第60話
カウント2−2と追い込まれての投球だった。
球速114キロのタイミングで振り抜いたそのボールを、裏葉は打ち損なっていた。
……なぜ?
コースが厳しいわけじゃない。栞の制球を考えれば甘いコースと言っていい。
まさしく好球必打の場面だったのに。
裏葉は、ねらい打った変化球に屈したのだ。
「どうした、裏葉」
ベンチに戻った裏葉に、柳也が声をかける。
「おまえらしくない、中途半端なバッティングだったぞ」
「…………」
「……裏葉?」
打ち損なった理由はタイミングが合わなかったから。
114キロのスピードに合わせて振ったというのに、体勢がくずれ、中途半端なかたちでバットに当たったのだ。
「……柳也様」
「なんだ?」
「投球というのは、ボールの緩急も大切でございますよね」
「そりゃあな。豪腕と呼ばれる俺でも、速球だけでは抑えられない。間に変化球を混ぜて、球速の緩急をつける」
「栞様は、これまで速球も変化球もすべて同じ球速で投げておられました」
「……曲芸だな。ねらってできることじゃない」
「そこにメリットはあると思いますか?」
「あるだろうな。速球と変化球を見分けるのが難しくなる」
だが、と柳也は続けて。
「メリットよりも、デメリットのほうが大きいだろうな」
「そのデメリットとは?」
「タイミングを簡単に合わせることができる」
裏葉はうなずいた。
「今は試合の終盤です。栞様の投球は打席に立って何度も経験しております。ですからわたくしだけではなく、もはや誰もが栞様の球速にバットを合わせることは容易いでしょう」
「なのに打ち損じた、か」
「コースが厳しかったわけではありません。わたくしは、タイミングを外されてしまったのです」
「……敵は初めて緩急をつけてきたということか?」
「いえ」
裏葉は首を振り、言ったのだ。
「わたくしの目には、同じスピードに見えたのです」
8回裏、華音高校の攻撃。
この回の先頭打者である祐一にとっては、この日最も気分が昂ぶる打席だった。
「たく、この日をどんなに待ち望んだことか……」
甲子園では全打席で辛酸を舐めさせられた相手、超高校級スラッガーの祐一を完全に抑えた投手、それが絵亜高校のエース柳也だった。
「借りを返すのは今年の甲子園だと思ってたんだがな」
それが、こんなに早くチャンスが巡ってくるなんて。
「案ずるな、今日のこのときにキミが借りを返せるとは限らない」
マスクの奥で聖が笑った。
「俺はな、同じ相手に二度負けるつもりはない」
「私たちだって一度たりとも負けるつもりはないさ」
聖が言ったとおり絵亜高校は公式戦では一度も負けていない。
そのすべての試合で柳也は投げている。
全力で投げ続けている。
遊び球などない、手を抜くボールなど一球もない。
一球入魂。
だから、柳也の第一球は、疑いようもなく内角高めのストレート。
「見え見えなんだよ!」
俺はこの日のために。
この投手を打ちくずして甲子園優勝を飾るために。
「華音高校にやって来たんだからな────っ!!!」
カッキィィンッッ!!!
150キロ台の柳也の剛速球を祐一のバットが完璧に捉えていた。
レフトの美凪は一歩も動けない、白球は瞬く間にその頭上をライナーで飛び越え、スタンドに突き刺さる。
「ふ、ファール!」
あわやホームランの打球は、ポールぎりぎりのところでレフト線を切っていた。
「ちっ。タイミングがずれたか」
祐一はボックスから外れて素振りをする。
気負いすぎたようだ。おかげで足の踏み込みがわずかに早かった。
だが球筋は、脳内で描いた軌道にドンピシャだった。
「……驚いたな。柳也君の球があそこまで見事に打ち返されたのは初めてだ」
「どこが見事だ。ファールじゃあ意味がない」
「迷いのないスイングを見るに、よほどうちのエースを研究していたようだな」
「研究じゃない。これは反射だ」
祐一はこれまで柳也の投球を思い描いて素振り練習を繰り返していた。
いや──祐一の素振りはすべて柳也との対戦のためにあったと言っていい。
甲子園で負けを喫した対戦、その際の柳也の投球を完全にトレースできているからこそ、今のこの打席がある。
どんなボールが来ようとも、もはや反射の域でホームランにできる自信がある。
「俺は頭じゃない、身体で覚えてきたんだからな」
「プレイ!」
柳也は投球モーションに入る。
大胆なワインドアップ、初球からそれは変わらない。
一球入魂は変わらない。
「ああ、いいぜ。全力で来い。速球でも変化球でも、全力で投げてくれるのなら……」
祐一は獰猛な笑みを浮かべる。
「俺は、それを全力で打ち返してやるさ」
「彼はいつでも全力だ。手を抜くことは万が一にもない」
聖の声は楽しそうだ。
「だがキミは知らないようだな。うちのエースは、夏の甲子園が終わってから飛天御剣流を極めんがために山ごもりを行っていたのだ」
「銃刀法違反で捕まるぞそのうち」
「重要なのは山ごもりという点だ。キミの言う柳也君の全力とは、去年の夏の甲子園での投球だろう」
柳也の威力ある剛速球が迫り来る。
コースは真ん中高め。
祐一はなにも考えずとも、ドンピシャのタイミングで打ち返す。
打ち返すことができるはずだった。
「なっ……」
思い描いていた球筋が、このときブレた。
「キミの言う柳也君の全力は去年の話。山ごもりで進化した分の計算は入っていたのかな?」
このタイミングは、完全なる振り遅れ────
「なめるなぁ!!」
このとき、祐一のスイングスピードも確実に進化を果たしていた。
補正がかかる。
ブレがなくなる。
度重なる素振り練習が祐一のリスト強化を促し、その成果がこの瞬間に発現した。
カッキィィンッッ!!!
