月中旬。
野球同好会が晴れて野球部として認められた今日。
地区予選を控えた初夏の夕焼け空は、どこまでも鮮やかに広がっていた。
<完>