二度続けての快音は、レフト線を切るファールなどでは決してなく、教科書どおりのセンター返しとしてマウンドの柳也の頭上を越えていた。
柳也と聖が瞠目して打球の行方を追う。
打球は低いが、センターの頭も越える確実な長打コース。
深く守っていた神奈が、フェンス間際で大きく飛んだ。
「翼人の力を甘く見るでないわっ!!」
背中に翼を生やして飛んだわけではない、そんな反則プレイなどしない。
神奈だって、柳也の帰りを待って自己鍛錬に励んでいた。
足腰だって鍛えた。
もう、守られるだけの存在なんて嫌だから。
神奈の伸ばしたグローブが、その鋭すぎる打球を捕捉した。
そして勢いあまり、フェンスに頭からぶつかった。
「神奈!」
「神奈様!」
柳也と裏葉の呼び声が重なった。
「み、見よ……ちゃんと捕っておるぞ……」
ひっくり返って目をぐるぐるにした神奈のグローブには、祐一の打球がしっかりと収まっていた。
……最後に助けられるとはな、神奈。
柳也は、もう子供ではなくなった自分の主に、心から敬意を抱くのだった。
「あのサムライ……」
両手が痺れている。祐一はベンチに戻っても、しばらく感覚が戻らなかった。
柳也のボールは球速だけじゃない、球威も進化していたわけだ。
「この俺を、二度も負かせやがって……」
「あ、あの、今のは祐一さんの勝ちだと思います。センターのファインプレーがなければヒット……」
「アウトになったら負けだ。ヒットでも、ホームランじゃなければ俺の負けだ」
真剣に悔しがっている。祐一らしいと、栞は笑うしかなかった。
「でも、祐一さん。反省は、試合が終わったあとにしましょう」
進化した柳也の前に、次打者の茜は簡単に三振に切って取られた。
ラストバッターのあゆは奇跡的にバットに当てたがピッチャーゴロで、アウトになったあとにヘッドスライディングをしていたが、ナイスガッツと称えてくれたのはファーストの観鈴だけだった。
「行きましょう、祐一さん」
栞は、プロテクターを付ける祐一を待って、その手を取る。
「私たちの、最後の戦いですよ」
栞は最後と言い表す。
9回表の絵亜高校の攻撃を抑えれば、華音高校の勝ちなのだ。
「ふぁいとだよ、祐一、栞ちゃん」
「最後まで気を引き締めていくわよ」
名雪と香里が自分のポジションに駆けていく。
「……早く終わらせて休みたいものです」
「真琴も早く終わらせて肉まん食べたいー」
天野と真琴も文句たらたらで駆けていく。
「うぐぅ……もっと活躍したい」
「……勝って、佐祐理の目を覚まさせる」
あゆと舞がそれぞれの想いを抱いて駆けていく。
「茜ちゃん、がんばれよ」
「……私だけ名指ししないでください、刺しますよ」
北川から顔を背けて茜も駆けていく。
「みんなー、応援は任せてね☆」
「勝っても負けても、ケガだけはしないでくださいね」
ベンチに残る詩子と秋子も声援を送る。
「祐一さん」
「ああ」
そして栞と祐一も、仲間の待つフィールドに走っていった。
●スコア
◇0死0塁
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【投手】
佳乃 → 柳也
北川 → 栞 → 詩子 → 栞
【本塁打】
往人 美凪
絵亜高校 | 華音高校 | |||
(右) | みちる | (中) | 水瀬名雪 | |
(二) | 裏葉 | (一) | 天野美汐 | |
(遊) | 倉田佐祐理 | (遊) | 美坂香里 | |
(三) | 国崎往人 | (右) | 川澄舞 | |
(左) | 遠野美凪 | (二) | 沢渡真琴 | |
(捕) | 霧島聖 | (捕) | 相沢祐一 | |
(投) | 柳也 | (三) | 里村茜 | |
(中) | 神奈備命 | (左) | 月宮あゆ | |
(一) | 神尾観鈴 | (投) | 美坂栞 |